欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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第2章 西双版納~ラオス
0.黄金の三角地帯


 黄金の三角地帯とは、タイ、ミャンマー、ラオスの三国にまたがる山岳の麻薬生産・交易圏である。ミャンマー東部シャン州のワ地域やコーカン地域を含むこの一帯は、長くアヘンとヘロインの供給地として知られ、一九七一年、米国務省高官マーシャル・グリーンの発言をきっかけにその名が広まったとされる。

 

 この地でアヘン栽培が本格的に広がったのは、十九世紀以降のことである。アヘン戦争に敗れた清朝では、外国産アヘンの流入と国内市場の拡大を背景に、雲南をはじめとする中国西南部でケシ栽培が盛んになった。山地を抱え、東南アジアへ通じる辺境交易の要衝でもあったこの地方は、中国産アヘンの重要な生産地となっていく。

 

 やがてケシ栽培は、中国南部の政情不安によって南下した山岳少数民族の移動や、辺境を行き来する商人たちを通じて、ビルマ北東部の高地にも広がっていった。

 

 高地の暮らしにとって、ケシはたいへん都合のよい作物である。痩せた土地でも育ち、乾燥させれば保存も運搬もきく。少量でも高く売れ、買い手は山まで入ってくる。道路も市場も遠い山の暮らしにとって、アヘンはきわめて扱いやすい換金作物であり、そのまま賃金や物資の対価に充てられることさえあった。

 

 第二次世界大戦後、この地の麻薬経済を大きく押し上げたのが、中国国民党軍の流入である。

 

 共産党に敗れた国民党系残存部隊は、雲南からビルマ北東部へ退き、シャン州の山岳地帯に拠点を築いた。中国本土への反攻を掲げながら、兵を養い、武器を買い、軍を維持するため、彼らはアヘン取引へ深く関わっていく。

 

 国民党の段希文将軍は、「われわれは共産主義の悪と戦い続けなければならない。戦うには軍隊が必要であり、軍隊には銃が必要であり、銃を買うには金が必要だ。この山岳地帯では、金はアヘンだけだ」と語ったと伝えられる。米国もまた、冷戦下で反共勢力を利用しようとしてその存在を黙認し、ときに支援さえした。

 

 さらに一九六二年にネ・ウィン政権が成立すると、いわゆるビルマ式社会主義は深刻な物資不足と闇市場の拡大を招いた。国境ではインド系や中国系の商人、密輸業者が活動を広げ、国家の統制が届きにくい辺境で、アヘンはますます重要な交易品となっていった。

 

 その象徴が、一九六三年に導入されたカクウェイェー、すなわちKKY制度である。政府は地方の武装集団を民兵として取り込み、反政府勢力と戦わせる代わりに、政府管理下の道路や交易路を利用する権利を与えた。名目は治安対策でも、実際にはアヘンを運ぶ武装集団に便宜を与える仕組みとなり、後の麻薬王たちを育てる土壌にもなった。

 

 こうして黄金の三角地帯は、世界最大級のアヘン供給地へと膨れ上がった。

 

 その生産を支えていたのは、山の畑でケシを育てる無数の農家である。だが、麻薬経済に組み込まれているからといって、農家が利益を握れているわけではない。むしろ彼らは、地域の最貧層に近い人々である。

 

 例えば、ラオスの平均的なアヘン農家の年間所得はおよそ二百ドルで、そのうちケシ栽培による収入は八八ドルほどである。この金額は、子牛一頭、米一トン、豚二頭、山羊五頭、鶏五十羽、あるいは絹二反を売れば埋められる程度の額にすぎない。

 

 外から見れば、ケシ栽培は容易に撲滅できそうに見える。

 

 けれど山の農家にとって大事なのは、収入の大きさばかりではなく、ケシなら確かな現金に替わるという点である。

 

 かわりにコーヒーや野菜を植えたところで、買い手が山まで来てくれるとは限らない。町まで運ぶ道があり、適正な値で買い取る商人がいて、その畑を耕し続ける権利があって、はじめて作物は収入になる。

 

 ところが山地民の中には、国籍や土地の権利があいまいな者も多く、役人との関係も保護より徴税や取り締まりに偏りがちだった。畑からケシを消したところで、こうした問題まで消えるわけではない。必要なのは、畑の作物を替えることだけではなく、山の民がその土地で生きていける仕組みを整えることだった。

 

 タイでは、その順序を比較的よく踏んでいた。撲滅だけを急がず、高地開発のなかにケシ対策を組み込み、道路、農業支援、市場、教育、保健を少しずつ広げていった。地域や時期による差はあったものの、長い時間をかけて、ケシに頼らず現金収入を得られる道を築いていったのである。

 

 一方、ラオスでは、代わりの生計手段が十分に整う前にケシ栽培の削減が進められた。村ごとに「もうケシはやめる」と約束を取りつけ畑を消していったため、あとに残された元ケシ農家は現金収入を失い、別の生きる手段を探すことを余儀なくされた。

 

 そして、村から人が流れ出す。交通の改善と労働移動の拡大は開発の一部として語られるが、その先に待つのは必ずしもまっとうな雇い主ばかりではなかった。タイの売春宿へ連れていかれる女たち、中国へ花嫁として売られる娘たち。山の貧しさと外の労働需要の隙間に、ブローカーたちは入り込んでいった。

 

 人々を救うはずのアヘン撲滅も、暮らしの受け皿を欠けば、貧困を別の場所へ移すだけになってしまう。ケシ畑が消えても飢えは残り、現金の要る暮らしも、国家との遠い距離も残る。

 

 そして今、ラオスの貧しい山村で、少女がまたひとり、家族のもとを離れようとしていた。

 

 

 ◇

 

 

 ブローカーが村へ来た日のことを、ノイはよく覚えている。

 

 北ラオスの山村で、父は陸稲を作り、乾季には薪を背負って町まで下り、日銭になる仕事を拾っていた。それでも六人家族を食わせるのがやっとで、もち米も塩も油も、いつも心細かった。

 

 ある昼前、見慣れない男が村へやってきた。

 

 襟のついたシャツも靴も赤土に汚れきっておらず、村の者とは違って見えた。男は父に愛想よく挨拶し、手土産の砂糖菓子を差し出した。二人の弟がすぐに身を乗り出す。

 

 男は父としばらく世間話をしてから、ノイへ目を向けた。

 

「ところで、お父さん。今ちょうど、町でいい仕事があるんですよ。この子、働かせてみませんか? 十二にもなっていれば、掃除も子守りも、ひと通りは覚えられるでしょう。町の家で、そういう手伝いのできる子を探しているんです」

 

 男は親を諭すような口ぶりで続けた。

 

「先方は金のある家です。住み込みですから、食べるものの心配はありませんし、給金はそう多くありませんが、家に送る分くらいにはなるでしょう。それに、別の家でしたけど、空いた時間に近くの学校へ通わせてもらった子もいましたよ」

 

 学校、という言葉に、ノイは思わず目を上げた。

 

 文字は少ししか知らない。自分が学校へ行けるなど、これまで考えたこともなかった。

 

 男はそこで声を低くした。

 

「ただ、子どもを外へやるとなると、少々心配な噂を耳にすることもあるでしょう。そういう話が出るのは、だいたい一部の悪い業者のせいでしてね。私たちみたいに昔からこの仕事をしている者からすれば、ああいう連中には本当に迷惑しているんです」

 

 父はしばらく考え込んでいた。家の米櫃には、次の収穫まで家族を食わせるだけの蓄えがなく、乾季の仕事も年々見つけにくくなっていた。

 

「……そこまで言うなら、あんたに任せるしかないな」

「ええ、任せてください。町へ出れば、すぐ働けるように話は通してあります。持たせるものも、着替えが少しあれば十分ですよ。あとは向こうで用意してくれますから」

 

 父がうなずくと、男はすぐ出発の日取りを決めた。

 

 弟たちは砂糖菓子を舐め、妹は母の膝で眠りかけていた。

 

 別れの前日、父は戸口でノイに言った。

 

「いいかノイ、お前ももう十二だ。弟たちも小さいし、家に残って口を増やすより、外へ出て働いてくれたほうが助かる。あの人の言うことをよく聞け。まじめにしていれば、学校へやってもらえることもあるかもしれん」

 

 ノイは静かに頷いた。父も苦しいのだと知っていた。だから泣けば、もっと困らせてしまう気がした。

 

 翌朝、母はまだ薄暗いうちから出かける支度をしていた。

 

「お昼になったら、これを食べなさい。上着も入れてあるから、寒くなったら着るんだよ。向こうで具合が悪くなったり、嫌なことがあったりしたら、黙って我慢しちゃいけないよ。体だけは大事にして……ちゃんと帰っておいでね」

 

 村の道まで出ると、古い車が待っていた。荷台には籠や袋が積まれ、その隙間に腰を下ろせるだけの板が渡してある。

 

 男はノイの荷物を見て、やさしい顔で笑った。

 

「さあ、行こう」

 

 弟たちは母のそばに並び、妹はその腰にしがみついている。父は少し離れた戸口に立ち、荷台に座ったノイを見送っていた。

 

 車が動き出すと、母たちの姿は赤土の道の向こうへ小さくなっていった。

 

 ノイは膝の上の包みを抱きしめ、前を向いた。母の顔をもう一度見れば、涙があふれてしまいそうだった。

 

 谷沿いの道は長く、見たことのない畑や小川や斜面が後ろへ流れていく。

 

──未成年が外国へ出るなど、おかしいと思う者もいるだろう。だがその手口は、奇妙に洗練されている。子どもは親類や同行者の実子として書類に載せられたり、年齢を書き換えた紙を持たされたりして国境へ連れていかれる。そのまま正規の詰所を通ることもあれば、警戒の緩い道を使うこともある。照合は甘く、役人が目をつぶることもあり、通過そのものが金で買われることもある。子どもは、外の者が思うほど深い闇の中ではなく、日の光の下でも運ばれていく。

 

 昼の弁当を食べ終えてから夕方まで、ノイに渡されたのは水だけだった。道中でいくつもの村を通り過ぎ、気づけば車は見知らぬ土地を走っていた。

 

 その夜、連れていかれた家の暗がりで、ノイは初めて泣いた。

 

 誰にも聞こえないように、声を殺して。昼のあいだじゅう胸の奥で固く縮こまっていたものが、暗闇のなかでようやく崩れたように、涙は止まらなかった。

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