ラオカイの渡しを越えたあと、ロローリャは一度、以前いた昆明のスラムに立ち寄った。しかし、いちばん大事な人はすでに墓の下だったし、やはりそこは自分の居場所ではなかった。墓参りだけをすませると、当局の目を避けてすぐに町を離れた。
それからは、はっきりした行き先もないまま南へ向かって歩いた。通りかかった車に乗せてもらい、駄目なら荷台にしがみついた。食べ物は家々で分けてもらい、それでも腹が空けば、なけなしの金で買った。
日ごとに風はぬるみ、水を含んだ葉の青さが土の匂いに混じった。朝靄は山裾から谷へ降り、低い灰色の屋根は、やがて高床の軽やかな影へ変わっていった。木立の奥に寺の尖塔が金色に覗くたび、ロローリャは幼いころにも、どこかでこの光を見たような気がした。
谷の村々には、人々の穏やかな暮らしがあった。朝には炊事の煙が上がり、昼には裸足の子どもたちが駆け回り、夕方には畑帰りの夫婦が肩を並べて歩いている。そんな景色を見るたび、ロローリャの胸の奥は黒く濁っていった。
(あいつら仲良く笑ってる……)
奥歯を噛むと、喉の奥が熱くなった。
(あの家も……全部燃えたら、私と同じ気持ちになるのかな)
そう思うたび、彼女は道を外れ、谷の灯りを背に斜面の奥へ入っていった。
──
役人が線を引けば中国であっても、谷を越えれば言葉も顔も変わる。道を外れ、村を避けて歩く者には、その線がどこにあるのかさえ曖昧だった。
人に見つかれば厄介になる。ロローリャは、ゴム園の端から森へ入った先にある斜面のくぼみを住処にした。竹を折って骨組みを作り、蔓で縛って広い葉を重ねる。片腕で竹を押さえ、歯で蔓を締め、義足で泥を固めた。浅い穴に火を収め、枯葉を敷くと、その小さな屋根の下で夜を越えはじめた。
生きることへの執着は薄れていたが、身体は食べ物を欲しがった。魚を狙って石を投げては沢へ転び、木の実に舌を痺れさせ、茸で腹を壊し、濡れたまま火にあたった。倒木を跨いだ拍子に大百足が左の踝へ食いついた夜には、熱が膝下へ広がり、泥の上で朝まで震えた。
そんなとき頭に浮かぶのはハイフォンの女たちの顔ではなく、次の薪をどこへ置くか、明日の水を何に溜めるか、そういう小さな手順ばかりだった。
熱が抜けた朝、ロローリャは火のそばで黒く縮んだ根を拾い、焦げた皮を削って口へ運んだ。灰の味がしたが、それでも腹に収め、杖を頼りに沢へ下りる。水を汲み、薪を拾い、食べられるものを探すうちに、また一日が過ぎていった。
やがて水場や食べ物、雨を避ける斜面を森の匂いと湿りから探り当てるようになった。ゴム園の農夫がランプを下げて近づけば、足音の届く前に身を隠す。人が植えた木の列が蔓と竹の森へほどける境目で、ロローリャは影のように暮らした。
◇
そうして人目を避けるほど、ロローリャのまわりには獣の気配が身近になった。泥に沈んだ丸い足跡、根元から折れた竹、削られた幹の皮はゾウの通り道を示し、谷の底から低い声が響くと、湿った空気まで厚くなった。ヒョウの足跡は軽く、野牛の匂いは重く、孔雀が朝を裂き、蛇は葉の色にまぎれて滑った。
その中で、猿どもはいちばん騒がしい隣人になった。
熟れた実を食い散らし、夜明け前から喚き、洗った布を引きずって逃げる。腹の立つ相手だったが、やがてその鳴き声から森の様子を知るようになった。群れが一斉に高い枝へ逃げれば地上に何かが通り、水場でのんびりしていれば沢への道も安全だった。
その群れの中に、一匹だけ妙な白猿がいた。
灰を薄くかぶったような毛色で、肩が広く、腕が長く、目つきが妙に人臭い。ある日、ロローリャが若木を削って杖にしていると、白猿はどこからか細い枝を持ってきて、彼女の肩をこつりと叩いた。
「何だ、お前」
振り返った途端、今度は額を狙って枝先が飛んできた。ロローリャが棒で打ち払うと、白猿はするりと身をかわし、幹を回って背後からまた小突いてくる。頭上では猿どもが騒ぎ、白猿は枝に片手でぶら下がりながら、次を待つように首を傾けた。
──中国には、『越女』という古い話がある。剣をよくする乙女が、「袁公」という老人の姿に化けた白猿と術を競いあったという。ロローリャが出会った白猿も、その類の存在であったのかもしれない。ただし彼女にとっては、顔を見るだけで腹の立つ隣人だった。
白猿は、それから毎日のように現れた。食べようとした実を弾き、干していた布を引きずり、灰の中の芋を掘り返す。追えば逃げ、止まれば叩き、背を向ければ尻を打つ。ロローリャは怒鳴り、石を投げ、棒を振り回し、何度も泥に転がされた。
だが、打ち合いを重ねるうちに、身体は少しずつ変わっていった。
濡れた根に義足を置けば腰が遅れ、片足を土へ沈めすぎれば肩が開く。白猿はその隙を見逃さず、鋭く枝を差し込んでくる。ロローリャは棒を振る前に足を置き、足を運ぶ前に腰を決め、白猿の肩の動きから次の一撃を読むようになった。
雨季が過ぎ、乾季が来て、また雨が戻った。
白猿の枝は頭上から落ち、横から払い、足元の枯葉を跳ね上げて視界を塞いだ。ロローリャは青痣を作り、右手の皮を裂き、それでも翌朝には同じ木の下へ立った。白猿の攻撃には容赦がなく、そのたびに彼女も、受ける身体と返す棒へ残る力のすべてを注いだ。
やがて猿たちも、ロローリャに対する態度を変えはじめた。若い猿が熟れた実を近くへ落とし、彼女が毒の強い実へ手を伸ばせば、別の猿が枝を揺らして弾いた。白猿に転がされれば梢は騒ぎ、ロローリャの棒が白猿の枝をかすめれば、群れの声がふっと低くなった。
「おはよう、泥棒猿ども」
ある朝、ロローリャがそう言うと、猿どもは一斉に鳴いた。馬鹿にしているのか、返事のつもりなのか、彼女には判じきれない。それでも声をかけ、声が返る繰り返しが、森で削られていく彼女の輪郭をかろうじて人の形にとどめていた。
◇
その日、森の湿りは葉の裏に重く溜まり、猿どもの声も高い枝で細く沈んでいた。
若い猿たちが枝から身を乗り出す中、白猿は細くしなる一本を拾い上げた。向かい合うロローリャの右手には、幾度もの打ち合いで先の黒ずんだ棒が握られていた。
白猿が滑り出た。
正面と見えた刹那、枝先は横へ溶け、次の息で頭上から落ちてくる。ロローリャは半歩沈んでそれをかわし、白猿の足が枝を蹴る瞬間を捉えた。
細い枝が沈み、重みが幹へ移る。次に跳ぶ力がそこへ集まっていく。
その沈みを、彼女の目が掴んだ。
腹の底から声が噴き上がった。
「アアアアアアアッ!」
それは言葉の形を失い、人の喉と獣の胸が混じったように森へ叩きつけられた。猿どもが一斉に毛を逆立て、鳥が木の奥から飛び立つ。
義足の踏み込みが泥を噛み、腰のひねりが背を通り、肩から肘、手首へ力が流れ、二年ぶんの青痣と泥と罵声が一本の棒の先へ集まっていく。
乾いた音が森に響いた。
棒の先が白猿の肩口を捉え、白い身体が枝から弾かれた。宙で一度回り、散った葉とともに泥へ落ちる。梢の騒ぎが途絶え、沢の音だけが急に大きくなった。
ロローリャは棒を構えたまま、焼けつく喉で息を吸った。泥の上の白猿は肩をかすかに上下させている。勝ったという喜びが湧き上がる一方で、胸の奥には冷たいものが広がっていた。
「……だ、だいじょうぶ?」
白猿の指先がぴくりと曲がった。
やがて顔を上げ、打たれた肩を押さえて立ち上がると、落ちていた細い枝をロローリャの前へ放った。枝は泥の上で一度跳ね、彼女の足元に止まった。
梢の猿どもが一斉に鳴いた。枝が揺れ、葉が散り、甲高い声が谷の奥へ広がっていく。白猿は高い枝へ戻ると、熟れた実をひとつもぎ、ロローリャの足元へまっすぐ落とした。
ロローリャはそれを拾い、袖で泥を拭ってかじった。甘さと渋さが舌に広がる。白猿は枝の上で、打たれた肩を気にしながら毛づくろいをしていた。
「次は、もっときれいに入れるからね」
白猿は片目だけを細めた。怒りにも笑いにも似たその顔が、葉の影の奥でしばらく彼女を見下ろしていた。
それからも、ロローリャの猿どもへの悪態は相変わらずだった。ただ、夜明けに白猿の声が響くと、火のそばに置いた棒へ自然と手が伸びるようになった。