欠月剣娘百越譚   作:宙うし

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1.白猿

 ラオカイの渡しを越えたあと、ロローリャは一度、以前いた昆明のスラムに立ち寄った。しかし、いちばん大事な人はすでに墓の下だったし、やはりそこは自分の居場所ではなかった。墓参りだけをすませると、当局の目から逃れるように、すぐ町を離れた。

 

 それからは、はっきりした行き先もないまま、湿った空気の匂いを頼りに歩いた。通りかかった車に乗せてもらい、駄目なら荷台にしがみついた。食べ物は家々で分けてもらい、それでも腹が空けば、なけなしの金で買った。

 

 日ごとに風はぬるみ、水を含んだ葉の青さが土の匂いに混じった。朝靄は山裾から谷へ降り、低い灰色の屋根は、やがて高床の軽やかな影へ変わっていった。木立の奥に寺の尖塔が金色に覗くたび、ロローリャは幼いころにも、どこかでこの光を見たような気がした。しかし、その記憶へ手を伸ばすより先に、谷で続いている人の暮らしが胸を重くした。

 

 朝には炊事の煙が上がり、昼には裸足の子どもの声が響き、夕方には畑帰りの夫婦が肩を並べて歩いている。そういう景色を見るたび、ロローリャの胸の奥は黒く濁っていった。

 

(あいつら仲良く笑ってる……)

 

 奥歯を噛むと、喉の奥が熱くなった。

 

(あの家も……全部燃えたら、私と同じ気持ちになるのかな)

 

 そう思うたび、彼女は道を外れ、谷の灯りを背に斜面の奥へ入っていった。

 

──西双版納(シーサーパンナ)という名は、ダイの言葉のシップソーン・パンナー、十二の千の田に由来する。地図の上では中国雲南の南端にあっても、谷を渡る風は東南アジアの空気を含み、瀾滄江(メコン川)の流れに沿って水田とゴム園がひらけ、その背後では板根を張った巨木、蔓、竹、シダ、湿った腐葉土の匂いが、人の道を少しずつ呑みこんでいく。

 

 役人が線を引けば中国であっても、谷を越えれば言葉も顔も変わる。道を外れ、村を避けて歩く者には、その線がどこにあるのかさえ曖昧だった。

 

 人に見つかれば厄介になる。ロローリャは、ゴム園の端から森へ入った先にある斜面のくぼみを住処にした。竹を折って骨にし、蔓で縛り、広い葉を重ねる。片腕で竹を押さえ、歯で蔓を締め、義足で泥を固めた。浅い穴に火を収め、枯葉を敷くと、その小さな屋根の下で夜を越えはじめた。

 

 ひとり生きる気は薄くとも、身体は食べ物を欲しがった。魚影へ石を投げては水へ転び、木の実に舌を痺れさせ、茸で腹を壊し、濡れたまま火にあたった。倒木を跨いだ拍子に、赤茶けた大百足が左の踝へ食いついた夜には、熱が膝下へ広がり、泥の上で朝まで震えた。そんなとき、頭に浮かぶのは、ハイフォンの女たちの顔ではなく、次の薪をどこへ置くか、明日の水を何に溜めるか、そういう小さな手順ばかりだった。

 

 熱が抜けた朝、火のそばでは半分焦げた根が黒く縮んでいた。ロローリャは焦げた皮を爪で削り、灰の味のする中身を口へ運んだ。森は慰めも罰も口にせず、立てる者だけを次の朝へ通した。

 

 こうした朝をいくつも越えるうち、生き延びる術はロローリャの身体に馴染んでいった。水場、食べ物、火を隠す場所、雨を避ける斜面を、森の匂いと湿りから探り当てた。ゴム園の農夫がランプを下げて近づいても、そのころにはもう暗がりへ溶けている。人が植えた木の列が蔓と竹と板根の森へほどける境目で、彼女は影のように暮らした。

 

 

 ◇

 

 

 そうして人目を避けるほど、ロローリャのまわりには、獣の跡ばかりが目につくようになった。泥に沈んだ丸い足跡、根元から折れた竹、削られた幹の皮がゾウの通り道を示し、谷の底から低い声が響くと、湿った空気まで厚くなった。ヒョウの足跡は軽く、野牛の匂いは重く、孔雀が朝を裂き、蛇は葉の色にまぎれて滑った。

 

 その中で、猿どもはいちばん騒がしい隣人になった。熟れた実を食い散らし、夜明け前から喚き、洗った布を引きずって逃げる。腹の立つ相手だったが、その声には一つ一つ違う意味があるようであった。群れが上へ散れば地上に何かが通り、水場でのんびりしていれば沢への道は安全だった。雨の気配も、大きな獣の通り道も、やがてロローリャは猿どもの声から読むようになった。

 

 その群れの中に、一匹だけ妙な白猿がいた。灰を薄くかぶったような毛色で、肩が広く、腕が長く、目つきが妙に人臭い。そいつはほかの猿のように遠くから騒ぐだけで済ませず、ロローリャのそばまで降りてきた。ある日、彼女が若木を削って杖にしていると、白猿はどこからか細い枝を持ってきて、肩をこつりと叩いた。

 

「何だ、お前」

 

 ロローリャが振り返ると、今度は額を狙って枝の先が飛んできた。彼女が棒で打ち払っても、白猿はするりと身をずらし、幹を回って背後からまた小突く。猿どもが上で騒いだ。白猿は枝を片手にぶら下がり、次を待つように首を傾けた。

 

──中国には、『越女』という古い話がある。剣をよくする乙女が、「袁公」という老人の姿に化けた白猿と術を競いあったという。ロローリャが出会った白猿も、その類の存在であったのかもしれない。ただし彼女にとっては、顔を見るだけで腹の立つ隣人だった。

 

 白猿は、それから毎日のように現れた。食べようとした実を弾き、干していた布を引きずり、灰の中の芋を掘り返す。追えば逃げ、止まれば叩き、背を向ければ尻を打つ。ロローリャは怒鳴り、石を投げ、棒を振り回し、何度も泥に転んだ。

 

 だが、転がされるうち、身体は少しずつ変わっていった。濡れた根に義足を置けば腰が遅れ、土へ片足を沈めすぎれば肩が開く。白猿はそこへ枝を差し込んでくる。ロローリャは棒より先に足を置き、足より先に腰を決め、腰より先に白猿の肩を見た。枝先ではなく肩の沈み、叫びではなく息を吸う間、跳んだ先ではなく枝が沈む重さを追った。

 

 雨季が過ぎ、乾季が来て、また雨が戻った。白猿の枝は頭上から落ち、横から払い、足元の枯葉で視界を塞いだ。ロローリャは青痣を作り、手の皮を裂き、それでも翌朝には同じ木の下へ立った。白猿が甘さごと払ってくるなら、受ける腕と返す棒へ、残る力を込めるしかなかった。

 

 その音が幾日も森に響くうち、猿たちもロローリャを見る目を変えた。若い猿が熟れた実を近くへ落とす。彼女が毒の強い実へ手を伸ばせば、別の猿が枝を揺らして弾いた。白猿に転がされれば梢は騒ぎ、彼女の棒が白猿の枝をかすめれば、群れの声はふっと低くなった。

 

「おはよう、泥棒猿ども」

 

 ある朝、ロローリャがそう言うと、猿どもは一斉に鳴いた。その鳴き声は、馬鹿にしているのか、返事のつもりなのか、彼女には判じきれない。それでも声をかけ、声が返る繰り返しが、森で削られていく彼女の輪郭をかろうじて人の形にとどめていた。

 

 

 ◇

 

 

 その日、森の湿りは葉の裏に重く溜まり、猿どもの声も高い枝で細く沈んでいた。若い猿たちが身を乗り出す中、白猿は枝葉の影から、細くしなる一本を拾い上げた。ロローリャの掌には、先の黒ずんだ棒が汗を吸って収まっていた。

 

 白猿が滑り出た。正面と見えた刹那、枝先は横へ溶け、次の息で頭上から落ちる。ロローリャは半歩沈み、身体を斜めに抜きながら、白猿の足が枝を蹴る瞬間を捉えた。細い枝が沈み、重みが幹へ移る。次に跳ぶ力がそこへ集まる。その沈みを、彼女の目が掴んだ。

 

 腹の底から声が噴き上がった。

 

「アアアアアアアッ!」

 

 それは言葉の形を失い、人の喉と獣の胸が混じったように森へ叩きつけられた。猿どもが一斉に毛を逆立て、鳥が木の奥から飛び立つ。義足の踏み込みが泥を噛み、腰のひねりが背を通り、肩から肘、手首へ力が流れ、二年ぶんの青痣と泥と罵声が、一本の木の先へ集まっていく。

 

 乾いた音が森に響き、棒の先が白猿の肩口へ吸い込まれた。白い身体は枝から弾かれ、宙で一度回り、散った葉とともに泥へ落ちた。梢の猿どもは息を呑み、さっきまでの騒ぎが消え、沢の音だけが急に大きくなった。

 

 ロローリャは棒を構えたまま、焼けつく喉で息を吸った。泥の上の白猿は肩をかすかに上下させている。胸の奥で、勝ったという熱と、やりすぎたかもしれないという冷えが同時に広がった。

 

「……だ、だいじょうぶ?」

 

 白猿の指先がぴくりと曲がり、顔が上がった。打たれた肩を押さえて立つと、落ちていた細い枝をロローリャの前へ放った。枝は泥の上で一度跳ね、彼女の足元に止まった。

 

 梢の猿どもが一斉に鳴いた。枝が揺れ、葉が散り、甲高い声が谷の奥へ広がっていく。白猿は高い枝へ戻ると、熟れた実をひとつもぎ、ロローリャの足元へまっすぐ落とした。

 

 ロローリャはそれを拾い、袖で泥を拭ってかじった。甘さと渋さが舌に広がる。白猿は枝の上で、打たれた肩を気にしながら毛づくろいをしている。

 

「次は、もっときれいに入れるからね」

 

 ロローリャがそう言うと、白猿は片目だけを細めた。怒りにも笑いにも似たその顔が、葉の影の奥でしばらく彼女を見下ろしていた。

 

 それからも、ロローリャは猿どもを好きだとは一度も言わなかった。ただ、夜明けに白猿の声が響くと、火のそばの棒へ目を向けた。湿った朝の匂いの中で、彼女の手は自然とその握りへ伸びていった。

 

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