ラオカイの渡しを越えたあと、ロローリャは雲南の南の果て、西双版納へ向かった。途中、昆明のスラムに一度だけ立ち寄ったが、いちばん大事な人はすでに墓の下だったし、やはりそこはもう自分の居場所ではなかった。墓参りだけをすませると、ロローリャは当局の目から逃れるように、すぐにその町を離れた。
それから先の道は、行き先を決めて歩くというより、記憶の底に残った湿った空気の匂いをたどる旅になった。通りかかった車には、運がよければ乗せてもらい、駄目なら荷台の後ろへ勝手にしがみついた。食べ物は家々で分けてもらい、それでも腹の底が空っぽになるときだけ、なけなしの金で買った。
日ごとに風はぬるみを増し、乾いた土の匂いには水を含んだ葉の青さが混じり、朝の靄は山の裾からゆっくり谷へ降りてくるようになった。遠くに見える家々の屋根は低い灰色から、やがて高床の軽やかな影へ変わり、木立の奥には寺の尖塔が金色のひらめきを覗かせた。ロローリャはそれを見上げるたび、幼いころにどこかで同じ光を見たような気がしたが、その輪郭へ手を伸ばすより先に、胸の奥では別のものが重たく沈んだ。
谷には人の暮らしがあり、朝になると炊事の煙が薄く上がり、昼には子どもが裸足で走る声が響き、夕方には畑から戻る夫婦が肩を並べ歩いていた。ロローリャはそういう景色を見るたび、胸の中へ黒い泥が流れ込むのを感じた。よくそんな顔で飯が食えるな、よくそんなふうに子どもの名を呼べるな、と腹の奥で声が濁り、手の中の石を強く握ると、角が皮膚へ食い込んだ。あの灯りへ石を投げればどうなるだろう、あの笑い声を火の音で塗り潰せば、少しは静かになるだろうか。そんな考えが喉の奥へせり上がるたび、彼女は道から外れ、藪を押し分け、谷の灯りを背中で閉ざすように斜面の奥へ入っていった。
ロローリャは、その霧の奥へ身を沈めた。
人に見つかれば厄介になる。彼女は道から外れた斜面のくぼみを住処に決め、細い竹を折って骨にし、裂いた蔓で縛り、幅の広い葉を重ねて小さなシェルターを組んだ。片腕で竹を押さえ、歯で蔓を締め、義足で泥を踏み固める。葉がずり落ちるたび泥まみれで舌打ちし、また結び直した。浅い穴に火を収め、枯葉を厚く敷くと、竹と葉の屋根の下で夜を越えはじめた。
生きる気は薄くても、身体は食べ物を欲しがった。沢で魚影を見れば石を投げ、外して水へ転び、濡れた服のまま火の前へ座った。木の実を拾って噛めば舌が痺れ、青い実を飲み込めば腹の中を縄で絞られるような痛みに丸まった。黄色い茸を火にくべて少しかじった夜には、幹も枝もゆっくり傾いて見え、夜明けまで泥の上へ嘔吐した。
森の痛みは、さらに別の形で来た。倒木を跨いだ拍子に、赤茶けた大きな百足が踝へ食いつき、痛みはすぐ熱へ変わって膝から下へ広がった。ロローリャは片脚を引きずってシェルターへ戻り、火のそばで膝を抱えた。夜が更けるほど腫れは脈を打ち、足首からふくらはぎ、太腿の奥へ、熱いものがじわじわ這い上がってくる。背中には冷たい水を流し込まれたような寒気が走り、歯がかちかち鳴った。泥の上に倒れ伏しながら、彼女の頭に浮かぶのは、懐かしいハイフォンの女たちの顔より、次の薪をどこへ置くか、明日の水をどの器へ溜めるか、そういう小さな手順ばかりだった。
熱が抜けた朝、濡れた服が背中に貼りつき、風が肌を撫でた。沢の向こうで鳥が短く鳴き、火のそばでは半分焦げた根が黒く縮んでいた。ロローリャはそれを拾い、焦げた皮を爪で削り、灰の味のする中身を少しずつ口へ運んだ。森は慰めも罰も口にせず、ただ立てる者だけを次の朝へ通した。
そうして、生き延びるための術がロローリャの身体に馴染んでいった。水場、食べ物、火を隠す場所、雨を避ける斜面、獣の通り道と人の足音を、彼女は森の匂いと湿りの中から嗅ぎ分けるようになった。近くのゴム園では、ときおり農夫たちがランプを下げて木の列を歩いたが、その明かりが近づくころには、ロローリャの姿はもう森の暗がりへ溶けていた。人の植えた木の列が蔓と竹と板根の森へほどける境目で、彼女は獣でも人でもない影のように暮らした。
森には、重さの違う命がいくつも通っていた。泥に沈んだ丸い足跡、根元から折れた竹、削られた幹の皮がゾウの通り道を示し、谷の底から低い声が響くと、湿った空気そのものが厚みを増した。ヒョウの足跡は影のように軽く、野牛の匂いは重く、孔雀の声は朝の湿気を裂き、蛇は葉の色にまぎれて地面を滑っていた。
猿どもは、その森の中でいちばん騒がしい隣人になった。熟れた実を見つけると、ロローリャが手を伸ばすより先に枝を揺らして落とし、寝床に選んだ木の上では夜明け前から甲高く喚き、沢で洗った布を岩に広げれば、若い猿がそれを引きずって逃げた。ロローリャが石を投げると、猿どもは幹の上で跳ね、今度は果皮や小枝を降らせてくる。
「返せ、泥棒ども。あっちへ行け」
怒鳴り声が梢へ届くたび、猿どもは尾を揺らし、枝を叩き、まるで彼女の声まで遊びのひとつにしているように騒ぎ立てた。腹の立つ相手だったが、その甲高い声にも癖があった。ふざけて枝を揺らす声、本気で怯えて高い梢へ逃げる声、低い枝で実をほじりながら交わす気の抜けた声。群れが一斉に上へ散れば地上に何かが通り、水場近くの枝で猿どもがのんびり実を食べていれば、沢へ下りる道にも朝の湿った風が残っている。鳴き方ひとつで雨の気配を知り、夕方の沈黙で大きな獣の通り道を悟るうちに、ロローリャは猿どもの声へ耳を預けるようになっていった。
その群れの中に、一匹だけ妙な白猿がいた。灰を薄くかぶったような毛色で、肩が広く、腕が長く、目つきが妙に人臭い。そいつはほかの猿のように遠くから騒ぐだけで済ませず、ロローリャのそばまで降りてきた。ある日、彼女が若木を削って杖にしていると、白猿はどこからか細い枝を持ってきて、肩をこつりと叩いた。
「何だ、お前」
ロローリャが振り返ると、今度は額を狙って枝の先が飛んできた。彼女が棒を振り返せば、白猿はするりと身をずらし、幹を回って背後からまた小突く。猿どもが上で騒いだ。白猿は枝を片手にぶら下がり、次を待つように首を傾けた。
中国には、『越女』という古い話がある。春秋のころ、越の国に現れた乙女で、剣をよくし、その術を「袁公」という老人の姿に化けた白猿と競いあったという。史実というより、南方の地が生んだ武の寓話であろう。人より先に獣を見、人より先に風を読む者は、時にそういう伝説の衣を着せられる。ロローリャが出会った白猿も、あるいはその類の存在であったのかもしれない。ただし彼女にとっては、伝説どころか、顔を見るだけで腹の立つ隣人だった。
白猿は、その日から毎日のように現れた。雨の昼にも、沢へ水を汲みに下りる途中にも、火のそばで魚を焼いているときにも、眠りかけた夕暮れにも、どこかの枝から音もなく降りてきて、細い枝で肩や額や義足の膝をこつりと叩いた。食べようとした実を弾き、干していた布を引きずり、灰の中に埋めていた芋を掘り返す。そのたびにロローリャは怒鳴り、石を投げ、棒を振り回し、白猿は笑うような顔で身をひねった。
「この、白猿め!」
枝先は葉を払うばかりで、白猿の身体は幹の裏へ回っている。追えば逃げ、止まれば叩き、背を向ければ尻を打つ。ロローリャは泥に足を取られて転び、猿どもは上で喚き、白猿は枝の上で片手をぶらぶらさせた。
はじめに身体へ刻まれたのは、踏みこみであったか。濡れた根へ義足を置けば腰が遅れ、乾いた土へ片足を沈めすぎれば肩が開く。白猿はそこへ枝を差し込んでくる。ロローリャは棒を振る前に足を置き、足を置く前に腰を決め、腰を決める前に白猿の肩を見るようになった。枝の先より肩の沈み、叫び声より息を吸う間、跳んだ先より、跳ぶ前に枝が沈むわずかな重さを追った。
雨季が一度過ぎるころ、ロローリャの棒は白猿を追うものから、白猿の行き先へ置かれるものへ変わっていた。乾季が来ると、白猿のほうも遊び方を変えた。枝は頭上から落ち、横から払われ、足元の枯葉を跳ね上げて視界を塞いだ。ロローリャは額に青痣を作り、肩を打たれ、手の皮を裂き、何度も尻餅をついた。夜になると腕が熱を持ち、棒を握った指が開きにくくなったが、翌朝には同じ木の下へ立った。
白猿は手加減というものを知らず、ロローリャが熱を出したあとでも、足を引きずっている日でも、枝の先はためらいなく飛んできた。はじめのうち彼女は、相手にどこか遠慮を残していたが、迷って受ければ弾かれ、力を抜いて返せば次の一撃が脇腹へ食い込むうちに、その遠慮は泥と汗の中へ落ちていった。白猿が本気で踏み込み、こちらの甘さごと枝で払ってくるなら、ロローリャもまた歯を食いしばり、受ける腕にも返す棒にも、身体に残る力をすべて込めるしかなかった。そうして棒を振る音は、鳥の声、猿の声、沢の音、濡れた葉から落ちる雫の音と重なり、森の朝の一部になっていった。
その音が幾日も森に響くうちに、群れの猿たちもロローリャを見る目つきを少しずつ変えた。食べ物を奪うばかりだった若い猿が、ときどき熟れた実を近くへ落とし、彼女が毒の強い実へ手を伸ばすと、別の猿が枝を揺らしてその手元から弾いた。白猿に派手に転がされれば、群れは腹を抱えるように騒ぎ、彼女の棒が白猿の枝をかすめれば、梢の上の声がふっと低く沈んだ。
「おはよう、泥棒猿ども」
ある朝、ロローリャがそう言うと、猿どもは一斉に鳴いた。馬鹿にしているのか、返事のつもりなのか、彼女には判じきれなかった。それでも、誰かに声をかけること、声が返ってくること、その繰り返しが、森で削られていく彼女の輪郭をかろうじて人の形にとどめていた。
二度目の雨季には、白猿の枝はいっそう速さを増し、その太刀筋は小突きの域を越えて、眉間、喉、手首、義足の継ぎ目、膝の内側へ、ロローリャの隙を選ぶように飛んできた。彼女は痛みの場所をひとつずつ身体に刻み、棒で受けた瞬間に押し返し、押し返す気配だけを残して半歩身を沈める動きを覚えていった。力任せに打ち込む場面があり、その一撃を置くために息を殺して待つ場面がある。枝の軽さに何度も腹を立てながら、ロローリャはその奥にある間合いを盗み、重い一撃を沈める場所を、泥と雨の中で身につけていった。
乾いた季節が戻るころには、義足の先が湿った土を噛み、遅れていた腰が棒の動きへ追いつき、肩から肘、手首へ流れる力が、足元から背中までひとつにつながるようになっていた。義足が土を押し、腰が回り、背がしなり、肩が遅れずに乗った瞬間、乾いた木の先は白猿の速さへ届いた。白猿はその変化を見透かすように、枝の上で気の抜けた声を出し、背後から軽く小突き、ロローリャの呼吸が乱れた刹那に真正面へ降りてきた。遊びの顔をかぶった試しが、朝靄の中で何度も続いた。
その朝、森の湿りは葉の裏に重く溜まり、いつもなら梢を揺らす猿どもの声も、高い枝のあちこちで細く沈んでいた。若い猿たちは木の実を握ったまま身を乗り出し、白猿は枝葉の影から、細くしなる一本をゆっくり拾い上げた。ロローリャの掌には、幾度も打ち合って先の黒ずんだ棒が収まり、蔓の皮を巻いた握りが汗を吸って、皮膚へ吸いついていた。
白猿が枝葉の影から滑り出た。正面から来ると見えた刹那、枝の先は横へ溶け、次の息で頭上から落ちてきた。ロローリャはその軌道の下へ半歩沈み、身体を斜めに抜きながら、白猿の足が枝を蹴る瞬間を捉えた。細い枝がわずかに沈み、白い身体の重みが幹へ移り、次に跳ぶための力がそこへ集まる。その沈みを、彼女の目が掴んだ。
腹の底から声が噴き上がった。
「アアアアアアアッ!」
それは言葉の形を失い、人の喉と獣の胸が混じったように森へ叩きつけられた。猿どもが一斉に毛を逆立て、鳥が木の奥から飛び立つ。ロローリャの棒は、その声に引かれるように落ちた。義足の踏み込みが泥を噛み、腰のひねりが背を通り、肩から肘、手首へ力が流れ、二年ぶんの青痣と泥と罵声が、一本の木の先へ集まっていく。
白猿は跳び、ロローリャの棒はその跳ぶ先を先に塞いでいた。乾いた音が森の腹に響き、棒の先が白猿の肩口へ吸い込まれると、白い身体は枝から弾かれ、宙で一度回って、散った葉とともに泥の上へ落ちた。梢の猿どもは息を呑み、さっきまで騒いでいた枝葉の上から声が消え、沢の音だけが急に大きくなった。
ロローリャは棒を構えたまま、焼けつく喉で息を吸った。腕の芯が痺れ、義足の継ぎ目から腰まで震えが駆け上がり、掌に巻いた蔓の皮が汗でぬめった。泥の上の白猿は身体を横たえ、肩をかすかに上下させている。胸の奥で、勝ったという熱と、やりすぎたかもしれないという冷えが同時に広がった。
「……だ、だいじょうぶ?」
白猿の指先がぴくりと曲がり、泥まみれの顔がゆっくり上がった。片目を細め、打たれた肩を押さえながら、白猿はよろよろと立ち上がると、喉の奥で短く息を鳴らし、地面に落ちた細い枝を拾って、ロローリャの前へ放った。枝は泥の上で一度跳ね、彼女の足元に止まった。
白猿が口を大きく開けて鳴いた。
その声に、梢の猿どもが一斉に応じた。枝が揺れ、葉が散り、甲高い声が谷の奥へ広がっていく。ロローリャは棒を握ったまま、その騒ぎの真ん中で息を吸った。白猿は肩を押さえた姿のまま、いつもの人臭い目でこちらを見ている。
「痛かった?」
白猿は返事のかわりに近くの幹へ手をかけ、枝へ飛び移ろうとして足を滑らせ、梢の猿どもがまた腹を抱えるように騒いだ。ロローリャはようやく棒を下ろし、焼けた喉から長く息を吐いた。手のひらの皮は熱を持ち、叫びの痛みが胸の奥まで残っている。
白猿は高い枝へ戻ると、熟れた実をひとつもぎ、ロローリャの足元へ落とした。いつものようにからかう高さから放る仕草とは違い、実はまっすぐ彼女の前へ落ち、柔らかな音を立てて泥の上に転がった。
ロローリャはそれを拾い、袖で泥を拭ってかじった。甘さと渋さが舌に広がる。白猿は枝の上で、打たれた肩を気にしながら毛づくろいをしており、猿どもはその周りでまだ騒ぎ続けている。
「次は、もっときれいに入れるからね」
ロローリャがそう言うと、白猿は片目だけを細めた。怒りにも笑いにも似たその顔が、葉の影の奥でしばらく彼女を見下ろしていた。
それからも、ロローリャは猿どもを好きだとは一度も言わなかった。
ただ、夜明けに白猿の声が響くと、ロローリャは火のそばへ目を向けた。蔓の皮を巻いた棒がそこにあり、湿った朝の匂いの中で、彼女の手は自然とその握りへ伸びていった。