『学園黙示録:SILVER BULLET(シルバー・バレット)』   作:トート

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第1話:アウトブレイク・ゼロ【前編】

世界がその機能を完全に停止する、わずか数時間前のこと。

床主(とこなめ)市の空は、不気味なほどに抜けるような青さだった。五月の風は心地よく、街はいつも通りの退屈で平穏な地方都市の営みを続けているように見えた。

藤美学園の裏手、小高い丘の麓にひっそりと店を構える民間の自動車整備工場「神崎モータース」。その広々としたガレージの片隅で、主人公の銀(ぎん)(19歳)は、油にまみれた手で重いスパナを握り締めていた。

色褪せたネイビーの作業用ツナギの袖を無造作に捲り上げ、リフトに持ち上げられた古いクラシックカーのエンジンと格闘している。彼の鋭い三白眼は、いっさいの感情を排して、ただ複雑に入り組んだ機械の噛み合わせだけを冷徹に見つめていた。周囲に漂うガソリンと潤滑油の匂いだけが、彼の世界のすべてであるかのように。

「おい、銀。ちょっとこれを見てみろ」

リフトの向こう側、工具棚の並ぶスペースから、工場の主である神崎社長が声をかけてきた。50代半ばの、恰幅のいいベテラン整備士だ。

彼の手には、私物のスマートフォンが握られていた。画面の中では、臨時のニュース番組が慌ただしく流れている。どこかの路上で、数人の暴漢が通行人に掴みかかり、文字通り「肉を喰らっている」凄惨な映像が、手ブレの激しいカメラで捉えられていた。スタジオのアナウンサーの声は上ずり、状況がまったく把握できていないことが伝わってくる。

「海外のニュースか何かですか」

銀は視線をエンジンから外すことなく、抑揚のない声で返した。ボルトを締め付ける金属音だけがガレージに規則正しく響く。

「バカ言え、国内だよ。それも、隣の県だ。さっきからラジオも変なニュースばかり流しやがる。暴動だの、新種の感染症だの、狂犬病の集団発生だのってな……」

社長はそう言って、首の後ろを痛そうに何度もさすった。その顔は奇妙に青白く、額にはべっとりと脂汗が浮かんでいる。

「……ちくしょう、さっきパーツの買い出しに駅前へ行ったとき、変な浮浪者にどつかれてな。その時からどうも頭がガンガンしやがって、熱っぽくていけねえ。風邪でも引いたか」

「薬でも飲んで、奥の事務所で休んでください。こっちの作業は俺一人でも終わらせられます。これくらい、もう何度もやってますから」

「そうさせてもらうわ……。すまねえな、銀。飯の時間になったら起こしてくれ」

社長はふらつく足取りで、ガレージの奥にあるプレハブの事務所へと消えていった。バタン、とドアが閉まる音。

それが、日常における最後の会話だった。

それからわずか30分後。

ガレージの天井に吊るされた古いブラウン管テレビが、突如として激しい砂嵐に変わった。

同時に、外の幹線道路の方から、耳を劈(つんざ)くような急ブレーキの音と、連続する車の衝突音、そしてすぐ近くにある「藤美学園」の方向から不穏な黒煙が立ち上るのが見えた。遠くから聞こえるパトカーのサイレンの音は、数が多すぎて不協和音のように街を包み込んでいく。

「なんだ……?」

銀が異変を察知し、工場のシャッターへ歩み寄ろうとした、その時だった。

背後の事務所のドアが、バキィン! と不自然な音を立てて跳ね開いた。

現れたのは、先ほど奥へ引っ込んだはずの社長だった。

だが、その姿は明らかに異常だった。

肌は生気を完全に失って不気味な土気色に変色し、首筋や腕の血管が黒く浮き出ている。何より、その両目は完全に白濁し、焦点がどこにも合っていない。口元はだらしなく開き、血の混じった黒っぽい唾液が床へと滴り落ちていた。

「社長……?」

銀が怪訝に眉をひそめ、声をかけた瞬間、社長だったモノは、人間のものとは思えない濁った咆哮を上げた。

「ガァァァァッ!!」

猛然と掴みかかってくる社長。その動きには、生前の彼からは想像もつかないほどの野蛮な、生物としてのリミッターを解除したような力が込められていた。

銀は直感的に身を翻し、リフトの支柱の影へと飛び込む。社長の鋭い爪が、銀のツナギの肩口をかすめ、ガレージの鉄柱をガリガリと不快な金属音を立てて引っ掻いた。社長の指先からは爪が剥がれ、血が流れているが、本人は痛みを全く感じていない様子だった。

「おい、冗談だろ……!」

銀の脳裏に、さっきテレビの画面越しに見た「人を喰らう暴漢」の映像がフラッシュバックする。

社長は完全に理性を失っている。これはもう、自分の知っている親方ではない。ただ生きた肉を求めて動く、変わり果てた「化け物」だ。

銀の目が冷徹に細まった。彼は恩人に対する無駄な感傷を完璧に、一瞬で切り捨て、生き残るための最適解を脳内で弾き出す。

泣き叫んで命乞いをしたところで、この怪物が話を聞くわけがない。

足元に転がっていた、全長50センチはある鋼鉄製の重いL型レンチ。

それを目にも留らぬ速さで拾い上げると、体の軸をブレさせることなく、遠心力を乗せて一気に振り抜いた。

強烈な金属音がガレージ内に木霊(こだま)する。

レンチの先端は、狂暴化した社長の側頭部を正確に捉えていた。

(第1話【後編】へ続く……)

 

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