「第一宝具――」
スターリンがそう言った瞬間、地下室の空気が変わった。
温度ではない。
明るさでもない。
意味が変わった。
床に、紙片のような影が広がった。
一枚。
二枚。
三枚。
報告書。
密告書。
尋問調書。
人事異動命令。
処刑命令。
紙は風もないのに舞い上がり、魔法陣の赤い光を受けて、血の色に見えた。
凛は思わず一歩下がった。
そこに魔力の奔流はない。
炎もない。
雷もない。
だが、嫌な圧があった。
剣を向けられた時の恐怖ではない。
名前を書かれた時の恐怖。
自分の知らないところで、自分の人生が別の言葉に置き換えられていく恐怖。
スターリンは、相変わらず穏やかな声で言った。
「赤き書記局/グレート・パージ」
その声は静かだった。
まるで、会議の議題を読み上げるように。
「対象の発言、沈黙、交友関係、行動、過去、習慣。それらをすべて疑義あるものとして再構成する」
「……再構成?」
「そうだ」
スターリンは小さく頷いた。
「人は、自分の行動に意味を与えているつもりでいる。しかし意味は、後から書き換えられる」
凛は黙った。
紙片が床の上を滑る。
その一枚に、知らない名前が書かれているのが見えた。
次の瞬間、その名前は黒く塗り潰された。
「たとえば、敵が夜に外出したとする」
スターリンは、やさしく説明するように言った。
「本人にとっては散歩かもしれない。買い物かもしれない。誰かに会いに行っただけかもしれない」
「でしょうね」
「だが、記録上は違う」
紙片が一枚、凛の足元に落ちた。
そこには、文字が浮かんでいた。
不審な夜間行動。
「待ちなさい」
「敵が友人と会話した」
別の紙片。
秘密連絡。
「沈黙した」
黙秘。
「否定した」
反抗的態度。
「肯定した」
自白。
「何もしていない」
潜伏。
凛は、ぞっとした。
「……それ、無敵じゃない」
「無敵ではない」
スターリンは首を振った。
その表情は、あくまで穏やかだった。
「ただ、無実でいる方法を奪う」
凛の背筋に冷たいものが走った。
その言い方が、あまりにも自然だった。
この男は、それを残酷なことだと思っていない。
いや。違う。
残酷だと知っている。
知ったうえで、使うものとして分類している。
「攻撃宝具っていうより、人格破壊じゃないの」
「戦闘の一形態だ」
「違うわよ」
「違わない」
スターリンは、凛を見た。
怒ってはいなかった。
むしろ、少し諭すような目だった。
「君は敵を倒すという言葉を、狭く考えている」
「狭くて結構よ」
「敵の肉体だけを倒しても、敵の意思が残れば戦いは続く。敵の意思だけを折っても、組織が残れば戦いは続く。敵の組織だけを壊しても、記憶が残れば復讐が生まれる」
「だから全部消すって?」
「必要なら」
その言葉は、重くなかった。
重くないからこそ、凛は息を呑んだ。
スターリンは、まるで暖炉の火加減を調整するように言った。
「敵が立つ場所を奪う。敵を信じる者を奪う。敵が自分を信じる根拠を奪う。そうすれば、剣を交える前に勝負は決まる」
凛は拳を握った。
「私はそんな勝ち方、認めない」
「今はそれでよい」
「今は?」
スターリンは少しだけ笑った。
柔らかい笑みだった。
「若い者は、まず拒むものだ」
凛はその笑みを見て、ぞっとした。
馬鹿にされたわけではない。
怒らせたわけでもない。
むしろ、受け入れられている。
拒絶する凛ごと、理解され、分類され、いずれ変わるものとして扱われている。
それが不快だった。
「勝手に人生経験豊富な父親みたいな顔しないでくれる?」
「父親ではない」
「でしょうね」
「だが、若い者が危険を軽く見るのはよく知っている」
「……最悪」
スターリンは何も言わなかった。
床の紙片が、すっと消えた。
地下室の空気が戻る。
しかし凛の中には、紙の擦れる音だけが残っていた。
「第二宝具」
スターリンが続けた。
今度は、地下室の壁に霜が走った。
燭台の炎が細くなる。
赤い魔法陣の光が、白く濁った。
凛の吐息が、薄い霧になった。
「冬将軍/ジェネラル・ウィンター」
寒い。
ただ寒いのではない。
身体の熱だけでなく、判断まで奪われるような寒さだった。
凛は肩を震わせた。
「……天候操作?」
「そう呼んでもよい」
スターリンは、少し考えるように言った。
「だが、正確ではない」
「じゃあ何よ」
「侵攻者に対する環境の敵対化だ」
「分かりにくい」
「分かりやすく言おう」
スターリンは優しく言った。
「踏み込んだ者の足を止める。進む者の糧食を腐らせる。退く者の道を白く消す。眠る者を凍えさせ、起きている者から判断を奪う」
地下室の奥に、雪原が見えた。
幻だ。
だが、あまりにも鮮明だった。
白い大地。
壊れた車両。
火の消えた野営地。
誰かの手袋。
倒れた馬。
凍った銃。
雪の上に残った足跡が、風で消えていく。
凛は唇を噛んだ。
「相手を凍らせる宝具じゃないのね」
「凍るのは結果だ」
「嫌な訂正ね」
「敵が自分の意思で進軍したなら、その末路もまた敵の選択だ」
「責任を相手に押しつけるな」
スターリンは凛を見た。
少しだけ、目を細めた。
「敵の責任をこちらが背負う必要はない」
「でも、あなたはその環境を作ってる」
「戦場とは、そういうものだ」
「違う」
「違わない」
スターリンは静かに言った。
「君も魔術師なら、工房を作るだろう」
凛は言葉に詰まった。
「結界を張り、罠を置き、侵入者に不利な条件を整える。敵がそこに踏み込んだなら、責任はどちらにある?」
「それとこれとは規模が違うでしょ」
「規模は違う。原理は同じだ」
凛は反論できなかった。
できなかったことが、腹立たしかった。
スターリンは、そこを責めなかった。
勝ち誇らなかった。
ただ、穏やかに凛の理解を待っていた。
それがまた、気味悪かった。
「冬は公平だ」
スターリンは言った。
「敵にも味方にも寒い」
「じゃあ味方も苦しむじゃない」
「当然だ」
「当然って……」
「戦争で苦しまない者はいない」
その声には、哀れみのようなものがあった。
本物かどうか、凛には分からなかった。
けれど、その哀れみは人を救うためのものではない。
苦しみを前提として、なお計算に入れる者の哀れみだった。
凛は小さく呟いた。
「あなた、本当に最悪ね」
「何度も言うな」
「何度でも言うわよ」
スターリンは、少しだけ口元を緩めた。
「元気があるのはよいことだ」
「褒めないで」
「では、記録しておこう」
「やめなさい」
霜が消えた。
地下室の温度が戻る。
だが凛の指先には、まだ冷たさが残っていた。
「第三宝具」
スターリンの声が、少しだけ低くなった。
今度は、紙も霜も現れなかった。
その代わり、地下室の奥が広がった。
ありえないことだった。
遠坂邸の地下室は、広いとはいえ限界がある。
壁がある。
天井がある。
床がある。
だが、今、凛の視界の奥で、その境界が揺らいだ。
赤い魔法陣の向こうに、別の世界が開き始めている。
遠くから音が聞こえた。
地鳴り。
砲声。
戦車の履帯。
軍靴。
号令。
悲鳴。
歌声。
それらが混ざり、巨大な波のように地下室へ押し寄せてくる。
凛は反射的に身構えた。
魔法陣の奥に、戦場が見えた。
焼けた街。
崩れた建物。
赤い旗。
雪と泥。
倒れた兵士。
それでも前へ進む兵士。
倒れても、倒れても、後ろからまた来る。
人間が一人ずつではなく、数として押し寄せてくる。
個人の武勇ではない。
英雄の一撃ではない。
国家そのものが、巨大な獣になって敵へ噛みついている。
スターリンは告げた。
「大祖国戦争/グレート・パトリオティック・ウォー」
地下室の空気が重くなった。
息をするだけで、鉄と血の匂いが肺に入ってくる気がした。
凛は目を見開いた。
「これ……」
魔術師としての直感が告げている。
これは単なる攻撃宝具ではない。
強化でもない。
軍勢召喚でもない。
もっと根本的に、世界の側が変わりかけている。
「固有結界……?」
凛の声が低くなった。
スターリンは静かに頷いた。
「その一種だ」
「一種って、軽く言わないでよ」
凛は思わず声を荒げた。
固有結界。
術者の心象風景を、現実世界に侵食させる大魔術。
魔術師であれば、その異常さは嫌というほど分かる。
ただの結界ではない。
世界に対する上書き。
個人の内面を、外界へ押し出すもの。
だが、目の前に開きかけているものは、凛の知る固有結界とは少し違っていた。
個人の内面というには、あまりにも広すぎる。
一人の男の心象風景としては、あまりにも多すぎる。
そこには、スターリンだけがいるのではない。
兵士がいる。
市民がいる。
工場がある。
鉄道がある。
凍った道がある。
焼けた都市がある。
死者がいる。
死者の名前がある。
奪われた土地がある。
怒りがある。
恐怖がある。
命令がある。
そして、それらすべてをまとめて前へ進ませる、巨大な戦争の論理がある。
スターリンは静かに言った。
「通常の固有結界が、術者個人の心象風景を展開するものなら、これは例外だ」
「例外?」
「展開されるのは、私一人の内面ではない」
戦場の幻の中で、砲火が光った。
赤い旗が揺れる。
スターリンは続けた。
「国家だ」
凛は言葉を失った。
「国家。冬。工場。鉄道。砲兵。兵士。市民。死者。焼けた都市。奪われた土地。反撃の正当性。そして、勝利のためなら犠牲を計算に入れる総力戦の論理」
スターリンの声は穏やかだった。
「それらすべてが、私という霊基を媒介にして戦場へ展開される」
「そんなの、個人の宝具じゃないでしょ」
「だからEXなのだろう」
「開き直らないで」
凛は奥歯を噛んだ。
彼女は理解していた。
これは強い。
あまりにも強い。
敵が一人だろうと関係ない。
戦場そのものが、敵を侵攻者として扱う。
敵の攻撃は、スターリン個人への攻撃ではなくなる。
それは祖国への侵攻として再定義される。
味方の損害は、単なる被害ではなくなる。
反攻の理由になる。
守るべき土地。
拠点。
協力者。
結界。
街。
人間関係。
それらすべてが、固有結界の中に取り込まれ、戦争資源として組み替えられていく。
「劣勢時に発動する総力戦宝具」
スターリンは説明を続けた。
「自陣営が受けた損害を、反撃の正当性と攻撃力に変換する」
「損害を、攻撃力に……?」
「そうだ」
スターリンは穏やかに答えた。
「奪われた土地は、取り返す理由になる。殺された者は、進軍する理由になる。焼かれた街は、敵を焼き返す理由になる」
凛の顔が強張った。
「それ、復讐じゃない」
「違う」
スターリンは静かに言った。
「国家だ」
その一言に、凛は返せなかった。
復讐なら、感情として否定できる。
憎しみなら、抑えるべきものとして扱える。
だが、国家。
共同体。
守るべき土地。
死んだ者の名。
生き残った者の恐怖。
次に攻め込まれないための反撃。
そういう言葉で語られた瞬間、単純な悪として切り捨てることが難しくなる。
だからこそ、凛は嫌悪した。
「ただし、この宝具には代償がある」
スターリンが言った。
凛は目を細めた。
「何?」
「発動すれば、君の戦争は君だけのものではなくなる」
「どういう意味よ」
「君が守ろうとしたものが、君のために戦い始める」
「……は?」
「屋敷。土地。結界。協力者。街。傷つけられた者。怯えた者。失われたもの。それらすべてが、反攻の理由になる」
凛は、そこで理解した。
この宝具は、味方を強くするのではない。
味方という範囲を広げる。
守るべきものを、戦争に組み込む。
無関係だったものが、無関係ではいられなくなる。
凛は低い声で言った。
「つまり、無関係な人間まで巻き込むってこと?」
スターリンは少しだけ目を伏せた。
その仕草だけは、悼むようにも見えた。
「侵攻された土地に、完全な無関係者はいない」
「ふざけないで」
凛の声が鋭くなった。
「私はそれを認めない」
「ならば使わなければよい」
スターリンは穏やかに言った。
「だが、覚えておきなさい」
「何を」
「敵が君の大切なものを傷つけた時、その傷は必ず理由になる」
凛は黙った。
スターリンの声は優しかった。
優しいからこそ、恐ろしかった。
「人は、守るために戦う。だが、傷つけられた後は、守るだけでは足りなくなる」
「……黙って」
「その時、君は私に命じるかもしれない」
スターリンは静かに微笑んだ。
「やりなさい、アーチャー、と」
凛は拳を握った。
「言わない」
「そう願おう」
スターリンは、本当にそう願っているような顔で言った。
だからこそ、凛はぞっとした。
この男は、凛を堕とそうとしているのではない。
待っている。
凛が自分の意思で、そこに辿り着くのを。
それが何より不気味だった。
地下室の奥に見えていた戦場が、ゆっくり薄れていく。
砲声が遠ざかる。
赤い旗が消える。
雪と泥と血の匂いが消えていく。
そして、遠坂邸の地下室が戻ってきた。
凛はしばらく黙っていた。
三つの宝具。
赤き書記局/グレート・パージ。
冬将軍/ジェネラル・ウィンター。
大祖国戦争/グレート・パトリオティック・ウォー。
全部がEX。
全部が規格外。
そして全部が、凛の倫理と相性が悪い。
いや、違う。
相性が悪いのではない。
相性が良すぎるのだ。
凛が勝つために必要なものを、この男はすべて持っている。
ただし、凛が守りたい勝ち方を壊す形で。
凛は深く息を吐いた。
「確認するわ」
「どうぞ」
「赤き書記局は、敵を社会的に殺す宝具」
「概ね正しい」
「冬将軍は、戦場そのものを敵対環境に変える宝具」
「正しい」
「大祖国戦争は、固有結界の一種。戦場を祖国防衛戦争として再定義して、受けた損害を反攻の攻撃力に変える宝具」
「正しい」
「全部EX」
「分類上は」
「分類上は、じゃないわよ」
凛は頭を抱えた。
「筋力E、敏捷E、宝具全部EXって何なの。ステータス画面が壊れてるじゃない」
「私は走らない」
「でしょうね」
「殴らない」
「でしょうね」
「だが、人を動かす」
スターリンは静かに言った。
「走る者を走らせ、殴る者に殴らせ、撃つ者に撃たせ、書く者に書かせる。それができるなら、私自身が剣を振る必要はない」
凛は、嫌そうに顔を歪めた。
「あなた、本当にアーチャー?」
「弓兵とは、遠くの敵を殺す者だ」
スターリンは凛を見た。
「私は、遠くの敵を殺してきた」
凛は返す言葉を失った。
弓を持たないアーチャー。
矢を放たない弓兵。
戦場に出る前に、敵の名前と住所と家族構成を調べるサーヴァント。
冗談みたいだった。
だが、笑えなかった。
強い。
間違いなく強い。
そして、勝ち方が最悪だった。
凛は腕を組んだ。
「いい? アーチャー」
「何だ」
「私は聖杯戦争に勝つつもりよ」
「当然だ」
「でも、無関係な人間は巻き込まない。必要以上の犠牲も出さない。敵だからって、家族や友人まで狙うことは許さない」
スターリンは黙って聞いていた。
その態度だけ見れば、実に従順なサーヴァントだった。
凛は続けた。
「勝つために街ひとつ粛清するとか、学校を疑心暗鬼にするとか、敵の生活圏を丸ごと潰すとか、そういうことを言い出したら令呪で止める」
スターリンは、少しだけ目を細めた。
「甘いな」
「ええ、甘いわよ」
凛は睨み返した。
「でも私は、そういう甘さを切り捨てるために魔術師をやってるわけじゃない」
地下室に沈黙が落ちた。
スターリンは凛を見ていた。
その目は、敵を見る目ではなかった。
部下を見る目でもない。
少し違う。
理解しようとしている目だった。
あるいは、理解したうえで、まだ口に出さない目だった。
「遠坂凛」
初めて、スターリンは凛の名を呼んだ。
凛は少しだけ身構えた。
「何よ」
「君は、自分の倫理を持っている」
「当たり前でしょ」
「よいことだ」
スターリンは穏やかに言った。
「倫理を持たない者は、命令にも耐えられない」
凛は眉を寄せた。
「褒めてるの?」
「半分は」
「残り半分は警告?」
「覚えがよい」
「嬉しくない」
スターリンは、ほんの少し笑った。
それは、本当に人のよさそうな笑みだった。
だからこそ、凛は警戒を解けなかった。
「倫理は、平時には美徳だ」
「戦時には違うって?」
「戦時にも美徳だ」
意外な答えだった。
凛は少しだけ目を見開いた。
スターリンは続けた。
「だが、美徳は盾にはならない。敵の刃は、美徳を避けてくれない」
「だから捨てろって言うの?」
「いいや」
スターリンは首を振った。
「持っていなさい。君がそれを持つことを、私は止めない」
「……ずいぶん物分かりがいいのね」
「若い者から最初に奪うべきものではない」
凛の背筋に、また寒気が走った。
最初に。
その言葉が、あまりにも不穏だった。
「あなた、今すごく嫌なこと言ったわよ」
「そうかね」
「そうよ」
「では訂正しよう」
スターリンは穏やかに言った。
「最後まで持っていられるなら、それは本物だ」
凛は黙った。
その言葉は、凛を認めているようでいて、同時に試していた。
お前は最後まで耐えられるのか。
お前の倫理は、勝ち筋が消えても残るのか。
友人が危険に晒されても、街が燃えても、敵が先に手を汚しても、なお守れるのか。
そう問われた気がした。
凛は唇を結んだ。
「守るわよ」
「ならば、私は見る」
「見なくていい」
「見るのもサーヴァントの務めだ」
「絶対違う」
その時だった。
地下室の上で、かすかな物音がした。
凛の表情が変わった。
さっきまでの会話の熱が、一瞬で消える。
魔術師の顔になる。
「……来た」
スターリンも顔を上げた。
「敵か」
「おそらくね」
凛は階上の気配を探った。
遠坂邸の結界に、何かが触れている。
荒っぽい。
だが、雑ではない。
こちらの様子を探るような侵入。
聖杯戦争は、すでに始まっている。
凛は小さく舌打ちした。
「召喚直後だっていうのに、面倒ね」
「敵の名は」
「まだ分からないわ」
「所属は」
「分からない」
「目的は」
「分からないって言ってるでしょ」
スターリンは少し考えた。
「では、まず調べる」
「待って。普通は迎撃するところでしょ?」
「名前を知らぬ敵は殺せない」
凛は一瞬、感心しかけた。
確かに、情報は重要だ。
敵を知らずに突っ込むのは愚かだ。
だが、スターリンは続けた。
「名前が分かれば、家族も分かる」
「やめなさい!」
凛の声が地下室に響いた。
スターリンは、困ったように凛を見た。
「まだ何もしていない」
「今、発想がもうアウトだったわよ!」
「敵の背景を調べるのは基本だ」
「背景と家族を同列にするな!」
「家族は背景の一部だ」
「言い方!」
凛は頭を抱えた。
だが、階上の気配は待ってくれない。
結界が揺れる。
侵入者は、こちらの出方を探っている。
凛は顔を上げた。
「いい? アーチャー」
「聞こう」
「今から迎撃する。ただし、遠坂邸の外に被害を出さない。無関係な人間を巻き込まない。相手の正体を確認するまでは、必要以上に追い詰めない」
「了解した」
「本当に?」
「命令は明確だ」
凛はスターリンを睨んだ。
「命令の隙間を勝手に解釈しない」
スターリンは少しだけ笑った。
「君はよい司令官になる」
「嬉しくない」
「褒めている」
「残り半分は?」
「期待だ」
凛は一瞬、嫌そうな顔をした。
それでも、すぐに表情を引き締める。
「行くわよ、アーチャー」
「よろしい」
スターリンは頷いた。
その仕草は、あまりにも落ち着いていた。
まるで初戦ではない。
まるで奇襲でもない。
まるで、予定されていた会議に向かうようだった。
凛は階段へ向かう。
その背後で、スターリンが静かに言った。
「凛」
足が止まった。
「何よ」
「敵が君の甘さを利用するなら」
スターリンは穏やかに言った。
「その時は、私を使いなさい」
凛は振り返った。
スターリンは、温和な顔で立っていた。
優しい忠告のように。
父親めいた気遣いのように。
しかし、その言葉の奥にあるものは違った。
赤い書類。
凍った退路。
犠牲を燃料にして進む戦線。
凛は、その全部を理解したうえで言った。
「使わないで済ませるわ」
スターリンは微笑んだ。
「そう願おう」
その言葉に、凛は何も返さなかった。
召喚は成功した。
聖杯戦争は始まった。
遠坂凛は、この瞬間、はっきり理解していた。
自分が呼び出したサーヴァントは、強い。
あまりにも強い。
そして何より恐ろしいのは、彼が凛を裏切る気など少しもないことだった。
彼は凛を守るだろう。
命令にも従うだろう。
方針も聞くだろう。
そのうえで、凛がいつか自分から命じる日を、穏やかに待つ。
「やりなさい、アーチャー」
その一言を。
凛は階段を上がりながら、奥歯を噛みしめた。
そんな日は来ない。
来させない。
たとえ、このサーヴァントがどれほど強くても。
たとえ、この戦争がどれほど汚くても。
自分は遠坂凛だ。
勝つ。
けれど、勝ち方までは渡さない。
背後で、軍靴の音が静かに続いた。
温和な書記長は、赤い魔法陣を背にして、ゆっくりと戦場へ歩き出した。
その足音は軽かった。
だが凛には、まるで巨大な国家が地下室から立ち上がったように聞こえた。