階段を上がる途中で、凛は一度だけ振り返った。
スターリンは、少し後ろを歩いていた。
急がない。
焦らない。
まるで遠坂邸の構造を観察しているように、壁、天井、床、照明、廊下の幅を順に見ている。
「……何してるのよ」
「退路を確認している」
「まだ戦ってもいないのに?」
「戦う前に確認するものだ」
「妙に正論なのが腹立つわね」
凛は前を向いた。
遠坂邸の結界が、微かに震えている。
侵入者は一人。
いや、正確には一騎。
サーヴァントだ。
生身の魔術師とは気配の圧が違う。
外から屋敷の防衛線を探り、わざと浅く触れている。
挑発。
もしくは偵察。
凛は舌打ちした。
「召喚した直後に敵サーヴァントとか、運が悪すぎるわ」
「幸運はEXと出ていた」
「あなたの幸運でしょ。私の幸運じゃないわよ」
「マスターとサーヴァントは運命共同体だ」
「嫌な共同体を作らないで」
階段を上がりきる。
廊下の奥。
窓の外で、月が白く光っていた。
遠坂邸の庭に、誰かが立っている。
青い影だった。
槍を持っている。
細身の体。
しなやかな構え。
こちらを見て、笑っている。
凛は窓越しにその姿を確認し、低く呟いた。
「ランサー……」
スターリンも窓の外を見た。
「槍兵か」
「見れば分かるでしょ」
「見えるものだけで判断すると死ぬ」
「一言多い」
ランサーは庭の中央に立ったまま、槍を肩に担いでいた。
余裕がある。
侵入してきたくせに、すぐには攻めてこない。
こちらの出方を見ている。
サーヴァント戦に慣れている。
凛は拳を握った。
「アーチャー、迎撃するわよ」
「了解した」
「ただし、宝具は禁止」
スターリンは凛を見た。
「三つともか」
「三つともよ」
「ならば、通常戦闘で対応する」
「できるの?」
「できる範囲で」
「不安になる答えね」
スターリンは淡々としていた。
凛は窓を開け、庭へ飛び出す準備をした。
その瞬間、スターリンが静かに言った。
「待ちなさい」
「何よ」
「敵はなぜ攻めてこない」
凛は動きを止めた。
「こちらを見ているんでしょ」
「何を見ている」
「私と、あなた」
「正確には、私の力量を測っている」
スターリンは窓の外を見たまま言った。
「召喚直後のサーヴァント。マスターは若い。屋敷の結界は整っているが、まだ戦闘態勢には移行していない。敵にとっては好機だ」
「分かってるわよ」
「ならば、なぜ攻めない」
凛は眉を寄せた。
言われてみればそうだった。
ランサーは挑発している。
しかし、攻め込んではこない。
凛の焦りを誘っているのか。
あるいは。
「……こっちに先に動かせたい?」
「そうだ」
スターリンは頷いた。
「庭に出れば、君は屋敷の防衛線を一部捨てる。敵は槍兵だ。屋内より屋外の方が戦いやすい」
「つまり、誘い出し」
「基本だ」
「だからって、屋敷の中で待つわけにもいかないでしょ」
「待つ必要はない。だが、出方は選べる」
スターリンは凛の横を通り、廊下の窓辺に立った。
その仕草に武人らしさはない。
弓を構える気配もない。
剣を抜く気配もない。
ただ、窓の外を見ている。
まるで地図を見ているように。
「庭の左手に木立がある」
「あるわね」
「敵の視線はそこを避けている」
凛は目を細めた。
「……何かある?」
「あるいは、何かを警戒している」
「うちの結界の節点よ。あそこを壊されると、庭側の防御が弱くなる」
「敵はそれを知っている可能性がある」
「なんで分かるのよ」
「見ていない場所ほど、意識している場所だ」
凛は一瞬、黙った。
癪だが、納得できた。
ランサーは余裕ぶっている。
しかし、木立の一角だけ、視線の動きが不自然に薄い。
知らない場所なら見る。
気になる場所なら見る。
だが、見てはいけないと分かっている場所は、逆に見ない。
「……あなた、戦闘より観察の方が得意なのね」
「戦闘とは観察だ」
「はいはい」
凛は手に宝石を握った。
「じゃあ、私が結界を維持する。あなたは牽制」
「牽制の定義は」
「殺さない。追い詰めすぎない。屋敷の外に被害を出さない。敵の正体を探る」
「了解した」
「本当に分かってる?」
「殺さず、追い詰めすぎず、屋敷の外に被害を出さず、敵の正体を探る」
「復唱されると逆に怖いわ」
スターリンは少しだけ笑った。
「命令は正確な方がよい」
凛は窓枠に足をかけた。
「行くわよ」
「私はここからでいい」
「は?」
凛は振り返った。
「ここからって、庭に出ないの?」
「弓兵だ」
「弓ないじゃない」
「距離はある」
「屁理屈!」
凛が叫んだ瞬間、庭のランサーが動いた。
青い影が跳ねる。
速い。
夜気を切り裂き、槍の穂先が窓へ向かって一直線に伸びてくる。
凛は反射的に宝石を投げようとした。
その前に、スターリンが片手を上げた。
何かを投げた。
小さな金属片だった。
弾丸ではない。
短剣でもない。
赤い星の刻印が入った、小さな徽章。
それが槍の軌道に触れた瞬間、音が変わった。
金属音ではない。
紙を破るような音。
ランサーの槍が、わずかに逸れた。
窓枠をかすめ、壁に突き刺さる。
凛の頬に風が走った。
「ちょっと、今の何!?」
「勲章だ」
「勲章を投げたの!?」
「象徴は武器になる」
「そういうことじゃない!」
ランサーが庭で笑った。
「へえ。妙なアーチャーだな」
声が届く。
余裕のある声。
だが、目は笑っていなかった。
彼もまた、今の一撃で理解したのだ。
目の前の相手は、普通の弓兵ではない。
スターリンは窓辺に立ったまま、ランサーを見下ろした。
「名乗るかね」
「そっちから名乗ったらどうだ」
「私はアーチャーだ」
「クラス名じゃねえか」
「戦時に本名を名乗る者は少ない」
ランサーは口元を歪めた。
「気が合わねえな、おっさん」
「それはよいことだ。敵と気が合う必要はない」
凛は小声で言った。
「挑発しないで」
「していない」
「今のはしてるのよ」
スターリンは困ったように眉を動かした。
その温和な顔が、余計に腹立たしい。
ランサーが槍を引いた。
次の瞬間、庭の地面が砕ける。
ランサーの姿が消えた。
いや、消えたのではない。
速すぎる。
凛の目が追いつく前に、青い影は屋敷の壁を蹴り、窓へ迫った。
スターリンは動かなかった。
「アーチャー!」
凛が叫ぶ。
その瞬間、スターリンの背後に、薄い影が立ち上がった。
銃兵。
いや、違う。
明確な人間ではない。
軍服を着た影。
顔のない兵士。
その影が、古びた小銃を構えた。
一発。
乾いた銃声。
ランサーの槍が弾かれる。
二発。
三発。
青い影の動きが、わずかに乱れる。
弾丸が当たっているわけではない。
牽制。
いや、進路の制限。
ランサーが避ける方向を、銃弾が先に塞いでいる。
凛は目を見開いた。
「あなた、兵士を出せるの?」
「影だ」
「影?」
「私のものではない。国家の記憶に近い」
「説明がいちいち不穏なのよ!」
ランサーは空中で体勢を変え、庭に着地した。
「なるほどな。弓兵ってより、指揮官か」
「近い」
スターリンは穏やかに答えた。
「君はよい兵だ」
ランサーの目が細くなった。
「褒めてんのか?」
「半分は」
凛は思わず口を挟んだ。
「残り半分は警告でしょ」
スターリンは少しだけ満足そうに頷いた。
「覚えがよい」
「嬉しくない!」
ランサーは笑った。
「妙な主従だな」
「否定できないのが腹立つわね」
凛は宝石を構えた。
ランサーは再び踏み込む姿勢を見せる。
だが、そこで一瞬だけ、動きが止まった。
彼の視線が庭の木立に向いた。
まずい。
結界の節点。
凛が反応するより早く、スターリンが言った。
「左だ」
顔のない兵士の影が、木立へ銃を向ける。
銃声。
ランサーは舌打ちして飛び退いた。
実際に撃ち抜いたわけではない。
だが、そこへ向かう動きを封じた。
スターリンは、淡々と告げた。
「君はそこを狙う」
ランサーは目を細めた。
「さあな」
「否定が遅い」
「面倒くせえな、おい」
「君は速い。だが、目的がある。目的がある者は読みやすい」
凛はスターリンを横目で見た。
戦闘能力そのものは高くない。
筋力も敏捷も低い。
だが、敵の目的、視線、動き、逃げ道を読む力が異常だった。
そして、その読みをもとに、最小限の手数で相手の行動を狭めていく。
直接倒さない。
だが、自由を奪う。
ランサーの速度を殺し、選択肢を減らし、誘導している。
凛は小さく息を呑んだ。
これが、宝具なしの通常戦闘。
つまり、この男にとって戦闘とは、殴り合いではない。
相手が選べる未来を減らすことなのだ。
ランサーは槍を回した。
「今日は様子見のつもりだったが、気が変わった」
「そうか」
スターリンは頷いた。
「撤退を勧める」
「は?」
「君は勝てない」
ランサーの空気が変わった。
凛もまた、思わずスターリンを見た。
「アーチャー、言い方」
「事実だ」
「まだ決着ついてないでしょ」
「敵の目的は結界の破壊と偵察。前者は阻止した。後者は一部成功している。これ以上の滞在は敵にとって利益が少ない」
スターリンはランサーを見た。
「撤退すれば、君は成果を持ち帰れる。踏み込めば、君のマスターは君を失う可能性を負う」
ランサーの顔から笑みが消えた。
その一言は、槍よりも鋭かった。
マスター。
ランサー本人ではなく、その背後にいる者。
凛は、そこでスターリンの狙いに気づいた。
彼はランサーを倒そうとしていない。
ランサーに、自分のマスターの利害を思い出させている。
ここで無理をすることが、マスターにとって損になると理解させようとしている。
戦闘ではなく、判断を攻撃している。
「……本当に嫌な戦い方するわね」
凛が呟いた。
スターリンは答えなかった。
ランサーはしばらく沈黙した後、槍を肩に担ぎ直した。
「覚えとくぜ、アーチャー」
「忘れてもよい。こちらは記録する」
「本当に気が合わねえ」
ランサーは笑い、屋根の上へ跳んだ。
青い影が夜の中へ消えていく。
気配が遠ざかる。
結界の揺れが収まった。
凛はしばらく庭を見ていた。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……追わないの?」
「命令は、必要以上に追い詰めない、だった」
「そこで真面目に守るのね」
「命令系統は重要だ」
「都合のいい時だけ優秀だわ」
スターリンは穏やかに微笑んだ。
「君の命令が明確だったからだ」
凛は窓枠から降りた。
庭に被害は少ない。
壁の一部に槍の跡。
窓枠の傷。
結界の節点は無事。
敵は撤退。
初戦としては、悪くない。
むしろ、かなり上手くいった。
だが、凛の表情は晴れなかった。
「……あなた、宝具を使わなくても厄介ね」
「宝具に頼る必要はなかった」
「そうね」
凛はスターリンを見た。
顔のない兵士の影は、もう消えていた。
廊下には、最初から何もなかったかのように静けさが戻っている。
ただ、紙のような冷たさだけが空気に残っていた。
「さっきの兵士の影。あれは何?」
「私の霊基に刻まれた戦争の残響だ」
「便利な説明ね」
「正確でもある」
「……あれ、何人出せるの?」
スターリンは少しだけ考えた。
「状況による」
「それ一番嫌な答え」
「魔力、地脈、戦場の意味、敵の侵攻度、君の命令によって変わる」
「戦場の意味?」
「ここが単なる屋敷なら少ない。祖国なら多い」
凛は一瞬、言葉を失った。
それから、低く言った。
「ここは遠坂邸よ」
「今はそうだ」
「今は、じゃない」
凛は睨んだ。
「ずっとそうよ」
スターリンは凛を見た。
その顔は穏やかだった。
だが、その穏やかさが、凛の神経を逆撫でした。
「君がそう定義し続けるなら、そうだ」
「定義の問題にしないで」
「戦争とは、定義の争いでもある」
「だから嫌なのよ、あなたは」
凛は窓を閉めた。
硝子に映る自分の顔が、少し強張っている。
初戦には勝った。
少なくとも、負けなかった。
敵を退かせた。
屋敷を守った。
無関係な人間も巻き込まなかった。
命令も守らせた。
なのに、胸の奥に残るものは勝利の感触ではなかった。
むしろ、予感だった。
この勝ち方は、まだ綺麗だった。
まだ自分の手の中にある。
まだ「遠坂凛の戦い」と言える。
だが、いつか状況が悪くなった時。
敵がもっと卑劣な手を使った時。
誰かが傷ついた時。
自分の命令の余白に、スターリンの論理が入り込む。
そして、きっとこの男は言うのだ。
「その傷は、理由になる」と。
凛は拳を握った。
「アーチャー」
「何だ」
「敵の調査はする」
「よい判断だ」
「ただし、家族に手を出さない。学校にも手を出さない。無関係な人間を脅さない。情報収集は、私の許可した範囲だけ」
「了解した」
「抜け道を探さない」
「命令は明確だ」
「……ならいいわ」
凛は少しだけ力を抜いた。
その瞬間、スターリンが穏やかに言った。
「では、敵のマスターが家族を利用していた場合は?」
凛の動きが止まった。
「何ですって?」
「君は家族に手を出すなと言った。では、敵の家族が敵の作戦の一部であった場合、あるいは敵が家族を盾にしていた場合はどうする」
「それは……」
言葉が詰まった。
スターリンは責めなかった。
ただ待っている。
凛が自分で答えを出すのを待っている。
その沈黙が、腹立たしく、そして恐ろしい。
「その時は、その時に判断する」
「了解した」
「勝手に判断しない」
「しない」
「本当でしょうね」
「凛」
スターリンは静かに言った。
「私は君を裏切らない」
凛は息を止めた。
それは、サーヴァントとしては理想的な言葉のはずだった。
しかし、凛には分かってしまった。
この男の危険は、裏切ることではない。
裏切らないことにある。
凛の勝利を本気で考える。
凛を守ることを本気で考える。
だからこそ、凛が見たくない現実を、穏やかに差し出してくる。
「……そう」
凛は短く答えた。
「なら、私の命令を守りなさい」
「もちろんだ」
スターリンは頷いた。
「君が命令する限り」
凛は眉をひそめた。
「何よ、その言い方」
「命令しないこともまた、命令になる」
「屁理屈」
「沈黙は判断だ」
凛は、赤き書記局の説明を思い出した。
沈黙は黙秘。
否定は反抗。
肯定は自白。
何もしていないことすら、潜伏になる。
スターリンの世界では、空白も意味を持つ。
何も命じないことも、許可として読まれかねない。
「……分かったわ」
凛は低く言った。
「あなたへの命令は、できるだけ明文化する」
スターリンは、満足そうに目を細めた。
「よい判断だ」
「褒められても嬉しくない」
「だが、必要な判断だ」
凛は疲れたように息を吐いた。
召喚初日。
初戦。
敵は撤退。
結果だけを見れば、悪くない。
いや、かなりいい。
だが、凛はすでに理解していた。
この聖杯戦争で本当に厄介なのは、敵だけではない。
自分のサーヴァントを、どう使わずに済ませるか。
それもまた、戦いになる。
その夜。
遠坂邸の地下室に戻った凛は、改めて霊基情報を書き出した。
記録しておく必要がある。
このサーヴァントの危険性を。
そして、自分がどこまで許すのかを。
紙に書くという行為が、少し嫌だった。
だが、書かないわけにはいかなかった。
なぜなら、相手は書類の怪物なのだから。
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