その夜、遠坂邸の居間には、妙な光景が広がっていた。
凛はテーブルに紅茶を置き、向かいのソファを見る。
そこには、召喚されたばかりのアーチャーが座っていた。
いや。
アーチャーというより、どう見ても書記長だった。
背筋を伸ばし、膝の上に手を置き、まるで会議の開始を待つように静かにしている。
凛はこめかみを押さえた。
「……で、今後の方針だけど」
「はい、同志凛」
凛の動きが止まった。
「やめて」
「何をかね」
「その呼び方」
スターリンは少しだけ首を傾げた。
「同志凛」
「二回言わない!」
凛はテーブルを叩いた。
「私は同志じゃない。遠坂凛。あるいはマスター。最低でも凛。同志はやめなさい」
「同志は敬称だ」
「あなたが言うと敬称じゃなくて所属確認なのよ!」
「所属は重要だ」
「だから嫌なの!」
スターリンは困ったように眉を動かした。
その表情だけ見れば、ただの穏やかな年長者だった。
もちろん、凛はもう騙されない。
この男の困った顔は、書類の余白くらい信用できない。
「では、凛」
「最初からそれでいいのよ」
「今後の方針だが」
スターリンは静かに言った。
「まず情報が必要だ」
「それは同意するわ」
凛は腕を組んだ。
「さっきのランサー。あれが誰のサーヴァントなのか。マスターは誰か。目的は何か。少なくとも、それは調べる必要がある」
「よい判断だ」
「褒めなくていい」
「では記録する」
「記録もしなくていい」
スターリンは小さく頷いた。
それから、テーブルの上に右手を置いた。
凛は反射的に身構えた。
「ちょっと。何する気?」
「赤き書記局を使う」
「待ちなさい」
凛の声が鋭くなった。
「宝具は禁止って言ったわよね」
「全面開放ではない」
「部分使用でも嫌な予感しかしないんだけど」
「情報収集だ」
「あなたの情報収集って、たぶん普通の意味じゃないのよ」
スターリンは穏やかに答えた。
「人は情報を持つ。組織は情報を隠す。街は情報を漏らす」
「詩みたいに言ってもダメ」
「では実務的に言おう」
スターリンの指先が、テーブルを軽く叩いた。
こん、と小さな音がした。
その瞬間、部屋の影が揺れた。
凛は息を呑む。
壁際。
廊下。
窓の隅。
家具の下。
そこにあった影が、ゆっくり人の形を取った。
軍服。
帽子。
無表情な輪郭。
顔のない男たち。
彼らは無言で立ち上がる。
生きている人間ではない。
使い魔でもない。
もっと嫌なものだった。
誰かを見張るためだけに生まれた影。
「……何、これ」
凛は、思わず後ずさった。
影は人間の形をしている。
だが、人間ではない。
そこにあるのは、戦うための気配ではなかった。
見張るための気配だった。
誰かの後ろに立ち、誰かの会話を聞き、誰かの沈黙を記録するためだけに存在する影。
凛は顔をしかめた。
「……これはKGB?」
スターリンは、そこで初めて少しだけ眉を動かした。
「違う」
「違うの?」
「内務人民委員部だ」
凛は一拍置いた。
「……なにそれ?」
「NKVD。私の時代の内務人民委員部だ」
「いや、略されても分からないわよ」
「国家の治安、警察、収容所管理、国家保安を担った組織だ。時期によって権限は変わるが、粛清の実務を担った機関と考えればよい」
凛は影の男たちを見た。
顔のない監視者たちは、声もなく立っている。
「つまり……KGBみたいなもの?」
「KGBは後の組織だ。国家保安委員会。私の死後に成立した名称になる」
「そこ、そんなに大事?」
「正確であることは大事だ」
「恐怖の時代考証をしないで」
スターリンは穏やかに続けた。
「君の理解としては、KGBの前身に連なる組織、と考えればよい。ただし、私の宝具として現れるなら、NKVDの方が正しい」
凛は額に手を当てた。
「正しいのが嫌なのよ……」
「不正確な恐怖は、扱いを誤る」
「正確な恐怖を出してくるな!」
影のNKVDたちは、音もなく頭を垂れた。
まるで命令を待っているようだった。
凛はその光景を見て、背筋に冷たいものを感じた。
これは兵隊ではない。
戦場で敵と撃ち合うための影ではない。
街に染み込み、噂を拾い、足跡を追い、誰が誰と会ったかを記録するものだ。
「……町中にそんなの放つ気?」
「必要な範囲に限る」
「あなたの必要な範囲が信用できないのよ」
「命令に従う」
スターリンは穏やかに言った。
「対象はランサーとそのマスターに限定する。一般人への干渉は禁止。脅迫、拘束、処理は禁止。観察と報告のみ」
凛は目を細めた。
「……今、私が言おうとした条件を先に言ったわね」
「君の方針は把握している」
「それがもう怖いのよ」
影のNKVDたちは、音もなく部屋の隅へ沈んでいった。
一人、また一人。
影に戻り、床を這うように消えていく。
やがて遠坂邸の外へ。
塀を越え、街路へ。
夜の冬木市に、顔のない監視者たちが散っていく。
凛は窓の外を見た。
いつもの町だった。
夜の住宅街。
街灯。
遠くの車の音。
どこかの家の灯り。
しかし、その下を、赤き書記局の影が歩いている。
凛は小さく呟いた。
「……最悪」
「情報は、血を流さずに得られるなら、その方がよい」
「その言い方だと、流す選択肢も普通にあるみたいに聞こえるわよ」
「ある」
「即答するな!」
スターリンは紅茶には手をつけなかった。
ただ、テーブルの上に置かれた白紙を見ている。
やがて、影が戻ってきた。
一体。
また一体。
彼らは音もなく膝をつき、紙を差し出す。
報告書。
目撃情報。
移動経路。
魔力残滓。
槍による破壊痕。
結界への接触点。
どこから出したのか分からない。
だが、紙は確かにそこにあった。
スターリンはそれらを受け取り、読み、分類し、重ねていく。
左へ。
右へ。
保留。
要確認。
優先。
その手つきに迷いはなかった。
人間の行動を、書類として処理することに慣れすぎている手だった。
凛は、その手元を見つめた。
戦闘の後始末ではない。
作戦会議でもない。
処理。
ただ、その言葉がいちばん近かった。
「ランサーの移動経路は三つ」
スターリンは言った。
「接近は北東。撤退は南西。ただし途中で一度、霊体化している。痕跡を消すためだろう」
「追える?」
「ある程度は」
「マスターは?」
「まだ不明。ただし、ランサーの行動には制約がある」
スターリンは書類を一枚、凛の方へ滑らせた。
「偵察目的で来たにもかかわらず、こちらの結界節点を狙った。つまり、事前に遠坂邸の防衛構造について何らかの情報を得ている」
凛の顔が険しくなった。
「内部情報?」
「あるいは、魔術師としての観察力が高いマスターがいる」
「……厄介ね」
「次に、ランサーは撤退判断が早い。単独の武勇に酔うタイプではない。マスターの命令を重視している」
「つまり、主従関係は悪くない」
「そうだ」
スターリンは別の紙に赤い線を引いた。
「だが、完全な信頼ではない」
凛は眉をひそめた。
「そこまで分かるの?」
「撤退時、ランサーは一度だけこちらを振り返った。私ではなく、君を見た」
「私?」
「マスターの力量を測っていた。サーヴァントだけではなく、マスターも報告対象にしている」
「普通じゃない」
「普通だ。だから重要だ」
スターリンは静かに続けた。
「ランサーは兵として優秀だ。命令を理解し、目的を忘れず、撤退もできる。だが、優秀な兵ほど、指揮官の性格に縛られる」
凛は黙った。
スターリンは最後の書類を手に取った。
「まずはランサーを裸にする」
凛の眉が跳ねた。
「言い方!」
「情報的にだ」
「分かってるわよ! でも言い方!」
「武器、移動経路、判断基準、主従関係、魔力供給源、撤退先、行動目的。それらを剥がしていく」
スターリンは穏やかに言った。
「鎧を脱がせ、盾を奪い、旗を下ろし、最後に名を確認する」
凛は腕を組んだ。
「……名前が分かったら?」
「戦い方が分かる」
「家族は調べない」
「命令は承知している」
「学校も巻き込まない」
「承知している」
「無関係な人間を疑心暗鬼にしない」
「承知している」
凛はじっとスターリンを見た。
「本当に?」
スターリンは、穏やかに頷いた。
「凛の命令だ」
「今、同志って言いかけなかった?」
「控えた」
「控えたことを褒めるべきなのか悩むわ」
スターリンは小さく笑った。
その笑みだけなら、老いた紳士のものだった。
だが、テーブルの上には報告書が積まれている。
赤い線が引かれている。
分類が進んでいる。
ランサーはまだ、自分が戦場で敗れたとは思っていないだろう。
槍を交えたのは一瞬。
撤退も成功した。
情報も持ち帰れた。
だが、凛には分かってしまった。
スターリンにとって、戦闘は終わっていない。
むしろ、ここから始まる。
敵の名を知らない間は、まだ敵は生きている。
名が分かる。
道が分かる。
癖が分かる。
守るものが分かる。
その時、敵は初めて裸になる。
少しだけ続きます