凛は、積まれた書類を見つめた。
白い紙。
黒い文字。
赤い線。
それだけで、戦場が別のものに変わっていく。
槍と宝石で戦っていたはずの夜が、いつの間にか書類の上へ移されていた。
凛は、低く息を吐いた。
「……アーチャー」
「何だ」
「絶対に、私の許可なしに次の段階へ進まないで」
「もちろんだ」
その答えは早かった。
早すぎた。
凛は目を細める。
「これは命令よ」
「了解した」
スターリンは静かに言った。
「では、命令の範囲を確認しよう」
「確認?」
「君は、赤き書記局の限定使用を許可した。対象はランサーとそのマスター。目的は情報収集。禁止事項は一般人への干渉、脅迫、拘束、処理」
「そうよ」
「では、次の段階はどうする」
凛は黙った。
「次の段階?」
「敵がこちらより先に、無関係な人間を利用した場合だ」
居間の空気が、少し冷えた。
スターリンは穏やかな声のまま続けた。
「敵が学校を使う。街を使う。君の友人を使う。人質を取る。結界の外側で戦闘を起こす。あるいは、君の甘さを前提に作戦を立てる」
「……やめて」
「戦争では、起こりうることを先に考える」
「それは分かってる」
「ならば問おう」
スターリンは、凛を見た。
その目は静かだった。
責めてはいない。
脅してもいない。
ただ、凛自身の中から答えを取り出そうとしていた。
「君は勝つつもりか」
「当然でしょ」
「では、勝つために必要な宝具を、最後まで封じるのか」
凛は言葉に詰まった。
「それは……」
「赤き書記局は敵を裸にする。冬将軍は敵の侵攻を止める。大祖国戦争は、侵されたものを反攻の力に変える」
スターリンの声は低いが、優しかった。
「どれも危険だ。君が嫌悪する理由も分かる」
「なら」
「だが、危険だから使わない、では方針にならない」
凛は唇を噛んだ。
スターリンは続けた。
「危険なものを、いつ、どこまで、誰の責任で使うのか。それを決めるのが指揮官だ」
「……私に、それを決めろって言うの?」
「君がマスターだ」
凛は視線を落とした。
テーブルの上の報告書が目に入る。
ランサー。
未知のマスター。
聖杯戦争。
まだ始まったばかりだ。
しかし、もう分かっている。
この戦争は綺麗には進まない。
敵は、こちらの倫理に合わせてくれるわけではない。
自分が一線を引いたからといって、相手もそこに立ち止まるとは限らない。
そんなことは、凛にも分かっていた。
分かっていたからこそ、スターリンに言われるのが不快だった。
スターリンは、さらに静かに言った。
「私は君の命令なしに全面開放はしない」
「当然よ」
「だが、必要な時に君が命じられないなら、君は私を召喚した意味を失う」
凛は顔を上げた。
「あなたを召喚したのは事故よ」
「事故でも、契約は成立している」
「痛いところ突くわね」
「事実だ」
スターリンは、報告書の一枚に指を置いた。
「君は勝つためにサーヴァントを召喚した。ならば、勝つための手段について考えなければならない」
凛は黙った。
勝つための手段。
凛はもう一度、霊基情報を思い出した。
筋力E。
敏捷E。
耐久C。
魔力A。
幸運EX。
宝具EX。
冷静に考えれば、ひとつだけ明らかなことがある。
このアーチャーは、正面から戦えば弱い。
ランサーの速度には追いつけない。
セイバーの剣にも耐えきれない。
バーサーカーなど論外だ。
通常戦闘では、まともに殴り合う相手ではない。
それなのに、宝具はすべてEX。
矛盾している。
いや。
矛盾していない。
凛は奥歯を噛んだ。
このサーヴァントは、戦うための英霊ではない。
戦わせるための英霊だ。
敵を倒すのではない。
敵が倒れる状況を作る。
敵のマスターを調べる。
敵同士の関係を調べる。
敵の命令系統を調べる。
敵の焦りを調べる。
敵の誤解を調べる。
そして、その間にある小さな亀裂を広げる。
凛は低く言った。
「……正面から勝つんじゃない」
スターリンは、静かに凛を見た。
「続けなさい」
「赤き書記局で、敵の情報を剥がす。真名、マスター、拠点、目的、主従関係。それだけじゃない。敵陣営同士の利害対立を探す」
スターリンは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
凛は続ける。
「敵同士を直接操るんじゃない。そんなことをしたら、私が止める。でも、もともとある不信や誤解を見つけることはできる」
「よい」
スターリンは穏やかに言った。
「疑いは無から作るものではない。すでにあるものを見つけ、育てるものだ」
「その言い方、本当に最悪ね」
「正確だ」
「正確なのが嫌なのよ」
凛は報告書を一枚取った。
ランサーの撤退経路。
結界への接触点。
こちらを観察していた視線。
そのすべてが、ただの戦闘記録ではなく、相手の思考の痕跡に見えてくる。
「敵が攻めてきたら、冬将軍で止める」
「防衛線を作るのだな」
「ええ。ただし、街は巻き込まない。遠坂邸と工房の範囲だけ」
「敵がその外から攻撃した場合は?」
凛は一瞬黙った。
「その時は、範囲を私が決める。あなたが勝手に広げない」
「了解した」
スターリンは頷いた。
凛は最後の紙に視線を落とした。
大祖国戦争。
固有結界。
祖国防衛戦争。
損害を反攻の力に変える宝具。
凛は、それを見ただけで胃の奥が重くなった。
「そして、最悪の場合」
声が少しだけ低くなった。
「こちらに犠牲が出る。遠坂邸が破られる。私が守るべきものが傷つけられる。その時、大祖国戦争が発動条件に入る」
スターリンは静かに言った。
「使うのか」
「使わないで済ませる」
「それは願望だ」
凛はスターリンを睨んだ。
「分かってるわよ」
言葉が鋭くなる。
「でも、完全に使わないと決めるのは違う。あなたの言う通り、勝つために召喚したサーヴァントの宝具を、最初から全部捨てるのは指揮官として間違ってる」
スターリンは、ほんの少しだけ微笑んだ。
凛はその笑みを見て、苛立った。
「嬉しそうにしないで」
「君は考えている」
「考えさせられてるのよ。最悪の方向にね」
「考えない者よりよい」
凛は椅子に座り直した。
「勝ち筋は見えたわ」
スターリンは黙って続きを待つ。
「赤き書記局で敵を分断する。冬将軍で攻撃を止める。敵が消耗し、こちらも追い込まれた時、大祖国戦争で反攻する」
言葉にした瞬間、凛は自分が何を言ったのか理解した。
それは勝ち筋だった。
間違いなく、勝ち筋だった。
だが同時に、自分が一番嫌っていたものに近づく道でもあった。
スターリンは静かに言った。
「よい作戦だ」
「最悪の作戦よ」
「勝てる」
「だから最悪なのよ」
凛は報告書を伏せた。
「この作戦は、敵を殺す前に、敵同士を壊す」
「そうだ」
「敵が攻めてきたら、凍らせる」
「そうだ」
「それでも足りなければ、犠牲を理由に反攻する」
「そうだ」
凛は拳を握った。
「……あなたの勝ち方ね」
スターリンは首を振った。
「違う」
「何が違うのよ」
「君が選んだ」
凛は言葉を失った。
スターリンの声は、あくまで穏やかだった。
「私は提案した。君は制限を加え、条件を定め、作戦にした」
凛は、反論できなかった。
そこが一番嫌だった。
スターリンは凛を支配していない。
命令もしていない。
ただ、勝つための論理を差し出した。
そして凛は、それを考えた。
考えてしまった。
凛は、小さく息を吐いた。
「……まだ使うとは決めてない」
「もちろんだ」
「これは方針よ。命令じゃない」
「記録しておこう」
「しなくていい」
「では、記憶しておく」
「もっと嫌だわ」
スターリンは少しだけ笑った。
その笑みは温和だった。
温和だからこそ、凛はぞっとした。
この男は、凛が選ぶのを待っている。
否定するのではない。
急かすのでもない。
ただ、戦争が凛の倫理を削っていくのを、静かに見ている。
そして凛がいつか言うのを待っている。
やりなさい、アーチャー。
その言葉を。
凛は立ち上がり、窓の外を見た。
冬木市の夜は静かだった。
街灯の下には誰もいない。
風が木々を揺らしている。
何も変わっていないように見える。
けれど、凛にはもう分かっていた。
戦争は始まっている。
そして今夜から、この戦争には書類が増える。
報告。
分類。
分析。
処理。
赤き書記局は、まだ部分開放にすぎない。
それでも、戦場の質は変わり始めていた。
凛は窓に映る自分の顔を見た。
少しだけ、険しい顔をしていた。
「勝つわよ」
凛は小さく言った。
スターリンは、背後で静かに答えた。
「当然だ」
凛は振り返らなかった。
「でも、勝ち方は私が決める」
「そのために、条件を定めた」
「そうよ」
凛は拳を握った。
「私が決める。あなたじゃない」
スターリンは少しだけ間を置いた。
それから、穏やかに言った。
「ならば、決め続けなさい。最後まで」
その言葉に、凛は何も返さなかった。
返せなかった。
最後まで。
その言葉が、ひどく重かった。
遠坂邸の居間には、紅茶の香りと、紙の匂いが残っていた。
夜の街では、顔のない影たちが、まだ槍兵の足跡を追っている。
聖杯戦争は、剣戟だけでは進まない。
少なくとも、遠坂凛が召喚してしまったアーチャーにとっては。
戦いは、まず名前を知るところから始まる。
そして名前を知った時、敵は少しだけ、自由を失う。