遠坂凛は、自分の命令を思い返していた。
対象はランサーとそのマスターに限定する。
一般人への干渉は禁止。
脅迫、拘束、処理は禁止。
観察と報告のみ。
そこまでは明確だった。
明確にしたつもりだった。
だが、凛はテーブルの上に積まれ始めた報告書を見て、こめかみを押さえた。
「……ちょっと待ちなさい」
「何かね」
スターリンは、いつものように穏やかだった。
居間のテーブルの上には、白い紙が何枚も重ねられている。
その一枚一枚に、冬木市の地名、時刻、魔力反応、移動痕跡、目撃された影、結界の揺れ、霊体化の残滓が整理されていた。
整理されすぎていた。
凛は、紙束を指で叩いた。
「これ、明らかに情報量が多すぎるんだけど」
「観察と報告のみだ」
「それは聞いたわよ。そうじゃなくて、観察範囲」
「冬木市全域だ」
「さらっと言うな!」
凛は立ち上がった。
「私は、ランサーとそのマスターに限定って言ったのよ」
「対象は限定している」
スターリンは静かに答えた。
「報告対象はランサーとそのマスター、およびそれに関連する痕跡に限定している」
「でも、冬木市全域に影を放ってるんでしょうが!」
「索敵範囲は限定されていない」
凛は言葉に詰まった。
詰まってしまった。
確かに、言っていない。
対象は限定した。
行為も限定した。
一般人への干渉は禁止した。
脅迫も拘束も処理も禁止した。
観察と報告のみにした。
だが、どこまで観察していいかは指定していなかった。
凛は奥歯を噛んだ。
「……あなた、絶対分かっててやったわね」
「命令は遵守している」
「そこが一番腹立つのよ」
「命令文は正確であるべきだ」
「魔術師に契約文の怖さを教えるな!」
スターリンは少しだけ目元を緩めた。
笑っているようにも見えた。
凛は余計に腹が立った。
「冬木市全域って……。一般人は?」
「干渉していない」
「接触は?」
「していない」
「脅迫は?」
「していない」
「拘束は?」
「していない」
凛は一瞬ためらった。
その先の言葉を、自分の口で言いたくなかった。
けれど、確認しないわけにもいかなかった。
「……処理は?」
「していない」
返答は平坦だった。
あまりにも平坦だった。
凛は、自分でその言葉を使ったことに、少しだけ嫌悪を覚えた。
「……今の、私が聞くことじゃなかったわね」
「確認は必要だ」
「そういう意味じゃない」
スターリンは静かに頷いた。
「影の内務人民委員部は、観察と報告のみを行っている」
「だからその名前が嫌なのよ」
「正確だ」
「正確な恐怖シリーズやめなさい」
凛は椅子に座り直した。
怒鳴っても意味がない。
この男は、凛の命令を破ってはいない。
破っていないまま、最大限に使っている。
そして、それが有効であることも分かってしまう。
冬木市全域を観察範囲に入れれば、ランサーの痕跡だけでなく、他の魔力反応も拾える。
誰がどこで動いたか。
どこに結界があるか。
どこに異常な霊脈の揺れがあるか。
誰が戦闘に巻き込まれたか。
それらが、次々に紙の上へ置かれていく。
凛は報告書を一枚取った。
「……これは?」
「深夜、衛宮邸周辺で大きな魔力反応」
凛の指が止まった。
「衛宮?」
「衛宮士郎。穂群原学園二年。君と同じ学校の生徒と思われる」
「そこまで調べたの?」
「学校名簿は見ていない。影が拾った会話と表札、通学経路、周辺証言からの推定だ」
「それも十分怖いわよ」
スターリンは気にせず続けた。
「衛宮邸では、サーヴァント召喚に類する反応が確認された」
凛は目を見開いた。
「召喚?」
「そうだ」
「まさか……」
「クラスはセイバーと思われる」
居間の空気が変わった。
凛は報告書を握ったまま固まった。
セイバー。
最優のクラス。
聖杯戦争において、最も正統な勝ち筋を持つサーヴァント。
よりによって、それを衛宮士郎が。
いや、そもそも衛宮士郎がマスター?
凛は眉をひそめた。
「待って。衛宮くんが? 魔術師として?」
「不明だ」
スターリンは即答した。
凛は少し意外そうに顔を上げた。
「断定しないのね」
「情報が足りない」
「そこは慎重なのね」
「慎重ではない。正確であるべきだ」
スターリンは報告書に視線を落とした。
「ただし、召喚の状況は不安定だ。事前に整えられた儀式というより、襲撃への反応として発生した可能性が高い」
「つまり、ランサーに襲われて、偶然セイバーを召喚した?」
「可能性としては高い」
凛は頭を抱えた。
「何やってるのよ、あいつ……」
スターリンは別の報告書を差し出した。
「さらに、ランサーの痕跡が衛宮邸付近にもある」
凛は顔を上げた。
「ランサーが?」
「そうだ。学校から衛宮邸方面へ追跡、交戦の痕跡。セイバー召喚は、その直後と思われる」
凛は状況を組み立てる。
学校。
ランサー。
衛宮士郎。
追撃。
召喚。
セイバー。
「……つまり、衛宮くんはランサーに襲われて、そこでセイバーを召喚した」
「合理的な推測だ」
「最悪ね」
「彼にとっては幸運だった」
「そうだけど!」
凛は報告書をテーブルに置いた。
まだ頭が追いつかない。
衛宮士郎がマスターかもしれない。
しかもセイバーを召喚。
これは放置できない。
聖杯戦争に巻き込まれた可能性のある人間が、最優のサーヴァントを持っている。
危険すぎる。
本人にとっても、周囲にとっても。
スターリンは、別の紙に赤い線を引いた。
「ランサーについても、真名の可能性が高まった」
凛の表情が変わる。
「分かったの?」
「断定ではない。しかし候補は絞れた」
「誰?」
スターリンは紙を凛の前へ滑らせた。
そこには、いくつかの項目が並んでいた。
青い槍兵。
高速戦闘。
投擲にも対応可能な槍。
獣じみた反応速度。
撤退判断の速さ。
そして、ルーンの痕跡。
凛は最後の項目で目を細めた。
「ルーン?」
「ランサーが移動経路の一部に残した微細な魔術痕跡だ。完全には隠しきれていない」
「槍兵で、ルーンを使う……」
凛は呟いた。
頭の中で、神話の知識が繋がっていく。
ケルト。
槍。
青い装束。
ルーン。
そして、あの戦闘速度。
「まさか」
スターリンは静かに言った。
「クー・フーリン」
凛は黙った。
その名は重かった。
ケルト神話の大英雄。
ゲイ・ボルク。
もし本当にそうなら、ランサーはただの偵察役ではない。
正面戦闘では極めて危険な相手だ。
「……最悪」
凛は本日何度目か分からない言葉を吐いた。
スターリンは穏やかに頷いた。
「強敵だ」
「あなたが正面から戦ったら?」
「不利だ」
「即答ね」
「筋力も敏捷も劣る。槍の間合いに入れば、こちらが先に死ぬ」
「サーヴァントが自分でそれを言う?」
「事実だ」
凛は深く息を吐いた。
そう。
そこだ。
このアーチャーは強い。
だが、普通の意味では強くない。
クー・フーリンのような神話の戦闘者と真正面からぶつかれば、勝てない。
セイバーにも、おそらく勝てない。
バーサーカーなど論外だ。
なら、どう勝つのか。
凛は、テーブルの上に広がった報告書を見た。
冬木市全域。
ランサーの痕跡。
衛宮士郎。
セイバー。
未知のマスター。
敵同士の距離。
接触の順番。
それらが紙の上に並ぶ。
槍と剣と宝石の戦場が、線と名前と関係図に変わっていく。
「……そういうこと」
凛は低く呟いた。
スターリンは何も言わない。
凛の思考を待っている。
「正面から倒すんじゃない」
スターリンは静かに目を細めた。
「続けなさい」
「クー・フーリンは強い。セイバーも強い。私たちが正面から両方を相手にするのは無理」
「そうだ」
「でも、強いサーヴァント同士ならぶつけられる」
スターリンは答えなかった。
その沈黙が、肯定だった。
凛は報告書に目を落とす。
衛宮士郎。
セイバー。
ランサー。
クー・フーリン。
「赤き書記局で情報を集める。敵陣営同士の接点を探す。誤解、不信、利害対立、命令のズレ。それを利用して、敵戦力同士を削らせる」
「よい」
「よくないわよ」
凛は即座に返した。
「よくないけど、それしかない。あなたは直接殴って勝つサーヴァントじゃない」
「正しい認識だ」
「嬉しくない」
「だが必要な認識だ」
凛は椅子から立ち上がった。
「まず衛宮くんのところへ行く」
スターリンは凛を見た。
「連行するのかね」
「違う!」
凛は叫んだ。
「説明するの。聖杯戦争のことを。あいつ、たぶん何も分かってない」
「教会へ連れていくのだな」
「そう。監督役のところへ。最低限、ルールくらいは知ってもらわないと困る」
「セイバーを持つ未知のマスターか」
スターリンは静かに言った。
「危険だ」
「分かってる」
「味方にするのか」
「まだ決めてない」
「敵にするのか」
「それも決めてない」
「なら、何をする」
凛はコートを手に取った。
「会って、話す」
スターリンは少しだけ目を伏せた。
「話す」
「そうよ」
「交渉か」
「説得よ」
「違いは?」
「あなたに説明すると変な方向へ行きそうだから、今はしない」
スターリンは困ったように笑った。
「私は同行する」
「当たり前でしょ。置いていったら何するか分からないもの」
「信用がないな」
「あるわけないでしょ」
凛は玄関へ向かう。
スターリンも静かに立ち上がった。
その姿はやはり、戦士ではなかった。
剣を持たず、弓もなく、鎧もない。
だが、凛には分かっていた。
この男が歩くところ、戦場の形が変わる。
人が書類になり、行動が記録になり、関係が弱点になる。
そして今、冬木市はすでに彼の影に触れられている。
凛は玄関の扉に手をかけた。
「アーチャー」
「何だ」
「衛宮くんには手を出さない。脅さない。試さない。観察しすぎない」
「観察しすぎない、という命令は曖昧だ」
「じゃあ、私が許可した範囲で観察」
「了解した」
「あと、セイバーにも余計な挑発をしない」
「相手が先に剣を向けた場合は?」
「防御だけ」
「反撃は?」
「私が命じるまで禁止」
「了解した」
凛は一瞬考え、さらに付け加えた。
「衛宮邸の敷地内で赤き書記局の追加展開は禁止」
スターリンは少しだけ目を細めた。
「よい判断だ」
「褒めないで」
「命令が具体的になっている」
「あなたのせいでね」
スターリンは何も言わなかった。
ただ、少しだけ穏やかに笑った。
凛はその笑みを見て、また腹が立った。
扉を開ける。
夜の冷たい空気が流れ込んできた。
冬木市は静かだった。
だが、その静けさの下では、すでにいくつもの影が動いている。
ランサーの足跡を追う影。
衛宮邸の召喚痕を記録する影。
魔力の流れを拾う影。
凛は外へ出た。
行き先は決まっている。
衛宮士郎の家。
セイバーを召喚してしまった可能性のあるマスター。
そして、これから教会へ連れていかなければならない相手。
スターリンは、凛の少し後ろを歩く。
その足音は静かだった。
しかし凛には、またあの感覚があった。
一人のサーヴァントではない。
巨大な国家が、夜の冬木市を歩き始めたような感覚。
凛は前を向いたまま、低く呟いた。
「勝つわよ」
背後で、スターリンが答えた。
「当然だ」
「でも、誰を敵にするかは私が決める」
「ならば、早く決めることだ」
「急かさないで」
「迷いは時間を消費する」
「分かってる」
凛は歩き出した。
その先に、衛宮邸の灯りがある。
聖杯戦争は、まだ始まったばかりだった。
だが凛はもう理解していた。
この戦争で勝つには、敵を倒すだけでは足りない。
誰と組むか。
誰をぶつけるか。
誰を止めるか。
誰を最後まで残すか。
それを決めなければならない。
そして、その決定の隣には、いつもこの男がいる。
温和に笑いながら、最悪の選択肢を差し出してくるアーチャーが。
凛は奥歯を噛みしめた。
まだ渡さない。
勝ち方までは、渡さない。
そう思いながら、遠坂凛は衛宮邸へ向かった。