衛宮邸の灯りは、まだ消えていなかった。
夜は深い。
普通の家なら、もう眠っていてもおかしくない時間だ。
だが、門の向こうには、人の気配がある。
それも一人ではない。
凛は門前で足を止めた。
「……いるわね」
「二人だ」
背後でスターリンが静かに言った。
「一人は少年。もう一人はサーヴァント」
「分かってる」
「サーヴァントの気配は鋭い。こちらに気づいている可能性が高い」
「だから余計なことしないで」
「命令は覚えている」
スターリンは穏やかに答えた。
「衛宮士郎には手を出さない。脅さない。試さない。観察は君が許可した範囲。衛宮邸の敷地内で赤き書記局の追加展開は禁止」
「復唱しなくていい」
「命令は復唱した方がよい」
「本当に軍隊ね、あなた」
「国家は命令で動く」
「人んちの前で国家を語らない」
凛はため息をつき、門を開けた。
庭を歩く。
衛宮邸は、遠坂邸とは違う。
広いが、魔術師の屋敷という感じではない。
生活の気配が濃い。
人が住んでいる家。
食事を作り、掃除をして、朝になれば学校へ行く。
そういう当たり前の匂いがある。
凛は、少しだけ眉を寄せた。
ここにセイバーがいる。
ここにマスターがいる。
それだけで、この家はもう普通の家ではいられない。
その事実が、ひどく不愉快だった。
玄関先まで来ると、中から足音がした。
警戒した足音。
けれど、戦い慣れた者の足音ではない。
凛は軽く息を整えた。
扉が開いた。
現れたのは、衛宮士郎だった。
赤茶色の髪。
驚いたような顔。
まだ状況を飲み込めていない少年の顔。
「遠坂?」
「こんばんは、衛宮くん」
凛はできるだけ平静に言った。
「こんな時間に悪いけど、少し話があるわ」
士郎は一瞬、凛を見た。
それから、その後ろへ視線を移した。
凛は、その動きで嫌な予感がした。
士郎の目が、スターリンで止まった。
一拍。
二拍。
そして、士郎の顔が引きつった。
「……え」
「何よ」
「いや、その……」
士郎は、凛の後ろに立つ小柄な軍服の男を指さした。
「スターリンじゃないか」
凛は目を閉じた。
本日何度目か分からない頭痛が来た。
「顔が有名すぎるのも困ったものね」
「困ったもの、で済むのかそれ!?」
士郎は声を上げた。
「なんで遠坂の後ろにスターリンがいるんだよ!」
「私だって聞きたいわよ!」
凛は思わず言い返した。
「召喚したら出てきたのよ!」
「召喚!?」
「そう。アーチャー」
「アーチャー!?」
士郎の声が裏返った。
「弓どこだよ!」
凛は無言でスターリンを見た。
スターリンは穏やかに答えた。
「弓兵とは、遠くの敵を殺す者だ」
「その説明、初見の人間に通じると思わないで」
凛は疲れた声で言った。
士郎は明らかに混乱していた。
当然だ。
夜に遠坂凛が訪ねてきた。
その後ろにスターリンがいる。
情報量が、一般家庭の玄関には多すぎる。
その時、士郎の背後から気配が動いた。
静かな、しかし鋭い気配。
玄関の奥から、一人の少女が現れた。
金の髪。
青い瞳。
凛と同年代にも見える姿。
しかし、その立ち方は少女のものではなかった。
剣を持たずとも、剣が見える。
そこに立っているだけで、場の空気が変わる。
セイバー。
凛は息を呑んだ。
間違いない。
これが、衛宮士郎のサーヴァント。
最優のクラス。
セイバーは凛を見た。
次に、スターリンを見た。
当然、警戒している。
だが、それはまだ純粋な戦闘警戒だった。
敵か。
味方か。
危険か。
そう見極めるための視線。
士郎が困ったように振り返った。
「セイバー、えっと……こっちは同級生の遠坂凛。それで、後ろにいるのがスターリンだ」
「スターリン?」
セイバーはその名を繰り返した。
当然、すぐに意味を理解した様子はない。
凛は小さく息を吐いた。
まあ、そうなる。
士郎は言葉を探しながら続けた。
「二十世紀のソ連の指導者だ。独裁者で、革命の後の国を支配して……粛清とか、収容所とか、飢えとか、それに第二次世界大戦を戦って、とにかく、ものすごくたくさんの人が死んだ時代の中心にいた人物だ」
説明は雑だった。
だが、士郎なりに、できるだけ正確に伝えようとしているのは分かった。
セイバーの表情が変わった。
最初に浮かんだのは警戒。
次に、嫌悪。
それは敵を見る目ではなかった。
もっと根本的な拒絶だった。
「それほどの犠牲を出した者が、英霊として召喚されたのですか」
「そうよ」
凛は肩をすくめた。
「私もまだ納得してないけどね」
セイバーはスターリンから視線を逸らさなかった。
「あなたは、多くの民を死なせた統治者なのですね」
スターリンは怒らなかった。
否定もしなかった。
ただ、穏やかに頷いた。
「そうだ」
「それを認めるのですか」
「事実は認める」
セイバーの声が低くなった。
「ならば問います。民を守るべき者が、民を犠牲にしてなお、統治者を名乗るのですか」
その言葉に、士郎が息を呑んだ。
凛もまた、口を挟みかけて止まった。
セイバーの問いは、ただの非難ではなかった。
王であった者の問いだった。
民を守る者として、スターリンという存在を許せない。
その感情が、声に滲んでいた。
スターリンは、静かにセイバーを見た。
「君は王だな」
セイバーの目が細くなる。
「今はセイバーです」
「だが、王だった」
沈黙が落ちた。
士郎が目を見開いた。
凛は、スターリンを横目で睨んだ。
「余計な挑発はしないって言ったわよね」
「挑発ではない。確認だ」
「あなたの確認はだいたい挑発なのよ」
スターリンは一歩も動かなかった。
ただ、言葉だけを置いていく。
「ならば、君も知っているはずだ。統治者とは、民を守る者であると同時に、民を戦わせる者でもある」
セイバーの表情が険しくなった。
「それを同列に語るのですか」
「同列ではない。順序の問題だ」
「順序?」
「国が残らなければ、民は守れない。民を守るために軍を動かす。軍を動かせば、誰かが死ぬ。命令とは、誰かを死地へ送る行為でもある」
「それは、あなたの論理です」
「いいや」
スターリンは穏やかに言った。
「王の論理だ」
セイバーは言葉を詰まらせた。
スターリンは続ける。
「君は一度も命じなかったのか。進めと。守れと。退くなと。城を捨てるなと。王の名の下に、誰かを戦場へ送らなかったのか」
セイバーの唇がわずかに動いた。
だが、声は出なかった。
スターリンの声は責めていなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「民を犠牲にすることを誇る統治者は愚かだ」
スターリンは言った。
「だが、誰も犠牲にしないで済むと信じる統治者もまた危うい」
セイバーの目に怒りが宿る。
「あなたに、王の在り方を語られたくはありません」
「語る資格がないことと、語る内容が誤りであることは違う」
凛は思わず眉をひそめた。
本当に嫌な言い方をする。
セイバーはスターリンを睨んだ。
「民のために王がある。王が民を使うのではない」
「その通りだ」
スターリンは頷いた。
「だからこそ、統治者は決めなければならない。誰を前線に立たせるか。誰を退かせるか。誰を救い、誰を救えないと認めるか。王は民のためにある。だから、民の命を数えずに済む場所にはいられない」
セイバーは黙った。
その沈黙は、納得ではなかった。
怒りが消えたわけでもない。
ただ、言葉が止まっていた。
スターリンは静かに言った。
「統治者の心構えとは、きれいな手を保つことではない」
セイバーの青い瞳が揺れた。
「汚れた手で何を守ったのかを、最後まで忘れないことだ」
その言葉に、セイバーは何も返さなかった。
玄関先に、重い沈黙が落ちる。
士郎はセイバーを見た。
凛はスターリンを見た。
セイバーは、ただスターリンを見つめていた。
嫌悪はある。
怒りもある。
けれど、反論は出てこない。
王であった者にだけ届く、嫌な言葉だった。
スターリンは穏やかに続けた。
「君は私を嫌悪してよい」
「言われるまでもありません」
「それでよい。嫌悪を失った統治者は、便利だが危うい」
凛は思わず口を挟んだ。
「あなたがそれを言うの?」
スターリンは凛を見た。
「だから言うのだ」
「本当に最悪ね」
「何度も聞いた」
「何度でも言うわよ」
そこで、凛はわざと大きく息を吐いた。
このまま続けさせると、玄関先で王政論と国家暴力論が始まる。
いや、もう始まっている。
最悪の家庭訪問だった。
「はい、そこまで」
凛は手を叩いた。
士郎がびくっとした。
セイバーも、わずかに視線を動かした。
スターリンだけが穏やかに凛を見た。
「話は終わっていない」
「終わらせるの」
凛はきっぱり言った。
「私は統治論をしに来たんじゃない。衛宮くんを教会へ連れていくために来たの」
「教会?」
士郎が聞き返した。
凛は士郎に向き直った。
「そう。聖杯戦争には監督役がいる。あなたはたぶん、何も知らないまま巻き込まれてる」
「聖杯、戦争……」
士郎はその言葉を繰り返した。
セイバーが静かに前へ出た。
「リン。説明を求めます」
「そのためにも教会に行くの。ここで全部話している時間はないし、監督役から聞いた方が早い」
士郎は戸惑っていた。
「でも、俺はまだ――」
「まだ、じゃない」
凛の声が少し強くなった。
「あなたはもうマスターなの。セイバーを召喚した時点で、参加者になっている」
士郎は言葉を失った。
凛は続けた。
「知らなかった、で済む段階はもう過ぎてる。だから最低限、何に巻き込まれたのか知りなさい」
スターリンが静かに言った。
「よい判断だ」
「褒めないで」
凛は即座に返した。
「今は本当に褒めないで」
スターリンは少しだけ目元を緩めた。
セイバーはなおも警戒を解いていない。
その視線は、スターリンに向けられている。
嫌悪と警戒。
そして、ほんのわずかな沈黙。
それが凛には見えた。
スターリンの言葉は、セイバーを納得させたわけではない。
ただ、黙らせた。
反論を奪ったのではない。
反論する前に、自分の過去を見なければならない場所へ押し戻したのだ。
凛はそれが分かった。
だから、余計に嫌だった。
士郎は玄関に立ったまま、凛とスターリンとセイバーを順に見た。
「遠坂」
「何?」
「本当に、行かなきゃ駄目なのか」
「行きなさい」
凛は言った。
「少なくとも、何も知らないまま戦うよりはましよ」
士郎は少しだけ黙った。
そして、セイバーを見た。
セイバーは頷いた。
「シロウ。情報は必要です」
その言葉に、凛は少しだけ眉を上げた。
スターリンは、何も言わなかった。
士郎は息を吐いた。
「分かった。行く」
「よろしい」
凛は頷いた。
「じゃあ準備して。すぐ出るわ」
士郎が奥へ向かおうとした時、スターリンが静かに言った。
「衛宮士郎」
士郎は振り返った。
「何だよ」
スターリンは穏やかに言った。
「君は、まだ自分が何を守るのか決めていない」
士郎の表情が変わった。
凛は即座に睨んだ。
「アーチャー」
「観察だ」
「今のは余計」
「そうか」
スターリンはあっさり引いた。
だが、士郎の顔には言葉が残っていた。
凛は舌打ちしたくなった。
この男は、本当に一言で人の中心を触る。
「衛宮くん」
凛は言った。
「今のは忘れていい」
「いや……」
士郎は小さく首を振った。
「たぶん、忘れない方がいいんだと思う」
凛は黙った。
セイバーも黙っていた。
スターリンだけが、穏やかな顔で立っている。
まるで、最初からその答えを待っていたように。
凛は深く息を吐いた。
「最悪」
「またか」
「またよ」
凛は玄関の外へ出た。
夜気が冷たい。
衛宮邸の灯りを背に、四人は教会へ向かう準備を始める。
遠坂凛。
衛宮士郎。
セイバー。
そして、アーチャー、ヨシフ・スターリン。
奇妙すぎる一行だった。
凛は歩き出す前に、スターリンを横目で見た。
「いい? 教会では余計なことを言わない」
「余計なことの定義は」
「私が余計だと思ったら余計」
「主観的だな」
「今回はそれでいいの」
「了解した」
「本当に?」
「命令は明確ではないが、意図は理解した」
「それが一番怖いのよ」
スターリンは穏やかに微笑んだ。
凛は前を向いた。
今夜、士郎は聖杯戦争を知る。
セイバーはスターリンという異物を知った。
そして凛は、スターリンの言葉が王にすら届くことを知ってしまった。
それは武力ではない。
魔力でもない。
だが、確かに相手を止める力だった。
凛は奥歯を噛んだ。
まだ渡さない。
勝ち方までは、渡さない。
そう自分に言い聞かせながら、遠坂凛は教会へ向かって歩き出した。