坂道の先で、白い髪と赤い瞳を持つ少女が笑っていた。
夜の闇の中で、その姿だけが不自然なほど白く浮かび上がっている。
「こんばんは、お兄ちゃん」
少女が見ているのは、衛宮士郎だった。
士郎の表情が強張る。
「お兄、ちゃん……?」
「覚えてないの?」
少女は楽しそうに首を傾げた。
「俺は、君を知らない」
士郎がそう答えると、少女の笑みが一瞬だけ薄くなった。しかし、すぐに何事もなかったような無邪気な表情へ戻る。
「そっか」
少女はドレスの裾をつまみ、小さく一礼した。
「じゃあ、はじめましてだね。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
アインツベルンという名を聞いた瞬間、凛の表情が変わった。
遠坂、間桐、アインツベルン。聖杯戦争の始まりに関わった御三家の一つであり、目の前の少女は、何も知らずに戦場へ迷い込んだ子供ではない。
「それでね、お兄ちゃん」
イリヤは士郎を見たまま、無邪気な声で続けた。
「せっかく会えたから、殺しに来たの」
「な――」
士郎が声を上げるより早く、イリヤが片手を上げる。
「やっちゃえ、バーサーカー」
巨大な影が動いた。
バーサーカーが一歩踏み出しただけで、足元の石畳が砕ける。次の瞬間には、その巨体が視界から消えていた。
「シロウ!」
セイバーが叫び、見えない剣を振るう。
巨大な斧と剣が正面から衝突した。
轟音。
衝撃が夜気を叩き、凛の髪を激しく揺らす。士郎は反射的に腕で顔を庇った。
セイバーの足が石畳を削りながら後退していく。二メートル、三メートルと押し込まれながらも、両手で剣を支え、どうにかバーサーカーの斧を受け止めていた。
「衛宮くん、下がって!」
凛は宝石を投げた。
赤い光が走り、魔力を込めた宝石がバーサーカーの脇腹へ直撃する。爆発によって炎と煙が巨体を包んだ。
凛は目を細めた。
確かに直撃した。
だが、煙の中からバーサーカーがそのまま踏み出してくる。足取りには乱れがなく、身体に傷がついた様子もなかった。
「冗談でしょ……」
斧が振り下ろされる。
セイバーが横へ飛ぶと、直後に石畳が爆発したように砕けた。深く抉られた地面から石片が飛び散り、その一つが凛の頬をかすめる。
セイバーは着地と同時に踏み込み、見えない剣でバーサーカーの胸を斬りつけた。
斬撃は確かに入った。
それでも、巨大な身体はわずかに揺れただけだった。
横薙ぎの斧が返ってくる。
セイバーは剣を立てて受けたが、鈍い衝突音とともに小さな身体が宙へ浮き、地面へ叩きつけられた。
「セイバー!」
士郎が駆け出そうとする。
凛はその腕を掴んだ。
「行かないで!」
「でも!」
「あなたが出ても何もできない!」
「だからって――」
セイバーはすぐに立ち上がったが、呼吸は明らかに乱れていた。
バーサーカーは止まらない。巨大な斧を引きずるように構え、再びセイバーへ迫る。
一撃。
セイバーが受け流す。
二撃。
身体を捻って避ける。
三撃。
剣で受ける。
そのたびに地面が砕け、周囲の空気が震えた。
セイバーは攻撃を返しているように見えたが、実際にはバーサーカーを士郎から遠ざけることだけで精一杯だった。斧の威力を受け流し、軌道を逸らし、自分が倒れないことで士郎への道を塞いでいる。
凛は新しい宝石を握ったものの、投げることができなかった。下手に撃てばセイバーを巻き込み、何もしなければそのまま押し切られる。
凛の魔術も、セイバーの剣も、バーサーカーをほとんど止められていない。
「あんなの、どうすればいいのよ……!」
すぐ横から、場違いなほど穏やかな声がした。
「どうする、凛」
スターリンだった。
これほどの戦闘を前にしても、声には焦りも動揺もなかった。ただ、いつものように凛の判断を待っている。
凛は思わず彼を睨んだ。
「どうするって、あんなのどうすればいいのよ!」
「簡単なことだ」
スターリンは答えた。
「マスターを狙う」
凛の動きが止まった。
「何ですって?」
スターリンが見ているのは、暴れ回るバーサーカーではなかった。その背後で、セイバーが追い詰められていく様子を楽しそうに眺めているイリヤを見ていた。
少女は、自分が攻撃される可能性をまったく考えていないように見えた。
「影の内務人民委員部は、サーヴァント相手には無力だ」
スターリンは静かに言った。
「だが、人間相手なら十分に殺せる」
凛の指に力が入る。
「何をするつもり?」
「四方からマスターを攻撃する」
「殺すの?」
「必要なら」
スターリンは、それが特別な判断ではないかのように穏やかに答えた。
「バーサーカーを倒す必要はない。マスターを守らせればよい」
凛はイリヤを見た。
白い髪。
赤い瞳。
細い手足。
どう見ても、凛より幼い少女だった。
だが、その少女はバーサーカーに命じた。士郎たちを殺せ、と。
命令を受けたバーサーカーは、実際にセイバーを押し潰そうとしている。
再び斧が振るわれ、セイバーが壁際まで弾き飛ばされた。
「セイバー!」
士郎の叫びが響く。
バーサーカーは追撃のために斧を振り上げた。次の一撃をまともに受ければどうなるかは、考えるまでもない。
「許可を」
スターリンが言った。
この男は勝手には動かない。命令を待ち、最悪の選択肢を凛の前に置き、彼女自身に選ばせる。
そのやり方が、凛は嫌いだった。
それでも、今の凛にはセイバーを救う別の方法が見つからなかった。
「……許可する」
スターリンの目が、わずかに細くなる。
凛はすぐに条件を付けた。
「対象はあのマスターだけ。一般人への流れ弾は禁止」
「了解した」
「目的は、バーサーカーの攻撃を止めることよ」
「結果として、少女が死ぬ可能性はある」
凛は一瞬だけ目を閉じた。
「分かってるわよ」
自分の口から出た言葉が、ひどく重かった。
スターリンは静かに頷く。
「十分だ」
その瞬間、夜の影が動いた。
坂道の左右にある塀や街灯、木々の隙間、砕けた石畳の裂け目から、顔のない軍服姿の男たちが立ち上がる。
一人。
二人。
四人。
八人。
影の内務人民委員部、NKVD。
彼らは音もなく配置につき、一斉に銃を構えた。すべての銃口が、イリヤへ向けられている。
イリヤは首を傾げた。
「なに、あれ?」
スターリンが片手を下ろした。
銃声が鳴った。
威嚇ではなかった。
最初の弾丸は、真っすぐイリヤの額へ飛んだ。
「バーサーカー!」
巨大な手が寸前で射線へ割り込み、弾丸を手の甲で弾く。
同時に右側から二発。狙いは胸と喉だった。
バーサーカーが斧を振り、弾丸を叩き落とす。
今度は背後から三発。後頭部、背中、心臓を狙った射撃に対し、バーサーカーは身体を反転させ、巨体でイリヤを覆った。
一発たりとも、威嚇や牽制のために地面を狙ってはいない。
すべてがイリヤの命を奪うための弾丸だった。
「え……」
イリヤの笑みが消えた。
影たちは止まらない。正面、左右、背後から時間差をつけ、角度を変えながら次々に発砲する。
バーサーカーが斧を振るい、一体の影を消し飛ばした。その間に、別の影が反対側から銃を構える。
銃声。
バーサーカーはイリヤの前へ戻り、自らの身体で弾丸を受けた。傷はつかないが、セイバーへの攻撃は完全に止まっている。
「セイバー!」
凛が叫ぶ。
セイバーはすでに動いていた。バーサーカーの意識がイリヤへ戻った隙に距離を取り、士郎の前まで下がって剣を構え直す。
息は荒く、肩も大きく上下している。それでも戦闘を続けられる状態には戻っていた。
「シロウ。私から離れないでください」
「あ、ああ……」
士郎は答えたが、その視線はイリヤに向けられていた。
四方から銃を向けられた小さな少女へ、何度も弾丸が飛んでいく。そのたびにバーサーカーが間へ入り、寸前で防いでいた。
影のNKVDは、サーヴァントに対する戦力としては弱い。バーサーカーが腕を振るだけで消滅し、斧を振るえば複数がまとめて霧散する。彼らの銃弾も、バーサーカーには傷一つつけられない。
しかし、狙われているのはバーサーカーではない。
イリヤという、人間のマスターだった。
一体の影を倒しても、別方向から銃声が鳴る。前方を塞げば背後から、右を守れば左から、遠くの影へ注意を向ければ足元から銃口が現れる。
バーサーカーは、そのすべてに反応しなければならない。一発でも通せば、イリヤが死ぬからだ。
その結果、圧倒的な力のすべてが、攻撃ではなく防御へ使われていた。
「防戦一方……」
凛は呟いた。
バーサーカーには傷一つついていない。倒せたわけでもない。
それでも、戦場の主導権はこちらへ移っている。
バーサーカーを倒す必要はなかった。敵がその力を自由に使うための条件を壊せばいい。
凛はそこで、スターリンの戦い方を改めて理解した。
この男は敵の強さそのものと争わない。
敵が強さを発揮するために必要なものを見つけ、それを攻撃する。
「やめろ!」
士郎が叫んだ。
凛が振り返ると、士郎はスターリンを睨んでいた。
「あんな女の子を狙うなんて、おかしいだろ!」
イリヤのこめかみへ向かった弾丸を、バーサーカーの斧が弾く。
スターリンは士郎を見た。
「彼女はマスターだ」
「それでも女の子だ!」
「銃を持てば、子供も兵士だ」
スターリンは静かに言った。
士郎の顔が強張る。
「銃なんて持ってない!」
「バーサーカーを持っている」
スターリンはイリヤを守り続ける巨体へ視線を向けた。
「銃より危険だ」
「だからって、殺していいはずがないだろ!」
「彼女は君たちを殺せと命令した」
「それでも――」
「衛宮くん」
凛が士郎の言葉を遮った。
士郎が凛を見る。
凛は銃声の向こうにいるイリヤから目を逸らさずに言った。
「これが聖杯戦争なの」
口にした瞬間、胸の奥に嫌な感覚が残った。
つい先ほど、教会で聞いたばかりの七人のマスターと七騎のサーヴァント、願いを叶える聖杯、そして殺し合いという説明が、今は目の前で現実の形を取っている。
「相手はバーサーカーを使って、私たちを殺そうとした」
凛は続けた。
「戦う力を持って、殺す命令を出した以上、見た目が子供でも敵のマスターよ」
「でも、おかしいよ」
士郎の声は震えていた。
「こんなの、絶対におかしい」
凛はすぐには答えなかった。
おかしいという士郎の言葉を、否定することはできない。子供に向かって銃を撃ち、その攻撃を自分が許可したのだから、正しい行為だと思えるはずもなかった。
だが、それが正しくないからといって、バーサーカーの斧が止まるわけではない。セイバーが吹き飛ばされた事実も、凛の宝石魔術が通じなかった事実も変わらない。
「おかしくても、戦いは止まらないわ」
凛が言うと、士郎は何も返せなかった。
「シロウ」
セイバーが声をかける。
士郎が振り返ると、セイバーは剣を構えたままバーサーカーとイリヤを見ていた。
「私も、この方法を好ましいとは思いません」
「だったら止めてくれ、セイバー」
「できません」
セイバーははっきりと答えた。
士郎の顔が固まる。
「アーチャーの判断は、戦略的に正しい」
「セイバーまで……」
「バーサーカーを正面から倒すのは、現状では困難です。しかし、マスターを守らせれば攻勢を止められる。事実、今のバーサーカーは私たちを攻撃できていません」
士郎は言葉を失った。
セイバーは一瞬だけスターリンへ視線を向ける。その目には、衛宮邸で抱いた嫌悪も拒絶も残っていた。
それでも、戦士としてスターリンの判断を認めている。
「マスターを狙うこと自体は、サーヴァント戦において正当な戦術です」
「正当って……」
士郎は凛を見た後、セイバー、スターリンの順に視線を動かした。
誰も銃撃を止めようとはしていない。自分だけが、この戦い方はおかしいと訴えている。
だが、士郎にはバーサーカーを止める方法がなかった。イリヤを助けるために銃撃を止めれば、バーサーカーは再びセイバーへ向かう。その時に誰が傷つくのかという問いにも、答えられない。
「こんなの……」
その声は銃声に消えた。
士郎は、何もできないままその場に立ち尽くしていた。
一体の影が、イリヤのすぐ横へ現れた。
距離は数歩。
銃口が白い頬へ向けられ、引き金が引かれる。
バーサーカーの腕が寸前で銃身を掴んだ。
銃声。
逸れた弾丸がイリヤの耳元を通過し、白い髪を数本だけ切り落とした。
「ひっ……」
イリヤの喉から小さな悲鳴が漏れる。
バーサーカーは影を握り潰したが、その背後ではすでに別の影が銃を構えていた。
また銃声が響き、バーサーカーが振り返って弾丸を弾く。その間に正面から二発、さらに左から一発が放たれる。
射撃は終わらない。
すべての弾丸が、自分を殺すために飛んでくる。バーサーカーが一度でも反応に遅れれば、自分の身体を貫く。
イリヤの顔から血の気が失われていた。
さっきまで浮かべていた笑みも、戦いを遊びとして楽しむ余裕も消えている。バーサーカーがいる限り自分は守られ、自分だけは死なないという前提が崩れ始めていた。
影たちは怒っていない。イリヤを憎んでもおらず、叫び声も上げない。
ただ命令に従い、正確にイリヤを殺そうとしている。
感情のない、明確な殺害の意思が、自分だけへ向けられている。
その事実に、イリヤは怯えていた。
「やめて……」
銃声が鳴り、バーサーカーが防ぐ。
「やめてよ……」
新たな弾丸がイリヤの目へ向かい、バーサーカーの手がすんでのところで遮った。
イリヤの身体が震えている。
スターリンが静かに言った。
「もう持たない」
凛が横を見る。
「バーサーカーが?」
「あの少女だ」
スターリンの視線は、イリヤの表情と身体の震えを捉えていた。
「兵器はまだ動く。だが、指揮官が先に崩れる」
イリヤが叫んだ。
「帰る!」
バーサーカーの動きが止まる。
「もういい! 帰る! バーサーカー、帰って!」
その声には、先ほどまでの余裕はなかった。遊びを終える者ではなく、死から逃れようとする者の声だった。
バーサーカーが咆哮し、巨大な斧を地面へ叩きつける。
衝撃が坂道を走り、石畳が砕けた。
土煙が一気に舞い上がる。
「伏せて!」
凛が叫ぶ。
セイバーが士郎を庇い、凛も腕で顔を覆った。飛び散った石片が、周囲の壁や街灯を激しく叩く。
土煙の向こうで、巨大な気配が急速に遠ざかっていった。
影たちはなおも銃口を向けている。
「止めなさい、アーチャー!」
スターリンが片手を上げると、銃声が止んだ。
土煙がゆっくりと薄れた後、坂道にイリヤとバーサーカーの姿はなかった。
残っているのは、巨大な斧によって抉られた地面と砕けた石畳、傾いた街灯、壁に刻まれた傷だけだった。
セイバーが剣を下ろす。
士郎は、その場に立ち尽くしていた。
顔色は悪く、呼吸も浅い。壊れた坂道とイリヤが消えた方向の間を、何を見ればいいのか分からないように視線が行き来している。
「衛宮くん」
凛が声をかけたが、士郎は反応しなかった。
「衛宮くん」
二度目で、ようやく顔を上げる。
「あ……ああ」
「怪我は?」
「ない」
士郎は短く答えた。
怪我はなくても、大丈夫には見えなかった。
「これが……」
士郎が呟く。
「これが、聖杯戦争なのか」
凛は答えなかった。
教会で説明された殺し合い、参加者、敵という言葉が、今はサーヴァント同士がぶつかる轟音や自分の何倍もある巨体、子供へ向けて発砲する銃口、すぐ近くを通過した死として、士郎の前に残されている。
士郎は、それらをどう受け止めればいいのか分からないのだろう。
セイバーが士郎の隣へ立った。
「シロウ。今は戻るべきです」
「でも、あの子は……」
「撤退しました」
「そうじゃなくて」
士郎は言いかけたが、その先を言葉にできなかった。
その時、凛は地面の影が動いていることに気づいた。
一体のNKVDが細く伸びる影へ姿を変え、イリヤたちが消えた方向へ向かっている。
「アーチャー」
「追跡だ」
スターリンは平然と答えた。
「追撃は禁止よ」
「攻撃はしない。観察と報告のみだ」
「また命令の隙間を――」
凛は言いかけて、口を閉じた。
イリヤを戦闘対象として認め、影の戦闘行動を許可したが、戦闘後の追跡までは禁止していない。
命令違反ではない。
この男は命令を破るのではなく、凛が言葉にしなかった余白を必ず見つける。
「どこまで追わせる気?」
「拠点まで」
スターリンは即答した。
「可能なら、移動経路、結界、魔力供給、協力者、命令系統も確認する」
「可能なら、って……」
スターリンが凛を見る。
「赤き書記局の全面開放を求める」
凛は答えず、壊れた坂道へ視線を戻した。
これまで許可していたのは、影の内務人民委員部による観察と報告に限った部分的な使用だった。それだけでも、冬木市全域からランサーや魔力反応についての情報を集めている。
全面開放すれば、単純な追跡だけでは済まない。
イリヤの行動や拠点、アインツベルンの協力者、バーサーカーとの契約や魔力供給、命令系統、主従関係、弱点までが、赤き書記局の調査対象になる。
「全面開放したら、何をするの」
「アインツベルン陣営を裸にする」
「具体的に」
「マスターの拠点、移動経路、魔力供給、協力者、結界、命令系統、バーサーカーとの主従関係を調べる」
「弱点も?」
「当然だ」
「家族は?」
「必要なら」
「必要にするな」
凛は即座に返した。
スターリンは反論せず、凛の次の言葉を待っている。
凛は、改めて戦闘の跡を見た。
セイバーはバーサーカーに吹き飛ばされ、凛の魔術も通じなかった。バーサーカーには傷一つつけられず、マスターを直接狙わなければ撤退させることすらできなかった。
しかも、次も同じ方法が通用する保証はない。
イリヤが影への対策を用意してきた場合や、最初から自分を守るようバーサーカーへ命じていた場合、あるいは影を無視して凛や士郎を先に殺そうとした場合には、今夜よりもさらに厳しい戦いになる。
何も知らないまま、もう一度あの巨体と戦うことだけは避けなければならない。
スターリンのやり方を認めたくはない。
しかし、バーサーカーの脅威を見た後で、情報収集の必要性まで否定するほど凛は愚かではなかった。
「……分かったわよ」
凛は吐き捨てるように言った。
「赤き書記局の全面開放を許可する」
スターリンの目が、わずかに細くなる。
凛はすぐに指を突きつけた。
「ただし、対象はアインツベルン陣営に限定」
「了解した」
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとバーサーカー。それを直接支えている組織、施設、契約、魔力供給だけ」
「了解した」
「一般人への干渉は禁止。脅迫、拘束、処理も禁止よ。今は追跡と拠点の特定、魔力供給と命令系統の確認だけにする」
「了解した」
「攻撃は、私が命じるまで禁止」
「了解した」
「教会と言峰への命令も変更なし。勝手に対象を広げない」
「了解した」
凛は拳を握った。
「それ以上は、私が決める」
スターリンは穏やかに頷いた。
「もちろんだ」
「その『もちろん』が信用できないのよ」
「だが、許可は得た」
凛は顔をしかめた。
「ええ。許可したわよ」
スターリンに押し切られたわけでも、脅されたわけでもない。令呪による強制があったわけでもなく、凛はバーサーカーの脅威を目の前で見て、正面からでは勝てないと理解したうえで、自分の意思で必要だと判断した。
だからこそ、その命令は重かった。
「勘違いしないで」
凛は低く言った。
「あなたのやり方を認めたわけじゃない」
「必要性を認めた」
「そうよ」
スターリンは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「十分だ」
その瞬間、冬木市に散っている影が、わずかに赤く揺れた。
大きな魔力の奔流も、派手な爆発も起こらない。それでも凛には、観察だけを続けていた影たちが、明確な調査対象を与えられたことが分かった。
イリヤがどこへ逃げ、どこへ帰り、何に守られ、誰と繋がっているのか。彼女が何を命じ、何を恐れ、どこに弱点を持つのか。
それらすべてを書類へ変えるために、赤き書記局が開かれた。
「遠坂」
士郎の声がした。
凛が振り返ると、士郎はまだ青い顔をしていた。
「さっきの子を追うのか」
「ええ」
「また殺すのか」
「今は殺さない。情報を集めるだけよ」
「でも、さっきは本当に殺そうとした」
「そうね」
凛は否定しなかった。
士郎の表情がさらに険しくなる。
「遠坂は、それでいいのか」
凛は少し黙った後、答えた。
「よくはないわ」
「だったら」
「でも、何も知らないまま、もう一度あのバーサーカーに襲われる方が危険なの」
士郎は反論しようとしたが、壊れた坂道を見て言葉を止めた。
そこにはセイバーが吹き飛ばされた場所があり、斧で抉られた地面があり、凛の魔術が通じなかった相手の力が、はっきりと残されている。
それを見た後では、情報を集めるなと簡単に言うこともできなかった。
凛は息を吐いた。
「衛宮くん。今日はもう帰りなさい」
「でも」
「今のあなたに、これ以上話しても整理できないでしょ」
士郎が顔を上げる。
凛は少しだけ声を弱めた。
「私も整理したいの」
士郎は黙った。
セイバーが小さく頷く。
「シロウ。今夜は戻りましょう」
「……分かった」
士郎はそう答えた後、凛を見た。
「でも、遠坂」
「何?」
「このままにはしない」
その顔には混乱も恐怖も疑問も残っていた。それでも、何かだけは決めようとしているように見えた。
「明日、話そう」
士郎が言った。
「聖杯戦争のことも、あの子のことも、スターリンのやり方も」
スターリンは何も言わない。
凛は少しだけ考えた。
「明日の放課後」
「学校で?」
「人のいない場所を選ぶわ」
「分かった」
「約束ね」
「ああ」
士郎とセイバーは、衛宮邸の方向へ歩き出した。
数歩進んだところで、士郎が振り返る。その視線はスターリンへ向いていたが、何かを言いたそうにしたまま、結局何も口にしなかった。
セイバーもまた、スターリンを見る。
嫌悪も警戒も消えてはいない。
しかし、その中には新しい認識が加わっていた。
スターリンは正面からバーサーカーと戦えば弱い。剣を振るうことも、あの斧を受け止めることもできない。
それでも、戦場の形を変えられる。
敵の強さそのものではなく、敵がその強さを使うために必要な条件を攻撃する。
王であり、戦士でもあるセイバーは、その戦い方を理解したようだった。
士郎とセイバーの姿が夜道の向こうへ消え、壊れた坂道には凛とスターリンだけが残った。
スターリンは、イリヤたちが逃げた方向を見ている。
「追えるの?」
凛が聞いた。
「追う」
「質問に答えなさい」
「結果が出るまでは不明だ」
凛は少しだけ目を細めた。
「そこは断定しないのね」
「情報が足りない」
「本当に、変なところだけ正確ね」
「正確さは重要だ」
凛は疲れたように息を吐いた。今日だけで、その言葉を何度聞いたか分からない。
スターリンが歩き出し、凛もその隣へ並んだ。
二人がしばらく無言で坂道を下っていると、スターリンが口を開いた。
「よい判断だった」
凛は前を向いたまま答えた。
「褒めないで」
「敵を殺さずに撤退させた」
「殺そうとはしたでしょうが」
「必要なら殺していた」
「それを平然と言うな」
「凛が許可した」
凛の足が止まり、スターリンも立ち止まった。
凛は彼を睨む。
「分かってるわよ」
声が低くなった。
「私が許可した。だから、あなたのせいだけにはできない」
スターリンは何も言わなかった。
言い訳もせず、凛の責任を否定することもしない。その沈黙が、かえって腹立たしかった。
「でも、今のを勝利だとは思わない」
「なぜだ」
「追い払っただけよ。次があるし、何も終わってない」
スターリンは少しだけ目を細め、穏やかに頷いた。
「よい」
「何がよ」
「勝利を早く宣言しない指揮官は、長く生きる」
「だから褒めないで」
凛は再び歩き出し、スターリンの軍靴の音が後ろから続いた。
赤き書記局は全面開放された。
対象は限定し、禁止事項も定めた。誰を調べ、何を禁じ、どこまで動かすのかは、まだ凛が決めている。
まだ、勝ち方までは渡していない。
凛はそう考えた。
だが、冬木市の夜を走る影は、もう以前と同じものではなかった。
ただ痕跡を観察し、報告するだけの影ではない。敵の名と行動を知り、敵がどこへ帰り、誰に守られ、何を命じ、何を恐れているのかを調査し、そのすべてを書類へ変えるための影だった。
遠くで、紙をめくるような音がした。
凛は振り返らなかった。