美しき敗者たちの特別試験   作:戦竜

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第1話 美しさは罪

朝の教室には、いつもと同じざわめきが満ちていた。

 

だが、そのざわめきは平穏そのものではない。

高度育成高等学校という閉じた社会の中で、

誰もが互いの表情、声の調子、机に置かれた端末の通知、

昨日から今日にかけて微妙に変わった人間関係の温度までを

無意識に測り合っているような、薄い緊張を含んだ日常だった。

 

この学校では、何も起きていない時間ほど信用できない。

 

平穏に見える朝ほど、どこかで誰かが情報を集め、

誰かが裏で交渉し、誰かが気づかぬうちに盤面の端へ追いやられている。

 

それを知っている生徒ほど、朝の教室に漂う空気の変化に敏感だった。

 

「なあ、今日って何かあったか?」

 

池が欠伸混じりにそう言ったのは、

教室前方の電子黒板が普段より早い時間から起動していたからだった。

 

画面にはまだ何も表示されていない。

 

ただ、黒い背景の中央に学校の校章だけが浮かび、

その下に小さく「待機中」と表示されている。

 

たったそれだけのことなのに、教室の空気は少しずつ硬くなっていった。

 

「定期連絡じゃないの?」

 

軽井沢が端末を見ながら軽く言ったが、その声にもわずかな警戒が混じっていた。

 

彼女は表面上、いつも通りに振る舞っている。

髪を整え、友人たちと短く言葉を交わし、クラス内の空気に自然に溶け込んでいる。

 

だが、軽井沢恵という少女は、

この学校で何も起きないなどという言葉を信じるほど鈍くはなかった。

 

堀北鈴音は席に座ったまま電子黒板を見つめていた。

その横顔は冷静で、感情の揺れをほとんど見せない。

 

しかし、ペンを持つ指先がほんの一瞬だけ止まっていた。

 

「事前通知なしの全体連絡。しかも朝のホームルーム前。普通ではないわね」

「また特別試験か?」

 

須藤が嫌そうに呟く。

 

その言葉に、何人かの生徒が小さく反応した。

 

特別試験。

 

この学校において、その言葉は単なるイベントではない。

 

点数が動き、クラスの位置が変わり、

時には生徒一人の人生すら簡単に切り捨てられる。

 

「まだ決まったわけじゃない」

 

平田が穏やかに言った。

だが、その穏やかさは教室の不安を消すには弱すぎた。

 

全員がどこかで理解している。

 

この学校が事前説明もなく電子黒板を起動させる時、

それは大抵、こちらに選択肢がない時だ。

 

やがてチャイムが鳴る。

 

普段なら、その音を合図に生徒たちは会話を止め、教師の入室を待つ。

 

だが今日は違った。

 

チャイムと同時に、電子黒板の画面が切り替わった。

 

そこに表示された文字を見た瞬間、教室内の空気が一段階冷えた。

 

【特別試験実施告知】

 

誰も声を上げなかった。

 

むしろ、一瞬だけ完全な沈黙が落ちた。

 

そして次の瞬間、あちこちから小さなざわめきが漏れ始める。

 

「やっぱり……」

「嘘でしょ」

「今月もう試験あったじゃん」

「また退学ありかよ?」

 

画面の文字は淡々としていた。

 

感情も、遠慮も、躊躇もない。

 

この学校の制度そのもののように、ただ必要な情報だけを整然と並べていた。

 

【名称:風紀最適化特別試験】

 

その名称が表示された瞬間、堀北の眉がわずかに動いた。

 

「風紀……?」

 

誰かが呟く。

 

その言葉には、拍子抜けしたような響きがあった。

 

退学、クラス競争、ポイント争奪、裏切り、密告。

 

そういう言葉に慣れすぎた生徒たちにとって、

「風紀」という言葉は一見すると軽く聞こえた。

 

だが、オレは画面から目を離さなかった。

 

この学校がわざわざ最適化という単語を使った時点で、軽い試験で済むはずがない。

 

最適化とは、何かを効率よく整えることだ。

 

そして効率よく整えるということは、不要なものを切り捨てることでもある。

 

画面に次の文章が表示された。

 

【本試験は、学年内における異性交友、恋愛感情、容姿評価、人気集中、

過度な感情依存が学習環境および集団秩序に与える影響を測定し、

必要に応じて環境の是正を行うことを目的とする】

 

最初に反応したのは、女子ではなく男子だった。

 

「は?」

 

池が間の抜けた声を出した。

 

山内は口を半開きにしたまま画面を見つめ、

須藤は意味が分からないという顔で眉をひそめた。

 

女子たちの反応は遅れてやってきた。

 

軽井沢の表情から笑みが消えた。

 

佐藤が不安そうに隣の女子と視線を交わし、篠原は「何それ」と低い声で呟いた。

 

堀北はまだ黙っている。

 

しかし、その沈黙は無関心ではなく、文章の一語一語を分解し、

そこに隠された危険性を読み取ろうとしている沈黙だった。

 

【近年、学年内において特定女子生徒への人気集中、

恋愛関係を巡る対立、異性間接触を起因とする学習効率低下、

集団内不和、交友関係の偏りが観測されている】

 

「……ふざけてるの?」

 

軽井沢の声は小さかった。

 

だが、その言葉は教室の空気に鋭く刺さった。

 

誰も笑わなかった。

 

笑える内容ではなかった。

 

画面はさらに続いた。

 

【本校は、これらの現象を個人の感情問題としてではなく、

学年運営上の構造的リスクとして扱う】

 

【よって、本試験では各女子生徒の異性影響指数を算出し、

上位者を審査対象とする】

 

異性影響指数。

 

その言葉が表示された瞬間、教室の中に別種の沈黙が落ちた。

 

それは恐怖というより、侮辱に近い感情だった。

 

人間を数値化することに、この学校の生徒たちは慣れている。

 

学力、身体能力、協調性、判断力。

 

それらを試験によって測られ、点数に換算され、

クラス全体の評価として扱われることには、嫌でも順応してきた。

 

だが、今画面に表示されているのは、それとはまったく違うものだった。

 

容姿。

人気。

好意。

視線。

噂。

 

好かれていること。

 

誰かの感情を向けられていること。

 

本来なら本人が完全には制御できないはずのものまで、

この学校は測定対象にすると言っている。

 

「異性影響指数って……何よ、それ」

 

佐藤が震える声で言う。

 

「恋愛感情を数値化するってこと?」

 

平田の声も硬かった。

 

平田ですら、いつものように場を和ませる言葉を探せていない。

 

【算出項目】

 

画面に表が表示された。

 

【容姿評価値】

【交友集中度】

【異性交友頻度】

【告白・好意申告記録】

【SNS・校内端末上での言及頻度】

【学業・人格評価に基づく理想化傾向】

【恋愛・保護・依存感情誘発係数】

 

教室の空気が一気に悪くなった。

 

「何だよこれ……」

 

須藤が低く唸る。

 

彼の視線は一瞬、堀北の方へ向き、すぐに逸らされた。

 

それだけで十分だった。

 

この試験が誰を傷つけるものなのか、全員が理解し始めていた。

 

女子生徒は、ただそこにいるだけで評価される。

 

そして、その評価が高ければ高いほど危険になる。

 

可愛いから。

 

優しいから。

 

成績がいいから。

 

男子から人気があるから。

 

頼られるから。

 

憧れられるから。

 

それらは普通なら長所として扱われるものだ。

 

だがこの試験では、すべてが罪状に変わる。

 

「つまり……人気のある女子を危険人物扱いするってこと?」

 

篠原が吐き捨てるように言った。

 

その声には怒りだけではなく、もっと複雑なものが混じっていた。

 

可愛い女子だけが標的にされる。

 

そう見える試験でありながら、同時に、

可愛くないと見なされた女子には別の屈辱を突きつける。

 

評価される者は危険物として扱われ、

評価されない者はそもそも数値の外側に置かれる。

 

どちらに転んでも、人間として扱われていない。

 

そこにあるのは、学校が生徒を管理するために作った冷たい分類だけだった。

 

【第一次審査対象者は、各クラスおよび学年全体のデータ集計により選定される】

 

【審査対象者は、試験期間中、男子生徒による匿名評価、

女子生徒による環境評価、クラス代表による保全可否判断の対象となる】

 

【最終的に、学年運営において風紀リスクが高いと

判断された女子生徒五名は退学処分とする】

 

その一文が表示された瞬間、教室が爆発した。

 

「退学!?」

「五名って何だよ!」

「女子だけってこと!?」

「こんなの差別じゃん!」

「先生は!?茶柱先生は何か聞いてないの!?」

 

ちょうどその時、教室の扉が開いた。

 

茶柱先生が入ってくる。

 

普段通りの冷静な表情だったが、その顔にはいつもより濃い疲労が見えた。

 

彼女は教壇に立つと、しばらく生徒たちを見渡した。

 

ざわめきは収まらない。

 

当然だ。

 

この試験は、あまりにも露骨で、あまりにも理不尽だった。

 

「静かにしろ」

 

茶柱先生の声は低かった。

 

だが、いつものように教室を一瞬で支配するほどの強さはなかった。

 

むしろ彼女自身が、この試験に対して完全には納得していないように見えた。

 

「先生、これ本気なんですか?」

 

平田が立ち上がった。

 

珍しく、声に明確な怒りがあった。

 

「女子だけが退学対象になるなんて、どう考えてもおかしいです。

風紀を理由にするなら、男子側にも責任があるはずです」

「その通りだ」

 

茶柱先生は否定しなかった。

 

その返答に、教室が一瞬静まる。

 

「私個人の意見を述べるなら、この試験には問題が多い。

だが、正式な理事会承認を経た特別試験である以上、実施は覆らない」

「そんな……」

 

軽井沢の友人の一人が青ざめる。

 

「ただし、詳細なルールは順次開示される。今この場で全てを判断するな」

「判断するなって言われても、退学って出てるじゃないですか!」

 

須藤が机を叩いて立ち上がった。

 

「ふざけんなよ!風紀がどうとか言って、女子を五人落とすってことだろ!?」

「座れ、須藤」

「座れるかよ!」

 

須藤の怒りは本物だった。

 

単純で、粗暴で、感情的ではある。

 

だが、その怒りは少なくとも正しい方向を向いていた。

 

女子を守りたいという気持ち。

 

試験そのものへの反発。

 

そして、おそらくは堀北の名前が候補に上がるかもしれないという恐怖。

 

それらが混ざっている。

 

「須藤くん、落ち着きなさい」

 

堀北が静かに言った。

 

「落ち着けるわけねえだろ!」

「怒ってもルールは変わらないわ。

今すべきことは、感情をぶつけることではなく、試験の構造を把握することよ」

 

冷静な言葉だった。

 

だが、その冷静さこそが、今の教室では残酷に響いた。

 

「堀北さんは怖くないの?」

 

佐藤が思わず尋ねる。

 

堀北は一瞬だけ言葉を止めた。

 

「怖くないと言えば嘘になるわ」

 

その声は静かだった。

 

「でも、怖がっているだけでは何も変わらない」

 

堀北鈴音らしい答えだった。

 

だが、その横顔を見て、俺は思った。

 

彼女はまだ理解しきっていない。

 

この試験は、彼女の合理性すら攻撃対象にする。

 

堀北が冷静であればあるほど、男子の一部は彼女を理想化する。

堀北が優秀であればあるほど、学校は彼女の影響力を高く評価する。

堀北が感情を抑えて前へ進もうとすればするほど、

その姿勢すら魅力として数値化される。

 

この試験では、長所は逃げ道にならない。

 

むしろ長所こそが、退学への道を照らす。

 

「綾小路くん」

 

隣から堀北が小さく声をかけてきた。

 

「あなたはどう見る?」

 

オレは電子黒板を見たまま答えた。

 

「かなり厄介な試験だな」

「それだけ?」

 

「今の段階で分かるのは、この試験が女子だけを対象にしているようで、

実際には学年全体を試しているということだ」

 

堀北の目が細くなる。

 

「どういう意味?」

「男子は投票者になる。女子は評価対象になる。

クラス代表は保全判断を迫られる。つまり誰も傍観者ではいられない」

「……女子を犠牲にして、男子の本性を見る試験ということ?」

「それも含まれるだろうな」

 

オレの言葉に、堀北は唇を引き結んだ。

 

彼女は納得していない。

 

当然だ。

 

納得できるはずがない。

 

だが、この学校の試験は、納得できるかどうかで動いてはいない。

 

「綾小路くんは、どうするつもり?」

 

軽井沢の声が飛んできた。

 

彼女はオレを見ていた。

 

いつもの軽い調子は消えている。

 

その瞳には、不安と苛立ちと、わずかな期待が混ざっていた。

 

「まだ何も決めていない」

 

オレはそう答えた。

 

その瞬間、軽井沢の表情がわずかに強張った。

 

「……そう」

 

短い返事。

 

だが、その中には失望があった。

 

助けると言ってほしかったのだろう。

 

少なくとも、何とかすると言ってほしかったのかもしれない。

 

だが、俺はそうは言えなかった。

 

言うべきではなかった。

 

この試験の全体像が見えていない段階で、

誰か一人を守ると決めることは、それ以外の誰かを切ることと同じ意味を持つ。

 

そして、この学校では、その選択の重さを感情で誤魔化すことはできない。

 

茶柱先生が再び口を開いた。

 

「今から各自の端末に第一次資料が配布される。

そこには試験概要、日程、暫定評価方法、

そして現時点での警戒対象候補が記載されている」

「候補……?」

 

教室中の視線が端末へ落ちる。

 

次々と通知音が鳴った。

 

俺の端末にも資料が届く。

 

ファイル名は簡潔だった。

 

【風紀最適化特別試験・第一次開示資料】

 

教室内の誰もが、恐る恐る画面を開いた。

 

数秒後、悲鳴に近い声がいくつも上がった。

 

そこには、まだ正式な退学候補ではないと注釈がついていた。

 

しかし、暫定的な高リスク女子生徒として、

学年全体から複数名の名前が並んでいた。

 

その中には、当然のように有名な名前があった。

 

一之瀬帆波。

櫛田桔梗。

長谷部波瑠加。

堀北鈴音。

白石飛鳥。

 

それぞれの名前の横には、異性影響指数の暫定値、評価理由、交友傾向、

学年内認知度、保護欲誘発傾向、理想化係数などという、

吐き気がするほど冷たい言葉が並んでいた。

 

人間ではない。

 

標本だった。

 

まるで、温度や湿度や騒音のように、

彼女たちの存在が学習環境を乱す因子として測定されている。

 

軽井沢はしばらく動かなかった。

 

堀北は画面を見つめたまま無表情だった。

 

だが、その無表情は平静ではない。

 

感情を押し殺した結果としての無表情だった。

 

「……何よ、これ」

 

長谷部が絞り出すように言った。

 

「私が何をしたっていうのよ」

 

その言葉に答えられる者はいなかった。

 

なぜなら、この試験において彼女たちの罪は、何かをしたことではないからだ。

 

そこにいたこと。

 

見られたこと。

 

好かれたこと。

 

選ばれたこと。

 

誰かにとって特別になってしまったこと。

 

それが罪として扱われている。

 

平田は資料を読みながら、顔色を失っていた。

 

「こんなの、絶対に間違ってる……」

 

山内は黙って画面を見ていた。

 

彼の顔には戸惑いと、奇妙な高揚が混ざっているように見えた。

 

それは悪意だけではない。

 

自分とは縁がないと思っていた人気のある女子たちが、

初めて自分たちと同じように怯えている。

 

その光景に、どこか歪んだ均衡を感じているのかもしれない。

 

篠原は堀北の方を見て、それから自分の端末に視線を落とした。

彼女の名前は、資料の高リスク候補には入っていない。

 

それは安全を意味する。

 

だが同時に、学校から影響力が低いと宣告されたようなものでもあった。

 

「……馬鹿みたい」

 

篠原はそう呟いた。

 

その言葉が誰に向けられたものなのかは分からない。

 

学校に対してか。

 

候補に入った女子たちに対してか。

 

候補に入らなかった自分に対してか。

 

あるいは、そんな分類を見て少しでも反応してしまったこの教室全体に対してか。

 

茶柱先生は生徒たちの反応を見ながら、淡々と説明を続けた。

 

「試験期間は13日間。

最終日に学年全体で五名の退学者が決定する。退学者は女子生徒に限定される。

ただし、男子生徒および非候補女子生徒の投票行動、虚偽申告、妨害工作、

暴力行為、情報操作も評価対象となり、クラスポイントに影響する」

「つまり、男子も何もしないでは済まないってことですか」

 

平田が低く言う。

 

「その通りだ。投票棄権にもペナルティがある。白票も原則として不利に扱われる」

「最低ね」

 

堀北が呟いた。

 

その声には、珍しく明確な嫌悪があった。

 

「女子を対象にしながら、男子にも加害者役を強制する。

誰も清潔なままではいられない試験というわけね」

「そういうことだ」

 

茶柱先生は否定しなかった。

 

「これは風紀を守る試験ではない」

 

その言葉に、教室が静まる。

 

茶柱先生は少しだけ間を置いた。

 

「少なくとも、私にはそう見える」

 

それは教師としての発言というより、一人の大人として漏れた本音に近かった。

 

だが、それ以上は言わなかった。

 

言えないのだろう。

 

この学校の教師でさえ、制度の前では完全な自由を持たない。

 

「先生」

 

堀北が手を挙げた。

 

「この試験に抗議する手段は?」

「正式な異議申立て制度は存在する。ただし、試験実施の停止権限はない。

申し立てが認められても、反映は試験終了後になる可能性が高い」

「つまり、今は従うしかないということですね」

「そうだ」

 

堀北は目を閉じた。

 

数秒だけ沈黙し、再び目を開ける。

 

その瞳は鋭さを取り戻していた。

 

「なら、勝つしかないわね」

 

その言葉に、何人かが息を呑んだ。

 

勝つ。

 

この状況でその言葉を選べるのは、堀北らしい。

 

だが、同時に危うい。

 

この試験における勝利とは何か。

 

候補者を全員守ることか。

 

退学者を別の誰かに押し付けることか。

 

クラスの損失を最小にすることか。

 

それとも、学校側の想定を破壊することか。

 

勝利条件が見えないまま走り出せば、必ず誰かを踏みつける。

 

「綾小路くん」

 

堀北がこちらを向いた。

 

「協力して」

 

教室内の何人かがオレたちを見る。

 

櫛田も長谷部も見ていた。

 

須藤も、平田も、篠原も。

 

その視線の中には、期待があった。

 

この状況を何とかしてくれるのではないかという、無責任な期待。

 

オレは少しだけ沈黙した。

 

そして答えた。

 

「協力はする」

 

堀北の表情がわずかに緩む。

 

だが、オレは続けた。

 

「ただし、誰を守るかはまだ決めない」

 

その瞬間、空気が変わった。

 

堀北の目が細くなる。

 

長谷部の顔から血の気が引く。

 

平田が信じられないものを見るように俺を見る。

 

「それ、どういう意味?」

 

長谷部が震える声で言った。

 

オレは彼女の方を見た。

 

「この試験で全員を守れる保証はない。

最初から誰かを守ると決めれば、

その判断がクラス全体の損失になる可能性がある」

「だから、切るかもしれないってこと?」

 

長谷部の声が鋭くなる。

 

「必要なら」

 

その一言で、教室の温度がさらに下がった。

 

「最低……」

 

誰かが呟いた。

 

それが誰の声だったのかは分からない。

 

だが、その言葉は教室の中に確かに残った。

 

堀北は俺を見つめていた。

 

怒りではない。

 

失望でもない。

 

もっと深い警戒だった。

 

彼女は今、理解したのだろう。

 

この試験においてオレは、必ずしも彼女たちの味方ではない。

 

少なくとも、最初から無条件で守る存在ではない。

 

「あなたは、本当にそういう人なのね」

 

堀北が静かに言った。

 

「そうかもしれないな」

 

オレは否定しなかった。

 

する必要がなかった。

 

長谷部は唇を噛み、視線を逸らした。

 

一之瀬がここにいれば、きっとオレを責めただろう。

 

ひよりがここにいれば、静かに目を伏せただろう。

 

坂柳がここにいれば、面白そうに笑いながらも、

その奥に冷たい怒りを隠したかもしれない。

 

だが、今この教室にいるのは堀北と櫛田と長谷部だけだ。

 

そして三人とも、すでにこの試験の盤上に置かれている。

 

茶柱先生は俺たちのやり取りに口を挟まなかった。

 

教師として止めるべきだったのかもしれない。

 

だが、この学校において、生徒同士の不信は試験の一部だ。

 

止めたところで意味はない。

 

「本日のホームルームは以上だ。

各自、資料を熟読しろ。放課後には追加説明がある」

 

茶柱先生はそう言って、教室を出ていった。

 

教師がいなくなった後も、誰もすぐには動かなかった。

 

机に座ったまま、端末を見る者。

 

候補者の名前を何度も確認する者。

 

隣の女子に声をかけようとして、何も言えずに口を閉じる者。

 

男子たちは互いの顔色を探り始めていた。

 

自分は誰に投票するのか。

 

誰を守るのか。

 

誰を切るのか。

 

まだ何も始まっていないはずなのに、教室内にはすでに見えない線が引かれていた。

 

櫛田は立ち上がり、オレの席の横まで来た。

 

「ねえ」

 

声は低かった。

 

「本当に、私のことも切るの?」

 

オレは彼女を見上げた。

 

櫛田桔梗。

 

この学校で何度も危機を潜り抜け、自分の裏の顔を隠しながら生きてきた少女。

 

彼女は強い。

 

だが、その強さは傷つかない強さではない。

 

傷ついても立っている強さだ。

 

だからこそ、この試験は彼女にとって残酷だった。

 

「状況次第だ」

 

オレは答えた。

 

櫛田は一瞬だけ笑った。

 

笑おうとしたのかもしれない。

 

だが、その表情はすぐに崩れた。

 

「そっか」

 

それだけ言うと、彼女は背を向けた。

 

堀北は席に座ったまま、オレを見ていた。

 

「あなたの考えは分かったわ」

「そうか」

「でも、私は認めない」

「認める必要はない」

 

堀北は何かを言い返そうとして、やめた。

 

その代わりに、端末の資料へ視線を戻す。

 

彼女は戦うつもりだ。

 

自分を守るためではない。

 

この理不尽な試験の中で、合理的な突破口を見つけるために。

 

だが、オレには分かっていた。

 

この試験は、堀北の合理性を試すだけでは終わらない。

 

彼女の誇りも、櫛田の信頼も、一之瀬の善意も、長谷部の友情も、坂柳の余裕も、

すべてを同じ盤上に並べ、同じ単位で測り、同じ結末へ向かわせようとしている。

 

可愛いから守られる。

 

優秀だから残される。

 

メインだから安全。

 

この学校は、そういう甘い前提を許さない。

 

むしろ、安全だと思われている者ほど、最も鮮やかに切り落とされる。

 

俺は端末の画面に並んだ五つの名前をもう一度見た。

 

一之瀬帆波。

櫛田桔梗。

長谷部波瑠加。

堀北鈴音。

白石飛鳥。

 

まだ退学者ではない。

 

だが、すでに試験は彼女たちを中心に回り始めている。

 

そしてオレは、静かに理解していた。

 

この試験で最後に勝つためには、誰かを守る覚悟では足りない。

 

誰かを切る覚悟が必要になる。

 

たとえそれが、誰もが守られるべきだと思っている少女たちであっても。

 

たとえその選択によって、俺が全員から憎まれることになったとしても。

 

最終的に勝っていれば、それでいい。

 

この学校では、感情より結果が優先される。

 

そしてオレは、そのルールを誰よりもよく知っている。




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