一之瀬帆波の名前は、最初からずっと一位にあった。
それは、この試験が始まった当初から誰もが予想していた結果でもあり、
同時に、誰もがどこかで認めたくなかった結果でもあった。
一之瀬は目立つ。
それは容姿だけの話ではない。
彼女の周囲には、常に人が集まる。
男子も女子も、同じクラスの生徒も、他クラスの生徒も、
彼女と話す時だけはどこか警戒心を解いてしまう。
困っている者がいれば声をかけ、落ち込んでいる者がいれば隣に座り、
誰かが孤立していれば自然に輪の中へ入れようとする。
その行動は、普通なら美徳と呼ばれるものだった。
だが、この学校はそれを感情集束型と名づけた。
優しさ。
共感。
包容力。
安心感。
それらはすべて、異性影響指数を上昇させる危険因子として数値化されていた。
朝の電子黒板には、女子相互評価を含めた最新順位が表示されている。
1位が一之瀬帆波。
2位が堀北鈴音。
3位が軽井沢恵。
4位が椎名ひより。
5位が長谷部波瑠加。
6位が坂柳有栖。
その上にある一之瀬の名前は、もはや動かない固定点のように見えた。
「一之瀬、また一位か……」
池が小さく呟いた。
その声には以前のような軽さはなかった。
何度も同じ名前が一位に表示され続けることで、
教室の生徒たちは少しずつ理解し始めている。
これは一時的な人気の高さではない。
一之瀬帆波という存在そのものが、
この試験において最も危険なものとして扱われているのだ。
「おかしいだろ」
須藤が低く言った。
「一之瀬が何したってんだよ」
誰も答えられなかった。
何もしていない。
少なくとも、悪いことは何もしていない。
だからこそ、この順位は残酷だった。
一之瀬は、誰かを傷つけたから一位なのではない。
誰かを救おうとしたから、一位になっている。
その事実が、教室の空気をさらに重くしていた。
◯
昼休み。
一之瀬のクラスは、他のどのクラスよりも静かだった。
普段なら明るい声が多い教室だ。
誰かが冗談を言えば誰かが笑い、困っている者がいれば自然と周囲が手を貸す。
一之瀬帆波を中心とした、柔らかい共同体。
それがこのクラスの強みだった。
だが今、その強みそのものが彼女を追い詰めている。
「帆波ちゃん、今日の女子評価、私たちは白票にできないのかな……」
クラスメイトの女子が不安そうに言う。
一之瀬は笑った。
いつもの笑顔だった。
けれど、その笑顔は少しだけ薄い。
「白票は減点対象だから、たぶん難しいと思う」
「でも、誰かの名前を書くなんて……」
「うん。分かるよ」
一之瀬は静かに頷く。
「私も書きたくない」
その言葉に、周囲が沈黙した。
一之瀬は誰かを切れない。
それは彼女の美点であり、この学校では致命的な弱点でもある。
男子投票が始まった時も、女子相互評価が始まった時も、
彼女はずっと同じことを言い続けていた。
誰か一人に押しつけるのは違う。
みんなで助かる方法を探そう。
不安な人は一人で抱え込まないで。
その言葉に救われた者は多い。
だが、その救われた者の数だけ、学校側の分析は一之瀬の危険度を上げていた。
【一之瀬帆波】
【危険分類:感情集束型】
【男女双方に対する高共感性により、心理的依存を誘発】
【集団保護行動の中心点として機能】
【対象者を守るための組織的投票歪曲傾向あり】
【善意による感情支配の疑い】
その最後の一文を見た時、一之瀬クラスの空気は凍った。
善意による感情支配。
それは、あまりにも酷い言葉だった。
一之瀬が誰かを支配しようとしたことなどない。
彼女はただ、誰かを傷つけたくなかっただけだ。
それなのに学校は、その優しさすら支配と呼んだ。
「酷いよ、こんなの……」
クラスメイトの女子が涙ぐむ。
「帆波ちゃんは、みんなのために動いてるだけなのに」
「ありがとう」
一之瀬は優しく答えた。
「でも、私を庇う言葉も、たぶん指数に入る」
その一言で、教室の全員が黙った。
一之瀬は笑っている。
だが、自分がどういう状況に置かれているのか、誰よりも理解していた。
守られれば危険度が上がる。
同情されれば危険度が上がる。
心配されれば危険度が上がる。
それでも、一之瀬は誰かを突き放せない。
自分を守るために、誰かの優しさを拒絶することができない。
そこが、軽井沢とは違う。
軽井沢は怖いから距離を取ろうとした。
長谷部は傷つきながら孤立を選ぼうとした。
だが一之瀬は、孤立できない。
誰かを遠ざければ、その誰かが傷つくと分かっているからだ。
そして、その優しさが彼女をさらに追い詰めていく。
◯
放課後。
一之瀬は、各クラスの代表格へ連絡を取った。
堀北。
龍園。
坂柳。
そしてオレ。
目的は、女子相互評価で誰かを集中的に落とさないための協議だった。
場所は校舎内の小会議室。
学校側に申請すれば使用できる空間だが、
今この場所に集まるという行為自体も、おそらく監視対象になっている。
一之瀬はそれを分かっていて、それでも集まることを選んだ。
「来てくれてありがとう」
彼女は全員へ頭を下げた。
堀北は険しい表情をしている。
龍園は椅子へ乱暴に座り、面倒そうに足を組んだ。
坂柳は穏やかな笑みを浮かべているが、その目は相変わらず冷静だった。
「それで?」
龍園が口を開く。
「善人代表のお前は、今度は何を言うつもりだ?」
一之瀬は怯まなかった。
「女子相互評価で、特定の誰かに票を集めるのはやめたいの」
龍園が鼻で笑う。
「やめたい、ね」
「みんなが不安なのは分かる。
でも、自分が助かるために誰かを落とす空気が広がったら、
この試験は学校側の思う通りになる」
「綺麗事だな」
龍園の声は冷たい。
「誰かは落ちるんだろ?」
その言葉に、一之瀬の表情が少しだけ揺れた。
「まだ決まったわけじゃない」
「決まってるようなもんだろ」
龍園は笑う。
「この学校が五人退学って言ってる以上、最後は五人落ちる。
だったら早めに誰を切るか決めた方が合理的だ」
「そんなの……」
一之瀬は唇を結ぶ。
「そんなの、間違ってる」
「間違っててもルールは動く」
堀北が静かに言った。
一之瀬は堀北を見る。
堀北の表情も苦しそうだった。
「一之瀬さん、あなたの考えは分かるわ。
でも、全員が助かる見通しがない以上、
票の分散だけを呼びかけても逆効果になる可能性がある」
「逆効果?」
「あなたを中心に各クラスが協力すればするほど、あなたの危険度が上がる」
一之瀬は息を呑む。
分かっていたことだ。
だが、他人の口から冷静に言われると、その重さはまた違った。
坂柳が微笑む。
「一之瀬さんは、この試験において最も不利な性質を持っています」
「不利な性質……?」
「ええ」
坂柳は穏やかに続ける。
「あなたは、人を切れない。誰かを見捨てることを極端に嫌う。
だから周囲はあなたを信じ、あなたの周りに集まり、あなたを守ろうとする」
その言葉は優しく聞こえた。
だが、内容は残酷だった。
「そして、その全てがあなたの危険度を上げます」
一之瀬は黙った。
龍園が口元を歪める。
「つまり、お前が優しくすりゃするほど、お前が死ぬってわけだ」
その言い方に堀北が眉をひそめる。
だが一之瀬は怒らなかった。
「それでも」
彼女は静かに言った。
「私は誰かを切りたくない」
会議室が沈黙する。
その言葉に迷いはなかった。
一之瀬帆波は、やはり一之瀬帆波だった。
どれほど不利でも、どれほど危険でも、彼女は自分の根本を曲げない。
それが彼女の強さであり、弱さだった。
「綾小路くん」
一之瀬がこちらを見る。
「あなたはどう思う?」
全員の視線が俺へ向いた。
オレは少しだけ沈黙した。
そして答える。
「一之瀬の善意は、この試験では最大の危険因子だ」
空気が凍る。
一之瀬の表情がわずかに固まった。
堀北も、龍園も、坂柳も黙っている。
「お前が誰かを助けようとするほど、人はお前へ集まる。
お前を中心に団結する。学校はそれを感情集束として評価する」
オレは続けた。
「このままなら、お前の一位は動かない」
「……そう」
一之瀬は小さく呟いた。
その声は驚くほど静かだった。
「じゃあ、私が助かるにはどうすればいいの?」
「自分を守るために、誰かを切る側へ回ることだ」
会議室がまた静まった。
一之瀬は目を伏せる。
そして、ゆっくり首を振った。
「それはできない」
分かっていた答えだった。
「たとえ自分が一位のままでも?」
「それでも」
「退学になるとしても?」
一之瀬は少しだけ息を止めた。
だが、答えは変わらなかった。
「それでも、私は誰かを犠牲にして助かりたくない」
龍園が呆れたように笑う。
「本当に救えねぇ善人だな」
坂柳は静かに微笑んでいる。
堀北は苦しそうに目を伏せた。
オレは一之瀬を見た。
彼女は怯えていないわけではない。
怖いはずだ。
退学が。
孤立が。
誰かを傷つけることが。
そして、自分の善意が周囲を苦しめていることが。
それでも彼女は、自分の在り方を捨てようとしない。
それは尊い。
だが、この試験では致命的だった。
会議が終わった後、一之瀬は一人で廊下を歩いていた。
オレは少し離れて後を追った。
「綾小路くん」
彼女は振り返らずに言った。
「私、馬鹿なのかな」
「そうは思わない」
「でも合理的じゃないよね」
「確かに合理的ではない」
一之瀬は小さく笑った。
「綾小路くんらしいね」
その笑みはいつもより弱い。
「私ね、みんなを助けたいって思うの」
彼女は窓の外を見る。
「でも最近、その気持ちが誰かを苦しめてるのかもしれないって思うようになった」
廊下の外では、夕日が校舎を赤く染めていた。
「私を守ろうとしてくれる人がいる。私を信じてくれる人がいる。
それは嬉しいはずなのに、今は怖いの」
「危険度が上がるからか」
「うん」
一之瀬は頷いた。
「それに、私がいるせいで、みんなが私を守ろうとして、他の誰かを見捨てるかもしれない」
その声は震えていた。
「そんなの、嫌だよ」
一之瀬帆波は、自分が退学になることだけを恐れているのではない。
自分を守るために、周囲が醜くなることを恐れている。
それこそが、彼女らしさだった。
「一之瀬」
「何?」
「お前は、この試験に向いていない」
彼女は少しだけ驚いたようにこちらを見た。
「うん」
そして、寂しそうに笑った。
「そうだね」
普通なら傷つく言葉だ。
だが一之瀬は、どこか納得したようだった。
「でも、向いてないからって、変わらなきゃいけないのかな」
俺は答えなかった。
一之瀬は続ける。
「私は、この学校で強くなりたいって思ってた。
みんなを守れる人になりたいって思ってた。
でも、誰かを切れるようになることが強さなら……」
彼女は言葉を止めた。
「私は、強くなれないのかもしれない」
その時、端末が震えた。
全校通知。
【感情集束型対象者に対する集団保護行動を確認】
【一之瀬帆波の異性影響指数を再算出】
一之瀬の顔から血の気が引く。
ランキングが更新される。
一位、一之瀬帆波。
危険度、さらに上昇。
理由欄には、新たな文章が追加されていた。
【複数クラス代表との協議により、学年横断的影響力を確認】
【対象者を中心とした協調行動が発生】
【善意による集団統合能力を高リスク因子として評価】
一之瀬はしばらく画面を見つめていた。
そして、ゆっくり笑った。
「そっか」
その笑顔は、悲しいほど穏やかだった。
「私、助けようとしただけなのにね」
俺は何も言わなかった。
言えることがなかった。
一之瀬は端末を閉じる。
「綾小路くん」
「何だ」
「もし最後に、誰かを選ばなきゃいけなくなったら」
彼女は俺を見た。
「私は、誰かを切る側にはなりたくない」
その瞳には涙が浮かんでいた。
だが、こぼれてはいなかった。
「だから、私が切られる側になっても、それは私の選択だって思うことにする」
その言葉は、美しい自己犠牲に聞こえた。
だが俺には、危険な諦めにも聞こえた。
「それでいいのか」
「よくないよ」
一之瀬は笑う。
「怖いし、悔しいし、退学なんて絶対嫌だよ」
その本音が、ようやく漏れた。
「でも、誰かを踏みつけて残ったら、私はきっと私じゃなくなる」
彼女はそう言って、廊下の先へ歩き出した。
その背中は、いつものようにまっすぐだった。
だが以前より少しだけ小さく見えた。
一之瀬帆波は強い。
けれど、この試験において彼女の強さは、そのまま弱点になる。
善意。
共感。
包容。
団結。
人が本来なら大切にすべきものを、この学校は危険として扱う。
そして彼女は、その危険を捨てることができない。
だから一之瀬帆波は、一位なのだ。
誰よりも人を救おうとするから。
誰よりも人を集めてしまうから。
誰よりも、この学校の最適化にとって邪魔な存在だから。
俺は彼女の背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。
端末には、最新ランキングが表示されたままだった。
一位、一之瀬帆波。
その順位は、まるで彼女の退路を塞ぐ杭のように、
画面の最上段へ深く打ち込まれていた。
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