男子匿名投票開始二日目の朝。
高度育成高等学校の空気は、昨日までとは比較にならないほど悪質で、
粘ついていて、そして静かに壊れ始めていた。
もはや誰も、この試験を単なる特別試験の一種として認識してはいなかった。
いや、正確には違う。
最初はそう思おうとしていたのだ。
無人島試験やペーパーシャッフルの延長線上に
あるものとして処理しようとしていた。
だが、二日目にしてその認識は崩れ始めている。
この試験はもっと直接的だった。
もっと人間の根に近い場所を抉る。
これは学力試験ではない。
運動能力でもない。
駆け引きですらない。
人間関係そのものを切り裂き、
好意と嫉妬と劣等感をむき出しにさせるための装置。
それが今、この学校全体を静かに覆っていた。
朝の教室へ入った瞬間、その異常さは嫌でも伝わってくる。
以前なら自然に聞こえていた雑談が大きく減っている。
誰かが笑う声も小さい。
男子たちは互いの投票先を探り合い、
女子たちは男子側の空気の変化を観察している。
教室の中にあるのは会話ではなく、探り合いだった。
誰が誰を見たか。
誰がどの名前を口にしたか。
誰が候補女子の話題を避けたか。
そんな些細なものまでが、今は情報として扱われ始めている。
誰かが女子の名前を出した瞬間だけ、空気がわずかに止まる。
そして、その停止がまた周囲へ伝染する。
「……で、結局お前誰に入れたんだよ」
池が妙に小さな声でそう言ったのは、
周囲へ聞かれたくないという意識が既に働いている証拠だった。
「言うわけないだろ」
山内が即答する。
だが、その返しは以前のような軽口ではない。
本気で隠している。
「つーかそういうお前は?」
「俺も言わねえよ」
二人は笑っている。
だが、その笑い方には妙な硬さがあった。
軽い雑談を装っているだけで、実際には互いを探っている。
男子たちはもう理解している。
投票は情報だ。
誰を危険視しているか。
誰を守ろうとしているか。
誰へ好意を抱いているか。
その全部が票に出る。
だから誰も簡単には話さない。
そして、話さないという行動そのものがまた疑念を生む。
「糞だな、この空気」
須藤が吐き捨てるように言った。
彼は机に肘をつきながら苛立ったように舌打ちをし、
周囲を睨むように見回している。
「女子を見ただけで、あ、コイツ票入れてんのかなとか思うようになってる」
その言葉は正しかった。
男子たちはもう、女子をただのクラスメイトとして見られなくなっている。
候補者。
危険度。
投票対象。
そういうラベルが、視線へ強制的に貼り付けられている。
「仕方ないだろ」
山内が肩をすくめる。
「実際やってるんだから」
その瞬間、軽井沢の表情が露骨に冷えた。
「山内くんさ」
彼女はゆっくり山内を見る。
「結構楽しんでない?」
山内は一瞬だけ黙る。
だが、すぐに笑った。
「別に?」
その笑顔は軽い。
だが、その奥にある妙な高揚感を、軽井沢は見逃さなかった。
いや、軽井沢だけではない。
教室の男子たちも、女子たちも、なんとなく気づいている。
山内のようなタイプは、この試験で妙に生き生きし始めていた。
今まで手が届かなかった女子。
人気があった女子。
男子から注目されていた女子。
そういう存在を、投票という形で裁ける。
その構造が、彼の中に積み重なっていた劣等感を妙に刺激している。
「……ホント最悪」
軽井沢は視線を逸らした。
だが山内は止まらない。
「でもさ」
彼は小さく笑った。
「実際、女子って得してた部分あるだろ」
空気が止まる。
教室中の視線が山内へ向いた。
「何よそれ」
軽井沢の声が低くなる。
「いや、だってさ」
山内は端末をいじりながら続ける。
「可愛い女子って、男子から助けられたり優しくされたりしてんじゃん」
軽井沢の眉がわずかに動く。
「だから?」
「だから学校は、そこが問題って言ってんだろ?」
その瞬間、須藤が机を蹴った。
鈍い音が教室へ響く。
「テメェいい加減にしろよ」
教室が静まり返る。
山内は少しだけ怯んだ。
だが、それでも言い返す。
「何だよ!俺間違ったこと言ってねえだろ!」
「だからって女子を落としていい理由になんねえだろ!」
「でも投票しなきゃ減点じゃん!」
山内が声を荒げる。
「俺らだって被害者なんだよ!」
その言葉に、教室の空気が妙に重くなった。
被害者。
その単語は、男子側へ奇妙な逃げ道を与えていた。
確かに男子たちも完全な加害者ではない。
学校に強制されている。
投票しなければ減点。
白票でも不利。
つまり、誰かを選ばなければならない。
そしてその構造が、男子たちへ奇妙な言い訳を与えていた。
自分のせいじゃない。
学校がやらせている。
仕方なかった。
その逃げ道が、少しずつ人間を壊していく。
人は、自分を被害者だと思った瞬間、驚くほど残酷になれる。
「綾小路」
須藤がこちらを見る。
「お前どう思うんだよ」
教室中の視線が集まる。
オレは少しだけ沈黙した。
そして静かに答える。
「学校側は、男子を投票者にした時点で勝っている」
「どういう意味だ?」
「男子同士が、誰に入れたかを疑い始めている」
山内が顔をしかめる。
「女子側は、誰が自分を切ろうとしてるかを考え始めている」
オレは教室を見渡した。
「つまりこの試験は、男女対立だけじゃない」
静かな声で続ける。
「クラス全体を不信で分断するための試験だ」
誰も反論しなかった。
実際その通りだからだ。
教室はもう、以前の空気ではない。
笑い方。
会話。
距離感。
その全部へ、投票という概念が入り込んでいる。
「じゃあどうすんだよ」
須藤が苛立ったように言う。
「このままじゃ女子が……」
その言葉を、軽井沢が遮った。
「女子だけじゃない」
教室が静まる。
軽井沢は机を見つめたまま言った。
「男子も壊れてるじゃん」
その声は静かだった。
だが、だからこそ重かった。
「今のみんな、もう普通じゃないよ」
誰も言葉を返せない。
軽井沢の言う通りだった。
男子たちは、少しずつ順応している。
最初は拒絶感があった。
気持ち悪いと思っていた。
だが今は違う。
誰に票が集まっているか。
誰が危険圏なのか。
誰が助かりそうなのか。
そんな話を、当たり前のように始めている。
それが一番恐ろしかった。
人間は慣れる。
どれほど異常でも、毎日繰り返されれば日常へ変わる。
そして学校は、その過程そのものを観察している。
その頃。
別の教室では、さらに露骨な空気が形成され始めていた。
◯
龍園クラス。
そこでは男子たちの空気がDクラス以上に荒れている。
「で、誰に入れた?」
石崎が聞く。
「そりゃ一之瀬だろ」
小宮が答える。
「危険度高ぇし」
「でも白石もヤバくね?」
「いや、ああいうタイプは守る奴多いって」
そんな会話が、まるでゲーム攻略情報のように交わされている。
誰も罪悪感を表へ出さない。
いや、出さないようにしている。
その中心で、龍園翔は静かに笑っていた。
「面白れぇな」
石崎が不安そうに龍園を見る。
「何がですか?龍園さん」
「人間ってのはよ」
龍園は端末を弄びながら言った。
「ルール一つでここまで変わる」
その目は鋭かった。
「最初はみんな、最低の試験だって言ってた」
龍園は笑う。
「だが今はどうだ?」
誰も答えない。
「誰に票集まってるか、どいつが危ねぇか、そんな話ばっかしてやがる」
龍園は愉快そうだった。
「結局、人間は慣れるんだよ」
その言葉は、嫌になるほど正しかった。
◯
同時刻。
坂柳クラスでは、もっと静かな形で投票戦が進んでいた。
橋本が端末を見ながら言う。
「白石の票、昨日より減ってる」
神室が眉をひそめる。
「代わりに増えたのは?」
「長谷部と……一之瀬」
教室が静まる。
坂柳は小さく微笑んだ。
「やはりそうなりますね」
「どういうことだ?」
橋本が聞く。
坂柳は端末を閉じた。
「白石さんは分かりやす過ぎるのです」
白石飛鳥は昨日より明らかに疲れていた。
男子と距離を置こうとしている。
笑顔も減っている。
だが、それが逆に男子側の保護欲を刺激している。
だから危険度は少し下がった。
代わりに浮上したのは、もっと別の形で人間を動かす存在たちだ。
一之瀬の善意。
長谷部の閉鎖的人間関係。
そして――。
坂柳は目を細める。
学校側は、感情依存を測り始めている。
つまり、単純な人気投票では終わらない。
「坂柳さん……」
白石が小さく言う。
「私、ちょっと怖いです」
坂柳は彼女を見る。
白石飛鳥は、今まで“見られる側”でいることに慣れていた。
男子から好意を向けられる。
優しくされる。
守られる。
だが今は違う。
その視線が、“評価”になっている。
「怖くて当然です」
坂柳は静かに答えた。
「この試験は、人間の好意をそのまま凶器へ変えていますもの」
白石は俯く。
「私、普段通りにしてただけなのに……」
その言葉には、本物の苦しさがあった。
そしてそれは、一之瀬も、長谷部も、軽井沢も同じだった。
本人たちは、誰かを狂わせようとしたわけではない。
ただそこにいただけだ。
だが学校は、存在するだけで感情を動かす者を危険視している。
◯
放課後。
綾小路グループの空気はさらに悪くなっていた。
長谷部はほとんど口を利かない。
明人は苛立ち、愛里は怯え、幸村は疲弊している。
「……また上がった」
長谷部が小さく言った。
彼女の危険度は昨日よりさらに上昇していた。
理由は簡単だ。
綾小路グループ内で、男子たちが長谷部を庇う空気が強くなったから。
それ自体が、依存関係として学校側に評価されている。
「意味分かんない……」
長谷部は笑った。
だがその笑みは壊れかけていた。
「守ろうとされるほど危険って、じゃあどうすればいいの?」
誰も答えられない。
「一人になれってこと?」
長谷部の声が震える。
「誰とも仲良くするなってこと?」
その問いに、誰も答えられなかった。
なぜなら、この試験の答えは実際そうだからだ。
好かれるな。
頼られるな。
特別になるな。
感情を動かすな。
そういう人間だけが安全になる。
「ふざけるな……」
明人が低く言う。
「こんなの人間関係全部壊す気じゃないか」
「実際壊れてる」
幸村が静かに返した。
「もう前と同じ空気じゃない」
沈黙が落ちる。
その時だった。
教室の電子黒板が点灯する。
全員が息を呑んだ。
表示されたのは、第一回男子投票中間結果。
教室が静まり返る。
そして次の瞬間、ざわめきが爆発した。
1位が一之瀬帆波。
2位が長谷部波瑠加。
3位が白石飛鳥。
4位が櫛田桔梗。
5位が堀北鈴音。
順位が変動している。
そして何より――。
長谷部の順位が、異常な速度で上昇していた。
長谷部本人の顔から血の気が引く。
「……嘘」
彼女の声は震えていた。
明人が立ち上がる。
「何でだよ!?」
だがオレには分かっていた。
理由は単純だ。
長谷部を守ろうとする空気。
綾小路グループ内の結束。
男子側の庇護意識。
その全部が、学校側には限定依存として映っている。
つまり長谷部は、守られれば守られるほど危険になる。
「あんまりだよ……」
愛里が泣きそうな声で呟く。
その時、長谷部がゆっくりこちらを見た。
視線の先はオレだった。
怒り。
恐怖。
失望。
全部が混ざっている。
「……きよぽん」
長谷部の声は掠れていた。
「これ、最初から分かってたの?」
教室が静まり返る。
オレは少しだけ沈黙した。
そして答える。
「予想はしていた」
その瞬間、長谷部の表情が完全に崩れた。
「じゃあ何で言わなかったの……!」
その叫びは、教室中へ重く響いた。
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