女子生徒相互評価が始まった朝、教室の空気は、
男子投票開始時とはまた別の種類の冷たさを帯びていた。
男子投票が始まった時、女子たちはまだ被害者として一つにまとまる余地があった。
理不尽な制度に対して怒り、男子側の視線に怯え、
学校側の異常性を共有することができた。
だが今日からは違う。
女子もまた、誰かの名前を書かなければならない。
学年環境への影響が大きい女子。
その曖昧で、いくらでも悪意を混ぜ込める評価項目によって、
女子生徒たちは互いを見つめ直すことを強制されていた。
誰が男子を集めているのか。
誰が守られすぎているのか。
誰が目立ちすぎているのか。
誰が悲劇の中心に立っているのか。
誰が自分よりも大切に扱われているのか。
そうした、普段なら言葉にしない感情が、投票という形で出口を与えられてしまった。
「……最悪」
軽井沢は、端末に表示された女子相互評価の画面を見つめながら、小さく呟いた。
その声には、怒りもあった。
苛立ちもあった。
だがそれ以上に、疲労が濃く滲んでいた。
彼女はこの数日で明らかに消耗している。
最初は候補ではなかった。
だからこそ、まだ自分は安全側だと思う余地があった。
一之瀬や櫛田や長谷部や堀北や白石。
初期候補として表示された名前を見て、胸を痛めながらも、
どこかで自分はそこから少し離れていると思っていたのかもしれない。
だが中間総合評価で、その逃げ道は完全に塞がれた。
4位。
軽井沢恵。
依存連鎖型。
過去の保護関係。
恋愛関係。
精神的依存構造。
特定男子生徒との心理的接続。
学校は彼女の過去も、弱さも、立ち直りも、
誰かに頼った記憶さえも、全部まとめて危険因子として表示した。
「軽井沢さん、大丈夫?」
佐藤が恐る恐る声をかける。
その声には本物の心配があった。
だが軽井沢は、反射的に肩を強張らせた。
「……やめて」
佐藤が息を呑む。
軽井沢はすぐに、自分の言い方がきつかったことに気づいたのだろう。
だが謝れない。
謝ることすら、また別の感情を呼び込むかもしれない。
優しくされれば危険度が上がる。
泣けば同情が集まる。
強がれば反感を買う。
怒れば女子相互評価で“攻撃的”と見られる。
黙れば孤立傾向。
笑えば余裕があると誤解される。
この試験では、どんな反応にも逃げ道がない。
「ごめん」
軽井沢は視線を落としたまま言った。
「でも今、そういうの無理」
佐藤は口を閉じた。
教室の空気がまた重くなる。
女子同士の会話すら、今は危険だった。
誰かを励ます言葉が、その誰かの危険度を上げる可能性がある。
誰かを避ける行為が、その誰かの孤立を深め、また別の危険度を生む。
どちらも正しくなく、どちらも間違っている。
そういう構造になっている。
オレは自分の席から、軽井沢の横顔を見ていた。
彼女の表情はいつもより硬い。
髪を触る仕草も少ない。
教室内の女子たちと目を合わせる回数も減っている。
明らかに、周囲との距離を測っている。
これまで軽井沢は、
女子グループ内で自然に立ち回ることで自分の居場所を作ってきた。
明るく振る舞い、空気を読み、時には少し強く出て、時には誰かに合わせる。
それは彼女の生存術でもあった。
だが今、その生存術そのものが危険視されている。
「綾小路くん」
堀北が低い声で話しかけてきた。
「軽井沢さんの順位、今日さらに上がる可能性があるわ」
「そうだな」
「女子相互評価が始まったから?」
「それもある」
堀北は電子黒板を見る。
まだ更新前のランキングが表示されている。
一之瀬、長谷部、堀北、軽井沢、ひより。
その下に白石、坂柳、櫛田。
「軽井沢さんは、男子票だけならそこまで上がらなかったかもしれない」
堀北は静かに言った。
「でも女子相互評価では、彼女の立場は危うい」
「理由は?」
分かっていて聞いた。
堀北は一瞬だけ目を伏せ、それから答える。
「女子から見た時、彼女は守られている側に見えやすいから」
その通りだった。
軽井沢恵という少女は、表面的には強い女子に見える。
派手で、口調も強く、女子グループ内でも影響力がある。
しかし、この試験が提示した依存連鎖型という分類は、
彼女の別の側面を強引に可視化した。
守られている。
誰かと特別な関係がある。
過去に助けられた。
そういう情報が、女子たちの中に複雑な感情を生む。
同情。
嫉妬。
反発。
疑念。
そして、どうして彼女だけがという感覚。
「厄介なのは、軽井沢自身に悪意がなくても票が入ることだ」
オレは言った。
堀北は黙って続きを促す。
「女子側は、男子に媚びる女子を嫌うだけじゃない。
男子から守られている女子も嫌う場合がある」
堀北の目がわずかに細くなった。
「あなた、随分はっきり言うのね」
「事実だ」
「そうね」
堀北は否定しなかった。
「ただ、それを本人の前で言えば、あなたはまた嫌われるでしょうね」
「構わない」
堀北は小さく息を吐いた。
「そういうところよ」
その声には呆れがあった。
だが、怒りだけではない。
彼女もまた、この状況で感情論だけでは突破できないことを理解している。
◯
昼休み。
軽井沢はいつもの女子グループから少し離れた席にいた。
誰かと一緒にいれば集団内影響として見られ、
男子と話せば異性交友として記録され、
綾小路に近づけば特定男子生徒との心理的接続として再び危険度が上がる。
だから彼女は、誰とも深く関わらない位置を選んでいた。
だが、その孤立すら周囲の目を集める。
「軽井沢さん、最近一人多くない?」
「やっぱり綾小路くんと何かあるから?」
「守られてる子っていいよね」
「でも、ああいうのが一番危ないって学校も言ってたし」
小さな声。
聞こえないようで、聞こえる距離。
軽井沢の指がわずかに震えた。
彼女は反論しない。
反論したら、注目される。
注目されれば、また数値が動く。
だから耐える。
だが、耐えることもまた周囲の同情を誘う。
試験は、どこまでも彼女を逃がさない。
「大丈夫?」
声をかけたのは、櫛田だった。
軽井沢の表情が一瞬だけ硬くなる。
櫛田は柔らかい笑顔を浮かべていた。
表面上は優しい。
いつも通りの櫛田桔梗。
だが、軽井沢ももう分かっている。
この状況で櫛田が何の計算もなく動くはずがない。
「別に」
軽井沢は短く答えた。
「そっか。無理しないでね」
「……何が言いたいの?」
軽井沢の声が低くなる。
櫛田は困ったように眉を下げた。
「そんなつもりじゃないよ。ただ心配で」
「心配?」
軽井沢は笑った。
「その心配も指数に使われるんでしょ?」
櫛田は一瞬だけ黙る。
だがすぐに、また柔らかく笑う。
「軽井沢さん、少し疲れてるんだね」
その言い方は優しい。
だが、周囲に聞こえる程度の声量だった。
軽井沢の目が鋭くなる。
櫛田は今、軽井沢を情緒不安定な候補者として周囲に見せようとしている。
明確な攻撃ではない。
むしろ心配する側の態度を取っている。
だから咎めにくい。
しかし、それこそが櫛田の厄介さだった。
「櫛田」
オレが声をかけると、彼女はゆっくりこちらを向いた。
「何かな、綾小路くん」
笑顔。
だが目だけは笑っていない。
「その辺にしておけ」
「え?」
櫛田は首を傾げる。
「私、ただ軽井沢さんを心配してただけだよ?」
「そう見えるようにしていただけだろ」
周囲の空気が止まる。
軽井沢もこちらを見る。
櫛田の笑顔は崩れない。
「ひどいなぁ。綾小路くんまでそんなこと言うんだ」
「今の軽井沢に同情の視線を集めれば、依存連鎖型の数値は上がる可能性がある」
「……」
「それを分かっていて声をかけたんじゃないのか」
櫛田の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。
周囲の女子たちがざわつく。
軽井沢は唇を噛んだ。
彼女は守られた形になった。
だがそれは同時に、さらに危険な意味を持つ。
綾小路が軽井沢を庇った。
それだけで、学校側はまた特定男子生徒との心理的接続を拾うかもしれない。
軽井沢はそれを理解していた。
「……やめてよ」
彼女は低く言った。
その声はオレへ向いていた。
「助けたつもり?」
「必要だと判断した」
「その判断が、あたしを危なくするかもしれないんでしょ」
教室が静まる。
軽井沢は立ち上がった。
「だったら何もしないでよ」
その言葉は鋭かった。
だが、完全な拒絶ではない。
むしろ、助けてほしいのに助けられることが怖いという矛盾が滲んでいた。
「軽井沢さん……」
佐藤が声をかけようとする。
軽井沢は首を振る。
「だから、やめてってば」
そう言って、彼女は教室を出ていった。
誰も追わなかった。
追えば、また彼女を危険にするかもしれないからだ。
◯
放課後。
オレは校舎裏へ向かった。
軽井沢がそこにいる可能性は高いと思っていた。
人目が少なく、監視の印象も薄く、誰かと会話しているところを見られにくい場所。
ただし、この学校で完全に見られていない場所など存在しない。
それでも、教室にいるよりはましだった。
案の定、軽井沢は校舎裏の壁にもたれていた。
夕方の光が彼女の髪を淡く照らしている。
だが、その表情は暗かった。
「来ないでって言ったじゃん」
「言われていない」
「似たようなことは言ったでしょ」
軽井沢は顔を上げない。
「ここにいると指数が上がるかもしれないぞ」
オレが言うと、彼女は小さく笑った。
「じゃあ帰れば?」
「そうした方が合理的かもしれない」
「……ムカつく」
彼女は壁にもたれたまま、空を見上げた。
「ねえ、清隆」
「何だ」
「私、また道具なの?」
その問いは静かだった。
だが、軽く受け流せるものではなかった。
「どういう意味だ」
「分かってるくせに」
軽井沢はこちらを見た。
目元が少し赤い。
だが泣いてはいない。
泣かないようにしている。
「あたしのこと、守る気あるの?」
「状況次第だ」
「またそれ」
彼女は笑った。
「最初から分かってたけどさ、やっぱりムカつく」
沈黙。
「あたし、自分で思ってたよりあんたに頼ってたんだと思う」
軽井沢は言った。
「でもそれを学校に見られて、数字にされて、みんなの前に出されて……」
声が少し震える。
「依存連鎖型とか、何それ」
彼女は自分を嘲るように笑った。
「あたしが弱かったことまで、退学理由になるんだ」
「退学理由と決まったわけじゃない」
「でも危険なんでしょ」
「そうだ」
軽井沢は目を伏せる。
「否定してよ」
「嘘は言わない」
「最低」
そう言ってから、彼女は少しだけ黙った。
「でも、そういうところを分かってて頼ったあたしも馬鹿だよね」
その声には、自嘲があった。
軽井沢は強い少女ではない。
少なくとも、最初から強かったわけではない。
彼女は弱さを隠すために強く見せてきた。
傷つけられた経験を隠すために笑い、孤立を避けるためにグループへ属し、
利用されないために他人を利用するように見せた。
だが、その奥には恐怖がある。
見捨てられる恐怖。
再び一人になる恐怖。
そして今、その恐怖を学校が正確に拾い上げている。
「きよ……綾小路くん」
軽井沢は静かに言った。
「あたしを切る?」
オレは答えなかった。
彼女は続ける。
「一之瀬さんも、堀北さんも、長谷部さんも、
椎名さんも、坂柳さんも、みんな危ないんでしょ」
「そうだな」
「その中で、あたしを残す意味ある?」
これは、試しているのではない。
本気で聞いている。
自分に価値があるのか。
自分は誰かより優先される存在なのか。
この試験は、そういう問いを生徒に突きつける。
「現時点では、全員を残す方法は見えていない」
オレは答えた。
軽井沢の表情がわずかに歪む。
「つまり、誰かは切るってこと」
「そうなる可能性が高い」
「それがあたしでも?」
「必要なら」
その瞬間、軽井沢は笑った。
泣く直前のような、壊れかけた笑みだった。
「そっか」
短い言葉。
だが、その中にどれだけの感情が押し込められていたか、分からないはずがない。
「やっぱり、あたしはまだ道具なんだ」
「軽井沢」
「いいよ、もう」
彼女は首を振った。
「あんたがそういう人間なのは知ってた」
知っていた。
だが、それでもどこかで期待していたのだろう。
自分だけは違うのではないか。
自分だけは守られるのではないか。
それは甘えではない。
人間なら当然抱く感情だ。
だがこの試験は、その感情すら切り捨てる。
「でもね」
軽井沢はまっすぐこちらを見た。
「もしあたしを切るなら、ちゃんと切って」
その声は震えていなかった。
「中途半端に助けるふりして、期待させて、最後に捨てるのだけはやめて」
それは、彼女なりの精一杯の抵抗だった。
守ってほしいとは言えない。
切らないでとは言えない。
だからせめて、曖昧にしないでほしい。
その要求は、あまりにも悲しかった。
「分かった」
オレは答えた。
軽井沢はまた笑った。
今度の笑みは、少しだけ諦めに近かった。
「ホント、最低な返事」
その時、端末が震えた。
全校通知。
【女子相互評価・第一回集計結果を更新しました】
軽井沢の表情が凍る。
彼女は震える指で端末を開いた。
オレも画面を見る。
ランキングが更新されていた。
1位、一之瀬帆波。
2位、堀北鈴音。
3位、軽井沢恵。
4位、椎名ひより。
5位、長谷部波瑠加。
6位、坂柳有栖。
7位、白石飛鳥。
8位、櫛田桔梗。
軽井沢の順位が上がっていた。
女子相互評価によって。
彼女はしばらく画面を見つめていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「女子にも、そう思われてたんだ」
その声は、とても小さかった。
「あたしが……危険だって」
オレは何も言わなかった。
言える言葉がない。
彼女を慰めれば、それはまた危険度を上げるかもしれない。
突き放せば、彼女はさらに孤立する。
どちらも正しくない。
どちらも残酷だ。
軽井沢は端末を閉じた。
「もう戻る」
「一人で大丈夫か」
そう言った瞬間、彼女は振り向いた。
「そういうの、やめて」
その声は鋭かった。
「心配されたら、また上がるかもしれないじゃん」
そして、彼女は歩き出した。
背中は小さく見えた。
だが、追うことはできなかった。
追えば、彼女をさらに危険にする。
それが分かっているからこそ、オレは動かなかった。
夕暮れの校舎裏に、一人分の足音だけが遠ざかっていく。
その音を聞きながら、オレは更新されたランキングを再び見た。
一之瀬。
堀北。
軽井沢。
ひより。
長谷部。
坂柳。
白石。
櫛田。
初期候補は完全に崩れた。
そして本当の退学候補が、形を取り始めている。
軽井沢恵は、その中心に入り込んだ。
守られたこと。
頼ったこと。
依存したこと。
生き延びるために必要だった関係が、今は彼女を退学へ近づけている。
この試験は、人間の弱さを許さない。
いや、強さも許さない。
優しさも、静けさも、人気も、孤独も、依存も、支配力も、
すべてを危険因子へ変える。
その中で勝つには、誰かを救うだけでは足りない。
誰かを選び、誰かを切らなければならない。
軽井沢の背中が完全に見えなくなった後、オレは端末を閉じた。
もうすぐ、この試験は後戻りできない段階へ入る。
そしてその時、彼女はきっと理解する。
オレは、彼女の味方である前に、この試験の勝者であろうとしているのだと。
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