サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching 作:飛白玄
第1話 猫と目が合ったってだけの話
夜の山陰特区はひどく正直だった。
アスファルトは割れたまま、信号機は壊れたまま点滅し、消えかけのAR広告は期限切れのキャンペーンを垂れ流していた。人の手が行き届かない場所ほど、街は本音を晒す。
企業区画だけが、そこから切り取られたみたいに滑らかだった。
アクシオム・ニューロリンクの研究棟外周は、その最たるものだ。
ARの装飾レイヤーを切ってもなお、白く、無菌で、静かだった。外壁に沿って剪定された植栽が並び、赤外線フェンスは見えず、警備ドローンの巡回軌道は時計の内部みたいに正確だった。豊かさは騒がず、他者の息遣いだけを目立たせる。
耳元で、
「予定より12分オーバーです。帰りませんか」
和佳が視線を向けると、汚れ一つない、整いすぎた少年の穏やかな眼差しとピタリとあった。長く息を吐く。それが了承だと伝わるくらいには付き合いが長い。
彼女は細い身体を壁に沿わせ、植栽の間を横切った。靴底が音を立てない角度を選ぶのは考えてのことではない。何度も失敗し、ようやく骨身で覚える。ドローンの視野、警備の巡回癖、センサーの範囲。ひとつでも読み損なえば終わる。
研究棟の非常口付近まで寄ったところで、空気が変わった。
最初に気づいたのは音だった。施設の抑制された静けさが綻ぶ。直後、建物のライン照明が一段階だけ明るさを増し、巡回ドローンの高度が下がる。
和佳は足を止めた。何かあった。
企業施設の警備が急に濃くなる理由なんて、だいたいろくでもない。侵入者、事故、制御の異常、盗難。通信密度の立ち上がりが一番速いのは人が死んだときだ。どれも面倒だし、彼女には等しく関係がない。……が、足が半拍遅れた。
「撤収しましょう」
悠理の声が、さっきより少しだけ硬い。
施設内でスピーカーが低く吠えている。遮音壁と暗号化で内容までは拾えない。ただ、緊急コードなのは確実で、現場封鎖寄りの手順だ。
「ルート出します」
危険度に応じて薄く色づく視界の中、退路が五つに分岐する。次々と消え、最も帰還成功率の高いものが残った。
未練がましく一度振り返ってから、和佳は踵を返した。ここでの格好つけは勇気ではなく知能の不足だ。
視界の端で、黒い影が走った。
小さい。低い。人間ではない。警備が探しているのは、あれか。
すぐあとから、二人分の足音が角を曲がってくる。和佳は排熱管の支柱に指をかけて腕の力だけで上へ逃げ、わずかな力みもなく保守足場に着地した。
下で警備員が罵声まじりに何かを叫んでいる。識別コード、ブロック封鎖、捕獲優先。物騒な単語ばかりで、逆に中身がぼやける。
彼女は細い梁を渡り、あらためて周囲を見回す。左から来るはずのドローンが遅い。異常対応でルートが再編されている。なら、遅れてくる個体と早回りした個体のあいだに、短い空白がある。
そこへ身体を通した。
ドローンのサーチ光と赤外線フェンスを飛び越え、外へ落ちるように降りた。全身の関節を総動員して着地の音を殺す。路肩に放置された廃車の陰に転がり込んだ。背中を伝う粘り気のある汗は、熱遮蔽コートにこもった体温のせいではない。あと数秒遅ければ、面倒では済まなかっただろう。
和佳は胸元を緩めつつ立ち上がると、何食わぬ顔でその場を離れた。肩の力を抜き、歩幅を半歩だけ崩し、夜更けの街を急ぎすぎない女に見せる。いつの間にか小細工ばかりが上手くなった。
背後の企業区画から漏れる光は、ここ数日で一番忙しない。アクシオムは何かを取り落とした。そうでなければ、あんな探し方はしない。
「今夜の戦果は、生きてることですね。控えめに言って上々です」
「安い戦果ね」
「高い命ですよ」
軽口だ。いつものように。
そのまま隣の通りに出る。空気が急に貧しくなった。排熱と焦げたプラの匂い、湿ったゴミ、酒の抜けた息。生きている街の匂いだ。研究棟の選び抜かれた管理臭より、よほどましだった。
おもむろに路地に入ってすぐに曲がる。それを数度繰り返したところで、和佳は足を止めた。
黒猫がいた。
街灯の切れ目、雨の残りが薄く光るアスファルトの上に、猫は座っていた。逃げる気配はない。威嚇もしない。ただ、じっとこちらを見ている。
和佳は目を細めた。
研究棟から逃げた影。毛並みは汚れているが、痩せ方が野良のものではない。首輪は見えない。特徴点解析は七割で同じ個体と判定した。だが、不釣り合いに澄んでいる目は間違いようがない。
「こっち見てますね」
悠理が分かり切ったことを言う。
「私を、でしょ」
猫の耳がわずかに動いた。
和佳が一歩、踏み出す。
猫は逃げなかった。少しだけ下がって、止まり、振り返る。
和佳がもう半歩近づくと、猫はするりと路地の奥へ入った。慌てて追うほどの距離ではない。焦らせる絶妙な遠さだった。
誘っているようでもあり、試しているようでもある。
──ふざけた話だ。
追う価値はある。たぶん。いや、きっと。だが、今夜は頭を使いすぎた。こういうときに飛び込んで、ろくな目に遭った試しがない。
「どうしますか」
「行かない。……今は」
「同意見です」
「珍しい」
「いつもそうでしょうに」
和佳は猫の消えた暗がりを見つめた。闇のほうがこちらを見返しているような、不愉快な気配があった。
「……ま、今夜は顔見せってことで」
どこかで小さく何かが鳴って、今度こそ猫は消えた。和佳にはそれが、悪態のように聞こえた。
鼻から息を抜いて、かつてはお高いバーだったろう建物の壁に寄りかかる。ARネオンの残骸から埃がパラパラと落ちた。苛立ちまぎれに空き缶を蹴る。悠理の足元をすり抜けて排水溝に落ちた。
「次はあまり粘らないでくださいよ」
「慌てるアクシオムが見られたじゃない」
「ただの生存者バイアスです」
和佳は鼻で笑った。声が掠れるのまでは誤魔化せなかった。悠理はそこを聞き逃さない。だが追及もしない。本当にまずい時だけ、彼は余計なことを言わない。
和佳は空を見上げた。月も星もよく見えない。研究棟の青白い予備灯、警備の足音、黒い影。頭の中で順番に再生される。
「事故、ねえ」
「企業の言う事故は、だいたい誰かの片付け損ないです」
「言うようになったなあ」
「和佳さんのご指導の賜物です」
それはたぶん逆だ。和佳のほうが、彼の冷えた言葉選びに寄った。
しばらく黙っていると、あの猫の目がまた浮かんだ。
逃げるより先に、こちらを測っていた目だった。
悠理が静かに言った。
「あれ、観察じゃないですよね」
「うん」
「確認って感じでした」
和佳は目を閉じた。
何を。誰を。
その答えは、まだ形にならない。ただ一つだけは分かる。あの猫は研究棟から逃げてきた。そして、逃げた先で和佳の前に現れた。偶然と切って捨てるには、少し出来すぎている。
壁から背を離し、和佳は耳裏のiパッチを指で叩いた。反応が遅いと、つい叩くのは昔からの悪癖だ。網膜に半透明の仮想ウィンドウが表示される。
粗い映像だが、路地口で猫を捉えた数秒が残っていた。上に放るジェスチャーでクラウドに保存する。
念のため仕掛けてみるか。大した期待はない。だが、見られることで浮くものもある。この街では特に。
「もう寝たほうがいいですよ」
と悠理が言った。
「命令?」
「助言です。僕はいつでも礼儀正しいので」
「嘘つき」
「和佳さん相手には、なるべくです」
その返事に、和佳は少しだけ口元を緩めた。
雲の切れ目で路地に月明かりが戻る。ひびの入った窓に映る自分の顔は、眠そうで、くたびれていて、摩耗しきった平凡な女にしか見えない。だがその背後には幾つもの厄介ごとが沁みついている。
猫の目だけが、妙に鮮明だった。
あれは普通じゃない。
──そしてたぶん、あちらも同じことを思っている。