サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching 作:飛白玄
【インタールード3 折り重ねられた日常】
その夜、ユナは部屋の明かりを消し忘れたまま、ベッドの端で膝を抱えていた。
泣いた理由は、もうよく覚えていない。学校で何か言われたのか、母にきつく叱られたのか、父に会えない日が続いたからなのか。どれも正しくて、どれも違う気がした。ただ、胸の奥に小さな石のようなものが詰まっていて、飲み込むことも吐き出すこともできなかった。
窓の外で、爪が一度だけ鳴った。
ユナが顔を上げると、黒い影がベランダの手すりにいた。ノクスは、いつものように入ってきた。音もなく床へ降り、尾を立て、部屋の中を一周してから、ベッドへ跳び上がる。
「勝手に入ってきた」
ユナは鼻をすすりながら言った。
ノクスは答えない。答えるわけがない。ただ、濡れた目元を見上げるようにして、ユナの膝へ前足を乗せた。
「ノクスはいいよね」
ユナは指先で、黒い額の毛並みを撫でた。
「何も言わなくていいから。怒られないし、説明しなくていいし、変な顔されないし」
ノクスは目を細めた。喉の奥で、小さな音が鳴る。機械ではない。言葉でもない。生き物の中だけにある、柔らかい振動だった。
ユナはその音に耳を寄せた。
「でも、ノクスがしゃべったら、うるさいかも」
黒猫は抗議するように尾を一度だけ動かした。ユナは微笑んだ。無理やりに笑うと、胸の石がほんの少しだけ位置を変えた。
そのままユナは、ノクスを抱きしめた。猫の身体は温かく、軽く、頼りない。けれど逃げなかった。腕の中でじっとして、額をユナの手首へ押しつけている。
「お父さんも、ノクスみたいに勝手に帰ってくればいいのに」
言ってから、ユナは自分で嫌になった。
「今のなし。ノクスに言ってもしょうがないもんね」
ノクスは何も言わなかった。
ただ、喉を鳴らし続けた。
その沈黙の中に、言えなかった言葉がいくつも折り畳まれていたことを、ユナはまだ知らなかった。
*
猫は、死にかける時に静かになるのではなく、静かになる余裕すら失うのかもしれない。
ノクスは、薄い毛布の上でほとんど動かなかった。眠っているようにも見える。だが、瞼の裏に落ちる休息の深さがない。呼吸は短く、胸郭の動きは小さく、耳だけが時々こちらの音を拾って震えた。生きているものが、すでにどこかへ片足を踏み外している時の気配だった。
夜明け前の灰色の光が、カーテンの隙間から細く差しこんでいる。
ユナが沈痛な顔で、氷の入った袋をノクスの首筋に当てていた。真琴は使い終わった無針注射器をゴミ箱に捨て、次のアンプルを用意した。
「……血糖を随時補充しつつ冷却するとして、あと10時間ってところです」
悠理の声は冷えていた。落ち着いているというより、余計なものを最初から切り落としている感じがある。
「なんとかできない?」
和佳は悠理を見た。ノクスにアクセスしたときに、アニマ・ライドの中身はほぼ把握できているはずだ。
悠理ははっきりと首を振った。和佳を優先して切り捨てる仕草ではなかった。
「なにせ元の肉体がもうありませんから。補助脳内に異常形成されていた代行自己モデルと生体の脳神経系との認知ループ――人間の意識らしきもののことですが、これを長期維持するのはそもそも無理がある。大型の端末に繋いで、最適化して、それでもあと三日。あくまで理論値です」
「要するに」
和佳は、言葉を選ぶのを途中で諦めた。
「帰る身体はもうない。でも、猫の中に父親の形だけ残ってる。で、その形を猫の脳と補助脳が無理やり支えてる」
「雑ですが、だいたい合ってます」
「それ、猫にも父親にも地獄じゃない」
「はい」
和佳は喉の奥で短く息を吐いた。
理論値。便利な言葉だ。現実はたいてい、それより先に壊れる。
ユナは無言でノクスを看病していた。
訊きたいことがないわけではない。
ユナの視線は、真琴とノクスのあいだを何度も往復していた。
むしろ、訊きたいことしかない。
けれど、それを順番に口へ出していけば、どこかで本当の形が決まってしまうのを分かっているようでもあった。
真琴は注射器を置き、娘の隣へ座った。
急かさない声で、けれど曖昧にはせず、ユナに説明した。ノクスにはもうほとんど時間が残っていないこと。選択肢は、たぶん二つしかないこと。
本当のことを法的な証拠として通そうとすれば、ノクスは死ぬだろうこと。
隠せば、ノクスの中の父の残滓が静かに消えて、最初から全てがなかったことになるだろうこと。
言葉は丁寧だった。丁寧だから、余計に残酷だった。
ユナは途中で一度も口を挟まなかった。
分からないからではない。分かってしまったことを、すぐには言葉にできなかったからだ。
説明が終わると、部屋が静かになった。
ノクスの呼吸だけが、毛布の上で短く上下している。
ユナは即席の氷嚢をノクスのうなじに当てながら、その顔を見つめていた。
黒い毛並みは思っていたよりも薄かった。背へ手を置くと、骨のかたちがすぐ下にある。生き物に触れているというより、今にもほどける何かを押さえている感触だった。耳の後ろからうなじにかけて。補助脳の埋設されたあたりだけが、冷やされてなお、たしかな熱を持っている。
毎晩、散歩に来ていたノクスの中に父がいた。
理屈より先に、そのことだけが手のひらへ伝わってくる。
ノクスが短く鳴いた。ただそこにいると知らせるような、ほとんど空気の抜ける音だった。
ユナは目を伏せたまま、その背をそっと撫でた。
黒い毛並みも、痩せた背も、もうただの猫には戻らない。けれど、人間として抱きしめることもできない。その半端さが、たまらなく残酷だった。
真琴は娘の背に手を置いたが、何も言わなかった。
和佳は少し離れた場所で、二人を見ていた。
昨夜の熱はまだ頭の奥に残っている。けれど今、この部屋でいちばん重いのは、少女が受け取った事実のほうだった。
ユナは口を開きかけて、閉じた。
一度、ノクスを見て、次に真琴を見た。けれど、母に答えを求めることはしなかった。
聞かなくとも、答えの輪郭だけは見えてしまっていた。
「このままだと」
ユナは顔を上げないまま言った。
「お父さんがいたこと、消えちゃうんだね」
問いというより、確認だった。
真琴は少しだけ間を置き、それから答えた。
「……消えるわけじゃない。でも、誰にも残らない形になる」
声は静かだった。
「ごめんなさい。ユナ」
ユナは頷いた。
頷き方まで静かだった。泣き出しもしないし、怒りもしない。その代わりに、何かを胸の内側へ一枚ずつ沈めていくみたいだった。
わかりたくはない。ただ、もうわからないふりはできない。
ノクスがまた短く鳴いた。
その声へ、ユナが目を向ける。
まだ、何かを決める直前ではない。
それでも、誰かに決めてもらうだけではいられないところまで、ユナは来てしまっていた。
その時、悠理の気配がすっと変わった。ひとつの方向へ尖る。
「追手が来ました」
和佳は座り込んだまま視線を上げた。
「だいぶ早いな」
「今回は数を連れています。質は前の連中とそこまで変わりませんが、全員が銃器で武装しています。あと別口が一人。ティールのアイコンを隠そうともしてない」
頭の奥で、嫌な熱が一段増した。悠理がすでに回線の向こうを見ている証拠だ。
「……榊」
「はい。本人です」
和佳の一言で、部屋の温度がまた変わった。真琴の指先がわずかに強張る。ユナは声を上げない。ただ、毛布の端を握る手だけが白くなった。
「わざわざ自分で?」
和佳が低く言う。
「戦いに来るわけではないでしょう。確認と回収です。どこまで漏れたか、自分の目で見たいんじゃないですか」
それは、榊らしい気がした。怒鳴って殴るためではなく、片をつけるために現場へ来る。最後まで正しい顔のまま、人を潰す類の人間だ。
「今すぐオリジン証明に入れば、榊が来る前に終わらせられますよ」
悠理が言った。
今すぐノクスの生体脳と知覚ログを同期させれば。
脳に致命的な損傷を与えれば。
「迷う時間が、一番危険です」
正しい。たぶん、ほとんど完璧に正しい。
和佳はユナを見た。小さな手が、ノクスの背に置かれている。
「却下」
「理由を教えてください」
「迷ってるのが、私じゃなくて依頼人だから」
和佳は頭を振りつつ立ち上がる。悠理が深くため息をついた。
「相手してやらないと」
真琴が顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「この短時間で嗅ぎ付けてきたくらいだから。逃げても状況が変わらない。なによりノクスがもたない。何を選ぶにせよ、ある程度の対処はしないと」
悠理がすでに建物周辺の古い設備へ触り始めている感覚があった。
頭痛が細い針みたいに増えていく。二本、三本と増えて、こめかみの奥で同じ一点を叩き始める。 和佳は顎に力を入れて悪態を飲み込んだ。
「ユナはここに居て。神崎さんも」
「でも」
「今は言うこと聞いて」
ユナは一瞬だけ迷い、それから頷いた。真琴がユナをかばうように寄り添った。
和佳は玄関側へ向かった。
気配はすぐに近づいてこなかった。代わりに、建物の外側へ人の配置だけが増えていく。囲って、出口を減らし、その上で中の様子を見る並びだ。
「外は八。いえ、十に増えました。ばらけています」
「周りのやつらは、止められる?」
和佳が訊く。
「……いきなり押し入らせない程度ですよ」
仕方なさそうに、悠理が答えた。
「うん。それでいい」
次の瞬間、建物の外で何かが連続して誤作動を起こした。
見回りドローンが高度を下げ、男たちの前に浮いた。
『夜間移動理由を申告してください。職業欄と携行品欄に不一致があります』
男の一人が舌打ちする。撃てば騒ぎになる。無視すれば記録が残る。迷いながらたどたどしい言い訳を始めた。
道路脇の安全ポールが、通学時間帯でもないのにせり上がった。説明表示には、幼児飛び出し警戒中、と出ている。こんな時間に幼児はいない。だが、都市管理AGIは真顔でそう言い張っていた。
別のところでは、防災スピーカーの声が、眠った街に丁寧に響いた。
『近隣区画でガス濃度異常を検出しました。安全確認が完了するまで、当該路地への進入を控えてください』
嘘ではない。悠理が、古いセンサーにほんの少し不安を思い出させただけだ。
代償はすぐに来た。和佳の視界の端が白くささくれ、熱病にうかされたように思考が鈍った。歯を食いしばるが、膝が一瞬だけぐらつく。
「……まだ平気だから」
「足にきてるじゃないですか」
「ここで引くわけにもいかないでしょ」
「榊が来ます」
和佳は無言で玄関を開けた。対峙は、相手の顔を見てするものだ。
最後の一人が、堂々と正面から近づいてきた。
エントランスの照明が、彼の顔に影を作らない角度へ変わる。
清掃ロボが通路の端へ退き、靴先の雨粒だけを吸い取った。
認証パネルは、彼が手を伸ばす前に承認を終えている。
エレベーターは途中階の呼び出しをすべて無視して降りてきた。扉が開く。中の鏡面には、ネクタイの傾きを示す補正ラインだけが薄く浮かんでいた。
街が、榊エルナンデス圭介という人間の前で、姿勢を正している。
仮想ウィンドウ越しにその光景を見て、和佳は心底うんざりした。
そうして、和佳の目前に榊が立った。
背が高い。チャコールグレーのスーツは、一目でオーダーメイドだとわかる。鍛えた体格だが、それだけだ。動きに無駄がないのは、戦闘の訓練ではなく、自分の乱れを人に見せない習慣のせいだろう。
装飾レイヤーは実像からわずかにシャープで、少しだけ解像度が高い。実在感を上げるだけの微調整は、その実、派手な装飾より必要リソースが遥かに多い。
榊はつまらなそうに周囲を一瞥し、次に和佳を見た。
驚きはない。苛立ちも表に出さない。
ただ、計算の下一桁を、一つずらした。