サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching   作:飛白玄

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第12話 猫は振り返る(あるいは振り返らない)

 それからしばらく、ユナは一言も口を利かなかった。

 怖かったからだけではないだろう。怖いのもある。だが、それより先に、口を開いたその瞬間に何かが決まってしまう気がしたのかもしれない。見届ける、というのはたいてい、触れるより勇気が要る。

 短期滞在用の古いマンションは、昼でも陰が抜けきらなかった。

 市街地の端にあるせいで、窓の外の音は薄く、代わりに山側の湿った空気だけが残っている。 安い壁紙、浅い床鳴り、生活の気配の薄い台所。事件のあとを片づけるにはちょうどいいが、人間が落ち着くには少し空虚すぎる。

 窓から入る夕方手前の光も、部屋を明るくするより、残っているものを薄く見せるためにあるみたいだった。

 ノクスは毛布の上に伏せたまま、ほとんど動かない。丸くもならず、逃げもせず、ただ床へ小さく置かれている。呼吸は浅い。耳だけが時々わずかに震え、そのたびに、まだ完全には切れていない何かを感じさせた。

 和佳は部屋の隅に座ったまま、二人を見ていた。悠理は何も言わなかった。

 ユナは毛布の端に膝をつき、そっとノクスの前へ手を差し出した。ノクスはしばらく動かなかった。やがて、昔の習慣を思い出したみたいに、その指先へ鼻先を寄せた。ごく弱い反応だ。だがゼロではない。

「……ノクス」

 ユナの声は細い。名前を呼ぶたび、意味が一つずつ剥がれていくみたいだった。猫の名前であり、父へ届いてほしい呼びかけでもある。

「お父さん」

 その呼びかけに、ノクスは耳を動かした。ほんのわずかに。だが、その動きに父がいたかどうかを、もう誰も判定できない。ここから先は、科学の話ではなく、残った人間がどの程度の揺れを意味と呼ぶかの話になる。

 ユナは何度か名前を呼び、それからただ黙って猫を見た。頬を伝う涙はあったが、嗚咽はない。喪失の大きさに対して、泣くことが少し足りない時、人はああいう顔をする。

「まだ、いる?」

 問いは誰に向けたものでもないように聞こえた。真琴も和佳も答えない。答えられないからだ。

 代わりに、ノクスがゆっくり瞬きをした。猫なら普通にする仕草だ。普通にする仕草なのに、ユナはそれを見て小さく息を止めた。そこに何かを見たのだろう。たとえそれが、本当にただの猫の反応だったとしても。

 しばらくして、ノクスは頭を伏せた。以前のように、何かへ向かう意志の緊張はもう薄い。ただ、疲れた生き物が休もうとしているだけの姿勢に近い。

 ユナはその小さな背に手を置いた。最初は怖がるように、次に確かめるように、最後にはただ触れているために。

「……いたよね」

 誰に確認したのか、ユナ自身にもわからなかった。

 それは確かに、と思った。

 父はいた。

 この猫の中に、いた。

 そして今、消えていく。

 だが最初からいなかったことにはならない。

 それだけが、選んだ代償の中に残る小さな骨だった。

 

     *

 

 榊の失脚は、昼前にはもう整えられた言葉になっていた。研究不正、安全管理責任、社内監査、再発防止、関係者保護。どれも間違っていない。だが、どれも本当の形ではない。企業は個人だけを切って、いつもの顔で生き延びる。そういう後処理の早さだけは、今回も見事だった。

 午後、真琴は別室で長く通話をした。抑えた声色で、だからこそ要点だけが硬く響いた。保護条件。移送時期。名義の偽装。医療アクセス。ユナの学籍。まるで亡命だ、と和佳は思った。そして、実際そういうようなものなのだろう。

 通話が終わったあと、真琴はしばらく何も言わず、窓の外を見ていた。薄く曇った空の下、古い高架の影が道路を斜めに切っている。

 和佳はキッチンの流しに寄りかかり、ぬるくなった水を一口だけ飲んだ。まだ足がふらついている。糖分も取ってみたが、気分が悪くなっただけだった。

「受けるんだね、ヘッドハンティング」

 真琴は振り返らない。

「受けるしかない、の方が近いです」

「同じようなもんじゃない」

「違います」

 その言い方は静かで、静かなぶんだけ切れ味があった。

「私はあなたに利用された。でも、助けられた。それは確かです」

 和佳は何も言わない。言い訳はたいてい、自分を軽くするだけのものになる。

「だからと言って、ただ感謝します、とはならないです」

「そりゃあね」

 真琴はそこでようやくこちらを向いた。疲れている。だが崩れてはいない。むしろ、何かを諦めることで形が定まった決意が見て取れた。

「私は、ユナを守りたい。それだけです。表の制度は信用できない。アクシオムに残って無事な保証もない。だったら、少しでもましな庇護へ移るしかない」

「ましなのは保証するよ。表か裏かは知らないけど」

「どっちでもいいです。守られないよりはいい」

 言い切る時の潔さが、逆に痛かった。倫理より安全。正義より生存。この街の人間が最後に掴むのは、たいていそっちだ。

 真琴は少しだけ目を伏せた。

「分かってて聞いてますよね」

「まあね」

「頭では納得していても、嫌なものは嫌なんです」

「うん」

 短い会話だった。和解でも断絶でもない。ちょうどその真ん中、泥のある場所に着地した感じがした。和佳はそれで十分だと思った。

 真琴は息を吐き、かすかに笑った。

「本当は、もっとあなたを責めるべきなんでしょうね」

「おすすめしない。言い返すから」

「ええ。だからやめます」

 その返しに、和佳も少し口元を動かした。こういう笑い方は、友情とも敵意とも違う。たぶん、この先どちらにもなりきらないまま残る種類の距離だ。

 その頃には、企業代理人からの通知も届いていた。アニマ・ライドの技術資料、神崎真琴の転職同意で依頼は成功扱い。ただし、外部接触ログを自己開示したことにより、次回以降の接触は再審査、と添えられていた。

 想定していたより随分とましだった。

 

     *

 

 夜になる前に、移送の車が来ることになった。

 黒塗りでもなく、救急でもなく、ただの業務車両に見えるバンだ。そういうところまで徹底しているのが嫌らしい。庇護と拉致は、見た目だけなら同じ車で済む。

 真琴とユナは家に一度戻ったが、荷物をほとんど作らなかった。必要書類、端末、最低限の着替え、薬。それだけだ。ユナも自分の小さな鞄を整えた。

 車の到着通知があった。

 和佳は事務所の玄関脇に立ち、二人の姿を、ただ見ていた。何か言うべきなのかもしれない。だが、励ましはたぶん違う。祝福はもっと違う。ここで前向きな言葉を置くと、全部が安っぽくなる。

 真琴が荷物を持ち上げたところで、和佳はようやく口を開いた。

「そこが、ましな檻なことを祈っとく」

 真琴は一瞬だけ目を瞬かせた。それから、呆れたように口元を緩めた。

「もう少し上品に言ったらどうなんですか」

「そういう芸風じゃないの」

 ユナはノクスを抱く代わりに、小さなキャリーを両手で持った。以前なら重そうに見えたはずだが、今はあまりに軽いのが余計につらい。

「高梁さん」

 ユナが呼ぶ。

「ありがとう、って言っていいのか、まだよく分かんないです」

 和佳は肩をすくめた。

「分かるようになるまで保留でいいよ」

「……はい」

 それでよかった。感謝も恨みも、急いで言葉にしなくていい。急いで名づけられた感情ほど、後で腐る。

 真琴とユナは玄関を出る。廊下の先の照明は白すぎて、人の輪郭を少しだけ薄くする。見送りという行為は、たいていこちらを余らせる。和佳はその余り方があまり得意ではなかった。

 ドアが閉まる寸前、ユナが振り返った。

「お父さんのこと、残してくれて……ありがとうございました」

 今度は言えた。言えてしまったぶんだけ、和佳は返事に困る。

「残したのは、半分くらいだよ」

 そうとしか言えなかった。

 命は残せなかった。

 存在の証明だけが残った。

 その半分を、功績みたいに受け取るつもりはなかった。

 ドアが閉まる。

 静かになる。

 部屋に残ったのは、抜け殻みたいな空気と、長く使われなかった沈黙だった。和佳はソファへ身体を落とし、天井を見た。夕方と夜のあいだの薄い時間だ。世界がまだ決めきれていない色をしている。

「行きますか」

 悠理が言う。

「どこへ」

「見送りに。和佳さん、ああいうの後から気にするので」

「性格悪いな」

「自覚してます」

 和佳は笑いもせず、立ち上がった。窓の外へ回るだけだ。階段を駆け下り、建物の脇へ出る。バンはすでにエンジンをかけている。二人が後部座席へ乗る。ユナの膝にはノクスのキャリー。

 ユナが何かに気付いたように、キャリーの蓋を少しだけ開けた。

 黒い頭が持ち上がる。

 ノクスは外を見た。夕暮れの薄い空気。コンクリート壁。ひびの入った排水管。和佳の立つ場所。目はもう、以前ほど鋭くない。獣の疲労のほうが強い。なのに、その一瞬だけ、和佳は自分がまっすぐ見返されたと思った。

 意味があったのかは分からない。

 ある男の、残滓だったのかもしれない。

 ただの猫が、最後に視線を上げただけかもしれない。

 車が動き出す。音は静かだ。まるで何も大事なものを積んでいないみたいに、するりと夜へ入っていく。

 和佳は道路脇に立ったまま、その背を見送った。救えたのは命ではない。正義でもない。ただ“いなかったことにはさせない”ための形だけだ。

 たぶん、あの間に合わなかった夜からとっくに敗者復活戦で、猫探しを引き受けた時点で、壊れた盤面から何を拾えるかばかり考えていた。

 そんなものにどれほど価値があるのかは、今すぐには分からない。

「和佳さん」

「なに」

「独り言ですが」

「うん」

「十分ですよ」

 和佳はひそかに口角を上げた。独り言。そうだろう。誰にも聞こえない声に返事をするのは、昔からの癖みたいなものだ。

 自分の視界と聴覚の端にだけ立つ少年。

 世界の誰にも共有されない相棒に、和佳は顔を向ける。満面の笑み。悠理が不機嫌そうに顔をそむけた。

 夜が降りる。特区の灯りが少しずつ濁っていく。見送った車はもう見えない。そこに残っていたはずの視線も、おそらくはもう消えた。

 それでも、確かにいたはずのもの。

 そして、それを見た人がいたこと。それだけは誰にも奪わせない。

 和佳は背を向け、建物の中に戻った。

 




第一章「私は猫になりたい」は、これで完結です。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

本作は連作形式となっており、事件ごとに区切りのある構成を予定しています。

第二章「初日公演を盗め」は、一週間後を目安に公開予定です。

舞台は小劇場。
今度は猫探しではなく、ある「戻らない荷物」を巡る事件になります。

引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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