サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching 作:飛白玄
耳裏に貼りっぱなしだった端末が、三度だけ鳴った。
高梁和佳は長ソファの上で目を覚まし、視界の右上に滲む
善意の目撃談、白拡散支援、保護団体気取りの定型文。再生数は当てにならない。今や、善意も信用も色で測られる時代だ。非偏向高評価《ホワイトインプレッション》――白がどれだけ乗っているかのほうが、まだ人の本気に近い。
スマート毛布を足で払う。床は脱いだ衣類で覆われ、部屋の半分は未開封の新型ガジェットに占拠されている。最近買ったのは、自動追尾ホロライトスタンドだ。箱の側面で、知らない配信者がやけに白い歯を見せている。もちろん、一度も組み立てたことはない。
和佳はソファに寝転がったまま、事務所アカウントで作り置きの営業開始動画を投稿した。
『高梁探偵事務所は、本日も営業を開始いたしました。
人探し、素行調査、失せ物探し。
言い出しづらいご相談も、まずは一度お聞かせください。
ご依頼・ご相談はDMまで。秘密厳守』
……いつものように反応はほぼゼロだ。
主の起床を検知した住宅管理AGIが、カーテンの遮光率を下げ、ニュースの要約音声を流し始めた。提案通知は全て無視。お小言は悠理だけで十分だ。
「寝る前に仕分ければよかったのに」
窓辺にもたれた悠理が早速言ってきた。朝の薄い光は部屋の輪郭を白く削っているのに、彼のビジネスカジュアルは少しもにじまない。
「寝る前は、手いっぱいだったの」
「それはいつもです」
「なら、なおさら」
指先で通知を弾く。いらないものから順に消していく。視界に重なっていた文字列が剥がれるたび、事務所の薄汚れた朝が少しだけ広がった。
「ずいぶん伸びてますね」
「猫は強いから」
「可愛いから、ではなく?」
「それもある。あと、人は意味ありげな目が好き」
和佳は欠伸を噛み殺し、テーブルの浄水ボトルを引き寄せた。煮沸および栄養添加済とAGIが補足表示。ぬるい水を飲み干しながら、残った通知を流し見た。
九件目で指が止まった。
――その猫のことを、詳しく話したいです。
――会えますか。
差出人名を見て、和佳は目を細める。
「“黎”」
「聞こえてる」
胸の内側で、判断の順番がひとつ狂った。
黎という姓は、この街に一つしかないわけではない。だが、昨夜覗いていた研究棟と、企業代理人《インコグニート》から聞かされた数少ない名前を思い出すには十分だった。
「まあまあ珍しいですね」
「断定はまだ」
「でも、気にはなった」
「だいぶね」
その場で返信はしない。まず相手のプロフィールと投稿履歴をざっとなぞった。アイコンの色は中流を示すグリーン。かなりの白で、派手なノイズはない。作り物っぽさも薄い。つまり何も掴めない。
「どうします」
「会う」
「早いですね」
「現場主義なの」
短く場所を返し、和佳は立ち上がった。熱遮蔽コートを椅子の背から引っ掴み、編集した猫の映像をローカルに落とす。画面の隅で、黒猫が一度だけこちらを見返した。その眼の気に入らなさだけは、加工できなかった。
「顔、洗ってから行ってください」
「依頼人が逃げる?」
「印象が死にます」
「中の上はあるって」
「残念ながら」
「朝から調子いいな」
言い返しながら、和佳は洗面台の鏡を見た。最低限整えた肩までの黒髪、下手くそな笑顔、流行遅れのシャツでネクタイもなし。AGIに窘められるまでもなく、信用第一の仕事向きでない。だが、探偵だか便利屋だかにしては上等だ。
しばらく迷ってから、さっと顔を撫でる。目の下のくまが化粧レイヤーで消えたのに満足して、和佳は事務所を出た。
*
待ち合わせに指定したのは、事務所から川を越えた駅前の、再開発が途中で止まった広場の端だった。合成食の屋台と中古端末屋と非正規診療所が雑に並び、配給列の人影が金網越しに詰まっている。
昼の特区は夜よりましだが、そのぶん見なくていいものまでよく見える。
塗装の剥げた警備ドローン、ストレスを隠しきれない会社員、笑っているふりだけ上手い若者たち。配給列の端で、若い男がわざとらしく老人に順番を譲っていた。もちろんWitnessを開くのは忘れない。白評価ありがとうございます。
「三時方向、たぶん彼女です」
和佳は顔を上げた。
少女だった。十代前半。白髪、緑の瞳、服装まで今やレトロなチャイボーグスタイルでまとまっている。ARレイヤーをオン、オフと切り替えた。白髪も緑の瞳も、服の細部すら変わらない。すべて自前とは恐れ入った。
この辺りの治安は決して良くはない。よくもまあ一人で来れたものだ。
少女は広場をまっすぐ横切ってくる。肩に力が入りすぎだ。大人に会いに来た子どもにはない、診断結果を聞きに来た病人のような焦燥があった。
「……高梁さん、ですか」
少女は和佳の前で足を止め、小さく頭を下げた。
「そう。あなたが黎ユナ?」
「はい」
近くで見ると、目元に寝不足の影がある。
「座る?」
「いいです。すぐ、話します」
きっぱりした断り方だった。和佳は印象を一つ上方修正した。
ユナは手慣れたハンドサインでWitnessを開き、昨夜の投稿を見せてきた。短い映像の中で、黒猫がこちらを見返している。共有された画面を、少女の指がそっとなぞった。
「この子……ノクスです。たぶん、間違いないです」
「あなたの猫?」
ユナは少しだけ首を振った。
「父の猫です。でも、私にとっても……家族みたいなもので。今は母と暮らしてます。父とは別で。でも、ノクスだけは毎晩来てたんです」
和佳はうなずいた。
「いつから来なくなった?」
その聞き方に、ユナの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「昨晩からです。でも、おかしいんです」
和佳は黙って聞いた。
「飼育AIの入った補助脳がついてて。散歩から帰る途中でうちに寄るんです。時間も、だいたい同じで。少しくらい遅れることはあっても、来ない日はほとんどなくて」
ユナはそこで一度、言葉を切った。
「でも、昨夜……来なかったんです」
和佳は視線を上げる。
「父も、昨夜」
その先で詰まってから、絞り出すようにユナは言った。
「……研究所で、亡くなったって」
研究所。
昨夜の青白い灯りが、ほとんど反射みたいに脳裏へ戻る。和佳は顔色ひとつ変えない。
「まだ、詳しくは聞かされてません。事故だって。でも、ノクスまで来なくなるなんて、そんなの」
ユナは拳を握っていた。
「飼育AIもGPSも反応しなくて」
ちらりと横を見ると、悠理が肩をすくめた。簡易検索は反応なし。
「でも、どこかに行っちゃったわけじゃないみたいで。近くにはいるし、私のことを見てる時もあるんです。でも、呼んでも来なくて」
昨夜と同じだ。和佳は内心で一本、線を引いた。少し進んで振り返る。逃げるのではなく、距離を作る動き。
悠理が試すような口ぶりで言った。
「どこかで聞いた話に似てますね」
「うん」
和佳は口の中だけで返す。そしてユナに続けた。
「見かけるのは、いつも家の近く?」
「はい。こんなことなかったのに」
ユナは目を伏せた。
「前は、すぐに飛びついて来ていたんです。毎晩。なのに今は、帰ってきてるみたいなのに、帰ってこない」
その言い方は妙に正確だった。来るはずの場所の手前で、何かが切れている。
「お父さんは、研究所で働いてた?」
「はい。アクシオムで」
ユナは考え込むような仕草をして、すぐにかぶりを振った。
「細かいことは、あまり教えてくれませんでした。仕事が忙しくなったからって、たまにしか会えなくなって。でも、ノクスは、毎晩必ず、ちゃんと……」
父の死と同時に、規定されていたはずの動きが崩れた。
偶然で片づけるには、いささか都合がよすぎる。
「あなたは、まだ近くにいると思ってる?」
「思ってます」
「どうして」
「……分かりますから」
論理的じゃない。それでも、和佳はその答えを切れなかった。数字が外れる時、最後に残るのはこういう勘だ。
少しだけ考える。軽く請け負っていい種類の話ではない。
「……依頼としてなら、受けるよ。猫探し」
ユナの肩が、かすかに上下した。安堵か、緊張が別の形に変わっただけか、まだ分からない。
「ただし、見つけて終わりとは限らない。変な猫なら、それなりの面倒がついてくると思う。そこは覚悟して」
「最初から、そのつもりです」
声は細いが、腰が引けてはいなかった。和佳は口元を引き上げた。
「依頼料、あまりお金がなくて。でも、ENゲージでこれくらいなら」
少女はホワイトインプレッションを
「……白いんだろうなとは思ってたけど」
ユナは少し迷ってから、曖昧にうなずいた。
「普通だと思います」
金はないがENはある。いかにもこの街の育ち方だった。
悠理が楽しそうに和佳に視線を向けてくる。
「気に入りました?」
「別に」
「分かりやすいです」
無視する。
連絡先を交換するあいだ、ユナは何度か何かを言いかけてやめた。父のことか、ノクスのことか、その両方か。和佳は急かさない。
Witnessを閉じて、ユナはふと顔を上げた。
「高梁さんは、どうしてあの動画を上げたんですか」
「見つけたい人がいるかも、と思ったから」
「それだけですか」
「今のところは」
悠理が小さく笑った気配がした。皮肉が半分、感心が半分の笑い方だった。
ユナは和佳をじっと見て、それ以上は聞かなかった。引き際も悪くない。
「……お願いします」
「うん」
ユナが頭を下げ、広場の向こうへ歩いていく。
「悠理、送ってあげて」
「了解」
見送る少女の背中に、半透明の見守りタグが乗った。念のためだ。これで済むなら、最初から何も起こっていない。そんな気がする。
「珍しく、その場で飛びつきませんでしたね」
「褒めてる?」
「最低限の理性を」
「そういうとこだぞ」
広場の上で、警備ドローンが一度だけ甲高く唸った。すぐに巡回ルートへ戻る。屋台の前にたむろしていた二人組が、ユナの背を見て、ほとんど同時に興味を失ったように顔を逸らした。
和佳はそこで、ようやく自分が何に引っかかっていたのかに気づく。
ユナが来た時も、帰る時も、誰にも一度も進路を乱されなかった。
それは、運で済ませるにはあまりに滑らかすぎる。
「どうしました」
「……別件。嫌な感じ」
「昨夜の猫とは別ですか」
「今のところは」
和佳は昨夜の研究棟の硬質な警報を思い出した。事故死。緊急警備。血相を変えて探されていた何か。黒猫。そして、黎という姓。
繋がりが多すぎて、陰謀論者になりそうだ。
帰り道、和佳はユナの身辺情報を最低限調べた。学業アカウントの名義、居住ブロックの登録、緊急連絡先。倫理規定AGIに目を付けられない程度では、得られる情報もたかが知れる。
だが、それでも鮮明に浮かび上がる名前があった。
――
「……何か出ましたか」
「名前がひとつ」
「当たりですか」
「さあ」
和佳は指を振って、ユナと向かい合って食事を取る女の画像を閉じた。
静かすぎるものには、たいてい後から名前がつく。
自分にできるのは、ほんの少しでも先回りできないか試すことくらいだ。