サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching 作:飛白玄
昼のあいだに集まる情報は、たいてい昼の顔をしている。整っていて、浅くて、嘘が混じりやすい。夜はその逆だ。粒は粗いが、妙な湿り気がある。体裁のほんのわずかに外側の、見たままの感想を持ち寄る人間の声が残っている。
事務所の長ソファに片脚を投げ出したまま、和佳はカードサイズに縮めた仮想ウィンドウを部屋いっぱいに散らしていた。ノクスに関する投稿は、思ったより多い。
「五割は完全な別個体ですね」
悠理が言った。ソファの背に腰かけた動作でさえ、彼だと様になる。
「三割じゃない?」
「そこまで雑ではありません。歩容でさらに弾けます」
「相変わらず可愛くない特技」
「褒め言葉として受け取っておきます」
和佳は返事の代わりに、投影されたピンを二つ消した。耳が切れている。尾にワンポイントがない。重心が低い。細部を弾いていくと、残る点は急に少なくなる。減ったあとに残るほうが厄介だった。
夜だ。
有効な目撃だけを並べると、ノクスらしき猫の出現は夜に偏っていた。夜から深夜。明け方近くに一件。朝や昼間はない。ゼロではないが、使い物になる証言がない。
和佳は時刻と地点を重ねた。研究所がある企業区画外縁、川沿いの旧水路、旧商店街、ユナの生活圏、その外側。点と点のあいだに、夜にだけ見える細い線が見て取れる。偶然だと思うには、偏りがしつこい。
「昼は寝てるだけ、って線は」
「普通の猫ならありえます」
「普通じゃなさそうなんだよなあ」
昨夜の目が脳裏に浮かぶ。
一歩進んでは、お前の番だと振り返る。逃げ切る気のない逃げ方だった。
和佳はユナから送られてきた古い写真を開いた。ソファの肘に乗る黒猫。画像の端には男の手が映り込んでいる。父の
次に、昨夜の動画を再生する。路地口で振り返る黒猫。数秒。それだけなのに、別の生き物に見えた。
「目の使い方が違います」
「人間みたい、ってやつ?」
「観察の精度が高い。判断が速い。獣の挙動にしては、です」
「細かい」
「和佳さんが雑なので」
和佳は鼻で笑うと、投影された街の地図に、目撃例の位置と時刻を配置した。
しばらく眺めてから、諦めたようにわきに追いやろうとして、ふと指が止まる。
「……ねえ」
「はい」
「これ、逆じゃない?」
「何がです」
「見られたから話題になった、じゃなくて。話題になって、見られたから出てきたみたいに見える」
和佳が勘で喋ったとき、悠理はすぐに否定しない。頭の中で何本か思考の線を走らせてから、いちばん短い答えだけ返す。
「ありえます」
「嬉しくない肯定だこと」
「嬉しい案件ではないでしょう」
たしかにそうだった。
和佳は、Witnessからの情報を時間経過ごとに整理し直した。仮想地図上のカードが一度全て消え、一つずつ置き直されていく。
自分の投稿。昨夜の反応。今日の再掲。今日の昼過ぎまでに集まった断片的なコメント。そこから夜の目撃がぽつぽつ増えた。この二晩ほどのサンプルでしかないが、誰かが猫を見たと意識した夜ほど、その猫は現れる――そう見えてしまう。
悠理が口元に手を当てて言った。
「観測されることを前提に動いている可能性はあります」
「猫が?」
「猫ではないものが、あの猫を通して」
その言い方に、和佳は一瞬だけ口を閉じた。
まだそこまでは行きたくない。行った瞬間、話は面倒になる。
「今は、賢すぎる猫でいい」
「逃げましたね」
「慎重って言って」
「先送りしてるだけです」
「うるさい」
Witnessに通知。新しい目撃情報だ。
――旧商店街東口。黒猫。こっち見てた。逃げない。
投稿時刻は三分前。まだ反応は少ない。
和佳は立ち上がった。
「出る。今夜のうちに」
「張り込みですか」
「まずは歩く。見られに行く」
悠理が微笑む気配がした。それで済むわけないと勘づいている笑い方だった。
旧商店街は、夜になると半分だけ生き返る。昼間は閉じたままのシャッターが数枚上がり、違法ではないぎりぎりの屋台が火を入れ、酔っ払いと帰る時間の遅れた人間が通りの暗さをちょうどいい言い訳みたいに使い始める。壊死した場所が、完全に動かなくなるのはむしろ稀だ。
川を抜ける側は油の匂いが濃かった。鉄板と古い配管の熱が、夜の空気にこびりついている。
「左、焼きそば屋台の親父。投稿主です」
和佳は屋台の前に歩み寄った。『親切対応中』とAR広告が表示される。
これ見よがしにWitnessを開いてたずねた。
「昨日の投稿、見ました。猫の件で」
男は手を止めずに和佳を見た。
「黒いのだろ。あんたも探してんのか」
「見かけた?」
「見かけたっていうか、見られた」
その言い回しだけで、和佳には十分だった。
「どういう感じ」
「向こうの電柱の影にいてな。ぼーっとしてたら、妙に目が合うんだよ。猫って、もっとこう、見ててもどっか別のもん見てる感じがあるだろ。あれは違った。……ああ、こっちを見てるな、って分かる感じだった」
「近づいたら?」
「すぐには逃げない。少し下がって、止まって、また見た」
昨日のノクスと同じだ。
「写真は?」
「撮ろうとした瞬間、消えた。路地に入ったはずなんだが、あっという間でな」
和佳は、Witnessごしに礼を言って離れた。
見た、ではなく、見られた。少しずつ違う言葉で、皆が同じものに触っている。
「まずは上々ですね」
「引きの強さは自信があるの」
二人目は、ドラッグストア裏で荷を受けていた配送ドライバだった。
言うことはほとんど同じだった。
旧水路のそばで黒猫に見られ、近づくと下がられ、止まると向こうも止まった。誰が来たのか確認してるような目だった。
他も似たようなものだった。偶然では済まされない。
和佳は商店街外れの死んだ喫茶店の軒下で足を止めた。曇ったガラス越しに、埃をかぶった椅子が立ち並んでいる。
「どうです」
「追ってるつもりなのに、品定めされてる感じがする」
一呼吸ほどの間が空いた。
「見られているのは、和佳さんのほうかもしれませんね」
眉根を寄せる。和佳は昨夜、研究所の警備を抜けてきた。その時、あれもこちらを見ていたとしたら。
通知があった。黎ユナからだった。
――今、少し会えますか。
位置が添えてある。彼女の自宅近くの歩道橋の下。さっきまで追っていた点の一つと、そう離れていない。
「行きますか」
「行く」
歩道橋の下は、夜になると妙に音が響く。車の走行音がコンクリートに反射し、誰かの足音が必要以上に近く聞こえる。
ユナが柱の影に立っていた。昼よりさらに顔色が悪い。だが、待ちくたびれて陰った風ではなかった。
「来てくれて、ありがとうございます」
「見た?」
ユナは頷いた。そして俯き加減で言った。
「さっき、ここにいました」
「ノクスが?」
「はい」
「近づいた?」
「……はい」
「逃げた?」
「逃げました。でも、変なんです」
「うん」
「逃げる前に、ずっと見てたんです。前からそうでしたけど、今日はもっと……なんていうか、ちゃんと私を見てました」
和佳は何も言わず、続きを待った。
「名前を呼んだら、耳だけ動いて。あたりを見回して、私を見て。でも来ないんです。前より近くに来てる気もするのに、戻ってこない。少し下がって、止まって、また見て……」
「帰ってきてるのに帰ってこない、か」
ユナは顔を上げた。胸の奥で引っかかっていたものが、そのまま外から返ってきたらしかった。
「嫌われた、わけじゃないと思うんです」
「うん」
「でも、助けを呼んでるのかもしれない、とも思うんです。そんなこと、猫にあるのか分からないけど」
迷子ではない。
どこかで、帰るための線だけが切れている。
「お父さん、最後に会ったとき、ノクスのこと言ってなかった?」
ユナはたっぷり10秒ほど考えてから、首を振った。
「……何も。これからは、お母さんの言うことをよく聞きなさい、くらいです」
和佳は頷いて、質問を変えた。
「最近、お父さんのことで誰か来た?」
「会社の人は、来ました」
「どんな人だったか教えて」
「背が高くて、きれいなスーツを着てました。父の会社の、たぶん偉い人なんだと思います。ティールだったから。それと、あとは……優しかったです。私のことも心配してるって言ってた。会社でもノクスを探してくれるって」
嫌な類の整い方だった。
態度が白いのは企業人の常としても、だ。
「名前は」
「
その名で十分だった。父の事故。研究所の緊急警備。ノクス。黎。そこに今、点が付け加えられた。一本に線を繋いで違和感を感じない程度には近い点が。
「何を言われた?」
「父の事故は、会社としてちゃんと対応するって。私の安全も考えてるって。だから、変なことに関わらないで、困ったことがあれば相談してほしいって」
善意の顔をした牽制ほど、面倒なものはない。
「分かった。その人がまた来ても、ノクスのことはこれ以上話さなくて良い」
ユナは少し不安そうにした。
「でも、悪い人には見えませんでした」
「悪い人に見える人のほうが、まだ楽よ」
思わず本音が滑った。悠理は何も差し込まない。
「ほら、偉い人は忙しいから」
和佳は、冗談めかして言葉を接いだ。
「高梁さん」
「なに」
「ノクスを、助けてください」
和佳は一拍のあいだ息を止めた。
あの猫のほうが、何かをしに来ている。そんな予感がユナの中にもあるのかもしれない。
「大丈夫」
ユナは頷いた。子どもらしい安堵ではなかった。ただ、無力感を押しのけて、和佳の言葉を置いておく場所を、自分の中に作ったように見えた。
ユナと別れたあと、和佳は歩道橋の下から出ず、その場に残った。上を走る車の影が、コンクリートの腹を撫でていく。視界の端で何か黒いものが動いた気がして振り向いたが、そこには破れたポリ袋しかなかった。
「今のは気のせいです」
「分かってる」
「踵が浮きました」
「細かいなあ」
だが、気のせいで済ませるには、同じ違和感が重なりすぎていた。
屋台の男も、配送ドライバも、ユナも、みんな同じ目に触れている。
和佳は柱にもたれ、暗がりを見た。誰もいない。猫もいない。なのに、いないものの輪郭だけがそこに残っている。
猫を追っているはずだった。
目撃情報を集め、地図を引き、時刻を並べ、現場を歩いているのもこちらだ。
だが、あの黒猫はずっと先にこちらを見ていた。出る場所を選び、距離を測り、寄らせる相手を選んでいる。
つまるところ。
「……見られてるのは私たちってことか」
口に出した途端、ひどく収まりがよかった。
正しいときの苦みがあった。
「もし本当に、見られている時だけ現れるなら」
「うん」
「あれは僕らを探している可能性があります」
僕ら。悠理がそう言う時、和佳は妙に腹が立つ。安心もする。たった一言で、いつも勝手に同じ側へ立ってくるからだ。
和佳は歩道橋の外、旧水路のほうへ戻る暗がりに目を向けた。
「だったら、見つけさせてあげる」
あの猫が何なのかは、まだ分からない。
だが少なくとも、ただの迷い猫ではもうなかった。