サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching 作:飛白玄
朝のうちに、和佳は交通センターから東、川へ延びる旧い経路を洗った。
更新停止した案内ログ。剥がれた路線図の端。閉鎖済みの連絡口。紙の時刻表にだけ残った古い系統番号。どれも死んでいて、死んでいるくせに、昨夜ノクスが示した空白と妙に噛み合っていた。
――この先、未対応区域です。
――現在地からの案内は終了しました。
あの音声が、耳の奥に残っている。
目的地を教えられたわけではない。むしろ逆だ。ここから先は案内しないと告げられた。残りを洗ったのも念のためだ。収穫はなかった。
和佳は部屋に戻るなり、机代わりのローテーブルへ小さな部品をばら撒いた。
旧規格の追跡タグ。正式名称は長いので、ビーコンとしか呼ばれない。安い、目立たない、壊れても惜しくない。加えて、現行の都市管理AGIの認証から半分死んだ扱いを受けていて、自治体の掃除にも企業区画の自動警戒にも拾われにくい。性能ではなく、忘れられ方が優秀だった。
「迷信ですよ」
悠理が言う。
「なにが」
「古い機械は誠実だ、みたいな顔をしているので」
「新しい機械が嘘つきなだけ。あと高い」
和佳はカッターの先で樹脂ケースを開き、中身を最低限まで削った。それなりに保たせたいが、重くしたくはない。ノクスは痩せている。あれに余計な違和感を乗せれば、次はもう近づいてこないかもしれない。タグ本体、薄膜電源、皮脂反応の粘着片だけ残す。合法品らしい安全機構は、最初に外した。
テーブル上でAR地図が淡く明滅している。旧水路、川沿いの空き地、駅の裏手、ユナの居住ブロック、企業区画の外縁。線はまだ細いが、昨夜よりは明らかだ。ノクスには行き先がある。
悠理が呆れたように言った。
「頼まれたのは猫探しでしょう。捕まえたら終わりなのでは」
それはそうだ。捕まえるだけなら今夜で終わる。
けれど、それをやれば、この猫が何に繋がっているのかが途切れる。
「あいつに真意ってやつがあるなら、確かめたほうが良いじゃない」
「嫌われますよ」
「好かれてる前提で言うのやめて」
返事の代わりに、和佳はタグの感度チェックを始めた。窓際、キッチン、浴室の手前。反応は悪くない。旧規格らしく、融通の利かない素直さで応答する。Witnessの保護ログへの同期もないから、実に探偵向きだ。
地図に点が走る。公共レイヤーの配送ログ、近隣家電の短距離同期、壁内配線の滲み。電子の雑踏は昼夜を問わない。悠理がノイズを薄く剥がし、タグの反応だけを残していく気配があった。
和佳は地図の縮尺を三段階変えた。近距離追尾、中継点予測、離脱用ルート。貼れたら追う。貼れなければ肉眼に切り替える。失速が極端なら、その場で捕獲。ドローンの視野へ入るなら、タグは捨てて自分の足を残す。
手順はこれだけだ。現場で迷う時間はない。
「嫌な顔してます」
「仕事の顔」
「今日は同義ですか」
「だいたいそう」
夜が落ちるのを待って、和佳は再び旧商店街へ向かった。昨夜と違い、今夜は最初から待つ姿勢ではない。捕まえる。付ける。追う。そのどこかで失敗する可能性のほうが高い。だから手順を短くしておく必要があった。
西口近くの壊れた自販機の影で二十分ほど張ったところで、ノクスは現れた。
昨夜より遅い。街灯の切れ目に黒い線が走り、止まる。視線が来るまでに、一呼吸ほどの鈍さがあった。
疲れか、警戒か。どちらにせよ、前のノクスとは違う。
和佳はしゃがみこみ、持ってきた安い焼き魚スナックを一片だけ地面に置いた。猫を懐柔するには雑だが、判断を半拍遅らせるには十分だ。ノクスは近づかない。鼻先だけがわずかに動く。食欲より判断が先に来る目だ。可愛げがない。そういうところまで人間じみていて、和佳は少し腹が立った。
「生意気ですね」
「口に出してた?」
「なんとなく分かります」
ノクスが一歩だけ寄った。
その瞬間、和佳は地面に置いたスナックの影へ手を滑らせた。指先が毛に触れる。薄い。骨が近い。タグを毛の根元へ貼り付ける。
ほんの一秒。ノクスの体が硬直し、次の瞬間には鋭く身を捩った。
速い。
だが、逃げた方向は予想通りだった。旧水路沿い。和佳は立ち上がり、視界に重なるAR地図を確認する。小さな点が生きている。走っている。
「信号入った」
「はい。綺麗に拾えています」
その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなった。追える。今度こそ。
和佳は通りの角を曲がり、ノクスそのものではなく地図上の点を見ながら走った。観測データは悠理に任せて、位置に意識を集中する。旧水路、空き地、その先。点は東南東、川の方へ滑っていく。
途中、二度ほど足を止めたのは和佳のほうだった。肉眼で追えば見失う。タグだけを信じれば先回りできる。視界の端では、悠理が人流予測を薄く走らせ、夜間配送ドローンの交差だけを消していく。
点と身体と地形が一枚に噛み合う。久しぶりに、仕事が綺麗に組み上がる感覚があった。こういう時だけは、自分がまだ壊れ切っていない気がする。
「上機嫌ですね」
「まだわかんないけどね」
実際、成功しかけていた。少なくとも、その瞬間までは。
点が川を越えた駅の先、企業区画の外縁へ寄り始めた時だった。地図上のラインが一瞬だけ乱れ、次いで、唐突に消えた。
和佳は立ち止まった。
「……は?」
仮想パネルから再試行。公共レイヤーを一段落とす。配送ノイズを切る。近傍同期を剥がす。それでも反応は戻らない。
バッテリー切れの落ち方ではない。破損とも違う。きれいすぎる消え方だった。まるで、そこから先だけが最初から存在しなかったみたいに。
「待ってください」
悠理が表情を引き締めた。普段より平板で、余白が削れた声。
和佳は壁に背を預け、呼吸を整えた。仮想パネルを操作する仕草だけしながら、視線を巡らせる。第三者の気配はない。都市管理AGIの機嫌を損ねたわけでもない。なら、慌てる理由はない。ないが、胸の奥だけが先に不機嫌になる。
「どう」
「……まだ追えます。点は死んでません。切れたのは、位置だけです」
点は生きている。
ただ、その先へ伸びていたはずの座標だけが白く抜けている。
「ウイルスとか」
「僕がいるのに?」
「なら分かんない」
「企業区画の近くですからね。何かのレイヤーに引っかかったか」
和佳は舌打ちを飲み込んだ。代わりに、消える直前の軌跡をもう一度見直す。
せめて目的地くらいは明確にしたい。
旧水路。空き地。ユナのブロックの外縁。そこからさらに、企業区画の縁へ。
帰る動きではなかった。餌場を回る動物の線でもない。これまでの目撃情報とも重ねると、毎晩ほぼ同じ時刻に、近い場所を掠めて、その先へ伸びていた。誘導は精密なようで精密でない。場所ではない。
「……故障や暴走の線は捨てる」
「はい」
「家じゃない」
「つまり?」
「相手だ」
言葉にした瞬間、気持ち悪いくらい収まりがよかった。
帰り道とかよく使う店とか、そういうやつだ。
間違いない。ノクスはどこかへ帰りたいんじゃない。誰か一人のところへ、何度も行こうとしている。
その時、最後に拾ったバイタルが、ノクスの仮想モデルに遅れて反映された。移動速度の低下。呼吸の乱れ。精度は粗い。だが、粗いなりに違いが見えてしまう程度にはズレがあった。
和佳は眉を寄せる。
「悠理、
「お安い御用です」
和佳は眉尻をわずかに下げた。
「……私のせい?」
「いえ、もう少し前からです。動作に鈍りが出ている。怪我、病気や栄養状態というより……上手く言えないんですが、何かが削れているような」
和佳は仮想ウィンドウごしに、ノクスが消えた先を見た。映るのは半透明の猫だけで、実物はもういない。ただ、嫌な予感があった。
「次も来ると思う?」
「保証はありません」
「嫌われちゃったか」
「来たくても来られないかも」
和佳はそこで、ようやく息を吐いた。
待っていれば、そのうち尻尾を掴める――そういうわけにはいかなそうだ。
なら、次は多少強引にでも、こちらから踏み込むしかない。
和佳は指を振って映像を閉じた。指先に、さっきまでとは別の種類の震えが残っている。苛立ちだけではない。時間切れなんて許さない、という決心に近い。
「いずれにせよ、今夜はもうおしまいかな」
位置が取れないのでは諦めるしかないし、ビーコンは遠からず見回りAGIに
それに疲れた。目の奥が乾くし、帰って甘いものでも食べよう。
「正しい判断です。深夜でなければもっと」
「うるさいなあ」
軽口は返せた。けれど、和佳はもう一度、消える直前の軌跡を見た。
速度低下。呼吸の乱れ。後ろ足の鈍り。
あれは逃げ切った線ではない。辿り着く前に、ほどけかけている線だった。
消えた点の先にいるのが誰かは、まだ分からない。
だが一つだけは、もう誤魔化しようがなかった。
ノクスは、家に帰れないのでも帰りたくないのでもない。
辿り着こうとしている。
誰か一人の元へ。
しかも、そのために残っている時間は、たぶん多くない。