サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching   作:飛白玄

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第6話 猫の首に鈴はつけられない

 

 夜のあとには、昼が来る。来るには来るが、特区の昼は、夜が着替えただけの顔をしている。薄く明るくなったぶんだけ、壊れているところがよく見える。

 看護ドローンと揉める老人、Witnessしか見ていないボランティア。整備された道路は企業ロゴの車両だけが走っていた。秩序はある。だが、人のためではない。

 旧水路の沿道で、和佳は自販機の助言を無視して缶コーヒーを買い、一気に飲み干した。朝から三周している。

 研究所側から旧水路に入り、旧商店街へ抜ける動線、ノクスが消えた地点、その先に重なる生活圏。地図上では細い線だったものが、足で辿るともっと嫌な輪郭を帯びる。誰か一人の生活の周囲を、猫が夜だけ掠めている。家の真芯ではなく、そこへ至るまでの陰や角ばかりを。

「三件、重なりましたね」

 悠理が言った。

「うん」

「同じ人の帰路か、生活圏の外周です」

「猫が逢いたがってるにしては、まっすぐすぎる」

「余裕の無さは人間の専売特許ではないのかも」

 和佳は視線を上げた。

 立ち並ぶ古びた中層住宅、その角にあるコインランドリー、向かいの調剤薬局、さらに先の細い路地。そこに、場違いな見張り方をしている男が一人いた。

 すれ違うのは四度目になる。

 通行人のふりはできているが、立つ場所に配慮がない。目線の置き方に善意が足りない。こまめに装飾レイヤーを切り替えているが、どれも地味すぎて逆に浮いていた。専門の訓練を受けた者ほど洗練されてはいないが、素人臭もない。

「……当たりっぽい」

「見張りですね」

「露骨ではないけどさ」

「安物には変わりありません」

 和佳は歩調を落とさず、そのまま通り過ぎた。視線は一度も男に置かない。見る価値のあるものほど、見ないふりをする。そういう癖は、いい人生からはたぶん育たない。

 通りを抜けた先の喫茶店は、営業してるのか、してないのか、分からない顔をしていた。曇ったガラスの内側に、色褪せた観葉植物と、客の少ない午後が沈んでいる。和佳は店へ入り、奥まった席に座った。こういう店は、外を見るために入る場所だ。外から口元は読みづらいし、音もきれいには抜けない。

 さして間を置かず、女が入ってきた。

 来ないという選択肢もあったはずなのに、来た。見張られている側の人間は、たいてい好奇心では動かない。必要に押されて動く。

 外見は三十代半ば。背筋はきれいに伸びているのに、肩の力だけが抜けきっていない。職能レイヤーは非表示だが、営業や事務にしては襟元が固すぎる。技術職の手だ、と和佳は直感した。爪が短く、癖のない指先。生活を守るために身なりを整えている人間の手だった。

 女は店内を一度だけ見回し、和佳の正面ではなく斜め向かいに腰を下ろした。距離の取り方に、警戒の癖がある。

「高梁さん、ですね」

 抑え気味の声。疲れているのに芯がある。

「来てくれてありがとう。神崎真琴さん?」

「ええ」

 確認は互いにそれだけで足りた。

 ロボット店員が水を置くが、真琴は手をつけず、ただ下がらせた。和佳のグラスは既に空だ。形式だけの場だった。

 見張りが安物なら、今ここで割っては来ない。

 仕事は確認までだ。介入の判断は、もっと上がする。

「どうして私のところに来たのか、聞いてもいいですか」

 真琴の質問に、和佳は茶化した風に返した。

「猫に案内されたから、って言っても信じないでしょ」

 真琴の目元が、ほとんど動かないまま少しだけ冷えた。冗談として処理するか、試されていると取るか、まだ決めていない目だ。

「その言い方なら、信じません」

「じゃあ、出現地点が偏ってた。そこにあなたの生活圏が重なった」

「それだけで?」

「それだけで会いに来るくらいには、今の私は暇じゃない」

 そこで一拍だけ置いて、和佳は真琴を見た。

「待ってれば、そのうち尻尾を掴めるって感じでもなかった」

 真琴の目と口元が細まる。

「……どういう意味ですか」

「保護者だから知ってるでしょ。私は、ユナの依頼でノクスを追ってる」

 和佳はグラスの縁を指でなぞった。

「帰る動きじゃなかった。誰か一人のところへ行こうとしてた。しかも、長く同じやり方を続けられる感じでもなかった」

 悠理が、喉の奥で笑うような気配を立てた。和佳は無視する。

 真琴はしばらく和佳を見ていた。

 その目には、探るより先に測る感じがある。信用できるか、ではない。どこまで危険か。どこまで使えるか。そういった視線が、和佳は嫌いではない。生き延びるのが上手い人間は、だいたい切実な方向に誠実だ。

「……それで、私に会いに来たんですか」

「ええ」

「ずいぶん仕事熱心なんですね」

「鋭意対応中ってやつ」

「ユナから聞いた以上のことを、話せるとは思えませんが」

「ユナが知らないノクスのことを、あなたなら知ってると思って」

 和佳がそう言うと、真琴はわずかに視線を落とした。認める沈黙だった。

「知っています」

「どこまで?」

「その聞き方には答えられません」

 正しい返答だ。ここでぺらぺら話し始める人間は信用できない。

 和佳はグラスをわきに押しやり、前のめりに顔を近づけた。

「じゃあ、勝手に話す。あれは普通の猫じゃない。人間の監視を知ってる動き方をする。追われてる。しかも、何かの目的を持ってる」

 真琴の指先が、卓上でごく浅く震えた。本人は抑えたつもりだろうが。

「さらに言うと、あなたとユナの周りには見張りがいる。例えば、さっき通りの角に立ってた男、あれ、友達じゃないでしょ」

 真琴はそこで初めて、短く息を飲んだ。表情は崩れない。だが、守っていた外殻に一本だけひびが入る音がした。

 和佳は続けた。

「あの猫はあなたに自力で近づけない。だから、代わりに私を使おうとしたんだ。違う?」

 喫茶店の古い冷房が、頭上で乾いた音を立てた。真琴は黙っていた。店の奥で、誰かがカップを置く音がする。その些細な音だけが、妙に遠い。

 やがて真琴は、小さく言った。

「……あなた、何者なんですか」

「探偵。それか便利屋」

「それにしては、勘が良すぎる」

「あなたも、ただの会社員には見えない」

 言葉がぶつかって、そこで一度止まる。どちらも引かない。だが押し切りもしない。こういう手合いとは、綱を切らないまま少しずつ手繰るしかない。

 真琴はようやく水に口をつけた。乾いた喉を湿らせるためではなく、返答の温度を整えるための動作だった。

「……ひとつだけ、確認させてください。ユナに、どこまで聞きましたか」

「父親が最近死んだこと。猫が帰ってきてるのに帰ってこないこと」

「仕事のことは?」

「研究所に勤めてたってことは聞いた」

 真琴はそこで、ようやくかすかに肩の力を抜いた。全部は信じないまま、嘘だけではないと決めたらしい。

「なら、いいでしょう」

「何が」

「最低限なら話せます」

 最低限、という言い方が気に入った。和佳は背もたれに身体を預けた。

 悠理は黙っている。ここで余計な口を挟まないのは、彼なりの節度だった。

「まず、あの猫に見えている異常は、おそらく飼育AIの暴走ではありません。補助脳の誤作動でもない」

「そうでしょうね」

「……動物の脳で、人間の脳機能の一部を走らせる技術があります」

 和佳は表情を動かさない。だが、内心で舌打ちした。つまりあの猫の奇妙さは、事故や異常ではなく、元々の仕様だ。遊びか、軍事転用か、医療偽装か。そのどれにしろ、ろくなものではない。

「人間が猫の中に入るって、幽霊みたいに?」

「そう単純ではないです。意識そのものを移すわけではない。元の身体感覚を一部残したまま、動物の身体になったような主観体験ができる。実際の機能は、身体感覚と行動意図の相互翻訳、と言う表現が適切です」

「もっと簡単に言って」

「……憑依でいいです」

 真琴は憮然として説明を諦めた。和佳はさらにたずねた。

「そんなもの、何のために」

「そういうのが好きな人がいるんです。お金持ちとか。少なくとも商品開発部はそう言ってました。名称はアニマ・ライド。企画時点では災害救助用でした」

「その悪趣味に、何が起きてるの」

 真琴は視線を窓の外へ滑らせた。通りの向こうの見張りが、まだ同じ位置にいるのが見えるのだろう。

帰還不能症候群(PELS)と私たちは呼んで――」

 言いかけて、真琴は咳払いした。

「障害例があります。動物と接続したまま、戻らなくなるケースです」

 その言葉は、静かなのに重かった。

 戻らない。

 和佳は一瞬だけ、喉の奥が乾くのを感じた。戻れない、という響きは、それだけで人間の形を崩す。猫の中に人が閉じ込められる。今までなら、荒唐無稽だと笑っただろう。だが、ノクスの目を見たあとでは、笑えない。

 真琴は続けた。

「もちろん公表されていませんし、社内でも一部の者しか知りません」

「示談なら問題ないって?」

「よくあることです」

 淡々とした言い方だった。諦めに近い。あるいは、もう何度も内側で噛み砕いた苦さなのかもしれない。

「だったら倫理規定AGIは?」

 和佳は窓の外の企業ロゴを顎で示した。

「この街のインフラの半分は見てるんでしょ。街の小さな親切にはすぐ点数をつけるくせに、人が壊されても見ないふり?」

 真琴は、そこで初めて小さく笑った。笑いと呼ぶには乾きすぎた、ささくれみたいなものだった。

「見えていても、触れないんです」

「契約?」

「機密保持、研究資産保護、外部監査制限。言い方はいくらでもあります。研究所内部は契約で閉じた箱になってる。AGIは万能じゃない。見てたとしても、介入権がなければ何もしません」

 胸の悪い話だった。だが、この世界らしくはある。監視はある。記録もある。評価もある。なのに、守られるのは契約と資産だけだ。

「きれいですね」

 悠理が言った。

「きれいに腐っています」

 和佳は、そこでようやく真琴をまっすぐ見た。

「あなたは、どこまで知ってる」

「知りません。予想はできますが、証拠がありません」

「答えになってない」

「答えられないんです」

 真琴の声に力がこもった。怒りではない。切実さが、理性の縁を一瞬だけ押した音だった。

「ユナのこともあります。私の周りを見て、もう分かったでしょう。私には何もできません。何かした瞬間に、いなかったことになるだけです」

 店のガラス越しに、通りの男が煙草も持たずに立っている。確かに、よく見れば異物だ。生活の動線から半歩だけ浮いている。

 真琴は言った。

「だから、放っておいてください」

 引き締められた口元を見て、和佳は引くことにした。

 目の前の女は臆病なのではない。安全圏で見ているのでもない。企業が動き始める条件を、具体的に知っているだけだ。

 真琴は卓上に置いたままの自分の手を軽く握った。

「私が言えるのは、ここまでです」

「十分よ」

「納得してないって顔をしてます」

「生まれつきなの」

 真琴は、ほんの少し目尻を緩めた。人を信用しない者同士が、かろうじて相手を評価する時の顔だ。

「ノクスを、どうするつもりですか」

「まずは捕まえる」

「捕まえてどうするんですか」

「まだ決めてない」

 和佳は立ち上がった。これ以上、長引かせても意味はない。話しすぎれば、見張りが要らぬ世話を焼きに来ないとも限らない。

 真琴も席を立つ。その時、和佳はきっぱりと告げた。

「また会いましょう」

「無駄です」

「無駄でも」

 和佳は窓の外を一瞬だけ見た。

「ノクスは、あなたのところへ行きたがってる」

 真琴の表情が、そこで大きく揺れた。数秒にも満たない揺れだったが、それで十分だった。あの猫の行き先がどこか、和佳の推理はほぼ当たっている。

「……もし」

 真琴はそこで言葉を切った。喉に引っかかったまま、慎重に形を選ぶ。

「もし、ノクスが本当に“戻れない”のだとしたら」

 和佳は待った。

「それは、ただの猫じゃない。だけど、もう人間のままでもない」

 その言い方は、説明ではなく警告だった。

 踏み込めば、人の輪郭が崩れる。

 真琴はたぶん、それを見たことがあるのだ。

 和佳は小さく頷いた。

「戻れないなら、あれの中にいるのは……誰なんだろうね」

 真琴は答えなかった。答えられなかったのかもしれないし、答えたくなかったのかもしれない。

 喫茶店を出たあと、外気は思ったより冷えていた。通りの見張りは、和佳が出るのを見ても動かなかった。ただ、視界の中に和佳の姿を入れ続けていた。その濁りの滲んだ視線に比べれば、猫の注目は遥かにましだった。

 和佳はしばらく黙ったまま歩いた。旧商店街へ戻る道で、頭の奥に真琴の言葉が残っている。

 戻れない。ただの猫じゃない。もう人間のままでもない。

「なんとも好きになれない話になってきましたね」

 悠理がようやく言った。

「最初から嫌いだった」

「面倒なのとはまた別のやつです」

 何か返そうとして、止める。寒がるように襟を寄せた。

 気味の悪い猫、とはもういかない。冗談で片付けるには重すぎた。

 和佳は通りの角で足を止めた。街灯の下に、自分の影が細く落ちる。その影の外側に、もう一つ別の気配が重なった。

「ねえ、悠理」

「はい」

「最悪の場合、考えてる?」

「考えています」

「じゃあ、それは言わないでいい」

 悠理は素直に黙った。こちらがしおらしく頼んだときだけ、聞き分けがよくなるのは昔からだ。いや、昔の彼がどうだったかなんて、ろくに覚えていない。

 夜の通りを、風が抜けた。

 あの猫の中にいるのは誰だ。

 問いはまだ問いのままだ。だが今夜、それは初めて、まともな形を持った。

 

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