サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching 作:飛白玄
夜のあとには、昼が来る。来るには来るが、特区の昼は、夜が着替えただけの顔をしている。薄く明るくなったぶんだけ、壊れているところがよく見える。
看護ドローンと揉める老人、Witnessしか見ていないボランティア。整備された道路は企業ロゴの車両だけが走っていた。秩序はある。だが、人のためではない。
旧水路の沿道で、和佳は自販機の助言を無視して缶コーヒーを買い、一気に飲み干した。朝から三周している。
研究所側から旧水路に入り、旧商店街へ抜ける動線、ノクスが消えた地点、その先に重なる生活圏。地図上では細い線だったものが、足で辿るともっと嫌な輪郭を帯びる。誰か一人の生活の周囲を、猫が夜だけ掠めている。家の真芯ではなく、そこへ至るまでの陰や角ばかりを。
「三件、重なりましたね」
悠理が言った。
「うん」
「同じ人の帰路か、生活圏の外周です」
「猫が逢いたがってるにしては、まっすぐすぎる」
「余裕の無さは人間の専売特許ではないのかも」
和佳は視線を上げた。
立ち並ぶ古びた中層住宅、その角にあるコインランドリー、向かいの調剤薬局、さらに先の細い路地。そこに、場違いな見張り方をしている男が一人いた。
すれ違うのは四度目になる。
通行人のふりはできているが、立つ場所に配慮がない。目線の置き方に善意が足りない。こまめに装飾レイヤーを切り替えているが、どれも地味すぎて逆に浮いていた。専門の訓練を受けた者ほど洗練されてはいないが、素人臭もない。
「……当たりっぽい」
「見張りですね」
「露骨ではないけどさ」
「安物には変わりありません」
和佳は歩調を落とさず、そのまま通り過ぎた。視線は一度も男に置かない。見る価値のあるものほど、見ないふりをする。そういう癖は、いい人生からはたぶん育たない。
通りを抜けた先の喫茶店は、営業してるのか、してないのか、分からない顔をしていた。曇ったガラスの内側に、色褪せた観葉植物と、客の少ない午後が沈んでいる。和佳は店へ入り、奥まった席に座った。こういう店は、外を見るために入る場所だ。外から口元は読みづらいし、音もきれいには抜けない。
さして間を置かず、女が入ってきた。
来ないという選択肢もあったはずなのに、来た。見張られている側の人間は、たいてい好奇心では動かない。必要に押されて動く。
外見は三十代半ば。背筋はきれいに伸びているのに、肩の力だけが抜けきっていない。職能レイヤーは非表示だが、営業や事務にしては襟元が固すぎる。技術職の手だ、と和佳は直感した。爪が短く、癖のない指先。生活を守るために身なりを整えている人間の手だった。
女は店内を一度だけ見回し、和佳の正面ではなく斜め向かいに腰を下ろした。距離の取り方に、警戒の癖がある。
「高梁さん、ですね」
抑え気味の声。疲れているのに芯がある。
「来てくれてありがとう。神崎真琴さん?」
「ええ」
確認は互いにそれだけで足りた。
ロボット店員が水を置くが、真琴は手をつけず、ただ下がらせた。和佳のグラスは既に空だ。形式だけの場だった。
見張りが安物なら、今ここで割っては来ない。
仕事は確認までだ。介入の判断は、もっと上がする。
「どうして私のところに来たのか、聞いてもいいですか」
真琴の質問に、和佳は茶化した風に返した。
「猫に案内されたから、って言っても信じないでしょ」
真琴の目元が、ほとんど動かないまま少しだけ冷えた。冗談として処理するか、試されていると取るか、まだ決めていない目だ。
「その言い方なら、信じません」
「じゃあ、出現地点が偏ってた。そこにあなたの生活圏が重なった」
「それだけで?」
「それだけで会いに来るくらいには、今の私は暇じゃない」
そこで一拍だけ置いて、和佳は真琴を見た。
「待ってれば、そのうち尻尾を掴めるって感じでもなかった」
真琴の目と口元が細まる。
「……どういう意味ですか」
「保護者だから知ってるでしょ。私は、ユナの依頼でノクスを追ってる」
和佳はグラスの縁を指でなぞった。
「帰る動きじゃなかった。誰か一人のところへ行こうとしてた。しかも、長く同じやり方を続けられる感じでもなかった」
悠理が、喉の奥で笑うような気配を立てた。和佳は無視する。
真琴はしばらく和佳を見ていた。
その目には、探るより先に測る感じがある。信用できるか、ではない。どこまで危険か。どこまで使えるか。そういった視線が、和佳は嫌いではない。生き延びるのが上手い人間は、だいたい切実な方向に誠実だ。
「……それで、私に会いに来たんですか」
「ええ」
「ずいぶん仕事熱心なんですね」
「鋭意対応中ってやつ」
「ユナから聞いた以上のことを、話せるとは思えませんが」
「ユナが知らないノクスのことを、あなたなら知ってると思って」
和佳がそう言うと、真琴はわずかに視線を落とした。認める沈黙だった。
「知っています」
「どこまで?」
「その聞き方には答えられません」
正しい返答だ。ここでぺらぺら話し始める人間は信用できない。
和佳はグラスをわきに押しやり、前のめりに顔を近づけた。
「じゃあ、勝手に話す。あれは普通の猫じゃない。人間の監視を知ってる動き方をする。追われてる。しかも、何かの目的を持ってる」
真琴の指先が、卓上でごく浅く震えた。本人は抑えたつもりだろうが。
「さらに言うと、あなたとユナの周りには見張りがいる。例えば、さっき通りの角に立ってた男、あれ、友達じゃないでしょ」
真琴はそこで初めて、短く息を飲んだ。表情は崩れない。だが、守っていた外殻に一本だけひびが入る音がした。
和佳は続けた。
「あの猫はあなたに自力で近づけない。だから、代わりに私を使おうとしたんだ。違う?」
喫茶店の古い冷房が、頭上で乾いた音を立てた。真琴は黙っていた。店の奥で、誰かがカップを置く音がする。その些細な音だけが、妙に遠い。
やがて真琴は、小さく言った。
「……あなた、何者なんですか」
「探偵。それか便利屋」
「それにしては、勘が良すぎる」
「あなたも、ただの会社員には見えない」
言葉がぶつかって、そこで一度止まる。どちらも引かない。だが押し切りもしない。こういう手合いとは、綱を切らないまま少しずつ手繰るしかない。
真琴はようやく水に口をつけた。乾いた喉を湿らせるためではなく、返答の温度を整えるための動作だった。
「……ひとつだけ、確認させてください。ユナに、どこまで聞きましたか」
「父親が最近死んだこと。猫が帰ってきてるのに帰ってこないこと」
「仕事のことは?」
「研究所に勤めてたってことは聞いた」
真琴はそこで、ようやくかすかに肩の力を抜いた。全部は信じないまま、嘘だけではないと決めたらしい。
「なら、いいでしょう」
「何が」
「最低限なら話せます」
最低限、という言い方が気に入った。和佳は背もたれに身体を預けた。
悠理は黙っている。ここで余計な口を挟まないのは、彼なりの節度だった。
「まず、あの猫に見えている異常は、おそらく飼育AIの暴走ではありません。補助脳の誤作動でもない」
「そうでしょうね」
「……動物の脳で、人間の脳機能の一部を走らせる技術があります」
和佳は表情を動かさない。だが、内心で舌打ちした。つまりあの猫の奇妙さは、事故や異常ではなく、元々の仕様だ。遊びか、軍事転用か、医療偽装か。そのどれにしろ、ろくなものではない。
「人間が猫の中に入るって、幽霊みたいに?」
「そう単純ではないです。意識そのものを移すわけではない。元の身体感覚を一部残したまま、動物の身体になったような主観体験ができる。実際の機能は、身体感覚と行動意図の相互翻訳、と言う表現が適切です」
「もっと簡単に言って」
「……憑依でいいです」
真琴は憮然として説明を諦めた。和佳はさらにたずねた。
「そんなもの、何のために」
「そういうのが好きな人がいるんです。お金持ちとか。少なくとも商品開発部はそう言ってました。名称はアニマ・ライド。企画時点では災害救助用でした」
「その悪趣味に、何が起きてるの」
真琴は視線を窓の外へ滑らせた。通りの向こうの見張りが、まだ同じ位置にいるのが見えるのだろう。
「
言いかけて、真琴は咳払いした。
「障害例があります。動物と接続したまま、戻らなくなるケースです」
その言葉は、静かなのに重かった。
戻らない。
和佳は一瞬だけ、喉の奥が乾くのを感じた。戻れない、という響きは、それだけで人間の形を崩す。猫の中に人が閉じ込められる。今までなら、荒唐無稽だと笑っただろう。だが、ノクスの目を見たあとでは、笑えない。
真琴は続けた。
「もちろん公表されていませんし、社内でも一部の者しか知りません」
「示談なら問題ないって?」
「よくあることです」
淡々とした言い方だった。諦めに近い。あるいは、もう何度も内側で噛み砕いた苦さなのかもしれない。
「だったら倫理規定AGIは?」
和佳は窓の外の企業ロゴを顎で示した。
「この街のインフラの半分は見てるんでしょ。街の小さな親切にはすぐ点数をつけるくせに、人が壊されても見ないふり?」
真琴は、そこで初めて小さく笑った。笑いと呼ぶには乾きすぎた、ささくれみたいなものだった。
「見えていても、触れないんです」
「契約?」
「機密保持、研究資産保護、外部監査制限。言い方はいくらでもあります。研究所内部は契約で閉じた箱になってる。AGIは万能じゃない。見てたとしても、介入権がなければ何もしません」
胸の悪い話だった。だが、この世界らしくはある。監視はある。記録もある。評価もある。なのに、守られるのは契約と資産だけだ。
「きれいですね」
悠理が言った。
「きれいに腐っています」
和佳は、そこでようやく真琴をまっすぐ見た。
「あなたは、どこまで知ってる」
「知りません。予想はできますが、証拠がありません」
「答えになってない」
「答えられないんです」
真琴の声に力がこもった。怒りではない。切実さが、理性の縁を一瞬だけ押した音だった。
「ユナのこともあります。私の周りを見て、もう分かったでしょう。私には何もできません。何かした瞬間に、いなかったことになるだけです」
店のガラス越しに、通りの男が煙草も持たずに立っている。確かに、よく見れば異物だ。生活の動線から半歩だけ浮いている。
真琴は言った。
「だから、放っておいてください」
引き締められた口元を見て、和佳は引くことにした。
目の前の女は臆病なのではない。安全圏で見ているのでもない。企業が動き始める条件を、具体的に知っているだけだ。
真琴は卓上に置いたままの自分の手を軽く握った。
「私が言えるのは、ここまでです」
「十分よ」
「納得してないって顔をしてます」
「生まれつきなの」
真琴は、ほんの少し目尻を緩めた。人を信用しない者同士が、かろうじて相手を評価する時の顔だ。
「ノクスを、どうするつもりですか」
「まずは捕まえる」
「捕まえてどうするんですか」
「まだ決めてない」
和佳は立ち上がった。これ以上、長引かせても意味はない。話しすぎれば、見張りが要らぬ世話を焼きに来ないとも限らない。
真琴も席を立つ。その時、和佳はきっぱりと告げた。
「また会いましょう」
「無駄です」
「無駄でも」
和佳は窓の外を一瞬だけ見た。
「ノクスは、あなたのところへ行きたがってる」
真琴の表情が、そこで大きく揺れた。数秒にも満たない揺れだったが、それで十分だった。あの猫の行き先がどこか、和佳の推理はほぼ当たっている。
「……もし」
真琴はそこで言葉を切った。喉に引っかかったまま、慎重に形を選ぶ。
「もし、ノクスが本当に“戻れない”のだとしたら」
和佳は待った。
「それは、ただの猫じゃない。だけど、もう人間のままでもない」
その言い方は、説明ではなく警告だった。
踏み込めば、人の輪郭が崩れる。
真琴はたぶん、それを見たことがあるのだ。
和佳は小さく頷いた。
「戻れないなら、あれの中にいるのは……誰なんだろうね」
真琴は答えなかった。答えられなかったのかもしれないし、答えたくなかったのかもしれない。
喫茶店を出たあと、外気は思ったより冷えていた。通りの見張りは、和佳が出るのを見ても動かなかった。ただ、視界の中に和佳の姿を入れ続けていた。その濁りの滲んだ視線に比べれば、猫の注目は遥かにましだった。
和佳はしばらく黙ったまま歩いた。旧商店街へ戻る道で、頭の奥に真琴の言葉が残っている。
戻れない。ただの猫じゃない。もう人間のままでもない。
「なんとも好きになれない話になってきましたね」
悠理がようやく言った。
「最初から嫌いだった」
「面倒なのとはまた別のやつです」
何か返そうとして、止める。寒がるように襟を寄せた。
気味の悪い猫、とはもういかない。冗談で片付けるには重すぎた。
和佳は通りの角で足を止めた。街灯の下に、自分の影が細く落ちる。その影の外側に、もう一つ別の気配が重なった。
「ねえ、悠理」
「はい」
「最悪の場合、考えてる?」
「考えています」
「じゃあ、それは言わないでいい」
悠理は素直に黙った。こちらがしおらしく頼んだときだけ、聞き分けがよくなるのは昔からだ。いや、昔の彼がどうだったかなんて、ろくに覚えていない。
夜の通りを、風が抜けた。
あの猫の中にいるのは誰だ。
問いはまだ問いのままだ。だが今夜、それは初めて、まともな形を持った。