サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching 作:飛白玄
猫を捕まえる、という言い方は簡単だが、相手がこちらを見て距離を測ることを覚えてしまっている場合、話は別になる。
真琴と会った日の夜、ノクスはほとんど姿を見せなかった。Witnessの散発的な目撃情報でも、以前ほど動きに滑らかさがない。旧水路沿いの角をひとつ曲がらせては止まり、壁際へ身を寄せ、また短く動く。意志はある。行き先もある。だが、そのあいだをつなぐ線が、少しずつほつれている。
もう人間のままでもない、という真琴の言葉を、和佳は信じ切ってはいなかったが、あの崩れ方を見れば、何かが摩耗しているのは分かった。
夜明け前、和佳は張り込み場所を変えた。
駅の南側。ユナの生活圏から一本外れた、配送車両の抜け道になっている暗い通りだ。数分前に、ノクスはそこで辺りを見回し、よろめき、すぐ消えた。今いる場所から5分とかからない。ここしかないと当て込んだ。
長くは保たない。なら、こちらも長くは待たない。
和佳は錆びた階段の陰で息を潜めた。手袋は薄いもの。麻酔も罠も使わない。使えば次がなくなる。今夜必要なのは、ただ一度だけ体に触れて、逃がす前に抱え込むことだった。
「左から来ます」
悠理が平坦な声で囁いた。
和佳は返事をしなかった。視線だけを滑らせる。
黒い影が、通りの継ぎ目から染み出すように現れた。
ノクスは止まった。こちらに気づいている。だが逃げる前に、見た。和佳を。見て、判断しきれないままの一拍があった。
前なら、その一拍すらなかった。
そこで和佳は動いた。前へではなく、横へ。逃げ道を切るのではなく、選択肢を狭める動きだ。ノクスは反応した。右へ流れる。和佳はその半歩先へ脚を差し入れ、地面へ落ちる黒い体を両腕で包んだ。
軽い、と思った。思った瞬間に腹が立つくらい軽かった。
ノクスは爪も牙も出して暴れたが、以前の鋭さはなかった。逃げる必死さより、触れられる嫌悪のほうが強い。
和佳は顔をしかめ、肩口へ猫の頭を押し込めた。
「ごめん。今夜は付き合って」
猫はくぐもった、掠れた声を出した。それは威嚇にも聞こえたし、別の何かにも聞こえた。
「急いでください」
和佳は、見回りAGIの難癖を潜り抜けて裏路地を抜け、二ブロック先に停めていたレンタルの小型車へ乗り込んだ。ノクスを後席の簡易キャリーへ押し込む。暴れる体力も、長くは続かなかった。浅い呼吸が、狭い樹脂の箱の中で擦れた。
捕まえた時点で、もう迷い猫探しには戻れない。
*
部屋へ戻ると、空気が急に人間くさくなった。空調、洗剤、衣類用消臭スプレー、古い家具の匂い。その真ん中に、獣の湿った熱が加わる。
長ソファ前のテーブルを片づけ、洗面台の近くに持ち込んだ。鏡のヘルスモニタをペットモードに。バイタルが反映された猫の仮想モデルが現れる。AGIがうなじから後頭部にかけての発熱と炎症を警告してきた。
ノクスはキャリーの中で丸くなるでもなく、体を起こしたままこちらを見ていた。警戒というには深すぎる、諦めというにはまだ鋭い目だった。
「補助脳の状態を見るだけ。痛くしないから」
言ってから、猫にそんな説明が通じるものかと自分で思う。だがノクスは瞼ひとつ動かさなかった。
「和佳さん」
「なに」
「気休めですよ」
「知ってる」
「らしくなく優しい言い方をしたので、指摘しておこうかと」
「黙って手伝え」
和佳は、AGIが提出した診断アプリに、少し手を加えてから起動した。
ノクスのうなじから耳の後ろにかけて、インプラントの埋設痕がある。毛をかき分け、皮膚の下に診断を最適化する。和佳の指先より先に、悠理が内部構造を拾い始めているのが分かる。彼が本気で潜る時、世界は少しだけ音を失う。
補助脳本体に明白な物理破損はなかった。過熱は深刻になりつつあるが、熱暴走ではない。むしろ気味が悪いほど整っている。異常なのは機械そのものではなく、そこを通っていた履歴のほうだ。
「……なんか変」
和佳が呟く。悠理は、猫の仮想モデルから補助脳を切り分けつつ同意した。
「ええ」
緊急医療用端子から強引にアクセス。補助脳のログが細く立ち昇る。
アニマ・ライドとやらだろう補助脳の通信痕跡以外で、定期的に外部へ触った形跡がある。しかも研究所本系統のサーバーとは違う。保守ログにしては隠し方があざとい。
「この経路の先は、研究所?」
「近いですが、正規の表面ではありませんね。外縁です。保守でも監査でもない。個人に寄っている」
個人。和佳はノクスを見た。猫は息を浅くしながら、それでもこちらを見返している。見返す、という動詞がここまで似合う獣も珍しい。
「誰かが勝手に繋いでた」
「あるいは、閉じた仕様の外に、小さな抜け道を作った」
「好きでやる改造じゃないな」
「必要だったんでしょうね」
必要だった。誰に。何のために。訊かなくても、答えはもう見えている。
和佳は経路を追った。補助脳から伸びる糸。少しずつ慎重に追っていく。ふと自分が薄まる感覚があった。
仮想パネルを操作する手に、悠理のそれが添えられていた。途端、名医の手つきで全ての糸が解体され始めた。視界のログは枝分かれした濁流のようで、その一文字ずつにすら意味がある。
「ちょっと」
「企業の防壁は危ないですよ」
和佳はぐっと口を引き結んだ。ここは意地を張るところではない。
「ここです」
外縁のサーバーが一つ、浮いた。小さい。だが独立している。本体からぶら下がる寄生虫みたいな位置だ。普通の運用なら、こんなものは長く生かしておかない。
「どうしますか」
「ここまで来て? 開けるに決まってる」
和佳は認証の癖を一つ外し、次に二つ偽装し、最後は悠理に投げた。悠理は無言で受け取る。受け取る時の沈黙は、彼が余裕ではなく集中を選んだ時のものだ。
世界が少しだけ遅くなった。
視界の縁が白む。和佳は顎に力を入れ、テーブルの縁に指を掛けた。これくらいなら余裕だ。とはいえ、好きな感覚ではない。
「……ありました」
悠理の声が落ちた。
和佳は画面を見た。最初はノイズにしか見えない。低い視点、不安定な揺れ、暗所補正の荒い滲み。猫の頭が動けばこうなる、とも言える。だが次の瞬間、違和感が輪郭を持った。視線が、ただ光や音へ引かれていない。空間を意味で区切っている。扉、床、手、器具。見る順番が人間のそれだ。
「……知覚ログ」
「本来の機能にはなさそうでした」
和佳はそこでようやく、口を笑みの形にした。笑うしかない。
「動物の見たものって、たしか残らないよね。盗撮防止とかで」
「まあ、普通は倫理フィルタで潰されますね」
「何か見つかったら、証拠になる?」
「そのままでは無理です」
「なのに残してる」
「しかも、わざわざ別に逃がして」
「趣味悪いなあ」
「趣味ではないと思います」
和佳は頬杖をつき、ノクスを見た。
猫はもう暴れていない。呼吸はまだ浅い。だが、さっきよりもずっと静かに和佳を見ている。諦めたようでもあり、待っているようでもある。
ここまで来れば、もう誤解しようがない。これは偶然残ったデータではない。誰かが残した。誰かが、残さなければならなかった。
その誰かの輪郭が、ようやく現実に触れた。
事故で死んだ父親。研究所。戻れなくなる障害例。真琴の沈黙。ユナの「帰ってきてるのに帰ってこない」。全部が一つの方向へ寄り始める。
「和佳さん」
「なに」
「踏み込むんですか」
踏み込めば、戻れない。そういう種類の扉がある。研究所の中だけじゃない。人間の認識の中にもある。そこを越えると、世界は元のサイズに戻らない。
和佳はログのタイムスタンプを見た。猫に会った日を思い出す。研究所のすぐ近くで隠れていた時間帯と重なる。警備が血相を変えた瞬間に近い。だったらこれは、事故のすぐそばにあった目だ。
猫の目ではない。
猫の中で、人間が見ていた目だ。
そう考えた瞬間、胃の奥が冷えた。だが同時に、あまりに筋が通りすぎて、嫌でも納得した。
「これを見せたかったってことか」
猫は答えない。ただ短く、喉を鳴らした。
ログをさらに紐解けば、もっと決定的なものが出るだろう。
その前に、和佳は外縁サーバーへ続く細い経路の端を、もう一度だけ確かめた。
送信が途中で中止された短いログが、幾つか残されている。
外部監査窓口への下書き。差し止め申請。事故予兆報告。
それから、個人宛の短い警告文らしいもの。
どれも送信されていない。途中で止められたのか、自ら止めたのか。そこまでは分からない。
ただ、警告文の手前には、毎回同じ判定が残っていた。
【関係者保護対象への未承認接触】
【未成年同居世帯へのリスク波及あり】
和佳は警告文をじっと見つめながら言った。
「外に連絡を取ろうとしてた」
「ええ。何度も」
「でも、誰かを巻き込む危険があった?」
「それも分かっていたんでしょうね」
和佳は、無意識に力を込めていた手を開閉してほぐした。
悠理が宥めるような平静な声で言った。
「やめますか」
「やめない」
「そうでしょうね」
悠理の声は、いつもの皮肉より薄かった。
和佳は長く息を吐いた。仮想ウィンドウの中には、研究所の闇の切れ端が口を開けたまま残っている。ノクスはキャリーの中で、まるで判決を待つみたいに静かだった。
猫探しは、ここで終わった。
その代わり、別のものが始まっている。言葉にするにはまだ早い。だが、もう誤魔化しようがない。
研究所の中の何が映っていたのか。
どこまでが開発者の仕事の内で、どこからが事故の外なのか。
そこは真琴の目を外したくなかった。
窓の外では、特区の夜が浅いまま続いている。どこかで誰かが罵り、別のどこかで配達ドローンが羽音を立てていた。
「神崎さん、呼ぼうか」