サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching   作:飛白玄

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第7話 記録は残らないはずだった

 

 猫を捕まえる、という言い方は簡単だが、相手がこちらを見て距離を測ることを覚えてしまっている場合、話は別になる。

 真琴と会った日の夜、ノクスはほとんど姿を見せなかった。Witnessの散発的な目撃情報でも、以前ほど動きに滑らかさがない。旧水路沿いの角をひとつ曲がらせては止まり、壁際へ身を寄せ、また短く動く。意志はある。行き先もある。だが、そのあいだをつなぐ線が、少しずつほつれている。

 もう人間のままでもない、という真琴の言葉を、和佳は信じ切ってはいなかったが、あの崩れ方を見れば、何かが摩耗しているのは分かった。

 夜明け前、和佳は張り込み場所を変えた。

 駅の南側。ユナの生活圏から一本外れた、配送車両の抜け道になっている暗い通りだ。数分前に、ノクスはそこで辺りを見回し、よろめき、すぐ消えた。今いる場所から5分とかからない。ここしかないと当て込んだ。

 長くは保たない。なら、こちらも長くは待たない。

 和佳は錆びた階段の陰で息を潜めた。手袋は薄いもの。麻酔も罠も使わない。使えば次がなくなる。今夜必要なのは、ただ一度だけ体に触れて、逃がす前に抱え込むことだった。

「左から来ます」

 悠理が平坦な声で囁いた。

 和佳は返事をしなかった。視線だけを滑らせる。

 黒い影が、通りの継ぎ目から染み出すように現れた。

 ノクスは止まった。こちらに気づいている。だが逃げる前に、見た。和佳を。見て、判断しきれないままの一拍があった。

 前なら、その一拍すらなかった。

 そこで和佳は動いた。前へではなく、横へ。逃げ道を切るのではなく、選択肢を狭める動きだ。ノクスは反応した。右へ流れる。和佳はその半歩先へ脚を差し入れ、地面へ落ちる黒い体を両腕で包んだ。

 軽い、と思った。思った瞬間に腹が立つくらい軽かった。

 ノクスは爪も牙も出して暴れたが、以前の鋭さはなかった。逃げる必死さより、触れられる嫌悪のほうが強い。

 和佳は顔をしかめ、肩口へ猫の頭を押し込めた。

「ごめん。今夜は付き合って」

 猫はくぐもった、掠れた声を出した。それは威嚇にも聞こえたし、別の何かにも聞こえた。

「急いでください」

 和佳は、見回りAGIの難癖を潜り抜けて裏路地を抜け、二ブロック先に停めていたレンタルの小型車へ乗り込んだ。ノクスを後席の簡易キャリーへ押し込む。暴れる体力も、長くは続かなかった。浅い呼吸が、狭い樹脂の箱の中で擦れた。

 捕まえた時点で、もう迷い猫探しには戻れない。

 

     *

 

 部屋へ戻ると、空気が急に人間くさくなった。空調、洗剤、衣類用消臭スプレー、古い家具の匂い。その真ん中に、獣の湿った熱が加わる。

 長ソファ前のテーブルを片づけ、洗面台の近くに持ち込んだ。鏡のヘルスモニタをペットモードに。バイタルが反映された猫の仮想モデルが現れる。AGIがうなじから後頭部にかけての発熱と炎症を警告してきた。

 ノクスはキャリーの中で丸くなるでもなく、体を起こしたままこちらを見ていた。警戒というには深すぎる、諦めというにはまだ鋭い目だった。

「補助脳の状態を見るだけ。痛くしないから」

 言ってから、猫にそんな説明が通じるものかと自分で思う。だがノクスは瞼ひとつ動かさなかった。

「和佳さん」

「なに」

「気休めですよ」

「知ってる」

「らしくなく優しい言い方をしたので、指摘しておこうかと」

「黙って手伝え」

 和佳は、AGIが提出した診断アプリに、少し手を加えてから起動した。

 ノクスのうなじから耳の後ろにかけて、インプラントの埋設痕がある。毛をかき分け、皮膚の下に診断を最適化する。和佳の指先より先に、悠理が内部構造を拾い始めているのが分かる。彼が本気で潜る時、世界は少しだけ音を失う。

 補助脳本体に明白な物理破損はなかった。過熱は深刻になりつつあるが、熱暴走ではない。むしろ気味が悪いほど整っている。異常なのは機械そのものではなく、そこを通っていた履歴のほうだ。

「……なんか変」

 和佳が呟く。悠理は、猫の仮想モデルから補助脳を切り分けつつ同意した。

「ええ」

 緊急医療用端子から強引にアクセス。補助脳のログが細く立ち昇る。

 アニマ・ライドとやらだろう補助脳の通信痕跡以外で、定期的に外部へ触った形跡がある。しかも研究所本系統のサーバーとは違う。保守ログにしては隠し方があざとい。

「この経路の先は、研究所?」

「近いですが、正規の表面ではありませんね。外縁です。保守でも監査でもない。個人に寄っている」

 個人。和佳はノクスを見た。猫は息を浅くしながら、それでもこちらを見返している。見返す、という動詞がここまで似合う獣も珍しい。

「誰かが勝手に繋いでた」

「あるいは、閉じた仕様の外に、小さな抜け道を作った」

「好きでやる改造じゃないな」

「必要だったんでしょうね」

 必要だった。誰に。何のために。訊かなくても、答えはもう見えている。

 和佳は経路を追った。補助脳から伸びる糸。少しずつ慎重に追っていく。ふと自分が薄まる感覚があった。

 仮想パネルを操作する手に、悠理のそれが添えられていた。途端、名医の手つきで全ての糸が解体され始めた。視界のログは枝分かれした濁流のようで、その一文字ずつにすら意味がある。

「ちょっと」

「企業の防壁は危ないですよ」

 和佳はぐっと口を引き結んだ。ここは意地を張るところではない。

「ここです」

 外縁のサーバーが一つ、浮いた。小さい。だが独立している。本体からぶら下がる寄生虫みたいな位置だ。普通の運用なら、こんなものは長く生かしておかない。

「どうしますか」

「ここまで来て? 開けるに決まってる」

 和佳は認証の癖を一つ外し、次に二つ偽装し、最後は悠理に投げた。悠理は無言で受け取る。受け取る時の沈黙は、彼が余裕ではなく集中を選んだ時のものだ。

 世界が少しだけ遅くなった。

 視界の縁が白む。和佳は顎に力を入れ、テーブルの縁に指を掛けた。これくらいなら余裕だ。とはいえ、好きな感覚ではない。

「……ありました」

 悠理の声が落ちた。

 和佳は画面を見た。最初はノイズにしか見えない。低い視点、不安定な揺れ、暗所補正の荒い滲み。猫の頭が動けばこうなる、とも言える。だが次の瞬間、違和感が輪郭を持った。視線が、ただ光や音へ引かれていない。空間を意味で区切っている。扉、床、手、器具。見る順番が人間のそれだ。

「……知覚ログ」

「本来の機能にはなさそうでした」

 和佳はそこでようやく、口を笑みの形にした。笑うしかない。

「動物の見たものって、たしか残らないよね。盗撮防止とかで」

「まあ、普通は倫理フィルタで潰されますね」

「何か見つかったら、証拠になる?」

「そのままでは無理です」

「なのに残してる」

「しかも、わざわざ別に逃がして」

「趣味悪いなあ」

「趣味ではないと思います」

 和佳は頬杖をつき、ノクスを見た。

 猫はもう暴れていない。呼吸はまだ浅い。だが、さっきよりもずっと静かに和佳を見ている。諦めたようでもあり、待っているようでもある。

 ここまで来れば、もう誤解しようがない。これは偶然残ったデータではない。誰かが残した。誰かが、残さなければならなかった。

 その誰かの輪郭が、ようやく現実に触れた。

 事故で死んだ父親。研究所。戻れなくなる障害例。真琴の沈黙。ユナの「帰ってきてるのに帰ってこない」。全部が一つの方向へ寄り始める。

「和佳さん」

「なに」

「踏み込むんですか」

 踏み込めば、戻れない。そういう種類の扉がある。研究所の中だけじゃない。人間の認識の中にもある。そこを越えると、世界は元のサイズに戻らない。

 和佳はログのタイムスタンプを見た。猫に会った日を思い出す。研究所のすぐ近くで隠れていた時間帯と重なる。警備が血相を変えた瞬間に近い。だったらこれは、事故のすぐそばにあった目だ。

 猫の目ではない。

 猫の中で、人間が見ていた目だ。

 そう考えた瞬間、胃の奥が冷えた。だが同時に、あまりに筋が通りすぎて、嫌でも納得した。

「これを見せたかったってことか」

 猫は答えない。ただ短く、喉を鳴らした。

 ログをさらに紐解けば、もっと決定的なものが出るだろう。

 その前に、和佳は外縁サーバーへ続く細い経路の端を、もう一度だけ確かめた。

 送信が途中で中止された短いログが、幾つか残されている。

 外部監査窓口への下書き。差し止め申請。事故予兆報告。

 それから、個人宛の短い警告文らしいもの。

 どれも送信されていない。途中で止められたのか、自ら止めたのか。そこまでは分からない。

 ただ、警告文の手前には、毎回同じ判定が残っていた。

 【関係者保護対象への未承認接触】

 【未成年同居世帯へのリスク波及あり】

 和佳は警告文をじっと見つめながら言った。

「外に連絡を取ろうとしてた」

「ええ。何度も」

「でも、誰かを巻き込む危険があった?」

「それも分かっていたんでしょうね」

 和佳は、無意識に力を込めていた手を開閉してほぐした。

 悠理が宥めるような平静な声で言った。

「やめますか」

「やめない」

「そうでしょうね」

 悠理の声は、いつもの皮肉より薄かった。

 和佳は長く息を吐いた。仮想ウィンドウの中には、研究所の闇の切れ端が口を開けたまま残っている。ノクスはキャリーの中で、まるで判決を待つみたいに静かだった。

 猫探しは、ここで終わった。

 その代わり、別のものが始まっている。言葉にするにはまだ早い。だが、もう誤魔化しようがない。

 研究所の中の何が映っていたのか。

 どこまでが開発者の仕事の内で、どこからが事故の外なのか。

 そこは真琴の目を外したくなかった。

 窓の外では、特区の夜が浅いまま続いている。どこかで誰かが罵り、別のどこかで配達ドローンが羽音を立てていた。

「神崎さん、呼ぼうか」

 

 

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