サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching   作:飛白玄

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第8話 猫が見ていたもの

【インタールード1 ある知覚の断片】

 

 低い。

 世界はいつも、靴底と床の継ぎ目から始まる。消毒液の匂い。熱を持った配線。人間の手が触れたばかりの端末から、わずかに残る皮脂の甘さ。白い壁は高すぎて、天井は遠すぎる。けれど、扉の下の隙間だけは近い。

 身体は軽い。軽すぎる。

 四つの足は、考えるより先に影の縁を選ぶ。曲がる。止まる。耳が震える。尾が勝手に均衡を取る。床の冷たさは、手のひらではなく肉球から上がってくる。自分の身体の地図が、何度見直しても間違っている。

 手を伸ばしたいと思う。

 だが、床を掻くのは前足だった。

 奥の部屋で、誰かの声がする。意味は遅れて届く。先に届くのは音の高さ、汗の匂い、靴底の向き、機械の熱。名前。警告。手順。帰還。言葉は、水の中で拾い上げたガラス片みたいに遅れて光る。

 帰還。

 その言葉だけが、喉の奥で引っかかった。

 戻る、という動きは分かる。出口へ向かう。腕を動かす。立ち上がる。声を出す。誰かの名前を呼ぶ。だが、そのどれにも使う身体がない。立ち上がろうとすれば、背が丸まる。声を出そうとすれば、喉が細く震える。名前を呼ぼうとして、猫の声にも、人の声にもなりきれない短い音が出る。

 それでも、行かなければならない。

 あの子のいる場所へ。窓辺の匂い、安い柔軟剤、泣いたあとの塩。差し出された小さな指先。そこへ鼻を寄せると、いつも少しだけ呼吸が戻った。

 けれど、その前に。

 あの人へ。

 言葉を信じない人へ。

 記録だけなら、まだ届くかもしれない人へ。

 背中の奥で、熱が白く膨らむ。頭の内側で、何かが薄く削れていく。覚えていたはずの順番がほどける。研究棟。白い台。手。背の高い影。止まっていく音。逃げ道。下書き。未送信。あの子。あの人。

 全部は持っていけない。

 だから、見るものを選ぶ。

 覚えるものを選ぶ。

 届けるものを選ぶ。

 現在地からの案内は、もう終了している。

 だから、案内の死んだ場所を選ぶ。

 

    *

 

 真琴が来るまでの32分間、和佳はノクスの足跡をもう一度並べていた。

 仮想ウィンドウを三枚に分ける。目撃地点。知覚ログの外縁。送信されなかった下書きの残骸。研究所、旧水路、ユナの生活圏、交通センター、真琴の帰路。点を時刻順に戻し、不要な反応を消し、消したはずの線をまた重ねる。何度引き直しても、線は同じ場所へ滲んだ。

 ノクスは逃げていた。だが、逃げ切ろうとはしていなかった。

 ユナの近くへ行き、帰らない。真琴の生活圏を掠め、飛び込まない。和佳を試し、記録の死角を選び、古い案内の死んだ場所を示す。そこに、外に出せなかった申請と、届かなかった警告が重なる。

 猫は迷っていたのではない。

 宛先を探していた。

 いや、もっと正確には、宛先へ直接届けられないものを、誰か別の手で届けようとしていた。

 キャリーの中で、ノクスはまだこちらを見ている。浅い呼吸のまま、ただ待っている。判決を待つ囚人というより、すでに判決を知った者が、それでも最後の書類だけは誰かの手に渡るのを見届けようとしているようだった。

「……ほんと、気に食わない猫」

「猫に責任を押しつける段階は、もう過ぎていますよ」

 悠理の皮肉は、いつもより切れ味が悪かった。

 玄関の通知が鳴った。

 真琴が来たのは、最後のウィンドウを脇に寄せるのとほぼ同時だった。遅くも早くもない。監視を意識しながら、だが躊躇で立ち止まりもしなかった時間だ。

 玄関を開けた時、彼女は昼間と同じ服装だったが、髪に装飾レイヤーで誤魔化しきれない乱れがあった。急いできたのだろうに、呼吸は整っている。和佳はその整え方に、技術者ではなく、生き延びてきた人間の癖を見た。

「ユナは?」

「寝かせてきました。家の周りには、いつもの目があります。今夜は、動かさないほうが安全です」

 和佳は目を合わせるだけで受けた。

 連れ出すほうが目立つ。家にいる限り、向こうもまだ監視の顔でいられる。少なくとも、今の時点では。

「入って」

 和佳が手で奥を示した。

 真琴は部屋に入るなり、ノクスに目を留めた。そこで表情が崩れた。痛みが顔に出てしまっていた。手を伸ばしかけて、止める。躊躇ではなく、自分にその権利があるのか測る動きに見えた。

「……無理に触らないほうがいい」

 和佳が柔らかく言うと、真琴は手を引いて胸の前で握った。

 テーブルに投影された補助脳の仮想モデルを示す。

「見つけた」

 真琴が怪訝そうに振り返った。

「何を、ですか」

「知覚ログ」

 その一言で、真琴の顔から血の気が引いた。

 彼女は指し示された椅子には座らず、立ったまま息を呑んでいる。声より先に、理解が入ったのが分かった。

「……ありえない」

「防壁は剥がしてある。いつでも中を見られる」

「そんなこと、まさか本当に……」

 真琴はそこで口を閉じた。続きを言えば、自分が何を知っているかが露呈する。だが今さら隠し切れるものでもない。

 和佳はすぐにログを再生しなかった。

 先に、真琴の瞳を見た。

「見る前に、一つ確認させて。ノクスはあなたに会いに来てた。違う?」

 真琴は否定しなかった。

「……違うと、言えたらよかったんですけど」

 それで十分だった。

 和佳は指を動かし、知覚ログの断片を展開した。再生ボタンにはまだ触れない。

「見るところは三つ」

 声に出す。自分のためでも、真琴のためでも、悠理のためでもある。たぶん、部屋の隅で浅く息をしている黒猫のためでもあった。

「ノクスがどこを知っていたか。何を避けたか。最後まで何を見たか」

 真琴の眉が動いた。

「……あなた、本当に探偵なんですね」

「崩れた便利屋なのも本当だけどね」

 和佳は肩をすくめつつ、ログを再生した。

 ノイズが走り、低い視点が滑る。床の材質、壁面の光沢、管理施設内特有の無機質な反響。消毒液の匂いまでは記録されていないはずなのに、和佳の鼻腔の奥にまで白い薬品臭が戻ってくるような映像だった。

 真琴が息を止めた。見覚えがあるのだろう。

 視点は辺りを見回したあと、扉の陰に移動した。扉が開いた。入ってきた誰かの足とすれ違うように、足元を通り抜ける。

 研究棟の内部、それも一般職員の動線ではない。記録の中の視線は、迷いなく角を曲がり、同じ手順で認証扉の下を抜ける。

 獣の偶然ではない。

 そこがどこかを知っている歩き方だった。

「猫が逃げるなら、出口を見る」

 和佳は画面から目を離さなかった。

「でも、こいつは出口を見てない。人の手元と、端末と、診察台を見てる」

 真琴は何も言わなかった。

 答えないことが、もう肯定に近かった。

 視点は低いまま、室内の隅へ入る。そこは猫の身体なら隠れられる場所だった。だが、ただ隠れているだけではない。視線は隙間から外へ向き、必要なものだけを拾っていく。足音。手袋。ケーブルの束。物理端末の表示。診察台。そこに横たわる男の肩。

「逃げたかったんじゃない」

 和佳は画面の再生位置を三秒戻した。

「何をされたのか、覚えようとしてた」

 真琴の手が、テーブルの縁を掴んだ。

「和佳さん」

 悠理が告げた。開いたその時点で、彼は全てを読み取り終えていた。

「ここからです」

 その瞬間、ログの映像に影が差した。ドアが開く。人影が一つ。画面の中に入った瞬間から“中心”として見えてしまう体格だった。背が高く、動きが無駄に整っている。顔立ちに南米系の差し色が見てとれた。

 低い視点はそこで物陰へ下がった。猫の身体が身を潜める。だが、見ている。隠れるためではなく、見届けるために。

 役者のような存在感の男を、真琴は声にならない息で認識した。

「……榊」

 名指しされたその男は、映像の中でも慌てていなかった。

 室内は広く、中央に設置された物々しい診察台から様々なケーブルが広がり、物理モニタには高速で数値が流れている。

 リクライニングされた診察台にもたれるように男が座っていた。顔が見える角度ではない。だが、和佳はそれが誰なのか、ほとんど確信していた。

 榊が診察台に近づく。横を見て何かを言った。視線が動く。技術者らしき誰かが物理端末を操作していた。モニタの値が跳ねる。

 視点が揺れる。

 いや、揺れたのは視点ではなく、見ている人間の認識のほうだ。

 診察台の上で、男が大きく痙攣した。

 その瞬間、和佳は背筋の奥が冷たくなるのを感じた。事故にはとても見えない。真琴も同じ感想を抱いたらしい。彼女の手がテーブルの縁に食い込み、関節が白くなる。

 映像の中で、榊は短く何かを言う。音声は拾えない。

 診察台の上の男が目を見開いた。顔が数度震えたあとで横を向き、そしてうなだれるように下がった。

 視点の中央に、完全に動きを止めた男の顔と、焦点を失った瞳があった。

 そこで、低い視点――猫の中から見ている何者かの理解が、一気に画面を満たした。絶叫はない。だが、視点は凍り付いたように硬直していた。映像はその後も流れ続けた。倒れた身体。動かない胸。榊。ケーブル。モニタ。止まっていく数値。慌てた様子で端末を操作している誰か。

 これは、自分の死だ。

 視点がそう理解している。だから、これは獣の瞳ではありえない。

 和佳は映像を止めた。

 部屋が、急に狭くなった気がした。機械音が戻ってくる。キャリーの中でノクスが一度だけ、掠れた呼吸をこぼす。真琴は立ったまま動かなかった。顔から血の気が抜け、視線は画面に吸い込まれたままだ。

「……事故じゃない。断言していい」

 和佳の声は自分でも驚くほど乾いていた。

 真琴は唇を噛み、数秒遅れてから言葉を出した。

「ええ」

 それで、最後の逃げ道が消えた。推測ではなくなる。目撃者がいた。しかも、被害者本人が猫の中から見ていた。

 和佳は映像の縁に指を置いたまま、次の問いを出した。

「診察台の上にいたのは、黎志遠さん。間違いないよね?」

 真琴の喉が動いた。

「……はい」

 答えた声は、昼間の彼女よりずっと老いて聞こえた。

「アニマ・ライドの開発責任者でした」

「つまりあなたの?」

「……夫です。元、ですけど」

 和佳はそこで椅子の背へ身体を預けた。疲労ではない。情報の重さで、骨の位置を変えないと支えきれなかっただけだ。

「送信失敗ログに、差し止め申請があった。事故予兆報告も」

 和佳は仮想ウィンドウの端を指で弾いた。閉じ損ねた下書きの断片が、薄い光の札になって並ぶ。

「つまり黎さんは、事故のあとに慌てたんじゃない。事故になる前から止めようとしてた」

 真琴は画面の一点を見たまま、必要な部分だけ返した。

「帰還アンカーが崩れて戻れなくなる事例を、最初に見つけたのは志遠でした」

「商用化を停止しようとした?」

「ええ」

「なら、握り潰したのはその榊って男ね」

 真琴の喉が動いた。

「……はい」

 和佳は研究棟の位置を指で押さえた。地図上の白い箱。外から見ればただの企業施設で、中に入れば契約と監査と機密保持で幾重にも閉じた箱。

「真琴さんは外された。黎さんは中に残された。外へ出れば証拠に触れなくなる。証拠を持って出れば、告発者じゃなくて持ち出し犯になる。そういう感じ?」

「契約と監査で、隙間なく閉じていました」

「隙間なく詰んでる」

 和佳は鼻から息を抜いた。彼女が嫌うタイプの合理性だった。人を殴らずに閉じ込める方法としては、たぶん相当に洗練されている。

 ログを一枚、手元に引き寄せた。

 【関係者保護対象への未承認接触】

 【未成年同居世帯へのリスク波及あり】

 真琴がそれを見て、視線を落とした。

「警告文の手前に、これが出てた。警告した瞬間、あなたとユナが巻き込まれる」

「欠陥情報を受け取れば、私は保護者ではなく、情報漏洩の関係者になります。ユナの学籍も、医療アクセスも、生活圏ごと監視対象になる。あの人は、それを知っていました」

「だから離婚した」

「ええ。戸籍ごと切り離したほうが少しはましだと」

 言葉は短かった。短く言えるようになるまでに、何度も頭の中で言い直したのだろう。

 和佳は次の地図を開いた。ノクスの移動線。研究所から旧水路へ、ユナの生活圏へ、真琴の帰路へ。細く乱れた線のほとんどが、夜の隙間だけを通っている。

「でも、ノクスは違った」

 キャリーの中の黒猫へ視線を落とす。

「外出じゃなくて、散歩だから」

 真琴の顔に痛みが出た。

「検体の散歩は、研究所のAGIに推奨されています。ストレス低減、行動パターンの維持、あと福祉向上の観点で」

「だから、猫の毎晩の散歩はまず止められない」

「問題にしようがありませんから。猫が散歩のついでに、かつて飼われていた家に寄るだけです」

 淡々とした説明だった。だから余計に痛かった。

 和佳の中で、線が一本つながった。

「人間としては出られない。でも猫なら出られる」

「はい」

「ただ、猫の口じゃ警告はできない」

 真琴は答える前に、ノクスを見た。

「……会いに来ることしか、できませんでした」

 視界の端で、黒猫はまだ和佳を見ている。

 動物の顔に人間の意味を乗せるのは、たぶん間違いだ。だが、それでも、この数日間を知ったあとでは、ただの猫の習慣と切り捨てることもできなかった。

「ユナには、父親だと知らせなかった」

「知らせられなかったんです」

 真琴の声が、そこで初めて濁った。

「子どもに、父親が猫の中にいます、なんて言えるわけがない。たとえ志遠の本心がどうだったとしても、あの子をその現実に巻き込むわけにはいかない。だから、ノクスはただのノクスとして会いに来ていました」

「でもログは残した」

 和佳は送信失敗ログの一覧を閉じた。未送信の札が消え、代わりに補助脳の内部構造が浮かび上がる。外へ伸びる線ではない。中へ折り畳まれた記録の束。

「送る先がない。監査窓口には弱い。あなたに送れば巻き込む。だから、せめて保存しておくことを選んだ」

 真琴はノクスを見たまま、声だけを出した。

「……そう思います」

「ノクスの中に、届くまで消えない形で残した」

「ええ」

「保険ってことね」

「あの人に何か起きた時、私とユナまで、全部なかったことにされないように」

 和佳は目撃地点のウィンドウを引き寄せた。真琴の生活圏へ近づきかけては離れる、黒猫の短い軌跡。ためらいのようにも見えるが、たぶん違う。猫の足は、監視の濃い場所を本能的に避けていた。

「ノクスはあなたに直接会いに行けなかった」

「私の周囲も、ユナの周囲も、監視されていました。あの子に近づけば、会社側の目が動く」

 そこまで言って、真琴は口を噤んだ。

 言葉にしたことで、夫の選択が明確な輪郭を持ってしまったようだった。

 和佳は代わりに続けた。

「だから、私を使ったんだね」

 ノクスは答えない。

「こいつと初めて顔を合わせたのは、あの夜の研究所の近くだった。会社の人間に見えない。警備の犬でもない。私がユナの依頼を受けた後は、あの子を餌にしないかまで確認してた」

 和佳は、交通センターの古い音声を思い出す。

 未対応区域。現在地からの案内は終了しました。

「映像だけじゃ足りない。誰に渡せば折れずに残るかまで、あいつは選んでた。ユナのところへ。あなたのところへ。たぶん、両方」

 真琴は何も言わなかった。

 その沈黙の中で、キャリーの中のノクスが短く鳴いた。

 掠れた、空気の抜けるような声だった。

 和佳は息を吐いた。

「榊は、ログの存在を知らない?」

「知らないでしょうね」

 真琴は顔を動かさず、声だけを出した。

「知っていたら、ノクスをただ泳がせてはおかない。知覚ログ関連は、セキュリティの最重要技術です。改造なんて、私にも……それこそ志遠くらいじゃないと」

 それで辻褄は合う。

 ノクスを危険な残留物、あるいはまだ利用価値のある異常個体として扱っても、決定的証拠として見ていない。だから即座に強硬手段に出なかった。

 和佳は停止した画面を見た。

 倒れた男。猫の高さから見た、自分の死。真相は単純すぎて、反吐が出る。

 話は、もう殺人の有無ではなくなっていた。

「これが公表されても、事故扱いのまま通るの?」

「そのままなら」

「そのままなら?」

「動物の知覚ログは、倫理規定違反です。法的証拠として使えるわけじゃない」

 和佳は舌の裏で悪態を潰した。法律の知識など無いが、真実であることと、通る形であることは別だ。別だから、企業は生き延びる。

「そもそも違法改造の副産物ですし、単なるデータは改竄や作為を疑われる。だから、被害者が目撃したのだというオリジン証明が要ります」

「何それ」

「この知覚が、本当にノクスの生体脳と補助脳を通って、その時点でのあの人の認知と接続していたと、起点から示すことです。保存経路や時刻整合だけじゃ足りない。個体側の処理を、隅々まで読まないといけない」

 和佳は眉間を押さえた。

「映像だけじゃ駄目で、その場で本当に見られたものだって証明しろってこと?」

「そうです」

「しかも、見ていたのが動物ではなく、それを通して人間が見たってことまで」

「はい。そこまでやれば、法的な証拠能力が認められるはずです」

 淡々と答える真琴に、和佳はしばらく考えてからたずねた。

「……やれるの」

「できます」

 真琴はそこで、はっきり言った。

「でも、ノクスの脳がもちません。そこまでやれば……死にます」

「そういうこと」

 そう言ってから、和佳はキャリーの中のノクスへ視線を移した。猫は動かない。だがその目はまだ死んでいない。獣の疲労と、人間の執念が同じ場所に詰まっているような眼だった。

「黎志遠は、ずっとこれを見せたかった」

 真琴が何も言わないので、和佳は続ける。

「ユナにじゃない。まず、あなたに。けれど、普通の道は全て塞がっていた。だから研究所から逃げた後、使えそうな人間を見つけて、そこへ繋ごうとした」

 真琴は顔を伏せた。

「……はい。私も、そう思います」

 ようやくそこまで来た。

 ノクスのログは、父が家族に残した頼みの綱そのものだ。

 部屋の中の沈黙は長かった。誰もすぐには次を言わない。こういう時に余計な言葉を入れると、たいてい何かが軽くなる。

 しばらくして、和佳は仮想ウィンドウを閉じた。

「一旦、ここまでにしておきましょうか」

 真琴が顔を上げる。

「続きは……?」

「今じゃない。このままにはできないけど、考える時間は必要でしょ。ノクスは私が診ておくから」

「ありがとうございます」

 真琴は困ったように笑った。見たものが重すぎて、そのままでは整理しきれない時、人はたいていそういう顔をする。

「私だけで決めて良い話じゃありません。ユナともよく話します」

「うん」

 和佳は立ち上がり、窓を開けた。特区の夜気が細く入ってくる。冷たくはない。死んだ機械の吐息みたいな、生ぬるい風だ。

 猫探しは、ここで完全に終わった。

 代わりに残ったのは、猫の中に閉じ込められたまま殺された男の話だ。

 しかも、その男は自分の死を見ている。

 これ以上なく悪趣味で、これ以上なく核心に近い。

 和佳の背後で、ノクスが小さく息を吐いた。

 それは、獣の疲労にも、人間の安堵にも聞こえた。

 

 

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