サイバーパンク地方都市のある女探偵の記録 ――A Ghost, Almost Touching   作:飛白玄

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第9話 猫の手も借りたい夜

【インタールード2 歯車を回せ】

 

 榊エルナンデス圭介は、映像を止めたまましばらく動かなかった。

 木製の大きなデスクの上に、背に会社ロゴがついたノート型端末が乗っている。

 周囲には幾つもの仮想ウィンドウが浮かび、矢継ぎ早にプロジェクトの進捗報告が入っている。社名の入った承認印が画面に並ぶたび、榊は自分の輪郭が少しだけ強くなるのを感じた。

 ウィンドウの中に一枚だけ、動きが悪い案件があった。榊はその一枚を見つめて考え込んでいた。

 それは監視ログだった。解像度は高くない。だが、必要なものは見えている。

 神崎真琴。喫茶店に出入りする女。少し遅れて、黒い猫が影から出る。しばらくして、外部の女が出てきた。高梁和佳。資料上は便利屋、探偵崩れ、あるいは雑多な相談屋。けれど研究所周辺のカメラ映像と丹念に結びつければ、ただの民間人と片づけるには鋭すぎる足取りだ。

 榊は指先で画面を拡大した。

 猫は急速に痩せた。動きも鈍い。にもかかわらず、まだ追跡対象たりえている。処理が遅れた。自分でもそう思う。だが、それだけで何かを起こせるはずもない。資産価値が残っている異常個体だ。あるいは、余計なものを引き寄せる釣り針だ。

「念のため処理するか。まだ使い道があると思っていたんだがな」

 独り言のように言い、榊は端末を閉じた。

 感情ではない。工程を一つ前へ送るだけの判断だった。

 

    *

 

 夜明け前に仮眠したせいで、和佳の頭は余計に重かった。眠らないほうがましな夜というのはある。

 キッチンの隅で、真琴がインスタントのコーヒーを淹れていた。

 夜中にそのまま帰すほうが危なかったし、真琴もそのつもりのようだった。

 キャリーの中のノクスは、目を閉じているようで閉じていなかった。眠るというより、最低限の資源で意識を繋いでいる感じだ。和佳はゆっくりと上下する猫の背を見たくなくて、視線を外した。

「外に、動きがあります」

 悠理の声は、いつもより低かった。皮肉より先に、警戒がある時の声だ。

「どれくらい」

「六人います。うち二人が銃持ちです。ただ、質は低い」

「使い捨てってことね」

「はい。すぐに動けば抜けられます。相手する必要はありません」

 和佳は立ち上がった。頭の奥が重い。さっきの解体の疲れが抜けきっていない。その重さのまま、仮想パネルからカメラフィードを開く。

 事務所の入った賞味期限切れのマンション。その建物前の通り、裏手の非常階段、隣の駐車スペース。三方向から、いかにも場慣れしていない影が幾つか近づいていた。遅い。だが数だけはいる。

 真琴がカップを二つ持って戻ってきた。眉をひそめる。

「何か」

「誰かさんの機嫌を損ねちゃったみたい」

 硬直した真琴を安心させるように、和佳は口角を上げた。

 正直なところ、和佳たちにとっては大した相手ではない。だが、念には念を入れるべき状況だ。多少の無理は仕方ない。

「悠理、足だけでも止めて。銃持ちは最優先で」

「……最低限です」

「うん」

 通りの一角で、集合宅配ロッカーが一斉に誤配送モードへ入り、空の扉がばたばたと開く。数人の男たちが進もうとした瞬間、再配達用の小型台車がロッカーの奥から吐き出され、足元に滑り込んだ。

 別の数人の前では、駐輪場の盗難防止ラックが、登録外車両の検出を理由に一斉にロックを伸ばした。誰のものでもない錆びた自転車が、通路を塞ぐように傾く。

 裏手の非常階段では電子錠が誤作動を起こし、銃を持った女が閉じ込められた。

 通りの影は消えずに散っただけだが、足はほとんど止まった。

 和佳のこめかみの奥が鋭く痛んだ。遅れて視界の端が少し白む。机の角に手をつく。やはり返ってくる。悠理が深く潜るほど、和佳の身体が世界の縁から少しずつ剥がれる。

「……無理言ってごめん」

 反射でそう言うと、悠理は一拍遅れて返した。

「和佳さんの望みなら、仕方ないです」

 声に棘はない。あるのは、いつもの皮肉より深い不機嫌だけだ。

 カメラフィードの情報を読み取った住宅管理AGIが、警告を鳴らした。不審な人影あり。悠理が落としきれなかったか、あるいは最初から別の線で近づいていたか。

「一人抜けてきます」

 悠理の警告に、和佳は舌打ちした。

「多少はましなのが混じってたのね。場所は」

「階段です。あと二十秒」

 和佳はキッチン脇に投げ出されていた細長い箱を蹴った。

 箱の口から、未使用のままの自動追尾ホロライトスタンドが半分だけ滑り出す。営業動画用に買って、説明書を開く前に飽きたやつだ。

「今、初使用ですか」

「用途は合ってる」

「合ってません」

 ドアの前に立つ。悠理の補助表示が視界に重なる。頭痛はまだある。だが、こういう短い距離なら身体が先に覚えている。

 十六秒目で、ノブが静かに回った。

 ドアが細く開き、男が身を滑らせる。大柄ではない。服も安いのに、立ち方だけが安くない。訓練というより計算補助のそれ。体温分布から身体拡張されている可能性は低いと見て取れた。

 和佳は、男が部屋の明かりに瞳孔を合わせる、その一瞬だけを待った。畳んだスタンドのバッテリー基部を、喉元ではなく肩と首の境目へ叩き込んだ。

 男の体勢が崩れた瞬間、もう一歩踏み込み、三脚の脚を膝裏に引っかける。床に落ちる。短い呻き。

 和佳は、反射的に振り回される手足を潜り抜けると、肘で相手の顎を押し上げ、手首を捻って床へ固定した。

 付属の給電ケーブルを引き抜く。防刃繊維入り、盗難防止兼用。買った時は過剰包装だと思ったが、今は評価を改めてもいい。

 和佳は男の手首にそれを二重に巻き、スタンドの脚部ロックへ噛ませた。

 予想よりあっけない。だが、それでいい。長引くほうがまずい。

「外は、もう長く持ちません」

 悠理が言う。

「今のうちに抜けてください」

 呆然としていた真琴が、ふと我に返った。

「……ユナが」

「迎えに行ってたら間に合わない。どこか落ち合えるとこある?」

 和佳が言う。真琴はすぐ頷いた。

「ユナに連絡します」

「文面は短く、さりげなく、ね」

「分かっています」

 真琴はWitnessを開き、迷いなくDMを打った。説明ではない。非常時の合図だ。夫と引き離され、見張りに囲まれて生活する母の、当然の備えだった。

 悠理が補足する。

「一応、定期広告に偽装しました。ユナさんには普通に見れるはずです。ユナさんの家の見張りは、気を引いておきます」

「どれくらい」

「五分。長くて七分」

「十分で」

 真琴が祈るように送信する。既読はすぐについた。返信はない。

 催促はしなかった。ユナはそういう子だと、母親の沈黙が言っていた。

「次が来るかもしれません。早く」

 悠理の声に押されるみたいに、二人と一匹は部屋を出た。

 

     *

 

 ユナは、端末の短い通知を見た瞬間に起き上がった。

 音は立てない。灯りも点けない。そういうことは、家の中でいつの間にか覚えた。

 靴だけ履く。薄い上着を羽織る。小さなバッグを掴む。部屋の戸口で一度だけ振り返り、それからやめた。

 駅側のサービス通路は、いつも油と雨の匂いがした。外へ出ると、空は夜明け前の色で止まっている。ユナは配送ロッカーの陰へ回った。

 そこに、先に真琴がいた。

「ごめん、起こしちゃったね」

「ううん」

「話は後で。こっち来て」

 ユナは返事の代わりに足を動かした。真琴の腕の中にはキャリーがあり、その中で黒い影が微かに動いた。

 喉の奥が縮んだ。けれど、今は名前を呼ばなかった。

 遅れて和佳が速足で歩いて来た。前見たときより顔色が悪い。けれど目だけは起きていた。こちらを見るより先に、通りの奥と、屋上の縁と、反対側の歩道を一度ずつ確認する。

「全員いるね」

 それだけ言う。

 確認であって、挨拶ではない。

「行こう。急いだほうがいい」

 ユナは足を出した。質問は喉元まで来て、和佳の視線がまた通りの奥に戻るのを見て止まった。

 和佳たちは、ロッカー群の陰を抜け、そのまま通りを渡った。誰も走らない。走ると目立つ。けれど歩き方だけが、全員少し速い。夜明け前の特区は何も見ていないふりがうまい。配達の唸りと、排気の薄い匂いと、眠りそこねた街のざらつきが、逃げる人間をちょうどよく平凡に見せてくれる。

「追手はまだ確認できません」

 悠理が抑えた声色で言った。

 まだ、とはつまり、そのうち確実に、ということだ。

 角を二つ曲がったところで、ユナが初めて訊く。

「何があったんですか?」

「後でちゃんと話すから」

 和佳はそう答えて、少しだけ間を置いた。

「まあ、これも依頼のうちだから、任せときなさい」

 レンタルの小型車は、昨夜ノクスを運んだ時と同じように、あまり目立たない色で路肩に沈んでいた。

 和佳が先に周囲を見てから、後席のドアを開ける。真琴がキャリーを載せ、ユナがその隣へ滑り込む。和佳は最後に乗り込み、ドアを閉めた。

 ようやく、外の音が一段遠くなる。

 和佳は運転しながら、こめかみを左手で押さえた。頭の芯に疲労が残っている。だが、今はそれに付き合う暇がない。

「市街の外れに、マンションがある」

 疲労を押さえつけて言う。別の依頼で用意して、結局使わなかった。あのときは小言を言われたが、そういう無駄が役に立つこともある。

「長くは置けないけど、しばらくやり過ごすには足りると思う」

「ありがとう」

 真琴が言う。

「……ノクス」

 ユナはキャリーの縁に指を掛けた。黒い影は目を閉じているようで、閉じていなかった。返事も、鳴き声もない。耳だけが、車内の小さな音に反応して動いた。

 和佳はバックミラー越しにその様子を見たが、何も言わなかった。今この車の中で、何かを説明するとたいてい軽くなる。軽くしていい段階ではない。

 誰も喋らないまま、車は夜明け前の特区を横切った。

 逃げている、というより、次の場所へ押し出されている感じだった。

 

     *

 

 古びた短期滞在用のマンションは、市街の外れ、丘陵にかかる手前の、住むにも逃げるにも中途半端な場所にあった。

 部屋へ入って最初にしたのは、カーテンを閉めることでも、非常階段の確認でもなく、ノクスの様子を見ることだった。

 キャリーから出した黒猫は、以前よりさらに軽く感じた。和佳を見て、歩こうとして三歩で止まり、こちらを見上げてくる。とうに必要ないだろうに、誘導する仕草をしていた。

 真琴が辛そうに言った。

「もう、かなり無理が出ています」

「どこが問題?」

「補助脳の過負荷です。……発熱と低血糖あたりだと思います」

 真琴とユナは寝室のベッド脇に即席の寝床を作った。和佳が入口に用意されていた姿見を持ち込み、事務所からコピーしてきたノクスの仮想モデルを移した。

 ノクスを寝床に置くと、ふらつきながらも近くに座り込む真琴に向かった。以前のような滑らかさはない。ただ、方向だけは頑固だった。真琴までの数歩でさえ歩ききれず、途中で止まり、それでも顔だけを向ける。

 真琴の表情が、その瞬間だけ壊れそうになった。

「……大丈夫。分かってる。分かってるよ……」

 その声は、娘に向けるものでも、和佳に向けるものでもなかった。

 和佳はようやく壁にもたれた。頭痛は引く気配がない。

 しばらくして、真琴がノクスから目を離さないまま言った。

「和佳さん。今のうちに、一つだけ確認したいんですけど」

「なに」

「あなた、猫探しだけでここまで来た人ではないですよね」

 断定だった。責める口調ではない。確認だ。

 和佳は壁にもたれたまま、少しだけ肩をすくめた。

「全部を知ってたわけじゃない」

「でも、別の理由はあった」

「うん」

「最初から?」

「途中からよ。そう単純じゃなくなった。私が受けたのは、アクシオムがこそこそやってる実験の内容を知ること。あとヘッドハンティング」

「ヘッドハンティング?」

「黎志遠さん。……あとあなたも。黎さんと話はついてるって依頼人は言ってた。下見に入ったら、もう間に合ってなかったんだけど」

 真琴はそれ以上追わなかった。

 ユナはその会話を黙って聞いていた。その瞳には驚きと、失望と、それでも塗り潰されきらない何かが、その瞳に残っていた。

 和佳は思わず天井を仰いだ。腕を組みつつ壁に背を預ける。二人の視線に耐えきれなかっただけではない。この状況で、疲労にふらつく姿を見せて不安にさせたくなかった。

 悠理が囁くように言ってきた。

「和佳さん、あまり無理をしないでください。終わらせる方法なら、もう手元にあるんじゃないですか」

 和佳は眉を寄せる。

「そんなの分かってる」

「なら」

「私のやり方でやらせて」

 短く切るように言って、和佳はノクスを見た。猫は真琴とユナを、ほとんど同じだけの執念で見ている。もう長くは動けない。

「それにね。どう決着をつけるのか。決めるのはそもそも私じゃなくて――」

 和佳は依頼人の少女に視線を向けた。ユナは、寝床に戻された黒猫とバイタルから構成された仮想モデルを交互に見ていた。自分にも何かできることはないかと視線が彷徨っていた。バイタルが更新されるたび、心電図のような音が鳴った。

 急がなければならない。

 和佳はもう、ただ巻き込まれた探偵の顔をしていられない。

 長くて、嫌な一日になりそうだった。

 

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