IS インフィニット・ストラトス ~胡蝶の夢~ 作:おおがみしょーい
合図があったわけでは、ない。
示し合わせたわけでももちろん、ない。
しかし、明次と楯無はその瞬間に、同時に動いていた。
何をするかは先ほどのやり取りで決めていた。
だが、いつ始めるかは打ち合わせていない。
それでも二人は同時に地面を蹴っていた。
足だけを捌きながら次々に二人の身体が入れ替わる。
素晴らしく疾く、驚く程に正確だ。
次に、どちらからともなく手が出てきた。
手と足がめまぐるしく絡み合い、動き回る。
一瞬として同じ位置に留まっていない。
互いに足を広げた直径で4メートルにも満たない見えない円の中を、明次と楯無が目に追えないほどの速さで動き続けている。
しかし、奇妙なことがあった。
それ程目まぐるしく動いているのに、音がしない。
肉体と肉体がぶつかりあえば、無論のこと音が出る。
しかし、それが全くもって聞こえない。
拳や掌が、互の肉体にぶつかり合っているのか、いないのか、それがわからない。
すでに空間に約束されている線を、二人の肉体が、拳が、足が、なぞってゆく様であった。
二つの肉体が動いているが、一つの意思によって肉体が動かされているような印象すらある。
二人の肉体の間に、ごく薄い膜が一枚、存在しているようだ。
その膜は向こうが透けて見えるほどに薄いのに――破れない。
もし実際にそんな膜があったとするなら、柔らかく息を吹きかけただけでも破れてしまいそうなほどに薄い膜。
それが二人の肉体の間に存在しているようであった。
二人の動きが、一段上がる。
ただでさえ薄い膜が、さらに薄くなった。
が、破れない。
二人の拳が、肘が、互の身体のスレスレを掠めながら動き続ける。
どんなに二人の動きが速くなっても、どんなに二人の動きが鋭くなっても、その薄い膜は破れない。
舞いの様だった。
音楽のない美麗な無音の舞い。
人の肉体がこれほどまでにしなやかに動くことができるのか、そのように見ているものに思わせる動きだった。
今の二人には重力の影響さえないのではなかと思わせる動きだった。
―――――
「ちょ、ちょ、ちょっ! 織斑くん! あの二人何やってるの!? もう私は何がなんだかわからないんだけど!!」
目の前で起こる怒涛の展開についていけない簪が、目を白黒させて一夏に聞いてくる。
実際、簪には明次と楯無が何をしているのかさっぱりわからない。というか、二人の動きを目で追えていない。
しかし、そんな簪の言葉は一夏の耳には入っていなかった。
一夏は二人の動きに見とれていた。
動きの凄まじさに目を奪われていた――という部分ももちろんある。
が、しかし、根本的な部分は違っていた。
一夏は感じていた、
(俺はこの動きを知って……いる?)
一夏の土台となっているのは篠ノ之流古武術だが、他の武術もまったく知らないわけではない。
特にこのIS学園に来てからが、かつてのように一夏なりに本気で学んできている。
この情報化の現代、書物や動画で様々な流派の武術に触れることもできるし、千冬をはじめとしたIS学園の教員も“つかえる”人物が多い。
その中で今行われている、太極拳の
――いや、違う。そんな上辺の記憶ではない。
もっと、もっと奥底の、最早情報として覚えているものではなく、感覚として覚えている。それくらいあやふやで、しかし、だからこそ心惹かれる、そんな記憶だった。
一夏は、この二人の動きそのものを知っているわけではないかもしれない。
しかし、二人の動きから生まれる“風”の匂いを知っている――そんな気がする。
二人の動きから生まれる“熱”の熱さを知っている――そんな気がする。
二人の動きを生み出している”土”の感触を知っている――そんな気がする……
そんなことを、一夏が考えていると――
「――斑くん! 織斑くんっ!! 聞いてるっ?」
自分を呼ぶ簪の声に我に返る。
「あ、ご、ごめん。ちょっと、見とれてて……」
「もう! だから、二人は一体全体何してんの!? なんか、お互いに手を出し合ってるけど、当たってないというかなんというか……」
簪は自分の見ているものを自分なりに消化しようと頭を働かせているが、やはりうまくいかない。
姉である楯無が、式部地明次という男に興味を持ってちょっかいをかけたのはわかっている、そして明次がそれに応えたということも理解している。
つまりぶっちゃけて言ってしまえば、楯無が“喧嘩を売った”、そして明次が“受けた”という事なのだろう。
言葉を選ぶならば、“試合を申し込んだ”そして、“応えた”という感じであろうか。
しかし、だとしたら何か違和感がある。
何かと問われたら、うまくは言えないのだが、敢えて言うならば、
「彼が言ってた……なんだっけ?
「
「そうそう、それそれ、今お姉ちゃん達はそれをやってる……って事なんだよね?」
「うん、今は
「で、それって一体全体なんなの?」
簪が焦れたように聞いてくる。
「
「え? じゃあ、なんていうか……試合してるわけじゃないの?」
「ああ、
「――ふうん」
簪が一夏の説明に頷く。
先ほど感じた“綺麗すぎる”という動きも、一夏の説明を聞いたあとならばわかる。
互いにあらかじめ知っている動きをするのであるなら、それは確かに見本のようなものになるだろう。
「でも、それってなんか意味があるのかな?」
「ん?」
簪が思わずといったふうに口にする。
「だって、お姉ちゃんがあんなふうに突っかかっていったのに……私はよく知らないけど、“型”ってさっき織斑くんが言ってたみたいに、表演なんでしょ? どっちが強いとかわからないんじゃ……」
「俺は……そうは思わない」
「え?」
簪の言葉に、一夏が小さく首を振る。
「確かに“型”っていうのは、武道を学ぶと基本的に一番最初に習う。まぁ、言ってしまえば“基本”ってこと。でも、だからこそ重要なものなんだと思う」
「だからこそ?」
「“基本”っていうのは、いうなれば根っこ。これが太くないと応用という名の枝は生えないし、逆に太い根には太い幹とたくさんの枝が生える。だから、お互いの“基本”のレベルを見るというのは物凄く意味のあること……なんだと思う。それに……」
「それに?」
「本番は、これからだから」
「え?」
一夏の最期の言葉に、簪が思わず一夏を見る。
「最期に残った
「えっ!?」
「“型”、“約束組手”とやって、相手の力量を見た上でスパーリング……これでもか、ってくらい相手の実力が測れる」
「じゃあ、それっていつから始まるの?」
「たぶんそれは――」
そう言って、一夏はひとつ大きく息をして、
「
明次と楯無を再度見据える。
「えぇっ!?」
簪が再び驚いたような声を上げるが、その声はもう一夏の耳には入っていない。
先程から続いている“綺麗すぎる動き”のままに、次の段階に進んだ二人を一夏は見つめていた。
一夏の目の前を明次という名の“風”と、楯無と言う名の“水”が休むことなく絡まり合っている。
一夏は思わず拳を握り締めた。
一夏の身体中の血が滾っていた。
―――――
滑るように、流れえるように、明次と楯無の身体は絡まり合っていた。
既に
むしろ制限のない
それでもいまだ、音は出ていない。
互が互の攻撃を見切り、ギリギリのところで躱している。
「ふうん――やるじゃない」
楯無の顔に小さな笑が浮かぶ。
この速さでのやり取りの中でまだ、余裕が見える笑だった。
「だったらお姉さん、ちょっとだけ……」
楯無の笑が、深くなる。
「――本気出すよ」
楯無の瞳が鋭く煌めいた。
次の瞬間――二人の空間に音が戻ってきた。
「ひゅっ!!」
楯無が鋭く息を吐きながら、前に出る。
今までの太極拳の曲線的でしなやかな動きではない。一気に間合いを詰めて、鋭く一直線に相手を仕留めにかかる近代的な総合格闘技の動きだ。
狙うのは明次の脚――タックルだ。
太極拳では地面を押すことを重要視するために、近代格闘技と違い地面にしっかりと足をつけていることが多い。
全身に力を行き渡らせるのに有効な反面、必然フットワークは重くなる。
そこを狙ってのタックルだ。
古今東西あらゆる格闘技を収めている更識家の当主である楯無ならではの攻め。
流麗な、流れる水のように楯無は明次の懐へと入っていった。
「ふっ!!」
そのタックルに合わせるように明次は膝をあげた。
当てるためにあげたのではない、楯無という水の通り道に膝という岩をおいたのだ。
これによって楯無は真っ直ぐには進めなくなる。仮に上げたこの膝にタックルをしようとも、その瞬間に明次の攻撃が上から降ってくるのはわかりきっている。
しかし、楯無は止まらなかった。
楯無は前に動いた流れを止めずに、前かがみの姿勢から一気に伸び上がるように、右の掌底を明次の顎めがけて放っていった。
速さも、タイミングも申し分のない一撃だ。
明次が膝を出した瞬間――若干顔が下がった瞬間を狙った一撃。
しゅっ――
肉と肉が擦れる音がした。
明次は楯無の一撃を、首を振って躱していた。
(――あれを躱すのかっ!!)
一夏の全身がざわり、と総毛立つ。
確実に当たると思っていた。
楯無のタックルも踏み込みもこの一撃の布石だったはずだ。
明次はそのさらに上を読んでいたということか……
この瞬間、一夏は明次の勝利を確信した。
が、しかし、それが誤りだとすぐに気づかされることとなる。
「せあっ!!」
掌底の一撃を躱した明次が、楯無の伸びてきた頭を挟み込むように両手の掌を振るう。
菩薩掌。
相手の側頭部。三半規管を掌で挟み込むように打つことで一気に意識を外に跳ね飛ばす技だ。
攻撃の直後を狙った一撃。
通常ならば絶対必中のタイミングといっていい。
しかし更識楯無は普通じゃない。
真横から来るため視界に入らず、気配でしかわからないはずの菩薩掌を頭を沈めて躱したのだ。
だが、明次はさらにその先を読む。
下がってきた楯無の顔に膝を合わせる。
――明次の勝ちだ!
一夏が明次の膝を上げたのを見て、そう確信した瞬間、
するり、と楯無の手が楯無の顔と明次の膝の間に滑り込み、明次の膝を包み込む。
明次の膝は楯無の顔の手前で止められていた。
一瞬、楯無と明次はその状態で止まる。
そして、同時に地面をけると、大きく距離をとった。
「身体は温まりましたか?」
一呼吸おいて、明次が楯無に向かって声をかける。
「うん、充分あったまった――それに」
「それに?」
「心にも、火が
楯無がどこから取り出したのか扇子を取り出して口元に当てながらにやりと笑う。
扇子には――“点火”と書いてある。
「君はどうなのかな? 式部地くん」
「どう――とは?」
「お姉さんの実力、わかった?」
「ええ、わかりました……」
「へぇ、わかっちゃったんだ?」
「はい――分からないというのが、わかりました」
「ふうん……」
「今の俺では、まだ先輩の底は見通せないようです」
「ふふ、当然よね。年上のお姉さんはミステリアスな方が魅力的でしょ?」
そう言って楯無は笑い、明次は小さく肩をすくめた。
風と水の演舞の幕がおりていた。
―――――
「ふう……なんか、終わったみたいね。二人とも怪我がなくてよかった――ね、織斑くん」
そんな二人を見ていた簪が、ほっと息を吐きながら一夏に話しかけていた。
「もうホントにお姉ちゃんもだけど、あの式部地くんも、なんでこんな事に付き合うんだろう。ね、そう思わない? 織斑くん。って、もう! また聞いてない!」
視線を上げた簪はそこでようやく一夏が自分の言葉が耳に入っていないかのように、向こうで対峙している二人を見つめていることに気がついた。
「もう! 織斑くんってば!」
簪がぷうっ、と頬を膨らまして、抗議の声をあげようとしたとき。簪はようやく、一夏の握られた拳が小さく震えていることに気がついた。
一夏は震えていた。
なんの震えかは、わからなかった。
一つではない感情が一夏の裡で渦巻いて、震えとなって現れている。
目の前のふたりは、悉く一夏の予想の上をいっていた。
まず楯無の仕掛けた掌底で勝負が決まるかと思った。
しかし、明次はその上をいき、そこに攻撃を合わせてきただけでなく、さらに、その攻撃がよけられることすら想定してトドメの一撃まで描いていた。
が、更識楯無はさらにその上をゆき、明次の攻撃をあの不利な状態から全て凌ぎ切ってみせた。
明次はともかく、楯無に関しては、それなりに彼女の実力を理解していたつもりだったが、間違いだったと思い知らされた。自らの見ていた底に、さらに底の見えない穴があいていたような気分だ。
そして、明次はその深淵に潜り込んでいる。
ぶるり、と一夏の身体に再び震えがはしる。
様々な感情が溢れ出てくる。
この年代で、こんなにも動ける人間がいるのか――感動があった。
自分はまだこの二人の足元にも及んでいないのではないか――悔しさがあった。
そして、自分はこの二人のような頂きには至れないのではないか――そんな恐怖の感情もあった。
しかし、それをひっくるめて溢れ出てきているのが――悦びだ。
自分もあの頂きに近づくことができたら、見えるのではないか。
強いとは何か、守るとは何か。
一夏の中で燻っているものがなんなのか、その答えを見ることができるのではないか。
「先輩! 明次!」
思ったときには、既に叫んでいた。
「俺も……俺もそこまで行くから! 絶対に行ってみせるから!!」
かつてIS学園に入学する前、様々なことで無気力になっていた自分の中に置き忘れていた何かが、今確かな言葉となって溢れ出してきた。
それを聞いた楯無が嬉しそうに笑う。
「ふふ、素敵なラブコール――お姉さん、本気になっちゃいそう――ねっ?」
「はは、俺はもともと一夏のこと好きですよ」
明次は楯無の笑みに小さく笑で返すと、
「――昔っから、真っ直ぐなやつだったから」
小さく、小さく呟いた。
そんな時、学園の方から鐘の音が聞こえる。
IS学園の開門を知らせる鐘の音だ。一般の生徒たちはこれを聞いて起きだしてくる。
「お姉ちゃん! みんな! そろそろ戻らないと~」
鐘を聞いた簪が時計を見ながら声をかける。
「ん~、ひっさびさに動いたし、汗かいちゃった。シャワー浴びよ、シャワー」
それを聞いた楯無が猫のようにう~ん、と伸びをする。タンクトップに包まれた形の良い胸がぐぐっ、と強調された。
「お、俺たちもさっさと戻ってシャワー浴びちゃおうぜ」
その胸に目が行き、思わず顔を赤くした一夏が慌てて明次に声をかける。
「ふうん――じゃあ、お姉さんと一緒に入りましょうよ、一夏くん」
「はあっ! な、なにいってんすか、先輩!」
「おっ、おっ、お姉ちゃん! なに馬鹿なこと言ってんの!!」
そんな一夏の態度に悪戯心を刺激された楯無がにんまりと笑って一夏をからかうが、案の定、非常にいい反応が返ってくる。
「え~、簪ちゃんの意地悪~。じゃあさ、明次くん、はいりましょ?」
そう言って今度は明次に標的を変更する。今回はタンクトップをペロリと少しめくる仕草までしてみせた。
「いやですよ。二人で浴びたら狭いじゃないですか。シャワー室そんなに大きくないんですから」
そんな楯無の言葉になんとも面白みのない返しをする明次。
「ぶ~、つまらないなぁ。年下だったらもうちょっと可愛げを演出したほうがいいわよ。一夏くん見習いなさい、一夏くんを!」
「いや、俺のそんなとこ見られても……」
そんな楯無のやりとりをゲンナリした様子で一夏が呟く。
「もう! お姉ちゃんも遊んでないで戻るわよ」
業を煮やした簪が楯無の背中を押して強引に寮への道を歩き出させる。
「ああん、もう! 簪ちゃんのいけず~。一夏くん、明次くん、まったね~」
簪に背中を押されながら楯無はひらひらと片手を振って二人に挨拶をする。
「じゃあ、俺たちももどるか」
「だな」
それを見た明次と一夏も寮へと歩き出す。
そんなふうに並んで歩く二人を見ながら楯無はにやりと笑う。
「……ふふ、お姉さん、いいこと思いついちゃった」
楯無は誰に聴かせるともなく、実に楽しそうに、小さく小さく呟いた。
「もう……お姉ちゃん、ほどほどにね」
その呟きを聞いた簪が楯無に言う。
「ふっふ~ん、わかってるって」
そんな簪の言葉を楯無は笑って受け流す。
「はぁ……」
その笑を見た簪は小さくため息をつく。
途中断絶もあったが、そこは長年連れ添った姉妹である。
姉がこのように笑うときは良い、悪いは別にして何かしら騒動を起こすことを考えている。というのを経験から知っているからだ。
そして、その姉を止める術を自分は知らない。
「まぁまぁ、悪いようにはしないわよ」
そんな簪の頭の中を見透かしたように楯無が簪に笑いかける。
「……はぁ」
簪は再びため息をつく。
この人懐っこい笑顔を向けられると、なんとも弱い。
「ふっふ~ん、忙しくなるわよ~」
楯無が口元にある扇子をばっ、と開く。
そこに書いてある“名案”という文字が、梅雨目前の眩しい朝日に照らされ、輝いていた。