『ONE PIECE:黒雷の流儀』 作:トート
無法地帯の酒場を後にしたシルバは、小雨がパラつき始めた港町の喧騒を避け、寂れた海岸へと足を向けていた。
ザザン、と新世界の荒い波が足元を洗う。
シルバは湿った流木にどっかりと腰を下ろすと、ボロボロのコートを捲り上げた。先ほど現地の女性戦闘員に突かれた脇腹の傷口からは、未だにじわりと赤い血が滲んでいる。
「チッ……深くはねぇが、ちと面倒だな」
見聞色の覇気で周囲に敵がいないことを確認しながら、懐から取り出した雑な包帯を歯で噛みちぎり、手際よく傷口を縛っていく。
悪魔の実の能力を持たないシルバにとって、肉体の負傷はそのまま戦闘力の低下に直結する。だが、その表情に焦りはなかった。ただ、二年のブランクによる自身の身体の鈍さに、少しだけ不機嫌そうに舌を打ち鳴らす。
その時、シルバの研ぎ澄まされた見聞色の覇気が、海岸の崖上から近づいてくる『三つの強大な気配』を捉えた。
「――おいおい、すんげぇ血だぞ! お前、大丈夫か?」
静かな砂浜に響き渡ったのは、驚くほど能天気で、地鳴りのような芯の太さを持つ少年の声だった。
シルバが前髪の隙間からゆっくりと視線を上げると、そこには赤いシャツに麦わら帽子を被った少年が、満面の笑みを浮かべて立っていた。その両脇には、腰に三本の刀を帯びた緑髪の剣士と、タバコを咥えた金髪の料理人が控えている。
「……麦わら、か」
シルバはその特徴的な帽子と、少年から放たれる底知れない器の気配だけで、目の前の者が今や新世界で四皇の一角に迫らんとする男、『麦わらのルフィ』であることを察した。
「お前、さっきの酒場で暴れてた奴だろ! 街の奴らが大騒ぎしてたぞ! 目を合わせただけで人がバタバタ倒れる化け物がいるって! お前、覇王色使えんのか! 凄ぇな!」
ルフィは警戒するどころか、珍しい生き物でも見つけたかのように目を輝かせ、シルバの至近距離までずいずいと距離を詰めてくる。
「ルフィ、不用意に近づくな。……こいつはただの野良の海賊じゃねぇ」
一歩前に出た海賊狩りのゾロが、鋭い隻眼でシルバを睨み据え、和道一文字の柄にそっと手をかけた。ゾロの超一流の野生が、シルバの全身から放たれる、隠しきれない『世界の頂点クラスの死線』を敏感に察知していた。
「あぁ、見覚えがあると思えば……二年前に突如として新世界から消えた、あの『八億四千万』の単独犯か。生きてやがったのか、黒雷のシルバ」
「用がねぇなら失せろ、小僧ども。俺は今、怪我人の上にすこぶる機嫌が悪いんだ」
シルバは鬱陶しそうにため息をつき、再び深くフードを被り直す。
「おい。その脇腹の傷、女にやられたな?」
それまで静かにタバコを吹かしていたサンジが、買い出しの袋を肩に担ぎ直しながら、冷徹なトーンで口を開いた。その青い瞳は、シルバの傷口の角度や深さから、それが素人の、それも怯えた女性が放ったデタラメな一撃であることを見抜いていた。
「……だったらどうした、足技。海軍にチクるか?」
「いや。お前ほどの化け物が、そんな素人の突撃を避けられねぇはずがねぇ。……わざと喰らったろ。まさかお前、レディには絶対に手を出さねぇ流儀か?」
サンジの問いかけに、シルバは前髪の奥で、不敵にニヤリと口元を釣り上げた。
「お前らみたいな高尚な騎士道じゃねぇよ。俺はただ、新しい命を宿す女を傷つける拳を、持ち合わせてねぇだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、サンジの顔から険しさが消え、クソ真面目な顔で深くタバコを吸い込んだ。
「――気に入った。おいルフィ、こいつは本物の男だ。今夜の宴の肉、こいつの分も最高の一皿を作ってやる」
「本当かサンジ! シシシ、じゃあ決まりだ! おいシルバ、お前も俺たちの船に来いよ!」
こうして、傷が癒えるまでの間だけ、シルバは麦わらの一味の船『サニー号』へと一時的に滞在(密航)することになった。
だが、サニー号の甲板に一歩足を踏み入れた瞬間、シルバは自分の選択を少しだけ後悔することになる。
芝生が敷き詰められた美しい甲板の奥、一冊の古びた本を片手にした黒髪の女性――ニコ・ロビンが、静かに彼を待ち受けていた。彼女はシルバの姿を見るなり、すべてを悟ったような妖艶な笑みを浮かべる。
「あら……新世界が誇る、懐かしい大物賞金稼ぎさんがどうしてここに? 2年前、ある女性海賊を相手に不戦の流儀を貫いて姿を消した『黒雷のシルバ』が、まさか私たちの船へ流れてくるなんてね」
「……ニコ・ロビン。革命軍の灯火か。相変わらず裏社会の情報屋は耳が早ぇな」
「ふふ、あなたのその『女には絶対に負ける』っていう可愛い流儀、一部の闇社会じゃとても有名だったのよ?」
ロビンの余裕たっぷりな大人のからかいに、シルバはバッと露骨に顔を背けた。男の怪物どもなら一瞥で沈められる男が、大人の女性の視線には、どうにも調子が狂ってしまう。
だが、シルバの平穏を破る『本命の嵐』は、すぐそこまで迫っていた。
「おい!!! そこをどけぇ!!」
サニー号の木樽の影から、凄まじい勢いで飛び出してきたのは、ピンク色の鮮やかな髪をなびかせた少女――ジュエリー・ボニーだった。
彼女は両手に抱えた巨大な骨付き肉を口いっぱいに頬張り、口の周りを油だらけにしながら、突進するイノシシのような猛烈な気迫を放っている。この島でルフィたちの船に目をつけ、食料庫を狙って隠れて密航していたのだ。
「あ、ボニー! お前、まだ俺の肉食ってたのか!」
「うるせぇルフィ! 飯の恨みは――って、おい、テメェは……!」
ボニーは肉を咥えたまま、シルバの姿を正面から捉えると、その大ぶりな目を丸くして動きを止めた。
シルバのボロボロのコート、長く伸びた前髪、自由で無骨な立ち姿。新世界の裏社会に身を置く者であれば、その特徴だけで、目の前の男が「誰」であるかに気づかないはずがない。
「……ジュエリー・ボニー。最悪の世代の大食らいのガキか。ずいぶんと行儀の悪い密航者だな」
「ガキだとォ!? テメェこそ、二年前に死んだと思ってた『黒雷』じゃねぇか! なんでこんなとこにいるんだよ!」
ボニーは持っていた肉を荒々しく咀嚼して飲み込むと、ツカツカとシルバの前に歩み寄った。そして、自分の顔がシルバの胸元に触れんばかりの至近距離まで限界を詰め、その綺麗な瞳でシルバを真っ正面から睨みつけた。
「おい、離れろ大食らい。俺の『眼』は――」
「あァ!? 誰に向かって言ってんだコラ! 目を合わせたら精神が焼き切れるんだろ? あたしをナメんな、ぶっ飛ばすぞ!」
ボニーは怯えるどころか、シルバのフードの奥にある眼を、一歩も引かずに真っ直ぐに見返してきた。
彼女の胸にあるのは、世界政府に囚われた父親を何が何でも救い出すという、命をも燃やし尽くすほどの強烈な執念。そのあまりにも強靭で純粋な精神の輝きは、シルバの体から無意識に漏れ出ていた覇王色の圧力を、真正面から完全に撥ね退けてみせたのだ。
(な……っ!?)
その瞬間、シルバの心臓がドクンと激しく跳ね上がった。
目を合わせても、なんともない。それどころか、勝気で、生命力に満ち溢れた彼女の瞳が、至近距離でシルバの視界を真っ白にジャックする。
男の化け物どもをただの一瞥で恐怖のどん底に叩き落としてきたシルバの顔が、耳の付け根まで一瞬で真っ赤に染まっていった。
「……っ、クソ、近づくなって言ってんだろ……!」
人生で経験したことのない猛烈な動揺に襲われ、シルバはバッと激しく視線を逸らした。あまりの狼狽ぶりに、一歩後ろへ退がろうとした足がサニー号のロープに引っかかり、ドサリと甲板に尻餅をついてしまう。
「あーっ! テメェ、今あたしから目を逸らしやがったな! なんだよ、伝説の賞金稼ぎがビビって逃げる気かよ!」
逃がすまいと、シルバの胸ぐらをガシッと乱暴につかむボニー。しかし、相手が女性である以上、シルバは彼女の手を振り払うための武装色も、力任せに押しのける抵抗も一切できない。ただ顔を真っ赤にしたまま、なすがままにされるしかなかった。
「ふふ……」
その様子をすぐ横で眺めていたロビンが、実につまらなそうに、けれど愛おしそうな目を細めてクスクスと笑い声を漏らした。
「あらあら。新世界を震え上がらせた最強の覇王様が、勝気なお嬢さんの前じゃ形無しね。噂以上の不器用さだわ」
「うるせぇ、ロビン! お前ら女はどいつもこいつも……調子が狂うんだよ……!」
シルバは乱暴にフードを深く被り直し、顔をこれでもかと真っ赤にしたまま、完全にそっぽを向いた。
悪魔の実を持たず、世界の頂点に立つ絶大な覇気を持つ男・シルバ。しかし、目が合っても平気なボニーと、すべてを見透かして楽しむロビンに挟まれた彼のサニー号での生活は、前途多難な恋の嵐を予感させていた。