『ONE PIECE:黒雷の流儀』 作:トート
「――おい、起きろ。これ以上眠りこけていると、船ごと海の底へ叩き落とされるぞ」
ゾロの冷ややかで硬い声。そして、直後に鼓膜を激しく揺さぶった大砲の重低音。その二つの衝撃が重なった瞬間、シルバはガバッと上体を起こした。昨夜、ナミの拳によって叩きつけられた頭のたんこぶが、未だにズキズキと不快な熱を持って激しく主張している。
視線を周囲の海へと巡らせると、サニー号が駆ける新世界の海面は、無数の砲弾の着弾によって、まるで生き物のように激しく巨大な水柱をいくつも立ち上げていた。立ち上る水しぶきと硝煙の匂いが、容赦なく朝の甲板を白く染めていく。
「あいつら、海軍本部の『中将』が率いる精鋭部隊よ! いつから尾行されてたの!? 逃げるわよルフィ、早く帆を張って!」
ナミが悲鳴のような声を上げながら、必死に航海士としての的確な指示を飛ばしている。ウソップやチョッパー、フランキーたちも慌ただしくロープに飛びつき、迎撃と逃走の準備に追われていた。
だが、サニー号を完全に包囲するように展開しているのは、海軍が誇る巨大な軍艦がなんと五隻。完全に計算された包囲陣形であり、放たれる猛烈な集中砲撃の雨によって、サニー号の進路も退路も四方八方から完全に塞がれていた。逃げ場のない、完璧な包囲網だった。
「チッ……朝っぱらから、耳障りなバカどもだ」
シルバは不機嫌そうに立ち上がると、首の骨をボキボキと不気味な音を立てて鳴らした。ボロボロのコートに付着した芝生のゴミを乱暴に払い、再び長く伸びた黒い前髪を指先で整えて、深くフードを被り直す。
「おい、オレンジ頭」
「ひっ……! な、何よ、まだ昨日のこと根に持って怒ってるわけ!?」
背後から突然地を這うような声で呼ばれ、ナミがびくっと肩を跳ね上げる。だが、シルバは彼女に目もくれず、サニー号の舳先(フィギュアヘッド)へと、のっしのっしと重い足取りで歩を進めた。
「いや、根になど持っちゃいねぇよ。お前らに、俺がこの船に居座る『家賃』の代わりを払ってやる。……ルフィ、ゾロ、船を出す準備をしておけ。あいつらは俺が一人で片付ける」
「おう! 頼んだぞシルバ! 盛大にやっちまえ!」
ルフィがニカッと白い歯を見せて、嬉しそうに応じる。その横でゾロとサンジも、シルバが「本気」を出したときの圧倒的な気配を肌で察し、不敵な笑みを浮かべて一歩下がった。彼らは知っているのだ。この男が、ただの密航者などではないということを。
サニー号の舳先に立ったシルバの視線の先。
最も近くに配置された巨大な軍艦の甲板には、背中に『正義』の二文字を背負った、筋骨隆々の海軍中将の男が立っていた。彼は数百人の精鋭海兵を従え、巨大な大刀をシルバに向けて真っ直ぐに突き出す。
「麦わらの一味! 及び、謎の密航者シルバ! 貴様らの航路もここまでだ! 二年前に消えた八億四千万の首が、なぜ麦わらの船に潜んでいるかは知らんが……我が海軍の正義の名の元に、今度こそ大監獄へぶち込んでくれるわ!」
新世界の海を震わせるような中将の怒号が響き渡る。政府のデータ上、二年前に死亡したとされていた大悪党が、再集結した麦わらの一味と共に現れたのだ。海軍側が驚愕し、混乱するのも無理はなかった。
だが、シルバはフードの奥で、ただ冷ややかに前髪の下の瞳を彼らに向けた。
「おい、海軍」
「な、何だと……? 命乞いなら聞かんぞ!」
「聞いてんだよ。その五隻の軍艦の中に、女の海兵はいるかってな」
シルバの突拍子もない、そしてあまりにも場違いな質問に、海軍中将は一瞬呆気にとられた表情を浮かべ、周囲の海兵たちも一斉にざわついた。緊迫した戦場において、敵の性別を気にする理由が、彼らにはまったく理解できなかった。
「いるなら、今のうちにボートで海へ逃がせ。俺の攻撃に巻き込まれたら、確実に死ぬぞ」
「バカめ、悪党がハッタリを! 我が精鋭部隊に女など一人もおらん! 全員が新世界の地獄を生き抜いた、屈強な男たちだ!」
「……いないな。男(野郎)ばっかりか。なら――手加減の必要すらねぇ」
シルバがゆっくりと、その両眼を完全に開いた。
瞬間、サニー号を中心とした半径数百メートルの世界が、物理的な衝撃を伴って大きく歪んだ。
バリバリ、バリバリバリッ!!!
これまでとは比較にならない規模の『黒い稲妻』が、無法地帯の酒場で見せたとき以上の密度で大爆発を起こしたのだ。どんよりとした曇り空は一瞬で漆黒の暗雲へと変貌し、巨大な新世界の海面が、まるでシルバの意志にひれ伏すように、激しい波紋を立てながら真っ二つに割れていく。大気が、凄まじい質量を伴って重くなる。
「な、何だこの覇気はァァァ!!? 空間が、物理的に引き裂かれるッ!!」
軍艦の甲板にいた海兵たちが、底知れぬ恐怖に顔を歪めて次々と絶叫を上げる。
シルバがただ視線を走らせ、その「王の眼」で五隻の軍艦を冷酷に睨みつけた。ただそれだけの行為で、軍艦にいた何千人という海軍の精鋭たちが、一切の抵抗もできずに白目を剥き、バタバタと床や甲板に倒れ込んでいく。武器を手放し、膝から崩れ落ちる音が、重なるようにして軍艦中に響き渡る。
「う……あ……視線だけで、我が軍の精鋭が全滅……!? 馬鹿な、四皇シャンクス以上か……っ!!」
中将クラスの猛者ですら、シルバとまともに目が合った瞬間、あまりの精神的圧力に膝の震えが止まらなくなり、その場に両手をついて平伏した。息をすることすら忘れるほどの絶望的な威圧感。
世界政府すら恐れる「黒雷」の真の破壊力が、二年の沈黙を破り、ついにその牙を剥いたのだ。
「……ひ、一瞥しただけで、我が軍の精鋭二千人が……意識を、失った……!?」
巨大な軍艦の甲板の上。海軍中将は、自らの大刀を杖の代わりにしなければ、その場に崩れ落ちそうになる膝を支えきれずにいた。
周囲を見渡せば、さっきまで正義の雄叫びを上げていた海兵たちが、例外なく白目を剥いて転がっている。泡を吹いて完全に意識を喪失した者、恐怖のあまり失禁して気絶した者。地獄を生き抜いてきたはずの精鋭たちが、文字通り一瞬にして全滅していた。
「おい、フランキー! 船の舵をしっかり固定しておけよ」
サニー号の舳先に立つシルバが、短くそう告げた。
「オゥ! 任せとけ! だけどよぉ、一体何をする気だ、スーパー危険な匂いがするぜ!」
コーラのボトルを片手に、フランキーがリーゼントを揺らしながら叫ぶ。だが、シルバはその問いに答えることなく、サニー号の舳先から新世界の虚空へと力強く跳躍した。
悪魔の実の能力を持たないシルバには、当然ながら空を飛ぶ能力などない。しかし、彼は極限まで鍛え上げた『武装色の覇気』を瞬時に足の裏へと集中させた。
ドォン!!!
激しい爆音とともに、シルバは何もない空中を、まるで目に見えない強固なガラスの床があるかのように力強く蹴りつけた。
覇気の質量そのもので大気を踏みつける力技。シルバは新世界の暴風を真っ向から切り裂きながら、空中を弾丸のような速度で疾走していく。
「な、何だあいつは……! 空を駆けてくるぞ!! 砲撃だ! 砲撃しろッ!!」
かろうじて意識を保っていた中将が、狂ったように叫ぶ。だが、動ける海兵などもう一人もいない。
シルバは一瞬にして最前方の軍艦の上空へと到達すると、落下の勢いを利用して、その強靭な右拳を深く、深く引き絞った。
バリバリバリバリ、バリッ!!!
シルバの右腕が、またたく間に光を一切反射しない漆黒の硬度へと染まり、周囲の空間を力任せに引き裂くほどの、巨大な黒い雷光を纏っていく。これこそが、王の資質を持つ強者の中でも、一握りの怪物しか到達し得ない極致。――『覇王色の覇気・纏い』。
「二年間、少し眠らせすぎたな。……喰らいな」
シルバの拳が、上空から軍艦の分厚い船腹に向けて一気に振り下ろされた。
「『黒雷・一穿(こくらい・いっせん)』」
実際には、シルバの拳は軍艦の木甲板に触れてすらいない。
だが、拳が到達する数メートル手前の空間で、極限まで練り上げられた衝撃波が融合し、爆発的なエネルギーとなって解き放たれた。
ズガァァァァァァァァン!!!!!
一撃。たった一発の拳の風圧だけで、巨大な海軍の軍艦の竜骨を、まるでおもちゃの木切れのように一瞬で真っ二つに大破させた。さらに、一隻目の軍艦を完全に粉砕した『黒雷』の余波が、巨大な津波のような衝撃の暴風となって、周囲に円陣を組んでいた残りの四隻の軍艦へと一斉に襲いかかった。
「うわああああああ!!!」
中将の悲鳴と共に、大破した軍艦の破片が弾け飛び、残る四隻の巨大な船体も、ドミノ倒しのように次々と大傾斜を起こして大破・転覆していく。悪魔の実の能力も大砲も使わず、ただ人間一人の『拳』と『覇気』だけで、海軍本部の最新鋭艦隊が文字通り海の藻屑へと変えられた。
激しい水しぶきが雨のように降り注ぐ中、シルバはサニー号の甲板へと、何事もなかったかのように静かに着陸した。
脇腹の傷口から少しだけ血が滲み、コートを汚したが、その表情はどこまでも涼しげだ。再び前髪を下ろし、世界を震わせたその両眼を深く隠す。
「……す、げぇ……」
昨夜、シルバをパンチ一発でノックアウトしたはずのナミが、甲板の上にペタンと腰を抜かしたまま、完全に言葉を失っていた。
「おいおいおい! 悪魔の実も使わねぇでウチのサニー号の『ガオン砲』並みの威力を出しやがった! スーパー格好いいじゃねぇかコンチクショー!」
フランキーがポーズを決めて大興奮する。
「ヨホホホ! 私は目は無いんですけど、あまりのプレッシャーに骨がバラバラになりそうです!」
ブルックがいつものスカルジョークを飛ばす横で、ルフィが嬉しそうに麦わら帽子を押さえながら大喜びし、ゾロとサンジもまた不敵な笑みを深く刻んでいた。
「これで、家賃の代わりにはなっただろ、オレンジ頭」
シルバが不敵にニヤリと笑った、その時だった。
バサバサバサ、と重い羽音を立てて、一羽のニュース・クーがサニー号の甲板に舞い降りた。鳥が落としていった最新の新聞、そしてそこから滑り落ちた一枚の手配書を、ルフィがいち早く拾い上げる。
「うおォォォ! シルバ! お前の新しい手配書だぞ!!」
ルフィが興奮のあまりに突き出してきたその紙面には、フードの隙間から片目だけが怪しく光り、周囲に黒い稲妻がバチバチと弾けているシルバの禍々しい写真が印刷されていた。そして、その下部に刻まれた驚愕の数字。
【 DEAD OR ALIVE 】
【 SILVA 】
【 1,840,000,000- 】
「じゅ、じゅうはち億四千万ベリーだァーーーっ!?」
ウソップとチョッパーが叫び声を上げて白目を剥き、ナミも手配書を二度見して顔を引きつらせる。
「大変だ! 18億の化け物が血を流してるぞ! 今すぐ包帯持ってこい!」
チョッパーが医者として放っておけずに大慌てで走り回る。手配書の隅には、海軍本部からの異例の警告文が小さく添えられていた。――『※警告:この男と絶対に目を合わせるな。精神を破壊される危険あり』。
「ふふ、さすがね。2年後の新世界でも、世界政府はあなたの存在を一番恐れているみたい」
ロビンが楽しそうにクスクスと笑いながら、シルバの顔を覗き込んでくる。
シルバは自分の手配書をチラリと一瞥すると、フッと鼻で笑った。
「海軍め、人の顔を化け物みたいに書きやがって。……まぁいい、これで俺も正式に、お前らの『ただの密航者』じゃなくなったわけだ」
その様子を、食堂の陰からじっと見つめているピンク色の髪の少女がいた。ジュエリー・ボニーは、18億の手配書とシルバの無骨な背中を交互に見つめ、肉をキチキチと噛みちぎりながら、その不敵な瞳をさらに鋭く輝かせる。
「黒雷のシルバ……。テメェ、やっぱり面白ぇ男じゃねぇか……」
海軍を敵に回し、名実ともに「新世界の怪物」の再臨を告げたシルバ。だが、勝気なボニーの視線に気づいた瞬間、シルバはまたしても顔を真っ赤にしてフイッと視線を逸らすのだった。
(第4話・了)