『ONE PIECE:黒雷の流儀』 作:トート
海軍の包囲網を『黒雷』の一撃で跡形もなく消し飛ばしたサニー号は、再び穏やかさを取り戻した新世界の海を快調に進んでいた。
嵐の後の静けさの中、船内に鳴り響いたのは、お腹の虫を盛大に鳴らす品のない大合唱だった。
「サンジ――っ! 腹減ったァー! 肉! 巨大な肉をくれー!」
「おいコラ、そこの金髪! あたしの肉も忘れるんじゃねぇぞ! 皿から溢れるくらい山盛りにしやがれ!」
サニー号の広々とした食堂。長いテーブルの特等席を陣取り、スプーンとフォークを両手に持って大騒ぎしているのは、ルフィとジュエリー・ボニーの二人だった。どちらも新世界を代表する「大食らい」の怪物。二人の放つ凄まじい食い意地のプレッシャーに、食堂の空気は戦場さながらの熱を帯びている。
「はいはい、分かってるよルフィ、このクソ野郎。お前が騒ぐと思って海王類の特大モモ肉を丸ごと一本ローストしておいたんだよ。……あぁ、もちろん可憐なボニーちゃんの分の最高の一皿も、今すぐ愛情を込めてお持ちしますからね〜♡」
サンジはルフィを鋭い眼光で一蹴した次の瞬間、目をハート形に変えてボニーへと極上の笑顔を向けた。タバコを咥えたまま、手際よく巨大な肉の塊を切り分けていく。香ばしい肉汁の匂いと、ハーブの効いた特製ソースの香りが食堂いっぱいに広がり、居合わせたメンバーの胃袋を猛烈に刺激した。
その喧騒から少し離れたテーブルの端。
シルバは深くフードを被り、長い前髪の奥に両目を隠したまま、静かに座っていた。昨夜ナミに殴られたたんこぶを、チョッパーが丁寧に巻いてくれた包帯が頭に巻かれている。
「よし、これで包帯はバッチリだぞ! シルバ、まだ頭はクラクラするか?」
チョッパーがシルバの膝の上にちょこんと乗り、心配そうに顔を覗き込んでくる。18億の賞金首を前にしても、トナカイの医者としての使命感が勝っているようだ。
「……いや、なんともねぇよ。ありがとな、チビ」
シルバは不器用な手つきでチョッパーの小さな頭を軽く撫でた。男のバケモノ相手には容赦のないシルバだが、一味の小さな医者の純粋さには、どうにも毒気を抜かれてしまう。
「お待たせ。まずはシルバ、お前の分だ。レディを傷つけない本物の男には、俺も最高の料理を出す。……ただし、ルフィたちの野生のスピードに負けて横取りされても知らねぇからな」
サンジがシルバの前に置いたのは、外側はカリッと香ばしく、内側は極上のレアに焼き上げられた、完璧な厚切りローストビーフだった。
「……美味そうだな。いただくぜ」
シルバがナイフを手にした、その刹那。
「いただきお肉ーーーっ!!」
「あーっ! 待てルフィ、それはあたしの肉だ!!」
テーブルの上で、目にも留まらぬスピードの『肉の奪い合い』が始まった。ルフィのゴムゴムの能力で伸びる腕と、ボニーの野性的な瞬発力が激突し、サンジが次々と運んでくる大皿の肉が一瞬で消え去っていく。
ガツッ!!
激しいフォークの風圧と共に、シルバの目の前にあったはずの特製ローストビーフの半分が、ボニーの骨付き肉によって強引に引っ掛けられ、彼女の皿へと強奪されていった。
「あ、悪ぃシルバ! あたしの皿に乗ったってことは、もうあたしの肉だ!」
ボニーは口いっぱいに肉を頬張り、油だらけの唇で不敵にニヤリと笑う。あきらかに、先ほど18億の力をまざまざと見せつけてきたシルバへの、彼女なりの小さな挑発だった。
(な……っ!?)
シルバは反射的に文句を言おうと顔を上げた。だが、正面にいるボニーと真っ向から視線がぶつかりそうになった瞬間、昨日の海岸での『目が合っても平気なボニーの瞳』が脳裏をよぎった。
途端に、シルバの心臓が不自然なほどドクンと跳ね上がり、耳の裏まで一気に熱くなる。
相手は女性だ。どれだけ肉を横取りされようが、胸ぐらを掴まれようが、彼には彼女を殴る拳も、睨みつける覇気も、持ち合わせてはいない。
「……チッ。好きにしろ、大食らい」
シルバは完全に狼狽し、顔を真っ赤にしたまま、バッと乱暴に視線を逸らしてそっぽを向いた。残された半分の肉を、逃げるように口へと運ぶ。
「あははは! シルバのやつ、またボニーから目を逸らしたぞ! お前本当に分かりやすいなー!」
それを見たルフィが、口の周りをソースだらけにしながら大爆笑する。ウソップやフランキーも「あの18億の黒雷が、女の子に肉を取られただけであんなに赤くなるなんて……」とあきれ半分、面白がり半分でニヤニヤと笑い始めた。
「ふふ、ごちそうさま。今日も素敵な喜劇が見られたわ」
シルバのすぐ隣の席で、上品にワイングラスを傾けていたロビンが、実につまらなそうに、けれど深くすべてを見透かしたような妖艶な笑みを浮かべた。
ロビンは知っている。シルバの放つ世界破壊クラスの覇王色が、どうして目の前のピンク色の髪の少女にだけは全く発動せず、それどころか彼自身の精神をこれほどまでに狂わせてしまうのかを。
「調子が狂うんだよ、お前ら女はどいつもこいつも……」
シルバはさらにフードを深く引っ張り下げ、赤くなった顔を必死に隠すのだった。
「おい、テメェ、飯を食う時くらいその邪魔なフードを脱いだらどうなんだよ」
ボニーは口いっぱいにローストビーフを詰め込み、咀嚼しながら、隣のシルバをジロリと横目で睨みつけた。彼女の豪快すぎる食べっぷりは衰えるところを知らず、テーブルの上にはすでに山のような空き皿が積み上がっている。
「……断る。俺の眼がどれだけ危険か、お前もさっき見ていただろ」
シルバは頑なにフードの縁を指先で引き下げ、自分の顔を深く隠した。先ほどからボニーの油まみれの唇や、距離の近さに心臓の鼓動がうるさいほど跳ね上がっている。平静を装うために、低い声を作るのが精一杯だった。
「あァ!? だから、あたしにはテメェのそんな脅しは通用しねぇって言ってんだろ!」
ボニーはフォークをガツンとテーブルに突き立てると、ふんぞり返ってシルバの顔を覗き込んできた。
「二年前の八億四千万だか、今の十八億だか知らねぇが、あたしが怯むとでも思ったか? テメェが目を逸らさなきゃ、あたしがその前髪ごとブチ抜いてやるよ!」
「よせ、ボニー。こいつはマジで、レディを前にすると借りてきた猫みたいになっちまうんだ。これ以上いじめてやるなよ」
サンジが新しい大皿を運びながら、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる。
「あははは! シルバ、顔だけじゃなくて耳まで真っ赤だぞ! チョッパー、こいつ熱があるんじゃねぇか?」
ルフィが骨付き肉を振り回しながら大騒ぎし、チョッパーが「ええっ!? 大変だ、冷えピタ持ってくる!」とイスから飛び降りようとする。
「クソバカどもが……。静かに食えねぇのか」
シルバは完全に狼狽(ろうばい)し、握りしめたフォークが微かに震える。男の怪物どもをただ一瞥で平伏させてきた『黒雷』の威厳など、この食堂のどこを探しても残っていなかった。
「ふふ、ボニー。あまり彼を追い詰めないであげてちょうだい」
隣で静かにワインを傾けていたロビンが、フッと妖艶な笑みを浮かべて会話に入ってきた。
「彼はね、あなたを怖がらせたくないだけなのよ。……それに、女性を傷つけないという彼の『流儀』は、あなたの想像以上に一途で、不器用なものだから」
「あァ!? ロビン、テメェ何が言いたいんだよ。あたしはこいつのハッタリが気に入らねぇだけだ!」
ボニーはぷいっと顔を背け、再び肉に食らいついた。だが、ロビンの言葉の真意がどこか気にかかるのか、時折チラチラと不機嫌そうにシルバの横顔を盗み見ている。
「……ニコ・ロビン。余計なことを言うな」
シルバは前髪の奥からロビンを鋭く睨みつけたが、ロビンは「あら、怖い。でも、その目はボニーの方を向いている時、少しだけ優しくなるのね」と、さらに大人の余裕で追撃を仕掛けてくる。
完全に完敗だった。
シルバは残されたローストビーフを無言で口に放り込み、ただひたすらに自分の調子を狂わせる「女」という存在の恐ろしさを痛感していた。
だが、この賑やかで甘酸っぱい船上の日常も、次の島への接近とともに、再び新世界の激流へと巻き込まれていくことになる。
(第5話・了)