アビドスに、もう一人の三年生がいた 外伝記録 作:ゴリさん39
第1話 届かなかった手紙
アビドス高等学校の物資棚は、いつ見ても軽かった。
空というわけではない。弾薬も、医療品も、水も食料も残っている。今日と明日を乗り切る分だけなら、まだどうにかなる。
けれど、明後日まで考えると途端に怪しくなる。
奥空アヤネは、棚の前で端末と在庫表を見比べていた。弾丸の消費量が増えている。包帯も消毒液も減りが早い。車両の補修部品は注文したまま届いていない。水と保存食も、予定より早く底が見え始めている。
「……やっぱり、足りませんね」
原因は分かっていた。
最近、外部から流れてきたカタカタヘルメット団が、アビドスの周辺でやけに動いている。
最初はただの小競り合いだった。いつもの不良生徒の延長だと思っていた。けれど、何度も続けば偶然では済まない。
巡回中の襲撃。物資搬入ルートへの妨害。補給業者への嫌がらせ。校区境界での威嚇射撃。
ひとつひとつは小さい。けれど、積み重なれば確実に学校の体力を削っていく。
アヤネが対策委員会室へ戻ると、室内ではすでに空気が少し荒れていた。
「だから、こっちから叩けばいいじゃない!」
黒見セリカが机を叩く。
「補給を邪魔してる奴らがいるんでしょ? だったら、その拠点を見つけて潰せばいいのよ!」
「ん。賛成」
砂狼シロコが短く頷いた。
「補給線を妨害する相手は、早めに排除した方がいい」
「ふ、二人とも、落ち着いてください!」
アヤネが慌てて止める。
「現時点で敵の拠点も規模も正確には分かっていません。こちらから不用意に動けば、かえって被害が広がる可能性があります」
「でも、このままじゃジリ貧じゃない!」
「それは……そうですが」
アヤネは言葉に詰まった。
正論だった。
このままでは、じわじわ削られる。派手な決戦がなくても、弾が尽き、水が尽き、修理が追いつかなくなれば、学校は動けなくなる。
だからこそ、アヤネは机の上に置いた書類へ視線を落とした。
「連邦生徒会へ、正式に救援要請を出します」
その言葉に、セリカの顔が分かりやすく歪んだ。
「……それ、本当に意味あるの?」
「あります」
アヤネは即答した。
自分に言い聞かせるような声だった。
「少なくとも、正式な記録として残ります。アビドス高等学校が外部勢力から継続的な妨害を受けていて、補給にも支障が出ていることを、連邦生徒会に報告できます」
「報告して、それで助けてくれるわけ?」
「それは……」
答えられない。
だから、代わりにノノミが柔らかく口を挟んだ。
「でも、何もしないよりはいいと思います。今の私たちだけで全部抱えるのは、やっぱり大変ですから」
「うへぇ、みんな真面目だねぇ」
部屋の奥から、のんびりした声がした。
小鳥遊ホシノは椅子に浅く座り、背もたれに体を預けていた。
セリカが振り返る。
「ホシノ先輩も何か言ってくださいよ! これ、結構まずい状況なんですよ?」
「んー、まあ、まずいはまずいよねぇ」
「軽い!」
「焦っても弾は増えないしねぇ」
「危機感なさすぎです!」
セリカの声が部屋に響く。
ホシノは困ったように笑った。
危機感がないわけではない。
ただ、セリカたちが見ているものと、自分が待っているものが少し違うだけだった。
連邦生徒会に期待していない。
それは、後輩たちには言わなかった。
昔、似たような書類を見たことがある。
もっと乱暴で、もっと刺々しくて、けれど今のアヤネよりずっと必死な字だった。提出先も、要求内容も、添付資料も、何もかも詰め込んだような書類だった。
あの子は、何度も外へ出ていた。
連邦生徒会に掛け合い、企業に掛け合い、外部の業者に頭を下げ、時には相手の襟首を掴むような真似までして、アビドスをどうにか繋ごうとしていた。
それでも、すぐには何も変わらなかった。
だからホシノは、連邦生徒会からの返事に大きな期待はしていない。
けれど、アヤネの手紙を止めるつもりもなかった。
希望は、持てるうちは持っていた方がいい。それを自分が先に潰す必要はない。
「まあ、出すだけ出してみよっか」
ホシノはそう言った。
アヤネは少しだけ表情を明るくした。
「はい。必要な資料はまとめています。襲撃の日時、被害状況、補給妨害の記録、消耗品の不足状況。それから、校区維持に関する要請も添付します」
「うんうん、アヤネちゃんは頼りになるねぇ」
「茶化さないでください。ホシノ先輩にも、あとで確認していただきますから」
「えー」
「えー、じゃありません」
アヤネの声は硬い。
けれど、その硬さが今のアビドスを支えている。
ホシノは少しだけ目を細めた。
それでも、視線は自然と窓の外へ向いていた。
そろそろ帰ってきてもいい頃だった。
あの子はいつも、何も言わずにいなくなる。そして、何も言わずに帰ってくる。
帰ってきた時には、大抵、必要なものを持っていた。
どこで手に入れたのかは、最後まで教えてくれないまま。
やり方は荒い。言葉もきつい。何をしているのか全部は話さない。
それでも、外の厄介事に関しては、ホシノよりずっと手が早かった。
ヒバリが戻れば、少なくともヘルメット団の問題は動く。
そう思っていることを、ホシノは誰にも言わなかった。
アヤネは端末の画面に向き直り、深く息を吸った。
「送信します」
送信完了。
画面に表示された短い文字を、アヤネはじっと見つめていた。
「……これで、何か変わればいいんですけど」
「変わるといいねぇ」
ホシノはそう言った。
ただ、ホシノが待っていたものは、その手紙の返事ではなかった。
*
アビドス高等学校からの救援要請は、確かに連邦生徒会へ届いていた。
宛先に誤りはない。形式にも不備はない。添付資料も揃っている。
外部勢力による襲撃記録。補給妨害の報告。弾薬、医療品、補修資材の不足。校区機能維持への支援要請。
文面は丁寧で、必要な情報は整理されていた。
担当者は資料を一通り確認し、処理欄に視線を落とした。
危険ではある。だが、即時介入案件ではない。
対策委員会は活動している。校舎も残っている。完全な機能停止には至っていない。報告される被害も、大規模介入を必要とするほどには見えない。
昔と比べれば、むしろ安定している。
そう見えた。
要確認。
継続観察。
優先度、低。
手紙は、届いていた。
ただ、救援としては届かなかった。
*
その夜、アビドスの外れにある廃倉庫では、カタカタヘルメット団の一団が騒いでいた。
元は小さな物流倉庫だった場所だ。今は壁の一部が崩れ、窓には板が打ちつけられ、内部には拾い集めた机やソファが雑に並べられている。
その奥の部屋で、リーダー格の生徒が足を組んでいた。
「楽な仕事だよな、アビドスって」
彼女は机の上に置いた空き缶を指で弾いた。
「ちょっと補給を邪魔して、ちょっと撃ち合って、適当に圧かければ金が出る。カイザーってのも太っ腹じゃん」
周囲の仲間が笑う。
アビドスは寂れた学校。生徒も少ない。守るものばかりで、攻める力は弱い。
そう聞かされていた。
だから、部屋の外で短い悲鳴が上がった時も、最初は誰も本気にしなかった。
次に、何かが床を転がる音がした。
笑い声が止まる。
「……おい。見てこい」
リーダーが顎で指示する。
扉の近くにいた一人が舌打ちしながら歩き出した。その手が扉に触れる直前、扉の向こうから乾いた破裂音が響いた。
照明が一つ弾けた。
部屋が暗くなる。
「なっ、なんだ!?」
「襲撃だ!」
周囲が一気に狼狽える。机が倒れ、椅子が鳴り、何人かが銃を取り落とした。
その中で、リーダーだけは椅子から転がるように降りながらも、すぐに銃を抜いた。
影が、入口に立っている。
リーダーは息を乱しながらも、その影へ銃口を向けた。
「てめえ、アビドスの連中か!」
返事はなかった。
暗がりの中で、影が一歩進む。
入口近くにいた護衛が銃を構えようとした瞬間、手元の武器が弾かれて床を滑った。もう一人が立ち上がろうとして、足元を撃ち抜かれる。床に散った破片に足を取られ、そのまま机にぶつかって倒れた。
誰も致命傷は受けていない。
けれど、誰もまともに動けなかった。
影が、割れた照明の下に出る。
深い緑の外套。顔を隠すフード。首元で揺れる、血のような赤い布。
リーダーの顔色が、はっきりと変わった。
「なんで……」
銃口がわずかに揺れる。
「何で緑の亡霊がここにいるんだよ」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が凍った。
緑の亡霊。
ブラックマーケットで、それなりに長く仕事をしている者なら一度は聞く名前だった。
深緑の外套。赤いマフラー。気づいた時には、武器も逃げ道も潰されている。依頼を受ければ確実にこなし、敵に回せば商売も信用も削られる。
梔子ヒバリは部屋を見渡し、面倒くさそうに言った。
「お前たち、ここ私のシマなんだけど」
声は静かだった。
怒鳴っているわけではない。ただ、事実を告げるような声だった。
「し、知らなかった!」
リーダーは銃を向けたまま、喉を引きつらせた。
「俺たちは、カイザーグループに雇われただけなんだ! アビドス周辺で少し騒げばいいって、それだけで……!」
「へえ」
ヒバリは興味なさそうに相槌を打った。
「ここで仕事するなら、誰の縄張りかくらい調べてから来なよ」
その一言で、リーダーの表情がさらに強張る。
ヒバリは一歩、部屋の中へ入った。
リーダーの銃口が追う。
けれど、引き金は引けない。
引いた瞬間に何が起きるか、想像できてしまったからだ。
「雇われただけなら、雇い主に伝えて」
ヒバリは淡々と言った。
「これ以上アビドスで暴れたら、君たちのブラックマーケットでの立場が危ないよ?」
「ま、待て。俺たちは別に、そこまで大きなことは――」
「商売も、寝床も、逃げ場所も。全部なくなる」
部屋の空気が、また冷えた。
「君たちがどこで弾を買って、どこで物資を捌いて、どこの店にツケを作ってるか。調べるのは簡単だ」
ヒバリは、倒れた護衛たちを一瞥する。
「ブラックマーケットは、強い奴が偉い場所じゃない。信用を失った奴から居場所をなくす場所だ」
リーダーの銃口が、ゆっくりと下がった。
撃つ必要はなかった。
「さっさと消えて」
リーダーは何も言い返せなかった。
ヒバリは踵を返す。
部屋を出る直前、少しだけ振り返った。
「次にアビドスで見かけたら、忠告はしない」
それだけ言って、緑の外套は夜の中へ消えた。
アヤネの手紙は、後回しにされた。
ホシノの待っていたものは、帰ってきた。
けれど、そのどちらも、まだ誰も救ってはいなかった。