アビドスに、もう一人の三年生がいた 外伝記録 作:ゴリさん39
カタカタヘルメット団の拠点は、夜が明ける前から慌ただしくなっていた。
昨日まで我が物顔で使っていた廃倉庫の中を、不良生徒たちが右往左往している。弾薬箱、安物の食料、寝袋、簡易通信機。持ち込んだ物を片っ端からまとめ、車両へ放り込んでいく。
「急げ! 夜明け前に出るぞ!」
リーダー格の生徒が怒鳴る。
部下の一人が、不満そうに顔を上げた。
「でも、カイザーからの仕事はどうするんですか? まだアビドス周辺で――」
「馬鹿か、お前!」
リーダーはその部下の胸ぐらを掴み上げた。
「緑の亡霊が出たんだぞ! ブラックマーケットで干される方が終わりだ!」
部下の顔から血の気が引く。
緑の亡霊。
その名前を聞いて、さっきまで文句を言いかけていた他の生徒たちも黙った。
アビドスで少し騒げばいい。補給を邪魔して、巡回中の生徒にちょっかいをかけて、少しずつ消耗させればいい。
カイザーから受けた仕事は、そういうものだった。
楽な仕事のはずだった。
だが、あの緑の外套が現れた瞬間、話は変わった。
商売も、寝床も、逃げ場所もなくなる。
その言葉がただの脅しではないことを、ここにいる何人かは知っていた。ブラックマーケットで生きている者にとって、信用を失うことは弾切れよりも怖い。
リーダーは胸ぐらを離し、舌打ちした。
「カイザーには、事情を話す。こっちは降りる。いいな」
誰も反論しなかった。
その様子を、少し離れた建物の屋上から眺めている影があった。
深い緑の外套。
首元の赤い布が、夜風に小さく揺れる。
梔子ヒバリは、撤収していくヘルメット団を見下ろしながら、端末に短く記録を残した。
カイザーグループ。
やはり、その名前が出た。
単なる不良生徒の小遣い稼ぎではない。アビドス周辺の補給を乱し、細かい襲撃で弾薬と体力を削る。手口は雑だが、目的は分かりやすい。
消耗させるつもりだ。
「……相変わらず、感じ悪い連中だな」
小さく呟いて、ヒバリは端末をしまった。
ヘルメット団は引かせた。
だが、雇い主はまだ残っている。
なら、伝えるべき相手は一人だった。
*
夜のアビドスは、昼間よりずっと広く見える。
砂の色も、ひび割れた道路も、壊れかけた街灯も、薄い月明かりの下では輪郭だけになる。風が吹けば、どこかの看板が軋んだ音を立てた。
小鳥遊ホシノは、いつもの巡回ルートを歩いていた。
対策委員会の後輩たちには、見回りと言って出てきた。実際、嘘ではない。最近はヘルメット団の妨害も増えている。夜の校区を確認する理由はいくらでもあった。
けれど、本当は少しだけ別の理由もあった。
そろそろ、会える気がしていた。
乾いた風の中、ホシノは足を止める。
前方の街灯の下に、ひとつ影があった。
深緑の外套。フード。赤いマフラー。
見間違えるはずがない。
「……ヒバリ」
ホシノは、いつもの調子で声をかけた。
「珍しいね。待ってたの?」
「通り道だっただけだ」
ヒバリは短く返した。
ホシノは少しだけ目を細める。
「へえ。私の巡回ルートに、偶然?」
「偶然にしておけ」
「相変わらず感じ悪いねぇ」
「お前に言われる筋合いはない」
その返し方だけは、昔と変わらなかった。
軽口は、昔とほとんど変わらない。
けれど、そこにある距離は変わっていた。
昔なら、もう少し簡単に近づけた。もう少し雑に言葉を投げられた。もう少し、相手がそこにいることを当然だと思えた。
今は違う。
ホシノはそれを知っている。
ヒバリも、それを知っている。
「アビドスにちょっかいをかけていたヘルメット団は、こちらで処理した」
ヒバリが先に用件を切り出した。
「処理って言い方、相変わらず物騒だねぇ」
「潰したと言わないだけ優しいだろ」
「うへぇ」
ホシノは苦笑したが、目の奥だけは笑っていなかった。
「やっぱり、あれはただの不良じゃなかった?」
「カイザーグループに雇われていた。補給妨害と小規模襲撃。目的は消耗だろうな」
「……カイザーか」
ホシノの声が、少しだけ低くなる。
予想していなかったわけではない。
けれど、名前が出ると重さが変わる。
カイザーグループ。
アビドスの借金に食い込み、土地に食い込み、学校の未来にまで手を伸ばしてくる連中。
ホシノは小さく息を吐いた。
「最近、カイザーグループの動きが活発だ」
ヒバリは続ける。
「学校と後輩をしっかり見ておけ」
「言われなくても、そのつもりだよ」
「お前はすぐ一人で抱える」
「それ、ヒバリに言われたくないなぁ」
「私は一人で抱えても回せる」
「感じ悪」
ホシノはそう返したが、否定はしなかった。
ヒバリの言葉はきつい。
けれど、外れることは少ない。
ホシノ自身も分かっていた。
今のアビドスには、後輩たちを預けられる大人がいない。先生という存在も、この学校にはまだ来ていない。だから自分が倒れるわけにはいかないし、自分が勝手に消えるわけにもいかない。
後輩たちは頑張っている。
頑張りすぎなくらいに。
だからこそ、ホシノは少しだけ声を落とした。
「……まだ顔を出すつもりはないの?」
ヒバリは答えなかった。
ホシノは続ける。
「あの子たちも、アビドスのために頑張ってるよ」
セリカは怒りながらも前へ出る。
アヤネは書類と在庫表を抱えて、何度も数字を確認している。
ノノミは笑って空気を支えようとする。
シロコはいつも通りに見えて、一番早く危険へ足を踏み出そうとする。
皆、アビドスを守ろうとしている。
だから、ヒバリにも見てほしかった。
ヒバリは、すぐには答えなかった。
ほんの一瞬だけ、校舎の方へ視線を向ける。
それから、切り捨てるように言った。
「私のことはしゃべるな」
「……どうして?」
「いらない事を考えさせるな」
短い言葉だった。
けれど、それ以上踏み込むなという線でもあった。
ホシノは黙った。
ヒバリは支援する。火消しもする。外から厄介事を潰す。けれど、対策委員会の前には出ない。後輩たちと関わるつもりもない。
それは優しさなのか、逃げなのか。
ホシノには分からなかった。
分からないまま、責めることもできなかった。
「ヘルメット団は引かせた。しばらく補給は戻る」
ヒバリは話を切った。
「だが、雇い主は別だ。駒が一つ減った程度でカイザーは止まらない」
「だろうねぇ」
「相手が見えるまで動くな。学校を空けるな」
「それ、私に言ってる?」
「お前以外に誰がいる」
「うへぇ、信用ないなぁ」
「信用してるから言ってる」
その言葉に、ホシノは少しだけ返事が遅れた。
ヒバリは表情を変えない。
たぶん、本当にそう思っている。
信用しているから、釘を刺す。
分かっているから、きつく言う。
戻ってこないくせに、外から手を伸ばす。
昔からそうだった。
「用件はそれだけだ」
ヒバリは踵を返した。
緑の外套が、夜の砂に揺れる。
ホシノは、その背中を見た。
何度も見た背中だった。
何度も遠ざかっていった背中だった。
「……ヒバリ」
声が出た。
ヒバリの足が止まる。
振り返りはしない。
ホシノは口を開いた。
戻ってきて。
その言葉は、喉まで出かかった。
でも、出なかった。
言えるはずがないと思った。
ヒバリが簡単に戻れないことを知っている。自分がその理由の一つであることも、どこかで分かっている。今さら何もなかったように、後輩たちの前へ出てきてほしいなんて、都合がよすぎる。
だから、ホシノは笑った。
いつものように。
「いや、何でもない」
少し間を置く。
「気をつけて」
ヒバリは振り返らないまま、短く返した。
「そっちこそ」
それだけ言って、また歩き出す。
ホシノは追わなかった。
追えなかった。
帰ってきた。
けれど、戻ってきたわけではない。
ホシノは、その違いをよく知っていた。
知っていたから、最後の一言を飲み込んだ。
*
カタカタヘルメット団からの報告は、その日のうちにカイザーグループへ届いていた。
アビドス周辺からの撤退。
理由は、緑の亡霊の介入。
報告書を眺めていたカイザーPMC理事は、深くため息をついた。
「……格下のチンピラごときでは、あの程度が限界か」
苛立ちよりも、見切りの方が濃い声だった。
使い捨ての駒に、過剰な期待はしていない。
だが、もう少し削れると思っていた。
補給路を乱し、消耗を誘い、対策委員会の余裕を奪う。
それだけでよかった。
しかし、その程度の仕事すら、横槍ひとつで止まる。
「緑の亡霊、ですか」
部屋の隅から、穏やかな声がした。
黒服は、いつものように表情の読めない笑みを浮かべていた。
「アビドスには、まだ外側から手を伸ばす者がいるようですね」
「厄介な小娘だ。ブラックマーケットで妙に顔が利く」
理事は報告書を机に放った。
「金で雇った不良どもでは、あれの縄張りを荒らすこともできんらしい」
「では、こちらに任せていただきたい」
黒服は静かに言った。
その声には、焦りも怒りもなかった。
「外側の支援を断つより、内側の支柱を折る方が早い」
理事が目を細める。
「小鳥遊ホシノか」
「ええ」
黒服は笑う。
「彼女が残っている限り、アビドスはまだ崩れません。逆に言えば、彼女を正しく揺らせば、あの学校は自分から沈んでいく」
「外から差し込まれる手は、何度でも払い落とせます。けれど、支えている柱が折れれば、屋根は勝手に落ちる」
理事はしばらく黙っていた。
やがて、短く鼻で笑う。
「好きにしろ。こちらは結果が欲しい」
「もちろんです」
黒服は、丁寧に頭を下げた。
「では、少しだけお話をしてきましょう。彼女が聞かずにはいられない話を」