カロス地方の朝は、まるで磨き上げられた硝子のように澄んでいた。
アサメタウンに建つ自宅の二階、ミソラは鏡の前で自身の姿を厳かに整えていた。新調した旅の装いに身を包み、最後に長く艶やかな髪を梳く。その瞳には、これから始まる未知の世界への期待と、それ以上に揺るぎない「自分だけの基準」が宿っていた。
階下から母親の呼ぶ声が聞こえる。ミソラは小さく深呼吸をして、愛用のバッグを肩にかけた。
町の出口には、プラターヌ博士の使いである二人の少年少女が待っていた。彼らの足元には、銀色に輝く三つのモンスターボールが並んでいる。それは、カロスの地に生きる少年少女たちが、一生に一度だけ手にする「運命の選択肢」だった。
「さあ、ミソラ。君のパートナーを選んで。ハリマロン、フォッコ、ケロマツ。どの子も個性的で、素晴らしい力を持っているよ」
差し出された三匹のデータや特徴を、少年たちは熱心に説明し始めた。タイプ相性、得意な技、進化後の姿。世間一般のトレーナーが血眼になって調べる「効率」の話が、ミソラの耳を通り過ぎていく。
ミソラは静かに歩み寄り、三匹の前に跪いた。
彼女の視線が、一匹のポケモンで止まる。
「……こんにちは。貴方、素敵な瞳をしているわね」
カグラの言葉に、一匹のキツネポケモン――フォッコがぴくりと耳を動かした。
フォッコは他の二匹に比べて、どこか物静かで、それでいて毅然とした空気を纏っていた。大きな耳の先から覗く暖色の毛が、柔らかな風に揺れている。
ミソラがそっと手を差し伸べると、フォッコは警戒することなく、その鼻先を彼女の掌に寄せた。しっとりとした鼻の感触と、小さな体から放たれる心地よい熱。その温もりを感じた瞬間、ミソラの心の中に、言葉ではない確信が満ち溢れた。
「私、この子にするわ」
ミソラの決断に、少年たちは少し驚いたような顔をした。
「本当にいいのかい? フォッコは育てるのが少し大変だという話もあるけれど……」
その言葉に、ミソラは顔を上げ、凛とした微笑みを返した。
「強さや効率は、後からどうにでもなるわ。でも、この子が私に見せた信頼と、私が感じた『愛おしさ』は、他の何物にも代えられない。……私が可愛いと感じた。それが、私にとって最大の正解なの」
ミソラにとって、「可愛い」という言葉は決して軽薄な賛辞ではない。それは、その生命が持つ本質的な輝きを認め、慈しむという、彼女なりの敬意の表明だった。
「それにね」
ミソラはフォッコを優しく抱き上げ、その小さな背中を撫でた。フォッコは満足げに目を細め、ミソラの腕の中で喉を鳴らした。
「一度こうして向き合って、私を信じてくれたなら、最後までその想いに応える。それが私の通すべき『筋』だから。たとえこの先、この子が弱音を吐こうと、世界中が別の選択を勧めてこようと、私はこの手を離さないわ」
その言葉は、フォッコへの誓いであると同時に、自分自身への宣言でもあった。
世の中のルールやゲームの常識がどうあれ、自分は自分の心に従う。なついてくる命には、全身全霊で応える。
「行きましょう、フォッコ。貴方が、私の最初の『家族』よ」
ミソラの腕の中で、フォッコが誇らしげに短く鳴いた。
少女と一匹のキツネ。その影が、はじまりの道を長く、力強く伸びていく。
効率を捨て、愛と責任を選んだミソラの旅。
その第一ページは、鮮やかな紅蓮の火が灯ったような、温かな絆から書き始められた。