「ジョーイさん! お願いします、この子を……イーブイを診てください!」
海沿いの美しい緑に囲まれた港町、ヒヨクシティ。その中心にあるポケモンセンターの自動ドアが勢いよく開くと同時に、ミソラはフロントへと滑り込むように駆け込んだ。
息を切らし、必死の思いで両腕に抱きかかえていたのは、ぐったりと力なく目を閉じている旅団の末っ子弟分・イーブイだった。
受付の奥から慌てて出てきたジョーイさんは、イーブイの傷だらけの小さな身体を見るなり、ハッと息を呑んで表情を引き締めた。
「ひどい傷ね……! でも大丈夫よ、すぐに集中治療室で処置をします。あなたたちも、少し落ち着いて待っていなさい」
緊急用のトレイに移されたイーブイは、そのまま処置室の奥へと運ばれていく。やがて、重い防音扉が閉まると同時に、その頭上にある「手術中」を示す無機質な赤いランプが静かに点灯した。
「ふぅ……っ……」
ロビーのソファーに、ミソラは力なく腰を下ろした。
膝の上に置いた自分の両手を見つめると、それはまだかすかに震えていた。あのザングースの無慈悲な爪の鋭さ、そして大切な弟分が悲鳴を上げて砂煙に消えた瞬間の恐怖が、網膜の裏に焼き付いて離れなかった。
「マフォ……」
すぐ隣に、そっと静かに腰掛けたのは、つい一昨日進化したばかりの大黒柱・マフォクシーだった。マフォクシーは、長い毛並みに覆われた大きな腕をミソラの肩にそっと回し、寄り添うようにしてその震えを鎮めようとしてくれる。
少し離れた壁際では、漆黒の巨躯となったリザードンが、大きな翼を小さくすぼめて床にどっしりとしゃがみ込んでいた。自分のせいでイーブイが傷ついたわけではない。むしろ、あの後は怒りのメガリザードンYへと超覚醒し、圧倒的な爆炎で敵を粉砕してくれた。それなのに、リザードンは「もっと早く自分が前に出ていれば」とでも言うように、悔しそうに頭を低く垂れて床をじっと見つめている。
新入りのルカリオも、その隣で静かに腕を組み、ただならぬ厳粛な気配を纏って手術室のランプを見上げていた。
「みんな、心配してくれてありがとう。私は大丈夫よ……。ただね、ちょっと考えていたの」
ミソラはマフォクシーの温かい身体に少しだけ体重を預けながら、ぽつりと呟いた。
カロス地方にやってきてからの旅は、いつも賑やかで、ワイワイと楽しくて、まるで本物の大家族のように温かいものだった。辛いことがあっても、みんなで笑い合えば乗り越えられると、どこかで信じていた。
しかし、今日の12番道路での出来事は、そんなミソラの「甘さ」を容赦なく打ち砕いた。
この世界には、こちらの準備や都合なんて一切お構いなしに、望むか望まないかにかかわらず、理不尽に戦いを挑んでくる存在が確実にいる。目が合えば強制的にバトルが始まり、牙を剥かれ、爪で引き裂かれる。それがポケットモンスターという世界を旅するトレーナーの、逃れられない現実だった。
さらに、ミソラの脳裏には、これまでの旅の中で幾度となく行く手を阻んできた、不気味な輝きを放つ赤いスーツの集団――『フレア団』の影が重くのしかかってくる。
彼らはただの好戦的な野良トレーナーではない。明確な悪意と、カロス地方全体を脅かすような恐ろしい陰謀を抱えて暗躍している。もし、あの連中と本格的に激突することになったら。もし、こちらのレベルが足りないという理由だけで、大切な家族の誰かが奪われたり、今日のザングース以上の理不尽で取り返しのつかない傷を負わされたりしたら――。
「……守れない。今の私のままじゃ、みんなを本当に守りきることはできないんだわ」
ギュッと、ミソラは自分のデニムの膝の上で、白くなるほど強く拳を握りしめた。
「私、ただの『仲良し大家族の楽しい旅』で満足していたのかもしれない。でも、それじゃダメなのよ。私がもっと強く、もっと冷徹に戦局を見極められる一人前のトレーナーにならなきゃ……私の甘さのせいで、みんなが傷つくことになる」
カルムとの死闘の末にマスタータワーで手に入れたメガリング。そして、イーブイの悲鳴に呼応して目覚めた、あのメガリザードンYの圧倒的な太陽の力。
あの絶大な火力は、ただ強さを誇示して暴れるためのものじゃない。大家族の誰も欠けることのない日常を、このかけがえのない笑顔を、世界の理不尽や悪意から徹底的に守り抜くための、絶対的な「盾」なのだ。
「マフォッ!」
マフォクシーが力強く杖を床にカツンと打ち鳴らし、ミソラの言葉を肯定するようにその鋭い瞳を光らせた。
ロビーの影に静かに佇んでいた守護神アブソルも、赤い目をミソラへと向け、「その覚悟を待っていた」と言わんばかりに小さく、しかし威厳を込めて頷いた。リザードンもまた、鼻からフンと熱い息を吹き出し、主人の決意に応えるように長い尻尾を大きく一振りした。
新入りのルカリオ、そしてラプラスも、主人の周囲に漂う空気が「ただの仲良し」から「本当の信頼と覚悟」へと昇華していくのを、肌で感じ取っていた。
チコン、チコン、チコン……♪
沈黙が支配していたロビーに、お馴染みの軽快なチャイムの音が響き渡った。それと同時に、手術室のドアの上の赤いランプが、ふっと消える。
重い扉が左右に開き、ジョーイさんが笑顔でワゴンを押しながら現れた。
「お待たせしました、ミソラさん。イーブイちゃん、もうすっかり元気よ!」
「ブイッ! ブイブイッ!」
ワゴンの中から、まだいくつかの包帯を巻いた小さな身体を弾ませて、イーブイが勢いよく飛び出してきた。その丸い瞳には、さっきまでの濁りはなく、いつもの無邪気な輝きが完璧に復元されている。
「イーブイ……ッ!」
ミソラはソファーから飛び起き、床に着地した弟分を両腕でしっかりと抱きとめた。胸の中に飛び込んできた温かい重みを感じた瞬間、目頭が熱くなるのを必死に堪える。イーブイはミソラの顔を嬉しそうにペロペロとなめ回し、心配そうに巨体を近づけてきたリザードンの大きな鼻先にも、お礼を伝えるように自分の頭を何度もこすりつけていた。
その温かい光景を見つめながら、ミソラの胸の中にあった迷いや恐怖の澱みは、完全に消え去った。
「よし……みんな、改めてよろしくね。私たちは、ここからもっともっと強くなるわ。どんな悪意や理不尽が襲ってきても、全員で笑い飛ばして突っぱねられるくらいにね!」
イーブイを抱きかかえ、力強く前を向いて立ち上がったミソラ。その手首に填められた鈍色のメガリングが、夜の帳が下り始めたポケモンセンターの灯りを反射して、さっきよりもずっと深く、確かな輝きを放ち始めていた。
世界に潜む悪意に立ち向かうための「真の覚悟」をその胸に抱き。ミソラ旅団は、ヒヨクシティの潮風を切り裂きながら、さらなる高みへ、そして次なるジム戦へと向かって、再び力強く歩み出すのだった。