ジムトレーナーのナットレイを退け、ツタの縄梯子を登りきった先。大樹の最上階は、遮るもののないカロスの青空と、心地よい風が吹き抜けるウッドデッキの広場になっていた。
そこに、一人の老人が佇んでいた。大きな麦わら帽子を被り、剪定バサミを片手に静かに植物の手入れをしている。ヒヨクジムリーダー・フクジだった。
「おぉ、よく来たのう、若き挑戦者よ。待っておったぞ」
フクジは振り返り、柔和な笑みを浮かべた。しかし、その奥にある一対の瞳は、まるでミソラの魂の奥底まで見透かすように鋭かった。
ミソラは一歩前に出た。色白の肌を少し緊張でこわばらせ、自慢の金髪を風に揺らしながら、腰のモンスターボールの並びをそっと見つめる。
「ジムリーダー・フクジさん! 挑戦にきました。私の家族と一緒に、あなたのバッジを獲りに!」
「ふむ、家族、な……」
フクジは剪定バサミを置くと、ふぅ、と小さく息を吐いた。その表情から、先ほどまでの好々爺の温度が、スッと消えていく。
「ミソラと言ったかね。……お主のこれまでの旅路、バトルの記録は、ワシの耳にも届いておる。だがのう……率直に言わせてもらえば、ワシはお主に失望しておる。言葉は悪いが、お主はトレーナーとしては『無能』じゃ」
「え……?」
突きつけられた痛烈な言葉に、ミソラは息を呑んだ。背後に控えるマフォクシーや、進化したばかりのブラッキーが、主人の危機を察してフクジを鋭く睨みつける。しかし、フクジは静かに手をかざしてそれを制し、言葉を続けた。
「お主は自分のことを、ポケモンと絆を深めた立派なトレーナーだと思っておるようじゃが、それは大いなる勘違いじゃ。お主がこれまで手にしてきた3つのバッジ……あれはすべて、お主の戦術で勝ち取ったものではない。お主の持てる手持ちたちの『規格外のスペック』に、お主自身がただ甘えていただけの話じゃ」
フクジは一歩、また一歩とミソラに近づきながら、これまでの戦いを冷徹に解体していった。
「最初のハクダンジム。ビオラ相手に勝てたのは、ただのタイプ相性の良さと、最初のジムとしての『初心者向けの手加減』があったからに過ぎん。お主の指示など関係なく、ポケモンたちの地力が勝っていただけじゃ。お主はそれを、自分の実力だと勘違いした。それが最初の綻びじゃな」
「それは……」
「次のショウヨウジムはどうじゃ? ザクロの頑強な岩の戦術、緻密な封じ込めに対し、お主はどんな作戦を立てた? 何もできんまま立ち尽くし、ただアブソルの圧倒的な『個人技』と、元々持っていた戦闘センスに頼り切り、力押しで突破しただけ。……そして、シャラジムも同じじゃ。コルニの格闘コンボに対し、お主は戦術を練ったか? 否。ただ進化したリザードンの、お主の指示をも置き去りにするような圧倒的なポテンシャル、その暴力的とも言える個人技で強引に押し切っただけじゃ」
フクジの言葉が、一言一言、鋭い棘となってミソラの胸に突き刺さる。
「お主の手持ちたちは、皆素晴らしいポテンシャルを持っておる。だがそれは、お主が育てたからではない。彼らが元から強かったか、あるいは、お主の『猫可愛がりの優しさ』と『美しい容姿』に惹かれ、お主を喜ばせたい、守りたい一心で、彼ら自身が勝手に戦場で命を懸けて頑張った結果じゃ。お主自身の知略で勝たせた試合など、ただの一つもない」
フクジの目は、悲しいほどに冷ややかだった。
「お主はただ、強くて優しいポケモンたちに守られ、戦場で『頑張れ』と神輿に担がれているだけの『お飾り』……ただの色物トレーナーじゃよ。アズール湾での惨敗が、その証拠。相手の能力も調べず、飛行タイプだからと相性だけで突っ込み、技の起点にされてジワジワとなぶり殺されるのを、ただ見ておることしかできなかった。相手が手加減を捨て、理詰めでハメにきた瞬間、お主の『無策』は大切な家族を地獄に突き落とした。それが、お主の無能さの証明じゃ」
「っ……!」
ミソラの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
振り返れば、すべてフクジの言う通りだった。自分についてきてくれたみんなは、自分の容姿や優しさを慕ってくれている。なのに、自分はそんなみんなの命を預かる「指揮官」としての責任を、何一つ果たしていなかった。ただ可愛いおかーちゃんとして、ポケモンたちを甘やかす檻の中に閉じ込めていただけだったのだ。
「……う、うう……っ」
悔しさと情けなさで、ミソラは両手で顔を覆って咽び泣いた。ブラッキーが心配そうに足元に寄り添い、マフォクシーがそっとその肩を抱く。
フクジは、泣き崩れるミソラをしばらく静かに見つめていたが、その脳裏に、かつてこの大樹の頂を揺るがした、ある一人の恐るべき挑戦者の姿を呼び起こしていた。
「……先日、このジムに『カルム』というトレーナーが来おった」
その名を聞いた瞬間、ミソラの涙がピタリと止まった。
(カルム……!?)
ミソラがその名を知らないはずがなかった。アサメタウンの隣人で、旅の序盤から競い合ってきた友人なのだから。
「その者も、ポケモンたちとまるで家族のような深い関係を築いておったよ」
フクジは、驚きに目を見開くミソラを真っ直ぐに見据えた。
「だが、お主とは根本が違った。カルムは家族を守るために、持てる知略のすべてを尽くして、文字通りワシの戦術をねじ伏せた。命を預かる頭領の『責任』というものを見せてもらったよ。……お主にその覚悟があるかね? ただ優しく愛でるだけでは、カルムのような本物の強さには到底届かんぞ」
「……」
ミソラは、ゆっくりと、しかし確実に涙を拭った。
あのカルムが、このヒヨクジムでフクジさんと戦っていた。そして自分は今、そのカルムの足元にも及ばない「無能」だと突きつけられている。
おかーちゃんとしてみんなを愛するなら、愛するからこそ、絶対に無策で傷つけさせてはならない。勝たせて、無事に家に帰さなければならない。カルムが知略のすべてを尽くして家族を守ったように。
顔を上げたミソラの瞳からは、先ほどまでの「お飾り」の甘えは完全に消え失せていた。泥をすすり、己の無能さを認め、ここから知略を尽くして這い上がる。冷徹なまでの自省と、新しい覚悟の光が、その美しい青い瞳の奥でギラリと細まった。
その変化を見た瞬間、フクジは麦わら帽子の下で、フッと静かに目を細めた。
(……ほう。泣き喚いて逃げ出すかと思ったが、よもやこれほど早く『戦士の目』になるとはな。ただの甘いお人好しかと思ったが……ミソラ、お主、化けるかもしれん)
風が吹き抜け、ミソラの金髪を激しく揺らす。
「フクジさん……私に、時間をください」
ミソラは、低く、しかし驚くほど引き締まった声で言った。
「もう一度、私の大家族のすべての能力を、技を、特性を叩き込み直します。フクジさんの戦術を、徹底的に調べ上げて、次は『指揮官』としてここへ戻ってきます」
「ふむ、良いじゃろう。ワシは逃げも隠れもしん。お主が真のトレーナーとして生まれ変わり、ワシの草木をどう攻略して見せるか、この大樹の頂で待っておるよ」
お飾りと呼ばれた美少女トレーナーが、カルムという身近にして最大の指標を胸に、本当の「知略」と「責任」を掴み取るための泥臭い大反撃。カロス大家族記は今、本当の幕を開けようとしていた。