ヒヨクシティの片隅にある宿の一室。
夜が更けても、その部屋の明かりだけは消えることがなかった。
「……ナットレイの『てつのトゲ』のダメージを最小限に抑えるには、非接触技の選定が必須。フクジさんの切り札がウツボットやゴーゴートなら、天候は『にほんばれ』からの『ようりょくそ』による超加速を狙ってくるはず。だとしたら、こちらの初手の動かし方は――」
机に向かうミソラの横顔は、いつものおっとりとした少女のそれではない。色白の頬には徹夜の疲労が滲み、自慢の金髪は乱雑にまとめられている。机の上には、カロス地方に生息する草・鋼タイプの特性、技の範囲、そしてフクジのこれまでの戦術を徹底的に調べ上げ、書き殴ったノートが何冊も積み上がっていた。
「頑張れ」と叫ぶだけの神輿(みこし)には、もう二度と戻らない。
カルムのように、理不尽なシステムを自らの知略でハッキングし、大家族を勝たせて無事に帰すボスになる。ミソラは睡魔で霞む目をこすりながら、必死にペンを動かし続けていた。
その狭い部屋の床やベッドの上には、文字通り足の踏み場もないほどに、ミソラの「大家族」たちがひしめき合っていた。
「デデ……」
「チタタ……」
ミソラの足元では、デデンネとオタチが心配そうに彼女の素足をそっと毛並みで温めている。ベッドの上では、ピカチュウを筆頭に、プラスルとマイナン、エモンガが、いつもなら部屋中を飛び回ってワチャワチャと騒ぐはずの電気袋たちも、今夜は静かに身を寄せ合い、ペンを走らせるミソラをじっと見つめていた。
エネコロロのふわふわの尻尾にじゃれついていたニャスパー兄妹も、今夜は大人しく耳を伏せ、リーシャンは鈴の音を立てないようにそっと身を縮めている。マリルリやクチート、古代の面影を残すアマルスも、部屋の壁際に座り込んで主人の背中を見守っていた。
いつもなら「ミソラ、遊んで!」と甘えるはずのガルーラの子供も、今夜は母親のポケットの中から静かに顔を出し、母親の大きな手がその頭を優しく撫でる。
みんな、分かっていたのだ。自分たちを本当の子供のように猫可愛がりしてくれた優しい「おかーちゃん」が、今、自分たちの命を守るために、限界を超えて泥をすすりながら戦おうとしていることを。
――パサッ。
ベランダへと続く窓が少しだけ開き、夜風と共に数匹の影が月光の差すテラスへと出た。
部屋の中が手狭な大型のラプラスやリザードン、ルカリオたちは、外の広い敷地やテラスから静かに気配を伺っている。
テラスの手すりには、アズール湾での麻痺の恐怖を振り払うように、羽ばたきのイメージトレーニングを繰り返すヒノヤコマ。その横には、進化したばかりの漆黒の身体を月光に濡らすブラッキーと、大黒柱であるマフォクシーが佇んでいた。
そして、その輪から少し離れた宿の屋根の上に、月光を浴びて孤高に佇む白い影があった。アブソルだ。
ショウヨウジムをはじめ、数々の修羅場をその圧倒的な『個人技』で強引に突破してきた大家族の絶対的エース。
アブソルは、鋭い赤い瞳で、部屋の中で必死にペンを握るミソラの小さな手元をじっと見つめていた。
(フン……あいつ、随分と張り切ってるな)
ポケモンたちにしか分からない言語で、アブソルが鼻で笑うように呟いた。
(今更、柄にもない頭脳戦の真似事か。フクジだか何だか知らないが、あの老いぼれジムリーダーに言われたくらいで、あんなに自分を追い詰めやがって)
その冷たい言い草に、テラスのブラッキーが少し怒ったように「ブラァッ!」と低く唸り、ルカリオも鋭い眼光でアブソルを睨んだ。部屋の入り口にいたリザードンが低く喉を鳴らす。ミソラは僕たちのために必死なんだ、と。
仲間たちの無数の視線を浴びて、アブソルはフイッと顔を背けた。自慢の角を月夜に尖らせながら、ふん、と小さく息を吐き出す。
(……別に、あいつが賢くなるのを否定しちゃいないさ。無策のせいで、二度とあいつに涙を流させるわけにはいかないからな。……だが)
アブソルは、もう一度だけ、部屋の明かりの中でペンを握るミソラの小さな手を見た。
その手は、バトルの指示は下手くそだったけれど、傷ついた自分たちをいつだって涙を流しながら抱きしめ、本当の子供のように温かく撫でてくれた、世界で一番優しい手だ。
アブソルは屋根の上に寝そべり、誰に聞かせるでもなく、ボソッと本音を漏らした。
(……けど、俺はミソラのあの甘さ、嫌いじゃないぞ。というか……好きだぞ)
ツンとした態度の中に隠しきれない、絶対的な信頼と愛。
その不器用な一言は、静かな夜の空気に溶けて、テラスの仲間たち、そして部屋の中にいる全てのポケモンたちへと伝播していった。
ピカチュウが小さく微笑み、プラスルとマイナンが顔を見合わせる。ラプラスが愛おしそうに目を細め、ガルーラ親子も静かに頷いた。
そうだ。ミソラのあの猫可愛がりの優しさ、甘さがあったからこそ、自分たちは救われ、この総勢21匹の『大家族』になったのだ。彼女がどれだけ知略を身につけ、冷徹な指揮官になろうとも、その根底にある「家族への愛」が変わらないことを、ポケモンたちは誰よりも知っていた。
「マフォ!」
マフォクシーが小さく、しかし力強く声をかけると、部屋の中と外のポケモンたちが一斉に立ち上がった。
主人が夜を徹して自分たちのための戦術を練っているなら、自分たちもそのシステムの一部として、完璧に動ける肉体を作らねばならない。
「ブラッ!」
ブラッキーが不敵に瞳を輝かせ、ヒノヤコマが静かに闘志の炎を爆発させる。クチートが顎を鳴らし、ルカリオが波導を研ぎ澄ます。
部屋の窓から差し込む明かりと、夜空を照らす美しい月光。
総勢21匹の大家族の愛に守られながら、お飾りと呼ばれた美少女と、彼女を心から愛するポケモンたちの、血の滲むような特訓の夜は更けていく。