VTuber業界って、穏やかじゃないですね?   作:エクシーク

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プロローグ:コミュ障、Vtuberの運営になった件

 

遠藤アオは、目を合わせるのが苦手だった。

 

どれくらい苦手かと言うと、コンビニで店員さんに「袋いりますか?」と聞かれただけで、視線がレジ横のホットスナックケースに吸い寄せられ、そのまま唐揚げ棒と魂の交流を始めてしまうくらいには苦手だった。

 

「……あ、え、えっと……だ、大丈夫、です……」

 

声は出る。

一応、出る。

ただし、相手の目を見た瞬間、喉の奥に住んでいる小さな門番が「本日の営業は終了しました」と札を下げる。

 

結果として、アオの言葉はだいたい半分くらい消える。

消えた半分は、たぶん異世界に転生している。

 

「お姉ちゃんさぁ」

 

家に帰るなり、妹の遠藤妹が呆れた顔で言った。

 

「またレジでフリーズしたでしょ」

 

「し、してない」

 

「じゃあなんで袋もらってないのに、商品を腕で抱えて帰ってきてるの」

 

「……レジ袋代、もったいないなって……」

 

「いや、そんなん3円とかでしょ。毎回余計なもん買ってくるくせに何言ってんだか」

 

「ぐっ」

 

妹は容赦がなかった。

妹という生き物は、姉の尊厳を節約対象に含めない。

必要なときに必要なだけ削ってくる。

 

けれど、アオはそんな妹を嫌いではなかった。

というより、家族以外とまともに会話できないアオにとって、妹は数少ない安全圏だった。

 

安全圏。

セーブポイント。

話しかけてもゲームオーバーにならない貴重な人類。

 

「でもさ」

 

私は地面を拭きながら、ふと顔を上げた。

 

「お姉ちゃん、声だけはほんと一級品なんだけどね」

 

「……声、だけ」

 

「そこ拗ねるとこじゃないよ。褒めてるから。ちゃんとしてれば声優とか目指せたんじゃない?」

 

「ちゃんとしてればって……」

 

————声だけは。

昔から、そう言われることがあった。

 

家族には。

妹には。

 

けれど、学校でも、バイト先でも、誰かの前に立った瞬間、その声はどこかへ逃げていった。

本当の声は、いつも自分の中にだけ響いていた。

誰にも届かない場所で、ひっそりと。

 

だからアオは、自分の声を武器だと思ったことがなかった。

武器というより、抜けない剣だった。

伝説の剣。

ただし台座から一ミリも動かない。

 

持ち主がコミュ障すぎるせいで。

 

 

その夜、アオは何となくネットを眺めていた。

おすすめ欄に流れてきた動画を、ぼんやりと見ていた。

 

ゲーム実況。

歌ってみた。

切り抜き。

動物動画。

猫が箱に突撃して失敗する動画。

 

そして、その中に、一つだけ妙に目を引く配信があった。

画面の中で、ひとりのVtuberが笑っていた。

 

透き通った声だった。

水面に月明かりが落ちるみたいに、静かなのに、すっと胸の奥まで届く声。

それでいて、リスナーとのやり取りは軽やかで、コメント欄は恐ろしい速さで流れている。

 

『えー? それはさすがに私悪くなくない? 今のはゲーム側が空気読んでなかっただけでしょ!』

 

コメント欄が笑いで埋まる。

 

『ちょ、待って待って! みんな今の見た!? 見たよね!? 私だけが悪いみたいな空気やめよ!?』

 

また笑いが流れる。

アオは画面を見つめたまま、息をするのを忘れていた。

すごい、と思った。

この人は、何万人もの視線を浴びながら、ちゃんと笑っている。

ちゃんと喋っている。

ちゃんと、そこにいる。

 

アオなら、三人に見られた時点で心臓が退職届を出す。

十人なら内臓が労働組合を結成する。

なのに、彼女は。

 

画面の向こうの彼女は、とても眩しかった。

 

「……私も」

 

思わず、声が漏れた。

 

「私も、あんなふうに……なれたら」

 

その瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。

 

――あんなふうになれたら。

 

今まで、そんなことを本気で考えたことはなかった。

変わりたいとは、ずっと思っていた。

でも、それは雨が止んでほしいとか、朝起きたら人類が全員ちょっと優しくなっていてほしいとか、そういう現実味の薄い願望に近かった。

 

けれど、画面の向こうにいる彼女を見ていると、その願いに形ができてしまった。

 

Vtuber。

姿を出さなくてもいい。

本名を出さなくてもいい。

顔も、住んでいる場所も、現実の自分も、すべて表に出す必要はない。

むしろVtuberタレントの本名や個人情報は、絶対に表に出してはいけないものだ。

事務所にとっても、それは最重要機密の一つ。

外部の人間がタレントの中身を知ることなんて、基本的にはありえない。

 

だからこそ、アオは思ってしまった。

それなら。

こんな自分でも、声だけなら。

中身の自分を隠したままなら。

もしかしたら、誰かに届くかもしれない。

 

数日後。

アオは、大手Vtuber事務所のオーディション応募フォームを前に、マウスを握りしめていた。

手汗でマウスがしっとりしている。

マウスからしたら迷惑な話である。

 

「……送る。送るだけ。送るだけだから。応募ボタンは爆発しない。多分。いや、もしかしたら精神的には爆発するかもだけど、物理的にはしない」

 

独り言が止まらない。

独り言は得意だった。

相手がいない会話なら、アオはわりと饒舌だった。

人類さえいなければ、私はそこそこ喋れる。

それは果たしてコミュニケーション能力と言えるのか。

言えない。

知ってる。

 

「お姉ちゃん、まだ押してないの?」

 

背後から妹の声がした。

 

「ひゃっ」

 

アオは飛び上がった。

 

「ノック! ノックして!」

 

「したよ。三回。返事なかったけど」

 

「私の魂が返事してたかもしれないじゃん……!」

 

「分かるかぁそんなもん」

 

妹は呆れながら画面を覗き込んだ。

そして、応募フォームの一番下にある送信ボタンを見て、にやりと笑った。

 

「押しなよ」

 

「無理」

 

「判断が早い」

 

「だって、送った瞬間、世界が変わるかもしれないし」

 

「……変えたいんじゃないの?」

 

「それは……そうだけど……」

 

妹はアオの肩に手を置いた。

珍しく、からかうような声ではなかった。

 

「声は、本当にいいんだからさ。出してみなよ。外に」

 

アオは画面を見た。

応募ボタンが、そこにある。

小さな四角。

でも、今のアオには、断崖絶壁の向こう側にある橋みたいに見えた。

 

怖い。

怖すぎる。

でも。

 

画面の向こうで笑っていた、あのVtuberの声が頭をよぎった。

あんなふうに、誰かを笑わせられたら。

あんなふうに、誰かの時間を少しだけ明るくできたら。

アオは目をぎゅっと閉じて、クリックした。

 

送信完了。

その四文字が表示された瞬間、アオは椅子の上で固まった。

 

「……送っちゃった」

 

「送ったね」

 

「……世界、変わるかな」

 

「まずはお姉ちゃんが風呂入るところから変えようか」

 

「厳しいって」

 

「厳しいんだ……」

 

そして、オーディション当日。

アオは会場の前で、すでに帰りたくなっていた。

 

早い。

まだ受付もしていない。

だが、帰りたい。

入口から漂ってくる「ちゃんとした人たちが集まっています」感に、アオの自尊心が秒で蒸発していた。

 

周囲には、応募者らしき人たちがいた。

明るそうな人。

すでに隣の人と仲良くなっている人。

自己紹介の練習をしている人。

 

なぜみんなそんなに生命力が高いのか。

アオは心の中で思った。

ここはオーディション会場ではなく、陽キャの品評会なのでは。

 

だとしたら私はなぜここにいる。

展示ミス?

 

「次の方、どうぞ」

 

スタッフに呼ばれ、アオは面接室へ入った。

目の前には、複数の面接官。

 

机。

椅子。

静かな空気。

そして、こちらに向けられる視線。

 

アオの喉の門番が、即座に札を下げた。

ごめん、妹よ。私、もうダメみたい。

 

「遠藤アオさんですね。まずは簡単に自己紹介をお願いします」

 

「あ、え、えっと……遠藤、アオ、です……その……あの……声、が……」

 

声が小さい。

自分でも分かった。

持ち前の一級品の声とやらは、どこにもいなかった。

今ここにいるのは、布団の中から出たくない朝の声だった。

 

「Vtuberを志望した理由を教えてください」

 

「えっと……その……配信を、見て……すごく、きれいで……あ、いえ、声が……声というか、存在が……その、私も……あ、でも、私なんかが、とか、そういう……すみません……」

 

喋れば喋るほど、言葉が絡まっていく。

毛糸玉が猫に襲撃されたみたいになっていく。

 

「あの、緊張されていますか?」

 

「はい」

 

即答だった。

そこだけは、非常に明瞭だった。

 

面接官たちが微妙に優しい顔をした。

優しい顔。

その優しさが、逆に痛い。

 

アオは悟った。

落ちた。

これは落ちた。

もう今この場で、合否通知の幻聴が聞こえる。

 

残念ながら、今回はご縁がありませんでした。

ご縁。

ご縁ってなんだろう。

私と社会の間には、たぶん最初から縁が結ばれていない。

 

その後の実技も、惨敗だった。

用意していた台詞は飛び、自己PRは消え、質問への返答はだいたい「あ、えっと」と「すみません」で構成された。

 

一級品の声?

知らない子ですね。

結果は、ほとんどその場で察せるものだった。

 

正式な通知を待つまでもない。

 

残当。

圧倒的残当。

ですよねー、という感想しか出てこなかった。

会場を出たアオは、肩を落として歩いていた。

 

「……やっぱり、変われないのかな」

 

小さく呟いた声は、雑踏にすぐ飲み込まれた。

 

憧れは、遠かった。

想像していたよりもずっと遠くて、しかも自分の足は、思っていたよりずっと遅かった。

いや、遅いどころではない。

 

スタート地点で靴紐を結ぼうとして転んでいる。

そんな自分が、誰かの前で輝くなんて。

やっぱり、無理だったのかもしれない。

 

「――ねぇねぇ」

 

背後から声がした。

アオはびくっと肩を跳ねさせた。

 

振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。

柔らかそうな雰囲気の人だった。

 

穏やかな表情。

全体的に、春の昼下がりに干した布団みたいな空気をまとっている。

 

「あ、あの……わ、私、ですか……?」

 

「うん。遠藤アオちゃん、だよね~?」

 

名前を呼ばれた。

アオの脳内で警報が鳴った。

 

なぜ知っている。

いや、オーディション会場なのだから知っていてもおかしくはない。

でも、急に名前を呼ばれると、心臓が一回転する。

 

「あ、はい……そう、です……」

 

女性はにこりと笑った。

 

「少し、お話してもいい~?」

 

「えっ。あっ。はい。えっと、私、何か落としましたか? 自尊心ならさっき会場に置いてきたんですけど……」

 

「ふふ。そういうものは、拾って帰った方がいいかも~」

 

笑われた。

でも、不思議と嫌な感じはしなかった。

女性の笑い方は、アオを馬鹿にするものではなかった。

つい口から出た変な言葉を、柔らかく受け止めてくれるような笑い方だった。

 

「あのさ、さっきの面接をみてたんだけど」

 

「うっ」

 

アオはその場で縮んだ。

できればその記憶ごと消えてほしい。

 

面接を見られていた。

あの地獄を。

あの「あ、えっと」製造機と化した自分を。

 

「す、すみません……お見苦しいものを……」

 

「うんうん。たしかに、とても見てられるものじゃなかったけど」

 

「ぐはっ」

 

「まぁ、流石にアレじゃあタレントとして迎えろっていうのは、ムリだよね~」

 

「はい……ですよね……」

 

「でも」

 

女性は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「キミのVtuber業界への憧れとか熱意、心意気は十分に伝わったよ。それに――」

 

アオは顔を上げた。

 

「……え?」

 

「緊張で全然声出てなかったけど、実は意外と綺麗な声だったりするんじゃない?」

 

胸の奥が、変なふうに跳ねた。

褒められた。

妹以外に。

家族以外に。

自分の声を、誰かが聞いてくれた。

 

「……だからさ」

「運営サイドからウチに貢献してみる気はない?」

 

「……うんえい、さいど」

 

アオは言葉を繰り返した。

 

運営。

裏方。

タレントではない。

配信する側ではなく、支える側。

 

それは、アオが思い描いていた未来とは違っていた。

けれど。

 

「あ、これ。名刺渡しとくね。何か聞きたいことあったら、いつでも連絡ちょうだいね」

 

女性は名刺を差し出した。

そこには、綺麗な文字で名前が印刷されていた。

 

清白 メイカ。

VSP――Virtual Stage Production所属。

 

今となっては知らない者はいない、超大手のVtuber事務所だ。

 

その下に、連絡先。

アオは名刺を両手で受け取った。

手が震えていた。

 

「あ、あの……でも、私、全然、その、人と話すのとか、無理で……さっきも、あんな感じで……むしろ、あんな感じが通常営業で……」

 

「うん」

 

「うんなんだ……」

 

「でも、運営のお仕事にもいろいろあるし。資料作り、企画補助、収録準備、タレントのサポート。人前に立つことだけが、Vtuber業界への関わり方じゃないと思うよ~?」

 

清白は、ふんわりと微笑んだ。

 

「キミのその憧れを、別の形で使ってみる気はない?」

 

アオは、答えられなかった。

突然すぎた。

落ち込んで、帰って、布団に潜り込み、今日の面接を思い出して三日くらい呻く予定だった。

 

なのに、急に別の道を示された。

心が追いつかない。

脳内の処理能力が足りない。

古いパソコンで最新ゲームを起動したみたいに、ファンが全力で回っている。

 

「……す、すみません」

 

アオは名刺をぎゅっと握った。

 

「この話、一旦……持ち帰らせて、ください」

 

「おっけー」

 

清白は、少しも嫌な顔をしなかった。

ていうかおっけーって。

 

「ゆっくり考えなよ。急がなくてもダイジョーブ」

 

「……ありがとうございます」

 

頭を下げる。

視線は、やっぱり合わせられなかった。

けれど、胸の奥には、不思議な熱が残っていた。

 

落ちたはずなのに。

終わったはずなのに。

何かが、まだ続いている気がした。

 

 

家に帰ると、妹がリビングでアイスを食べていた。

 

「おかえり。どうだった?」

 

アオは無言で靴を脱いだ。

そして、無言でリビングに入り、無言でソファに座った。

妹が察したように頷く。

 

「落ちたか」

 

「まだ正式には落ちてないけど、実質落ちたようなもん」

 

「まぁそうだよね」

 

「でも、別の話をもらった」

 

「別の話?」

 

アオは名刺を差し出した。

妹がそれを見た瞬間、目を見開いた。

 

「え、これ、VSPの人の名刺?なんで?」

 

「あ、うん……タレントは無理だけど、裏方として貢献してみないかって」

 

妹はまじまじと名刺を見つめた。

 

「運営スタッフに誘われたの?」

 

「まぁ……そういうことになるのかな?」

 

「すごいじゃん」

 

「すごいのかな」

 

「いやすごいでしょ。普通に」

 

アオは膝の上で手を握った。

本当は、清白に言われた時点で、もう答えは決まっていた。

持ち帰らせてほしいと言ったのは、考える時間がほしかったからではない。

あの場で即答する勇気がなかっただけだ。

 

もしその場で「やります」と言ったら、声が裏返って、転んで、名刺を落として、ついでに人生も落としそうだった。

 

だから持ち帰った。

けれど、腹は決まっていた。

 

自分が憧れたVtuberにはなれない。

少なくとも、今の自分では。

大勢の前で笑って、話して、誰かの心を掴むなんて、まだ遠すぎる。

 

でも。

こんな自分を、見てくれた人がいた。

声を聞いてくれた人がいた。

憧れを、別の形で使ってみないかと言ってくれた人がいた。

 

なら。

 

「……やってみたい」

 

アオは小さく言った。

妹はアイスのスプーンを止めた。

 

「うん」

 

「怖いけど」

 

「うん」

 

「絶対、いっぱい失敗するけど」

 

「それは知ってる」

 

「いや、そこは身内として否定してよ」

 

「現実は受け止めよう」

 

「妹が厳しい」

 

それでも、アオは笑った。

ほんの少しだけ。

そして自室に戻り、机に名刺を置いた。

パソコンを開く。

メール画面を開く。

 

宛先に、名刺の連絡先を入力する。

手が震える。

文章を打っては消し、打っては消し、最終的に三十分かけて完成したメールは、びっくりするほど短かった。

 

『本日はお声がけいただき、ありがとうございました。運営スタッフのお話、ぜひお受けしたいです。よろしくお願いいたします』

 

読み返す。

硬い。

めちゃくちゃ硬い。

文章から緊張が漏れている。

でも、今のアオには、これが精一杯だった。

 

「……送る」

 

今度の送信ボタンは、前より少しだけ小さく見えた。

怖いことに変わりはない。

でも、押せないほどではなかった。

 

クリック。

送信完了。

 

アオは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。

胸がどきどきしている。

 

不安で。

期待で。

そして、少しだけ、嬉しくて。

 

数日後。

正式な連絡が届いた。

 

遠藤アオは、晴れてVSPの運営スタッフの一員となることが決まった。

Vtuberタレントたちの本名も、素顔も、個人情報も、絶対に外に漏らしてはいけない。

そのすべては、事務所にとって最重要機密。

アオは表舞台に立つわけではない。

 

きらきらしたアバターをまとって、リスナーの前で笑うわけでもない。

けれど、憧れた世界の扉が、ほんの少しだけ開いた。

そこから差し込む光は、画面越しに見たあの声と同じくらい眩しかった。

 

「……が、がんばろう」

 

誰に聞かせるでもなく、アオは呟いた。

その声は、まだ小さかった。

けれど、確かに外へ向かっていた。

そしてこのときのアオは、まだ知らない。

 

VSPという場所が、想像以上に騒がしくて。

タレントたちが、想像以上に自由で。

運営スタッフという立場が、想像以上にシビアで。

しかもなぜか、女の子たちとの距離感が、想像以上に近すぎるということを。

 

遠藤アオの青春は、この日、静かに始まった。

本人の希望とは裏腹に、まったく静かでは済まない方向へ。

 

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