VTuber業界って、穏やかじゃないですね? 作:エクシーク
VSPのオフィスは、思っていたよりも普通だった。
いや、普通というのは語弊がある。
入口にはおしゃれなロゴがあり、受付には観葉植物が置かれ、壁には所属タレントのキービジュアルが大きく飾られている。
会議室のガラスはぴかぴかで、廊下を歩くスタッフたちはみんな忙しそうで、なのにどこか楽しそうで、空気全体が「ここでは常に何かが動いています」と言っているようだった。
つまり、アオにとっては全然普通ではなかった。
すごい。
きれい。
広い。
人が多い。
帰りたい。
入社初日の感想は、だいたいこの五単語に集約された。
「ここが企画運営チームのフロアだよ~」
前を歩く清白メイカが、いつものふわふわした声で言った。
「は、はい……」
アオは小さく返事をした。
声は出た。
一応、出た。
ただし、音量は虫の羽音レベル以下だった。
その辺で飛んでるハエのプゥ~ンに負ける自信があった。
今日から、私はここで働く。
VSPの運営スタッフとして。
あの憧れたVtuberたちを、表に出ない場所から支える側になる。
そう考えると、胸の奥が少し熱くなる。
同時に、胃のあたりが冷たくなる。
熱さと冷たさが同居している。
サウナと水風呂が隣接している感じだ。
何かが整いそう。
「おーい、みんなー。新しく入る遠藤アオちゃんだよ~ん」
清白がフロアの一角で声を上げた。
その瞬間、数人のスタッフがこちらを向いた。
アオの心臓が止まった。
いや、止まってはいない。
止まっていたら今ごろ労災である。
しかし、体感としては一回終了した。
視線。
視線が多い。
正面から横から斜めから、人類の視線が飛んでくる。
アオは反射的に清白の半歩後ろに隠れた。
半歩。
全然隠れられていない。
むしろ「隠れようとしている新人」として視認性が上がった。
「あ、あの……遠藤、アオ、です……えっと、その……本日から、お、お世話に、なります……」
言えた。
最後まで言えた。
途中で声が細くなりすぎて、空気清浄機の動作音に飲まれそうだったが、言えた。
アオは心の中で自分に拍手した。
よくやった。
初日にしては上出来。
たぶん。
シランケド。
「よろしくね、遠藤さん」
「困ったら何でも聞いてね」
「最初は覚えること多いけど、無理しないで」
優しい声がいくつも飛んできた。
ありがたい。
本当にありがたい。
ありがたいのに、アオはそのすべてにうまく返せなかった。
「あ、は、はい……ありがとうございます……すみません……」
なぜ謝った。
自分でも分からない。
感謝の直後に謝罪が出る。
アオの会話エンジンは、ギアの位置がおかしい。
ありがとうの隣にすみませんが常駐している。
「じゃあ、チームの人に順番に挨拶していこっか~」
「は、はい……」
清白に連れられて、アオは一人ずつスタッフを紹介されていった。
スケジュール管理を担当している人。
配信素材の確認をしている人。
収録やイベントの進行管理をしている人。
タレントとの連絡窓口を担当している人。
いろんな役割があって、それぞれが同時に動いている。
Vtuberの配信というものは、画面に映るタレントだけで成り立っているわけではない。
企画を考える人がいる。
権利関係を確認する人がいる。
スケジュールを組む人がいる。
配信トラブルに備える人がいる。
そして何より、タレントの個人情報を守る人たちがいる。
本名、住所、連絡先、生活圏、家族構成。
そういったものは、絶対に外へ出してはいけない。
VSPにとって、それは単なる個人情報ではなく、タレントの安全そのものだった。
アオは説明を聞きながら、何度も頷いた。
頷きすぎて、途中から首が餅つき機みたいになっていた。
「で、こっちが姫野ミカンちゃん」
清白が、ひとりの女性の前で足を止めた。
その人は、デスクに肘をつきながら、モニターを睨んでいた。
髪は明るめで、表情は少し鋭い。
雰囲気はがさつというか、ざっくりしているというか、ものすごく雑に言うなら「この人、絶対にエナジードリンクを常備している」という感じだった。
「あー? 新入り?」
彼女は顔を上げた。
目が合った。
アオは即座に目を逸らした。
視線は床へ。
床、こんにちは。
今日は清潔感があって良きですね。
少なくとも、まともにお風呂に入らない私よりかは。
「え、えっと……と、遠藤、アオ、です……きょ、今日から、その……お世話に、なります……」
「……声ちっさ」
「ひゃい」
噛んだ。
しかも「はい」ではなく「ひゃい」になった。
アオは心の中で床に埋まりたいと思った。
できればそのままフロアの下層階まで行きたい。
「ん、姫野ミカン。一応ここの運営スタッフ。まあ、あんたの先輩みたいなもん」
「は、はい……姫野、さん……よろしく、お願いします……」
「おう」
姫野は短く返した。
それ以上は特に何も言わなかった。
ただ、じっとアオを見ていた。
アオには分かった。
これは、観察されている。
いや、観察というより、品定め。
まな板の上の魚。
いや、魚ならまだいい。
今の自分は、まな板に乗ったまま震えている豆腐だ。
包丁が入る前から崩れそうな豆腐。
絹ごし。深刻なニガリ不足。
「スズちゃん」
姫野はアオから視線を外し、清白を見た。
「この子が、例の?」
「うん。私が声かけた子~」
「へえ」
その「へえ」には、いろんなものが含まれていた。
へえ。
この子が。
へえ。
本当に?
へえ。
マジで?
アオの脳内翻訳機は勝手に仕事をした。
やめてほしい。
翻訳しなくていい。
しかも大体合っていそうなのが嫌だった。
「心配御無用だよ、アオちゃん。こう見えてミカンちゃんって、実はとっても世話焼さん太郎なんだ~」
「……はぁ?何だよ世話焼さん太郎って。人を駄菓子みたいに……」
「じゃあ、キャベツ太郎?」
「だから駄菓子じゃねぇって」
「タラタラしてんじゃねぇよ!」
「してねぇよ!シバくぞコラ!」
姫野が突っ込むと、清白はふふっと笑った。
アオはそのやり取りを見ながら、すごいと思った。
会話のテンポが速い。
いや、この場合ボケとツッコミというべきか。
ボケが行って、ツッコミが返って、またボケが行っている。
やり取り自体は乱雑だが、これもまた2人の信頼関係によるものなのだろう。
何だか羨ましい。
「じゃあアオちゃん、まずはミカンちゃんについて資料整理からお願いしようかな~。現場の流れも見られるし」
「は、はい……!」
「ミカンちゃん、よろしくね~」
「あ~はいはい」
清白が去っていく。
アオは取り残された。
姫野と二人。
正確には周囲にスタッフはいる。
でも、心理的には二人。
密室ではないのに密室感がある。
アオは机の横で固まった。
置物になりたい。
観葉植物になりたい。
水だけもらって静かに光合成していたい。
「……突っ立ってないで、こっち来な」
「あ、はいっ」
姫野に言われ、アオは慌てて近づいた。
慌てすぎて、椅子の脚に足をぶつけた。
「いっ……」
「大丈夫かよ」
「だ、大丈夫です……椅子の方が……」
「椅子の心配すんな」
姫野が少しだけ眉を上げた。
そして、すぐにモニターを指差した。
「これ、今週末の企画配信の確認資料。タレント名、配信枠、コラボ相手、使用素材、権利チェック、全部紐づけてある。まずはこの一覧を見て、抜けがないか確認する」
「は、はい……」
「あと、タレントの本名とか個人的な情報は、たとえ内部資料にあっても必要ない場所には絶対書かない。外に出す資料には当然載せない。スクショ、共有リンク、ファイル名、全部気をつけること」
「はい……」
アオは真剣に頷いた。
ここだけは、絶対に間違えてはいけない。
Vtuberタレントは、表に立つ存在だ。
けれど、表に出しているのはあくまで活動上の姿であって、現実のすべてではない。
その境界線を守るのが、運営の仕事でもある。
アオはそこに、強い責任を感じていた。
自分は表に立てなかった。
でも、表に立つ人たちを守ることなら、できるかもしれない。
「じゃ、これ見て。分からないとこあったら聞け」
「は、はい……!」
アオは席に座り、資料を見始めた。
タレント名。
企画タイトル。
素材確認。
権利表記。
サムネイル案。
告知文。
配信枠の時間。
想像以上に項目が多い。
画面の情報量がすごい。
目が滑る。
頭が追いつかない。
アオの脳内で、小さなアオたちが会議を始めていた。
まずいです、隊長。
情報量が多すぎます。
落ち着いて。ひとつずつ処理するんだ。
ひとつずつってどれからですか。
知らない。
解散。
脳内会議が役に立たない。
それでも、アオはメモを取った。
分からない単語を書き出す。
ファイル名のルールを書く。
確認済みの項目に印をつける。
抜けがありそうな部分は、すぐに聞けるようにまとめる。
緊張で手は震えている。
姫野に質問するたびに、心の中で1回深呼吸が必要になる。
いや、やっぱ3回。
でも、聞かなければ仕事にならない。
「ひ、姫野さん……すみません……この、素材確認のところなんですけど……」
「あ? どれ」
「こ、これ……使用許諾の欄が空欄なんですけど、前回の企画資料には、同じ素材に確認済みって書いてあって……今回も、そのまま使っていいものなのか、それとも企画ごとに再確認が必要なのか……」
姫野は少しだけ目を細めた。
「……そこ気づいたのか」
「えっ。あ、す、すみません、変なこと聞きましたか……?」
「いんや。そこは再確認。素材自体は同じでも、使う企画内容が変わると条件変わることがあるから」
「な、なるほど……ありがとうございます……」
アオは急いでメモした。
「あ……それと、姫野さん……」
「ん?なに」
「あの……ここの告知文、タレントさんの配信内での口癖を入れているんですけど……これ、本人確認前に出しちゃうと、その……意図と違うキャラ付けになったり、しませんか……?」
姫野の指が止まった。
「へぇ……お前、中々鋭いな」
「あ、す、すみません……余計なことを……」
「余計じゃねぇって。そこは本人確認いる。よく気づいたな」
「えっ……」
褒められた。
たぶん。
口調は荒い。
顔も少し怖い。
でも、今のは褒められた気がする。
アオの中の小さなアオたちがざわめいた。
これは褒めですか。
褒めであってほしい。
いや、油断するな。罠かもしれない。
職場で罠って何。
分からない。人類は怖い。
やっぱり脳内会議は役に立たなかった。
「お前、さっきからすぐ謝るな」
「す、すみま――あっ」
「ほら」
姫野が指を差した。
アオは口を押さえた。
「ご、ごめ……あっ」
「二段構えやめろ。燕返しすんな」
「あ、はい……」
なぜか、姫野が吹き出した。
「ぶはっ」
「えっ」
「謝罪の燕返しって、なんだそれ。自分で言っといてなんだけど、なんだそれ」
姫野は肩を震わせて笑っていた。
アオは固まった。
笑いのポイントが分からない。
今、何が面白かったのだろう。
謝罪?
燕返し?
それとも私の存在?
最後だったらちょっと泣く。
「お前、なんか動きが変だな」
「そ、それは……よく言われます……」
「だろうな」
「にべもなし……」
また姫野が笑った。
笑いの沸点が低い。
低すぎる。
床に置いたら沸騰しそう。
初日のアオは、とにかく必死に仕事を覚えた。
資料整理。
スケジュール確認。
会議の議事録。
配信素材のチェック。
タレントへの確認事項のまとめ。
どれもこれも、アオにとって初めてのことばかり。
結局そのまま、新しい単語とのキャットファイトで初日を終えてしまったのだった。
本日のおさらい――
初出勤を迎えてまもなく。
情報量に溺れ。
脳が薄焼きせんべいみたいになり。
家に帰って妹に「顔が死んでる」と言われ。
そのまま布団に入ってエンドロール。
――チャンチャン。