前書きを借りて明記しますのは、更新再開の決意ならびに二度とこれほどの更新の遅延を招かないことです。
それでは、安心してこの物語をお楽しみいただければと思います。
関わるべきではない。
己の身を案ずるならば。
でも、関わらざるを得なかったのだ。
境遇は比べ物にならないが、等しいくらいの孤独感は知っているから。
でも、それでも、関わるべきではなかったのだと思う。
・・・五話『横行』
あまりに間の悪い停電。いや、間が悪いにしたって、あまりに不自然すぎる。
記憶の断片を取り戻した黒。彼女はそのきっかけを指差し、それを例の出来事の──言ってしまえば怪異の前触れだと明言した。微かな記憶と同時に、微かな恐怖を思い出したような震えた声で。
直後の、停電。
俺はとっさに月を見上げようとし、それは違うと思い直し、すぐさま玄関に振り返る。突然の暗闇に戸惑う視界を、目を凝らして無理やり現状に追いつかせ、ブレーカーを確認する。
異常は無い。
そこでようやく、月こそがいま俺が確認すべきものだと気付く。舌打ちして月を見ようと筋を痛める勢いで首を回す。その途中、ぶれる視界の中で硬直している黒を捉えたかと思いきや、月を視界に収めた時点で俺は黒を抱えていた。
理由をいえば、それは本能的な──そう、理性によって落ち着かせるというよりは、本能的に守ろうとしたのだ。身体が。勝手に。
月はあった。
団子のような、丸い月。
その裏は、地球から見ている姿とは比べ物にならないほど醜い姿だと聞く。
しかし今の精神状態では、古くから多くの絵師が画角に入れたがったその美しい満月すらも、俺には邪気に満ちた闇に浮かぶ異質な光源にしか見えなかった。
いや、たしかに美しいのだ。
薄ら黄色くて、穴のかげりが地球の外側の世界の壮大さを感じさせる。
真に異質なのは、その球体に被さるようにして居る──黒い何か。
それを凝視した──いや、凝視してしまった俺は、心臓が叫ぶほどに波打つ感覚を覚えた。悲鳴を上げたのだ。喉ではなく、心臓が。
苦しさとは似て非なる苦しさ。
何か得体の知れない力によって、無理に操られているかのような。それも、内部から圧迫され、今にも張り裂けそうだ。呼吸など関係なく、ただ形だけが暴れ、しかしそれに呼応するように息は俺の口や鼻から勢いをもって逃げ出していく。
まもなく、全身で必死に喘がなければ最低限の酸素も取り込めないほどの息苦しさが襲ってきた。
尋常でないほどの動悸。
不思議なことに、汗は一滴もあふれない。もはやそんな余裕さえ無いのか。
唐突なる異常事態。
満月に浮かぶあれを見たら、こうなった。
なぜあれを見たらこうなったのか、それは分からない。
原因不明。分かるようで、まったく分からない。
とにかく荒れ狂う心臓を抑えることだけに一つしか無い脳を持っていかれてしまい、四肢から力が抜け、黒を巻き込んでその場に倒れこむ。座るほどの余力などとっくに削がれており、踏ん張ることもできず、床に這い蹲ることを余儀なくされた。
黒もまた、あれを見てしまったのだろうか──息切れに身もだえ、必死に喘いでいる。
意地でも黒は手離すまいと、痙攣の止まらない手をやっとの思いで彼女に差し出す。寝返った黒は、藁同然のその手を焦点の合わない瞳で見止めると、縋るように己も手を伸ばした。
しかし、二人が手を重ねることは叶わなかった。
指どうしが触れるまで数センチも無いところまで近づいたところで、黒の手が急速に離れていったのだ。手どころか、黒の身体が。まるで引っ張られるように。
とことん己の意思に反する状況。己の願望に反する状況。
まだ幼い少女は、それに対し、なす術も無くただ泣き叫ぶことしかできない。息も絶え絶えの中、恐怖一色に染められた表情に大粒の涙を浮かべ、搾り出すように俺の名を何度も呼んでいる。
当の俺も、なす術は無かった。もはやミリ単位に動かすことすらやっとの体。それでもなお届かぬ腕だけは伸ばしつづけ、自分がつけた少女の名をただただ叫ぶ。
現実感だらけの悪夢は終わらない。
黒の身体が浮かび上がった。吊りあがったという表現のほうが正しいだろうか。糸繰り人形のように。しかしながら、相変わらず黒の周りには何もなく、何もおらず、黒がひとりでに浮いているようにしか見えないのだ。
己の身に起こる、あまりにも非現実的な現象。
次の瞬間、黒は、それが自分の命を刈り取ろうというつもりであることに気付いた。
黒はすこし顎を上げて目を見開いたかと思うと、首辺りに手をやり、喘いだ。もはや声ではない。息。息すらも、満足に彼女の口を出入りできていないようだった。微小ながらも耳に痛い、枯れた音が彼女の喉を音源として俺の耳に届く。
ギリギリギリと、嫌な音が聞こえてくるような気がした。幻聴だろうが、本物の音だとするならば──黒の様相と併せて考えれば、それは黒の首がとんでもなく強い力で絞めつけられている音なのだろう。俺が幻聴だと思っているのも、無意識にそう思いたがっているだけなのかもしれない。
俺はその光景を、視界が徐々に黒く曇っていく中でただ眺めていることしかできなかった。
ふと、風を感じた。気のせいかと思うほどの微かな微風。
玄関も窓も閉じきっている。室内には、扇風機など風を起こす機械も無い。
だが、風はあった。すでに無いが、たしかにそこにあったのだ。どこかといえば、俺の前方。
俺と黒の、間。
輪郭すらおぼろにしか捉えられないほどぼやけた視界で、俺はそれを捉えた。
黒煙のような、黒いもや。
しかしそれは煙のように天井に吸い寄せられることもなく、俺と黒のあいだの虚空にとどまっている。
黒いもやは、俺がそれを見止めたのを見計らったかのように、動き出した。俺ではなく黒のほうへ。
お前も黒を襲うつもりなのか。
回すための酸素を失った脳でその思考を紡ぎだす。しかしそれまでがやっとのことで、眼前の光景から想像される未来を阻止したいとは思っても、阻止する力が無い。とっくに奪われた後なのだ。
ところが、その黒いもやは、俺の予想を裏切った。
黒いもやは、黒のそばまで近寄り、霧散する。と思いきや、それは消えかけた傍からすぐさま収縮し、一つの形を浮かび上がらせた。
黒を持ち上げ、そのか細い首をきつく絞め上げている──人のような形。
何もいないなんてのは、嘘だった。俺の目が俺自身を欺き、強いて空間しかないように勘違いさせたのだ。
それは、確実にそこにいた。そこにいて、黒を苦しめていた。
俺がそれをしかと見止めた途端、人の形をした黒いもやは空中に消え去り、黒は床に力なく崩れ落ちた。糸の切れた人形のごとく。
幾度かの点滅をはさみ、ぱっと、思い出したかのように部屋の明かりが点灯した。外から聞こえてくる街の音を耳にし、自分と黒は、"ここ"とは別のどこかにいたのだと悟った。
こちらに向いた黒の黒い頭は、ぴくりとも動かない。気絶しているだけだと、そう思いたい。
思いたいが、そうもいかない。脳がまともな活動をするのに十分な酸素を得るまでは、俺も気を失うほか無かった。
「…………く、ろ」
ただ無意識に、わずかに動いた唇の隙間から少女の名が漏れる。
俺の眼は、見るべきものは全て見終えたとばかりに、休息を取るのに最適な暗闇を求めてまぶたの裏に隠れた。