見覚えのない、白い天井だった。
鼻を突く特有の消毒液の匂いと、規則的に鳴り響く心電図の電子音。それで、自分が病院のベッドの上にいるのだと理解した。
「……ユノ?」
すぐ横から、掠れた小さな声が聞こえた。
視線を向けると、オレの枕元で、ベルが目を擦っていた。その目元は、先程まで泣いていたのか少しだけ赤く腫れている。
「ユノ! 起きたのねっ! よかった、もう丸一日近く眠ってたのよ!」
「ベル……。オレは……」
「USJであのバケモノを吹き飛ばした後、あんた倒れたの。魔力を使い果たして、体もボロボロで……もうっ、本当に心配したんだからね!」
ベルは涙を浮かべながら、オレの頬にペタペタと触れてくる。
言われてみれば、全身に鈍い痛みが残っていた。特に脳無の一撃をガードした両腕は、がちがちに包帯で固められている。だが、リカバリーガールによる治療のおかげか、骨の髄まで軋むようなあの最悪な疲労感は消え去っていた。
ガラッ、と静かに病室の扉が開いた。
「おや、目覚めたかい」
入ってきたのは、トレンチコートを着た、黒髪の男だった。その後ろには、まだ自身のエンジンが焦げ付いているかのように、緊張した面持ちの飯田天哉も控えている。
「飯田……。それに、アンタは……」
「私は警察の塚内という者だ。今回のUSJ襲撃事件の捜査を担当している」
塚内と名乗った男は、警察手帳を軽く示しながら穏やかな口調で自己紹介をした。
「ユノくん! 気がついたか! 君が目覚めて本当によかった……!」
飯田がいつものように大きな身振りを交えながら、しかしどこかホッとしたように表情を緩めた。
「ユノくん、君が休んでいる間に、今回の事件の全容と、君たちが戦ったヴィランについての報告が警察からあったんだ」
飯田に促され、塚内が手元の資料を見ながら静かに話し始めた。
「まず、君が単独で撃破したあの黒い巨躯──『脳無』と呼ばれていた個体についてだ。君の放った凄まじい風の攻撃によってUSJの天井を突き破り、遥か彼方の山林まで吹き飛ばされていたよ。警察とプロヒーローで即座に回収・拘束した。意識はなく、超再生のキャパシティを超えたダメージを負っていたようで、現在は特殊な拘束具の元で厳重に監禁されている」
あのバケモノを、完全に無力化した。その事実に、オレは静かに息を吐いた。
「だが、主犯格である手だらけの男──死柄木弔と、黒い靄の黒霧は、未だ逃亡中だ。足取りを追っているが、あの大規模な空間移動の個性の前には警察の捜査も難航していてね……。君たちには、今後も警戒を怠らないでほしい」
「……分かりました。ありがとうございます」
「いや、感謝を言うのはこちらの方さ。君たちの勇敢な行動がなければ、相澤先生や13号、そして他の生徒たちの命はなかった。……特に、飯田くん」
塚内が振り返り、飯田の肩にぽんと手を置いた。
「君が恐怖に打ち勝ち、あの状況から一人で本校舎まで走り抜けてくれたからこそ、オールマイトをはじめとするプロヒーローたちが迅速に駆けつけることができた。君のあの走りは、間違いなく多くの命を救ったヒーローのそれだよ」
その言葉に、飯田はグッと拳を握り締め、目元を熱くしながら頭を下げた。
「滅相もありません! 私は……委員長として、皆に託された役目を果たしたまでです! むしろ、現場で命懸けで持ちこたえてくれたユノくんや緑谷くんたちこそ、真の功労者だ!」
飯田の生真面目すぎる、だが本気な言葉に、オレは微かに口元を緩めた。
飯田が走ってくれたから、オレたちは今日を迎えることができた。それは紛れもない事実だ。
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塚内さんと飯田が去り、お昼過ぎになると、病室の扉が少し遠慮がちにガラガラと開かれた。
「ユノちゃん、お邪魔するわね。ケロ」
入ってきたのは、緑色の長い髪を後ろで結んだ蛙吹梅雨だった。
そしてその背後から、恐る恐る、といった様子で顔を覗かせたのは峰田実だ。
「ユ、ユノォ……! お前マジで生きてるか……!?」
峰田はベッドの脇まで来ると、大げさに身震いしながらオレの顔を凝視した。
「オイラ、マジでヒヤヒヤしたんだぜ!? 水難ゾーンでヴィランに囲まれた時も怖かったけどよ……相澤先生をボコボコにしたあの脳無とかいうバケモンに、お前も殺されそうになって……隠れて見てたオイラ、マジで尿漏らすかと思ったんだからな!」
「峰田ちゃん、病室なんだからもう少し静かにして。それに、ちょっと汚いわよ」
梅雨ちゃんが人差し指を顎に当てながら峰田をピシャリとたしなめる。それから、その大きな瞳を真っ直ぐにオレへと向けた。
「無事でよかったわ、ユノちゃん。魔力を使い果たして倒れたって聞いて、本当に心配したのよ。……水難ゾーンの時も、あの広場の時も、私たちを助けてくれてありがとう」
水難ゾーンから行動を共にし、オレの戦いを一番近くで見ていた梅雨ちゃんと峰田。二人の無事な姿を見て、オレはベッドの背にもたれかかったまま、小さく息を吐いた。
「梅雨ちゃん、峰田。お前たちこそ怪我がなくて何よりだ。……あの水難ゾーンは、二人の協力がなければ突破できなかった」
「へへっ、まぁな! オイラの『もぎもぎ』と、皆のコンビネーションがあってこそよ! 」
峰田が鼻の下をこすりながら、少し照れくさそうに笑う。
「それと……あの脳無とかいうバケモンを倒した時のユノ、すげーかっこよかったぜ!」
「……そうか」
そして、しばらくの間、二人は襲撃の際の緊迫した様子や、その後のクラスの状況について話してくれたが、「あんまり長居してユノちゃんの負担になってもいけないわね」という梅雨ちゃんの気遣いによって、静かに病室を後にした。
病室の扉が閉まり、静寂が戻ったのも束の間。
今度はノックの音もなく、スライド式の扉がガラガラとゆっくり開いた。
「ぎゃあっ!? な、なにあのミイラ男!」
ベルがオレの肩に隠れながら短い悲鳴を上げる。
無理もない。そこに入ってきたのは、頭からつま先まで全身を真っ白な包帯でグルグル巻きにされ、両腕を吊った状態の痛々しい姿の男──担任の相澤先生だった。
「……相澤先生。その体で歩き回っていいのか」
「俺の体はどうでもいい。安静にしていろとリカバリーガールには言われたがな」
相澤先生は、顔を覆う包帯の僅かな隙間から、鋭い眼光をオレに向けた。
「……お前、随分と派手にやったらしいな」
その低い声には、労いと、咎めの色が混ざっていた。
「自分の限界を超え、あのバケモノを単独で退けたこと自体は評価に値する。お前が動かなければ、俺も緑谷も死んでいた。……だがな」
相澤先生が一歩、オレのベッドへと近づく。
「あの刑事が言っていた通り、敵の主犯格は逃げた。もしあの後、別のヴィランが更なる奇襲を仕掛けてきたら、お前はどうするつもりだった?」
「……ッ」
「一撃に全てを注ぎ込み、反動で指一本動かせない完全な無力に陥る。それは緑谷と同じだ。いざという時に自分を壊して立ち上がるのはヒロイズムとしては美しいが、生き残らなければならないプロとしては三流のやり方だ」
厳しい言葉だったが、返す言葉もなかった。
魔力が空っぽになり、動けなくなったオレたちの前に死柄木が迫ったあの時の絶望感。オールマイトの到着が数秒でも遅れていれば、オレは出久と一緒に殺されていた。
その事実が、オレのプライドを鋭く抉る。
「……分かっています。オレの肉体が、魔法の出力に耐えきれなかった。……器が、全然足りていない」
オレがギリッと拳を握り締めると、相澤先生は小さく息を吐いた。
「自覚があるならいい。圧倒的な力に振り回されるな。己の個性を完全に支配し、その上で生き残って勝つのがプロのヒーローだ」
相澤先生はゆっくりと背を向け、病室の扉へと歩き出す。
「……体育祭までに、その器とやらを少しでもマシにしておけ」
それだけを言い残し、相澤先生は静かに病室を出て行った。
怪我の具合はオレなんかより遥かに酷いはずなのに、わざわざ生徒の元へ足を運び、プロとしての教訓を叩き込んでいく。
あの不器用な背中に、オレは深く頭を下げた。
「……厳しい先生ね。でも、ユノの身体のこと、ちゃんと心配してくれてたみたい」
「ああ。オレは、もっと強くならなきゃいけない。あの力に耐えうるだけの、絶対に崩れない器を作り上げる」
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相澤先生が去った後。クラスの奴らが興奮した様子でお見舞いに来て、脳無戦の話を聴きにきたり、小大がお見舞いでトマトジュースを持ってきてくれたりという出来事があり、時間は気付けば夕方になっていた。
コンコン、と、今日一番控えめなノックの音が響く。
「……入っても、いいかな」
スライド扉の隙間から現れたのは、出久だった。
あの一戦でボロボロになった右腕は、肩から指先まで厳重にギプスと包帯で固定され、首から痛々しく吊るされている。戦闘訓練の時以上の大怪我のはずだが、その表情はどこか晴れやかで、同時に、強い決意を秘めていた。
「出久か。その腕……」
「あはは、これ? リカバリーガールに、また怒られちゃったよ。でも、命に変えられるものじゃないからさ」
出久はオレのベッドの脇にある丸椅子に、静かに腰掛けた。
しばらくの間、心電図の規則的な電子音だけが室内に響く。出久は自分の膝の上に置いた無事な左手をじっと見つめていたが、やがて、意を決したように真っ直ぐな瞳をオレに向けた。
「ユノ君。ありがとう。僕を助けてくれて」
「……逆だ。お前がオレを助けなければ、あの時オレは死んでいた。……お前は、いつだってオレのヒーローだ」
オレの言葉に、出久は弾かれたように顔を上げた。その瞳に、みるみると涙が滲んでいく。だが、出久はそれを誤魔化すように無事な左腕でぐいっと目元を拭い、照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに笑った。
「ありがとう、ユノ君」
「だが、それはそれとして、オレはお前に負けるつもりはない」
「……え?」
「オレ達の勝負は、まだ終わってないからな」
「っ……!」
やがて、出久は意を決したように話し出す。
「……あのね。僕は、君に話さないといけないことがあるんだ」
出久は一度言葉を区切り、ギプスで固められた自身の右腕へ視線を落とした。その横顔には、幼なじみであるオレにずっと隠し事をしていたことへの罪悪感と、それを打ち明ける覚悟が入り混じっている。
「僕のこの個性……急に発現したなんて、ずっと一緒にいたユノ君からすれば、絶対におかしいって思ってたよね」
「……まあな」
オレが短く肯定すると、出久は小さく深呼吸をして、紡いだ。
「この力は……僕のものじゃない。ある人から、受け継いだものなんだ」
「受け継いだ?」
「うん。まるで、希望の聖火みたいに……前の持ち主から、僕へと託された力。だからまだ、僕の身体はこの借り物の力の反動に耐えきれなくて、こんな風にボロボロになっちゃうんだ」
他人に個性を譲渡する。そんな話、普通の人間なら鼻で笑うか、混乱するだろう。
だが、オレは黙って出久の言葉を受け止めていた。
「……それをオレに言って、どうするつもりだ」
オレがあえて静かな声で問うと、出久は顔を上げ、真っ直ぐにオレを見据えた。
「宣戦布告だよ」
「ほう」
「借り物の力だからって、言い訳にはしない。僕は絶対にこの力を僕自身のものにして……ユノ君と、本当の意味で対等に競い合えるヒーローになる。だから──待っててほしい」
その言葉に、オレはフッと小さく息を吐いた。
貰い物だろうが何だろうが、あのUSJで腕を粉砕しながらオレを庇って飛び出してきたのは、間違いなく『緑谷出久』自身の意志だ。力が誰のものであれ、出久のヒーローとしての魂は、本物だ。
「……もう、待つ気なんてサラサラない」
オレはベッドの上で僅かに姿勢を正し、出久を正面から見据え返した。
「オレはお前に追いつかれるつもりも、立ち止まるつもりもない。お前がその力を自分のものにして、どれだけ高く飛んでこようが、オレはお前の先にいる。そして……最後に一番上に立つのは、オレだ」
「ユノ君……!」
「オレは、お前──出久にだけは、絶対に負けない」
それは、互いの現在地を知り、死線を潜り抜けたからこそ叩きつける、本気の宣戦布告だった。
出久は丸椅子から立ち上がり、オレの言葉を真正面から受け止めるように、力強く頷いた。
「僕もだよ、ユノ君。君がどれだけ先を行っても……僕は絶対に食らいついて、君を追い抜いてみせる。次の体育祭だって、絶対に負けない!」
夕日の差し込む病室で、オレたちは互いに視線を交わし、静かに、けれど熱く闘志を燃え上がらせた。
USJでの死闘を経て、オレ達は本当の意味での『ライバル』になった。
次から日常編を1〜2回程挟んで、体育祭編にいきます