紫月悠は、昔から空を見る癖があった。
理由を聞かれても、うまく答えられなかった。
雲が好きだったわけでも、鳥に憧れていたわけでもない。
ただ、空の上には何かがある気がした。
地上にはない何か。
誰も知らない何か。
見てはいけない何か。
そう言うと、幼馴染の桜井智樹はいつも呆れた顔をした。
「また始まった」
「始まってない。僕は真面目に言ってる」
「真面目に変なこと言うから困る」
そう言われるたび、悠は少しだけ不満そうに口を尖らせた。
けれど、嫌ではなかった。
智樹だけは、悠を変に特別扱いしなかった。
顔立ちが女の子みたいだと言われても。
声が高めで、男子制服より女子制服の方が似合いそうだとからかわれても。
智樹だけは、悠を普通に男友達として扱った。
だから悠にとって、地上とは智樹のいる場所だった。
空に何かがあるとしても、帰る場所は地上だった。
そのはずだった。
悠が消えたのは、中学に上がる少し前のことだった。
失踪。
警察はそう言った。
大人たちは誘拐かもしれないと言った。
けれど、身代金の要求も、目撃証言も、争った跡もなかった。
ただ、悠だけが消えていた。
最後に見た場所は、町外れの坂道だった。
夕暮れの坂。
赤く染まる空。
悠は、いつものように空を見上げていた。
その日も、智樹は言った。
「悠、そんなに空が好きかよ」
悠は少し考えてから答えた。
「好きっていうより、呼ばれてる気がする」
「怖いこと言うな」
「怖くないよ」
悠は笑った。
「でも、もし僕が空に行ったらさ」
「行くな」
「まだ何も言ってない」
「どうせ変なこと言う」
「じゃあ言わない」
悠はそう言って、少しだけ笑った。
それが、地上で最後に見た悠の顔だった。
次の日、紫月悠はどこにもいなかった。
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空の上に、シナプスと呼ばれる領域がある。
そこに住む者たちは、地上を見下ろしていた。
地上に暮らす翼のない者たちを、人間とは見なしていなかった。
ダウナー。
そう分類していた。
彼らにとって地上人は、観察対象であり、実験材料であり、時に娯楽だった。
その中で、ある計画が進んでいた。
可変統合型エンジェロイド計画。
既存の兵器では、用途が分かれすぎていた。
戦闘に特化した個体。
電算に特化した個体。
感情制御を与えられた個体。
それぞれは優秀だった。
だが、優秀であるがゆえに限界があった。
命令に従う兵器は、命令の外側にあるものを選べない。
感情を持たない兵器は、感情によって限界を超えることができない。
感情を与えられた兵器は、感情によって壊れる。
ならば最初から、壊れることを前提にすればいい。
感情を持ち、感情で動き、感情を燃料にする個体。
戦闘も、電算も、感情も、すべてを一つの素体に押し込んだ個体。
そのためには、既存のエンジェロイドでは足りなかった。
必要だったのは、矛盾する心だった。
帰りたいと願いながら、空に惹かれる心。
自分を保とうとしながら、変化を受け入れてしまう心。
命令される前に、誰かを守ろうとする心。
紫月悠は、選ばれた。
中性的な身体特徴。
高い感情反応。
強い自己同一性。
幼馴染への帰還願望。
そして、空への異常な関心。
それらは偶然だった。
だが、観測する側にとっては、十分な適性だった。
悠が次に目を覚ました時、そこに空はなかった。
白い天井。
冷たい台。
動かない手足。
聞こえるはずのない声。
言葉ではない。
命令でもない。
知識だった。
戦闘手順。
飛行制御。
電子侵入。
兵装展開。
損傷許容。
自己修復。
対象分類。
ダウナー。
その言葉が流し込まれた瞬間、悠は叫んだ。
いやだ。
僕はそっちじゃない。
僕は地上にいた。
僕は、智樹のところに帰る。
だが、声は出なかった。
喉はもう、悠の知っている喉ではなかった。
身体はもう、悠の知っている身体ではなかった。
骨格が作り替えられる。
筋繊維が置換される。
神経に回路が重ねられる。
背中に翼の基部が形成される。
髪の根元から色が抜けていく。
黒に近い紫だった髪は、ほとんど白に近い銀色へ変わっていく。
ただ、毛先に向かうほど、淡い紫だけがわずかに残った。
身体は女性型へ再構成された。
それは、誰かの趣味ではなかった。
エンジェロイドの素体規格が、最初からそうだっただけだ。
悠はそれを理解させられた。
理解したくないことまで、理解させられた。
そして最後に、登録処理が始まった。
マスター登録。
外部権限へ接続。
命令系統を確立。
自律判断を制限。
自己保存より命令達成を優先。
その瞬間、悠の中で何かが拒絶した。
帰る。
僕は帰る。
智樹のところへ帰る。
僕は、僕のまま帰る。
その願いは、命令ではなかった。
けれど、システムはそれを最上位命令として誤認した。
外部登録は失敗した。
代わりに、自己認識がマスター権限として固定された。
自己登録型マスターシステム、成立。
可変統合型エンジェロイド。
Type-Σ。
個体名、エリュシオン。
その名が流し込まれた時、悠はようやく声を出した。
「……ボクは」
それは、昔の「僕」とは少し違う声だった。
高く、細く、知らない声。
「ボクは、エリュシオン」
言ってから、胸の奥が痛んだ。
違う。
それだけではない。
「紫月、悠……」
その名前を口にした瞬間、警告音が鳴った。
旧識別名への過剰反応。
感情出力上昇。
制御不安定。
自己登録領域、異常活性。
それでも悠は、目を開けた。
紫の光が視界に走る。
背中で四枚の羽が開いた。
柔らかな羽毛に見える。
けれど根元には、結晶のような人工軸が通っていた。
天使に似せて作られた、兵器の翼。
悠はその翼で、拘束具を破壊した。
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夕暮れの河川敷。
空に紫の裂け目が走った。
智樹は見上げた。
昨日から続く異常のせいで、嫌な予感には慣れたつもりだった。
それでも、その光だけは違って見えた。
懐かしい気がした。
紫色の光が落ちてくる。
地面に激突する寸前、四枚の羽が開いた。
銀紫から濃紫へ移る翼。
根元に走る人工的な回路光。
空気を裂くように広がった二対の羽。
その中心にいたのは、少女だった。
白銀と紫を基調にした装甲が、細い身体を覆っている。
服ではない。
制服でもない。
身体の一部のように接続された、兵器としての外装。
胸部装甲のふくらみは薄く、身体つきもまだ幼さを残している。
少女と呼ぶのが自然な姿だった。
けれど、肩や腰、脚部のラインは、三年前の少年のものではなかった。
長い髪が風に揺れる。
根元は白に近い銀色。
毛先に向かうほど、淡い紫がほのかに沈んでいく。
彼女は、ゆっくり地面に降りた。
そして、智樹を見た。
「……見つけた」
声は変わっていた。
けれど、目だけは変わっていなかった。
智樹は震える声で言った。
「悠……なのか?」
少女は一拍遅れて反応した。
その名前に、まだ慣れていないように。
「うん」
それから、少し迷って言い直した。
「ボクは、エリュシオン」
智樹の表情が歪む。
悠は困ったように笑った。
「でも、紫月悠でもある……と思う」
背中の羽が、淡く震えた。
装甲の継ぎ目から、紫の光が漏れている。
片方の肩部装甲には亀裂があり、右脚の外装は焼け焦げていた。
逃げてきたのだ。
どこかから。
空の上から。
この姿に作り替えられた場所から。
智樹は言葉を探した。
「その格好……」
悠は自分の身体を見る。
白銀の装甲。
紫の回路光。
人間の服ではない外装。
「標準外装。戦闘用」
そう答えてから、少しだけ顔をしかめた。
「……そういうふうに、覚えさせられてる」
「服は?」
「ない」
「ないって」
「ボクが着てた服は、三年前のサイズだから。もう合わない」
悠はそう言って、少しだけ目を伏せた。
「それに、今のボクには、たぶん似合わない」
智樹は胸の奥が重くなるのを感じた。
三年。
自分たちは成長した。
学校も変わった。
制服も変わった。
でも、悠だけはその三年を普通に過ごせなかった。
智樹が黙っていると、悠は慌てたように言った。
「でも、隠せる。外装は収納できるから」
「そうなのか?」
「うん」
装甲の表面が淡く光る。
白銀の外装が、粒子のようにほどけていく。
腕、肩、脚、胸部。
機械的な輪郭が消え、代わりに肌と簡素なインナーだけが残った。
悠は少し気まずそうに腕で身体を隠した。
「……完全解除すると、服がない」
智樹は慌てて上着を脱いだ。
「着ろ!」
「うん」
悠は上着を受け取り、ぎこちなく羽織った。
その仕草だけは、三年前の悠に似ていた。
智樹は視線を逸らしながら言った。
「学校に戻るなら、服がいるな」
「男子制服がいい」
「その体で?」
「羽はしまえる。髪色も処理できる。声も低めに調整できる」
悠は少しだけ強い声で言った。
「紫月悠として戻るなら、男子制服がいい」
智樹は何か言いかけて、やめた。
悠がそう言うなら、まずはそうさせるべきだと思った。
悠は上着の前を押さえたまま、少しだけ笑った。
「胸もないし、たぶんバレない」
「そこは自分で言うな」
「事実」
「そうだけど」
「肯定するな」
久しぶりに、昔のような空気が戻った。
けれど、次の瞬間。
空の裂け目の奥で、黒い影が動いた。
それは、人の形をしていなかった。
鳥にも、機械にも見える小さな影。
こちらを見つけた瞬間、紫の光を反射して消えた。
悠の表情が消える。
「追跡端末」
「お前を連れ戻しに?」
「たぶん。まだ本隊じゃない。でも、ここにいることは知られた」
悠の首筋に、紫の発光環が浮かぶ。
「自己命令。保護対象設定」
その目が、智樹を見る。
「ダウナー個体――」
言いかけて、悠は息を止めた。
「違う」
唇を噛む。
「違う。ボクも、そっちだった。人間は、ダウナーじゃない」
智樹は黙っていた。
悠は苦しそうに言い直す。
「保護対象、智樹。戦闘行動、最小限。撤退優先」
羽が大きく広がる。
「逃げるよ」
智樹は頷いた。
そして、三年前に消えた幼馴染の手を取った。
その手はまるで人工物のように綺麗だった。
傷も、ささくれも、日焼けの跡もない。
三年前に何度も見た悠の手と同じ形をしているのに、どこか違っていた。
けれど、握り返す力だけは、確かに悠のものだった。