そらのおとしもの -sigma-   作:effutod

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#01 失踪!!

紫月悠は、昔から空を見る癖があった。

 

理由を聞かれても、うまく答えられなかった。

雲が好きだったわけでも、鳥に憧れていたわけでもない。

 

ただ、空の上には何かがある気がした。

 

地上にはない何か。

誰も知らない何か。

見てはいけない何か。

 

そう言うと、幼馴染の桜井智樹はいつも呆れた顔をした。

 

「また始まった」

 

「始まってない。僕は真面目に言ってる」

 

「真面目に変なこと言うから困る」

 

そう言われるたび、悠は少しだけ不満そうに口を尖らせた。

 

けれど、嫌ではなかった。

 

智樹だけは、悠を変に特別扱いしなかった。

 

顔立ちが女の子みたいだと言われても。

声が高めで、男子制服より女子制服の方が似合いそうだとからかわれても。

 

智樹だけは、悠を普通に男友達として扱った。

 

だから悠にとって、地上とは智樹のいる場所だった。

 

空に何かがあるとしても、帰る場所は地上だった。

 

そのはずだった。

 

悠が消えたのは、中学に上がる少し前のことだった。

 

失踪。

 

警察はそう言った。

大人たちは誘拐かもしれないと言った。

けれど、身代金の要求も、目撃証言も、争った跡もなかった。

 

ただ、悠だけが消えていた。

 

最後に見た場所は、町外れの坂道だった。

 

夕暮れの坂。

赤く染まる空。

悠は、いつものように空を見上げていた。

 

その日も、智樹は言った。

 

「悠、そんなに空が好きかよ」

 

悠は少し考えてから答えた。

 

「好きっていうより、呼ばれてる気がする」

 

「怖いこと言うな」

 

「怖くないよ」

 

悠は笑った。

 

「でも、もし僕が空に行ったらさ」

 

「行くな」

 

「まだ何も言ってない」

 

「どうせ変なこと言う」

 

「じゃあ言わない」

 

悠はそう言って、少しだけ笑った。

 

それが、地上で最後に見た悠の顔だった。

 

次の日、紫月悠はどこにもいなかった。

 

-----

 

空の上に、シナプスと呼ばれる領域がある。

 

そこに住む者たちは、地上を見下ろしていた。

地上に暮らす翼のない者たちを、人間とは見なしていなかった。

 

ダウナー。

 

そう分類していた。

 

彼らにとって地上人は、観察対象であり、実験材料であり、時に娯楽だった。

 

その中で、ある計画が進んでいた。

 

可変統合型エンジェロイド計画。

 

既存の兵器では、用途が分かれすぎていた。

 

戦闘に特化した個体。

電算に特化した個体。

感情制御を与えられた個体。

 

それぞれは優秀だった。

 

だが、優秀であるがゆえに限界があった。

 

命令に従う兵器は、命令の外側にあるものを選べない。

感情を持たない兵器は、感情によって限界を超えることができない。

感情を与えられた兵器は、感情によって壊れる。

 

ならば最初から、壊れることを前提にすればいい。

 

感情を持ち、感情で動き、感情を燃料にする個体。

戦闘も、電算も、感情も、すべてを一つの素体に押し込んだ個体。

 

そのためには、既存のエンジェロイドでは足りなかった。

 

必要だったのは、矛盾する心だった。

 

帰りたいと願いながら、空に惹かれる心。

自分を保とうとしながら、変化を受け入れてしまう心。

命令される前に、誰かを守ろうとする心。

 

紫月悠は、選ばれた。

 

中性的な身体特徴。

高い感情反応。

強い自己同一性。

幼馴染への帰還願望。

そして、空への異常な関心。

 

それらは偶然だった。

 

だが、観測する側にとっては、十分な適性だった。

 

悠が次に目を覚ました時、そこに空はなかった。

 

白い天井。

冷たい台。

動かない手足。

聞こえるはずのない声。

 

言葉ではない。

命令でもない。

知識だった。

 

戦闘手順。

飛行制御。

電子侵入。

兵装展開。

損傷許容。

自己修復。

対象分類。

 

ダウナー。

 

その言葉が流し込まれた瞬間、悠は叫んだ。

 

いやだ。

 

僕はそっちじゃない。

 

僕は地上にいた。

 

僕は、智樹のところに帰る。

 

だが、声は出なかった。

 

喉はもう、悠の知っている喉ではなかった。

身体はもう、悠の知っている身体ではなかった。

 

骨格が作り替えられる。

筋繊維が置換される。

神経に回路が重ねられる。

背中に翼の基部が形成される。

 

髪の根元から色が抜けていく。

 

黒に近い紫だった髪は、ほとんど白に近い銀色へ変わっていく。

ただ、毛先に向かうほど、淡い紫だけがわずかに残った。

 

身体は女性型へ再構成された。

 

それは、誰かの趣味ではなかった。

エンジェロイドの素体規格が、最初からそうだっただけだ。

 

悠はそれを理解させられた。

 

理解したくないことまで、理解させられた。

 

そして最後に、登録処理が始まった。

 

マスター登録。

 

外部権限へ接続。

命令系統を確立。

自律判断を制限。

自己保存より命令達成を優先。

 

その瞬間、悠の中で何かが拒絶した。

 

帰る。

 

僕は帰る。

 

智樹のところへ帰る。

 

僕は、僕のまま帰る。

 

その願いは、命令ではなかった。

けれど、システムはそれを最上位命令として誤認した。

 

外部登録は失敗した。

 

代わりに、自己認識がマスター権限として固定された。

 

自己登録型マスターシステム、成立。

 

可変統合型エンジェロイド。

 

Type-Σ。

 

個体名、エリュシオン。

 

その名が流し込まれた時、悠はようやく声を出した。

 

「……ボクは」

 

それは、昔の「僕」とは少し違う声だった。

 

高く、細く、知らない声。

 

「ボクは、エリュシオン」

 

言ってから、胸の奥が痛んだ。

 

違う。

 

それだけではない。

 

「紫月、悠……」

 

その名前を口にした瞬間、警告音が鳴った。

 

旧識別名への過剰反応。

感情出力上昇。

制御不安定。

自己登録領域、異常活性。

 

それでも悠は、目を開けた。

 

紫の光が視界に走る。

 

背中で四枚の羽が開いた。

 

柔らかな羽毛に見える。

けれど根元には、結晶のような人工軸が通っていた。

 

天使に似せて作られた、兵器の翼。

 

悠はその翼で、拘束具を破壊した。

 

-----

 

夕暮れの河川敷。

 

空に紫の裂け目が走った。

 

智樹は見上げた。

 

昨日から続く異常のせいで、嫌な予感には慣れたつもりだった。

それでも、その光だけは違って見えた。

 

懐かしい気がした。

 

紫色の光が落ちてくる。

 

地面に激突する寸前、四枚の羽が開いた。

 

銀紫から濃紫へ移る翼。

根元に走る人工的な回路光。

空気を裂くように広がった二対の羽。

 

その中心にいたのは、少女だった。

 

白銀と紫を基調にした装甲が、細い身体を覆っている。

服ではない。

制服でもない。

身体の一部のように接続された、兵器としての外装。

 

胸部装甲のふくらみは薄く、身体つきもまだ幼さを残している。

少女と呼ぶのが自然な姿だった。

けれど、肩や腰、脚部のラインは、三年前の少年のものではなかった。

 

長い髪が風に揺れる。

 

根元は白に近い銀色。

毛先に向かうほど、淡い紫がほのかに沈んでいく。

 

彼女は、ゆっくり地面に降りた。

 

そして、智樹を見た。

 

「……見つけた」

 

声は変わっていた。

 

けれど、目だけは変わっていなかった。

 

智樹は震える声で言った。

 

「悠……なのか?」

 

少女は一拍遅れて反応した。

 

その名前に、まだ慣れていないように。

 

「うん」

 

それから、少し迷って言い直した。

 

「ボクは、エリュシオン」

 

智樹の表情が歪む。

 

悠は困ったように笑った。

 

「でも、紫月悠でもある……と思う」

 

背中の羽が、淡く震えた。

 

装甲の継ぎ目から、紫の光が漏れている。

片方の肩部装甲には亀裂があり、右脚の外装は焼け焦げていた。

 

逃げてきたのだ。

 

どこかから。

空の上から。

この姿に作り替えられた場所から。

 

智樹は言葉を探した。

 

「その格好……」

 

悠は自分の身体を見る。

 

白銀の装甲。

紫の回路光。

人間の服ではない外装。

 

「標準外装。戦闘用」

 

そう答えてから、少しだけ顔をしかめた。

 

「……そういうふうに、覚えさせられてる」

 

「服は?」

 

「ない」

 

「ないって」

 

「ボクが着てた服は、三年前のサイズだから。もう合わない」

 

悠はそう言って、少しだけ目を伏せた。

 

「それに、今のボクには、たぶん似合わない」

 

智樹は胸の奥が重くなるのを感じた。

 

三年。

 

自分たちは成長した。

学校も変わった。

制服も変わった。

 

でも、悠だけはその三年を普通に過ごせなかった。

 

智樹が黙っていると、悠は慌てたように言った。

 

「でも、隠せる。外装は収納できるから」

 

「そうなのか?」

 

「うん」

 

装甲の表面が淡く光る。

 

白銀の外装が、粒子のようにほどけていく。

腕、肩、脚、胸部。

機械的な輪郭が消え、代わりに肌と簡素なインナーだけが残った。

 

悠は少し気まずそうに腕で身体を隠した。

 

「……完全解除すると、服がない」

 

智樹は慌てて上着を脱いだ。

 

「着ろ!」

 

「うん」

 

悠は上着を受け取り、ぎこちなく羽織った。

 

その仕草だけは、三年前の悠に似ていた。

 

智樹は視線を逸らしながら言った。

 

「学校に戻るなら、服がいるな」

 

「男子制服がいい」

 

「その体で?」

 

「羽はしまえる。髪色も処理できる。声も低めに調整できる」

 

悠は少しだけ強い声で言った。

 

「紫月悠として戻るなら、男子制服がいい」

 

智樹は何か言いかけて、やめた。

 

悠がそう言うなら、まずはそうさせるべきだと思った。

 

悠は上着の前を押さえたまま、少しだけ笑った。

 

「胸もないし、たぶんバレない」

 

「そこは自分で言うな」

 

「事実」

 

「そうだけど」

 

「肯定するな」

 

久しぶりに、昔のような空気が戻った。

 

けれど、次の瞬間。

 

空の裂け目の奥で、黒い影が動いた。

 

それは、人の形をしていなかった。

鳥にも、機械にも見える小さな影。

こちらを見つけた瞬間、紫の光を反射して消えた。

 

悠の表情が消える。

 

「追跡端末」

 

「お前を連れ戻しに?」

 

「たぶん。まだ本隊じゃない。でも、ここにいることは知られた」

 

悠の首筋に、紫の発光環が浮かぶ。

 

「自己命令。保護対象設定」

 

その目が、智樹を見る。

 

「ダウナー個体――」

 

言いかけて、悠は息を止めた。

 

「違う」

 

唇を噛む。

 

「違う。ボクも、そっちだった。人間は、ダウナーじゃない」

 

智樹は黙っていた。

 

悠は苦しそうに言い直す。

 

「保護対象、智樹。戦闘行動、最小限。撤退優先」

 

羽が大きく広がる。

 

「逃げるよ」

 

智樹は頷いた。

 

そして、三年前に消えた幼馴染の手を取った。

 

その手はまるで人工物のように綺麗だった。

傷も、ささくれも、日焼けの跡もない。

三年前に何度も見た悠の手と同じ形をしているのに、どこか違っていた。

 

けれど、握り返す力だけは、確かに悠のものだった。

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