場所を移して、新大陸発見部。
午後の授業は、省略していいと思う。
何もなかったわけではない。
悠が体育で反応を抑えきれずにボールを避けかけたり、現国で文章の感情分析を始めかけたりした。
けれど、数学に比べれば全部軽い。
少なくとも、黒板に数学を再建するよりは軽い。
そう自分に言い聞かせながら、俺は悠を連れて部室へ向かった。
そこにいたのは、守形先輩と会長だった。
悠は一歩だけ前に出る。
そして、静かに頭を下げた。
「守形先輩、会長、初めまして。ボクは紫月悠です」
その瞬間、部室の空気が少し止まった。
守形先輩は、椅子に座ったまま悠を見た。
会長は、いつもの笑みを浮かべている。
笑っている。
けれど、目だけは笑っていなかった。
「初めまして?」
会長が、ゆっくりと繰り返した。
「ええ。初めまして、なのかしら」
悠は少しだけ瞬きした。
「違いましたか」
「部員名簿には、あなたの名前があるわ」
会長は、机の上のファイルを指で軽く叩いた。
「紫月悠。学年、クラス、連絡先。ちゃんと書いてある」
俺の背中に嫌な汗が流れた。
やっぱり、そこまで補正されている。
「でもね」
会長は笑みを崩さないまま続けた。
「紫月くんがこの部室に来た記憶が、妙に薄いの」
悠は黙った。
守形先輩が、静かに言った。
「名簿にはある。だが、活動記録にはほとんどない」
守形先輩はノートを開く。
「部員として存在していることにはなっている。だが、ここで何をしたかを追おうとすると、記録が曖昧になる」
「ええ」
会長が頷く。
「いた気はする。でも、会話を思い出そうとすると霧みたいになる。変よね」
俺は何も言えなかった。
クラスメイトたちは軽く流していた。
教師たちも、多少の違和感はあっても日常の中へ押し込んでいた。
けれど、この二人は違う。
特に会長は、違和感を違和感のまま楽しむ人だ。
守形先輩も、ただ黙っているだけで、何も気づいていないわけがない。
悠は、少しだけ視線を下げた。
「補正の影響です」
「補正」
守形先輩が言う。
「記憶操作か」
「厳密には、記憶の上書きではありません」
悠は答えた。
「学校生活に必要な認識と記録の整合補正です。強い感情接続を持つ対象への上書きは禁止しています」
「つまり、桜井や見月は対象外か」
「はい」
守形先輩は俺を見た。
俺は頷くしかなかった。
「俺とそはらは、覚えてます」
会長が笑みを深くする。
「じゃあ、私たちは?」
悠は少しだけ黙った。
「本来なら、補正対象です」
「本来なら」
「でも、今の反応を見る限り、完全には入っていません」
「どうしてかしら」
「分かりません」
悠は正直に言った。
「ただ、補正は万能ではありません。対象の記憶構造、観察力、違和感への耐性、既存の情報量によって揺らぎが出ます」
会長は口元に手を当てた。
「あら、私ってそんなに面倒な対象だったの?」
「はい」
「即答ね」
「はい」
「面白いわ」
面白がらないでほしい。
俺は心の中でそう思った。
守形先輩は、机の上に置いてあったノートを閉じた。
「紫月悠」
「はい」
「お前は三年前に消えたはずだ」
部室の空気が重くなる。
悠は逃げなかった。
「はい」
「だが、俺の記録では、お前はこの学校に在籍し、この部にも名前がある」
「はい」
「その二つは矛盾している」
「はい」
「どちらが真実だ」
悠は少しだけ目を伏せた。
それから、ゆっくり答えた。
「三年前に消えた方が真実です」
俺は息を止めた。
そはらも、隣で小さく肩を強張らせた。
会長の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
守形先輩は表情を変えない。
「では、在籍し続けているという記憶は」
「復帰のための仮置きです」
「仮置き?」
「はい。紫月悠として地上生活へ戻るための最低限の補正です。真実を知った相手には、段階的にほどけるようにしています」
「今がその段階か」
「おそらく」
悠は自分の胸元を押さえた。
「完全な偽の思い出は入れていません。だから、違和感を持つ人には、薄い記憶として見えるはずです」
会長が言った。
「たしかに、変ね」
「変?」
「紫月くんがいた気はする。でも、具体的な場面を思い出そうとすると、霧みたいになる」
悠の肩が小さく揺れた。
「それで正常です」
「正常というには、ずいぶん気持ち悪いわね」
「すみません」
悠はすぐに謝った。
「不快にさせるためではありませんでした」
「責めているわけじゃないわ」
会長は柔らかく笑った。
「ただ、私は気になることをそのままにしておくのが嫌いなの」
「分かります」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん」
会長は楽しそうに笑った。
守形先輩は悠をじっと見ていた。
「お前は、何者だ」
その問いに、悠は少しだけ間を置いた。
学校では、紫月悠として振る舞っていた。
男子制服を着て、髪色を偽装し、声も低くしている。
でも、ここで誤魔化しても意味がない。
たぶん、この二人には。
悠は静かに言った。
「ボクは、可変統合型エンジェロイド」
その言葉と同時に、首筋に淡い紫の発光環が浮かぶ。
部室の空気が変わった。
「タイプシグマ。エリュシオン」
会長は目を細めた。
守形先輩は、少しだけ身を乗り出す。
「エンジェロイド」
「はい」
「イカロスと同じ空のものか」
「同系統です。ただし、ボクは地上生活体の記憶を基礎に再構成されています」
「紫月悠としてか」
「はい」
悠は一度言葉を切った。
「でも、完全には分かりません」
「何がだ」
「ボクがどこまで紫月悠で、どこからエリュシオンなのか」
部室が静かになった。
さっきまで面白がっていた会長も、その言葉にはすぐに返さなかった。
悠は続けた。
「だから、記憶補正も怖いです。便利すぎるから」
「便利すぎる?」
「望めば、たぶん、もっと自然にできます」
悠は小さく言った。
「三年間いなかったことも、最初からなかったみたいにできます。ボクが普通に学校にいたことにできます。みんなが笑って、怒って、話していた記憶を作れます」
そはらが息を呑んだ。
悠はそはらを見なかった。
見たら、言えなくなると思ったのかもしれない。
「でも、それは嫌です」
守形先輩が聞く。
「なぜだ」
「盗むことになるから」
悠は即答した。
「ボクのいなかった三年間を、他人の記憶で埋めることになる。そはらが探してくれたことも、智樹が覚えていることも、全部、別の形に変えてしまう」
会長が静かに言った。
「だから、薄い補正にした」
「はい」
「真実を知れば、ほどけるように」
「はい」
悠は頭を下げた。
「不快なら、解除します」
俺は思わず悠を見た。
「悠」
「でも、そうすると学校にいられないかもしれない」
悠の声は小さかった。
「それでも、嫌なら解除します」
守形先輩は何も言わなかった。
会長も黙っている。
二人とも、悠を見ていた。
普通なら、ここで拒絶されてもおかしくない。
記憶をいじられたかもしれない。
そう言われて、平気でいられる方がおかしい。
俺は、何も言えなかった。
そはらも黙っていた。
やがて、守形先輩が口を開いた。
「解除は不要だ」
悠が顔を上げる。
「いいんですか」
「現時点ではな」
守形先輩は淡々と言った。
「俺の中にある違和感は、今の説明で整理できる。むしろ、補正を消される方が情報が欠ける」
「情報」
「そうだ」
守形先輩は悠を見る。
「お前が何で、空で何が起きているのか。その方が重要だ」
会長がくすりと笑った。
「英四郎らしいわね」
「それに」
守形先輩は続けた。
「新大陸発見部としては、空の未知存在は調査対象だ」
「調査対象」
悠が少しだけ固まる。
俺は慌てて言った。
「先輩、言い方!」
守形先輩は気にしていない。
「安心しろ。解剖はしない」
「当たり前です!」
会長が楽しそうに笑った。
「でも、部員としては歓迎するわ」
「部員?」
悠が聞き返す。
「ええ。紫月くんは、補正上はこの学校にいる。なら部活に入っていてもおかしくないでしょう?」
「おかしくは、ないかもしれません」
「それに、あなたは空を知っている」
会長は笑う。
「新大陸発見部には、ぴったりじゃない」
悠は答えられなかった。
俺は少しだけ嫌な予感がした。
この人は、優しさだけで言っているわけではない。
たぶん、面白がってもいる。
でも、今の悠にとって、それが完全な悪意ではないことも分かった。
守形先輩が言った。
「紫月」
「はい」
「お前が学校に戻るなら、ここを使え」
悠は目を瞬かせた。
「ここを?」
「必要なら、情報整理でも、休憩でも、隠れ場所でもいい」
「隠れ場所」
「学校の中で、普通を装い続けるのは負荷が高いだろう」
悠は少しだけ黙った。
「はい」
その返事は、かなり素直だった。
守形先輩は頷く。
「なら、ここに来い」
「命令ですか」
「提案だ」
悠はその言葉を聞いて、少しだけ表情を緩めた。
「提案なら、受けられます」
悠は少しだけ間を置いた。
「入部したいです」
「そうしろ」
「よろしくお願いします。守形先輩、いえ、部長」
会長がにこりと笑う。
「私は歓迎するわ。ね、桜井くん?」
「そこで俺に振らないでください」
「だって、幼馴染でしょう?」
「そうですけど」
「なら、見守ってあげないと」
俺は悠を見た。
悠は部室の中を見回している。
壁に貼られたよく分からない地図。
棚に置かれた資料。
守形先輩のノート。
会長の笑顔。
窓から見える空。
その全部を、まるで初めて見る場所のように見ていた。
いや、実際には初めてなのだ。
補正の上では、ここに来たことがあるのかもしれない。
でも、悠本人にとっては初めての場所だ。
悠は小さく言った。
「ここも、覚え直せるかな」
そはらがすぐに答える。
「覚え直せばいいでしょ」
その言葉に、悠は少しだけ笑った。
「うん」
守形先輩は、もう一度ノートを開いた。
「では、最初の議題だ」
「議題?」
俺が聞く。
守形先輩は真顔で言った。
「紫月悠が知る空の情報について」
「早い!」
「必要だ」
悠は少しだけ困った顔をした。
「話せる範囲なら」
会長が笑う。
「無理はしなくていいわよ。でも、隠し事をされるのは好きじゃないわ」
「分かりました」
悠は頷いた。
「隠す必要があることは、隠すと言います。まだ分からないことは、分からないと言います」
「いい返事ね」
俺は、ようやく少しだけ息を吐いた。
また、悠の真実を知る人が増えた。
けれど、同時に。
悠を今の悠として見てくれる人も増えたのだ。