電車に揺られていた。
なぜこうなったのかを説明すると、少し長い。
俺とそはらが、日帰り旅行のペア券を当てた。
しかも、なぜか二組。
つまり四人分。
俺とそはら。
イカロス。
そして悠。
ここまでは分かる。
問題は、向かいの席に守形先輩と会長が座っていることだった。
「会長」
「なにかしら、桜井くん」
「ペア券は四人分だったはずなんですけど」
「そうね」
「六人います」
「増えたわね」
「増えたわね、じゃないです」
会長は楽しそうに笑った。
「せっかくだから、新大陸発見部で行きましょう、という話になったのよ」
「なってません」
「足りない分は私が出したから問題ないわ」
「そういう問題でもないです」
守形先輩は窓の外を見たまま言った。
「海なら観測に向いている」
「旅行ですよね?」
「観測だ」
駄目だ。
この人は旅行に行く気がない。
イカロスは、俺の隣に静かに座っていた。
「イカロスは何か言うことないのか」
「マスターが移動するため、同行します」
「ですよね」
そはらの隣には、悠が座っていた。
悠は膝の上に手を置いて、窓の外をじっと見ている。
流れていく景色を、まばたきも少なく見つめていた。
「悠」
「何?」
「電車、珍しいのか?」
悠は少しだけ考えた。
「珍しくはない」
「そうなのか?」
「紫月悠としては、乗ったことがある」
それから、悠は窓の外へ視線を戻した。
「でも、久しぶり」
その言い方に、俺は少しだけ黙った。
三年前。
その言葉が、頭の中をよぎる。
悠は続けた。
「ただ、移動手段としては非効率」
「非効率?」
「飛んだ方が早い」
「それは言うな」
俺は思わず突っ込んだ。
そはらも小さくため息をつく。
「ユゥ、普通は飛ばないの」
「分かってる」
悠は小さく頷いた。
「だから、今は電車」
「そう。今は電車」
「時間がかかる。揺れる。人が多い。移動経路も固定されている」
「悪口みたいになってるぞ」
「悪口じゃない。評価」
「評価が辛い」
悠は、もう一度窓の外を見る。
建物の隙間から、少しずつ空が広くなっていく。
「でも、やっぱり非効率」
「そこに戻るのかよ」
「うん」
悠は真面目に頷いた。
「飛ぶ方が早い。でも、飛びたいわけじゃない」
その言い方に、そはらが少しだけ表情を変えた。
「ユゥ」
「分かってる。そう考えること自体、少し変だと思う」
悠は窓の外を見たまま続けた。
「人間は空を飛べない。だから、電車に乗るのが普通」
「なら」
「でも、移動手段として見ると、やっぱり非効率」
「そこは変わらないんだな」
「うん」
悠は小さく頷いた。
「感覚がまだ追いつかない」
そはらが少し困ったように笑った。
「今日は旅行だから」
「旅行だと、非効率でもいい?」
「いいの」
悠は少し考えた。
「難しい」
会長がくすりと笑った。
「紫月くん、旅行は目的地だけじゃなくて、途中も楽しむものなのよ」
「途中」
悠は窓の外へ視線を向けた。
「それは、まだ分からない」
「分からなくてもいいわ。今日は見ていればいいの」
「観察」
「そう。観察」
悠は少しだけ頷いた。
「分かりました」
守形先輩が、窓の外を見たまま言った。
「海が近い」
その言葉に、悠も窓の外を見る。
建物の隙間から、青い光がちらついた。
海だった。
そはらが嬉しそうに身を乗り出す。
「見えた!」
「海です」
イカロスも静かに言った。
「潮風成分を検知しました」
「まだ窓閉まってるだろ」
「微量です」
「検知するな」
会長は楽しそうに笑っている。
守形先輩は、いつの間にか手帳を開いていた。
「海岸線、風向、雲量。悪くない」
「だから旅行ですよね?」
「観測だ」
俺はため息をついた。
悠は、窓の外の海を見たまま動かなかった。
「非効率だけど」
「まだ言うか」
「でも、景色は変わる」
悠はぽつりと言った。
「飛ぶと、たぶん見落とす」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
悠はそれ以上何も言わなかった。
ただ、流れていく海の光を、静かに見つめていた。
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海が見えた瞬間、そはらが感嘆の声をあげた。
白い砂浜。
青い海。
照りつける日差し。
電車の中で見えていた海とは違う。
目の前に広がっているそれは、いかにも日帰り旅行という感じだった。
会長は楽しそうに笑っている。
守形先輩は、海岸線と空を見比べながら何かを手帳に書き込んでいた。
「先輩、旅行ですよね?」
「観測だ」
「まだ言うんですか」
イカロスは、海をじっと見つめている。
「海です」
「見れば分かる」
「水量が多いです」
「それも分かる」
悠も、波打ち際の方を見ていた。
水着姿の悠は、学校で見た男子制服の時より、さらに線が細く見えた。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……いやいや」
思わず小さく首を振る。
悠は悠だ。
三年前まで一緒にいた幼馴染で、もともとは男だった。
分かっている。
分かっているのに、今の悠は、昔の悠とはあまりに違っていた。
髪も、身体も、立ち方も。
制服を着ている時はまだごまかせていた違いが、水着になると妙にはっきり見えてしまう。
「智樹?」
悠がこちらを見た。
「何でもない!」
俺は慌てて顔を逸らした。
そはらが、じっと俺を見る。
「トモちゃん」
「違う! 今のはそういうのじゃない!」
「まだ何も言ってないんだけど」
「言われる前に否定しただけだ!」
「それ、だいたい怪しいやつだよ」
「違うって!」
次の瞬間、そはらの手刀が俺の脳天に落ちた。
「ぐおっ!」
砂浜に膝をつく。
「まだ何もしてないだろ!」
「目が怪しかった!」
「目だけで死刑!?」
「未遂でも駄目!」
「何の未遂だよ!」
悠は少しだけ首を傾げた。
「智樹、危険だった?」
「危険じゃない!」
そはらは俺を指さした。
「ユゥは気にしなくていいの。トモちゃんが悪いから」
「まだ何もしてない!」
「今後のため!」
「予防処置で殺人チョップするな!」
悠は自分の姿を少し見下ろした。
「変?」
「変じゃない!」
俺は頭を押さえながら即答した。
「ただ、見慣れないだけだ」
「見慣れない」
悠は少しだけ考える。
「そっか」
その声が少しだけ不安そうに聞こえて、俺は慌てて言い直す。
「悪い意味じゃない。まだ慣れてないだけだ」
「うん」
悠は小さく頷いた。
けれど、その視線はすぐに海へ戻った。
海を怖がっているというより、何かを確認しているようだった。
「入っていい?」
悠が聞いた。
「泳げるのか?」
「うん」
答えは普通だった。
普通すぎて、少し安心した。
そはらは近くの貸しボートの方を指さした。
「じゃあ、私ちょっとボート借りてくるね」
「ああ」
そはらが走っていく。
俺はその後ろ姿を少しだけ見送った。
本当に、ほんの少しだけだった。
次に海へ視線を戻した時、イカロスと悠がいなかった。
「……あれ?」
波打ち際には、二人分の足跡だけが残っている。
俺は嫌な予感がした。
「イカロス?」
返事はない。
「悠?」
返事はない。
代わりに、少し沖の方に、見覚えのある上着が浮かんでいた。
イカロスが着ていたものだった。
「……おい」
俺は慌てて海に入った。
足が届くところを越える。
さらに進むと、急に深くなった。
俺は息を吸って、水の中へ潜った。
海の中は、思ったより暗かった。
少し下の方に、白いものが見える。
イカロスだった。
羽を広げたまま、海底の方でじっとしている。
本人は慌てるでもなく、抵抗するでもなく、ただ沈んでいた。
魚が周りを泳いでいる。
いや、見るからにおかしい。
俺はさらに潜ろうとした。
けれど、深い。
手を伸ばしても届かない。
胸が苦しくなる。
息が続かない。
俺は仕方なく水面へ戻った。
「ぷはっ!」
水面に顔を出して、必死に息を吸う。
「深すぎるだろ……!」
もう一度潜ろうとした時、水の中で何かが動いた。
悠だった。
悠は、俺よりずっと深い場所にいた。
水中なのに、動きが乱れていない。
髪が海の中でゆっくり広がり、紫の影みたいに揺れている。
イカロスのそばまで潜り、状態を確認しているようだった。
俺は思わず水中で目を見開いた。
その時、悠がこちらを見た。
俺に気づいたらしい。
悠は少しだけ首を傾げるような仕草をした。
けれど、俺の方はもう限界だった。
息が続かない。
俺はまた水面へ戻るしかなかった。
「悠!」
水面で叫んでも、悠はすぐには上がってこない。
一秒。
二秒。
三秒。
普通なら、もう顔を出してもいい。
けれど、悠は出てこない。
十秒を過ぎても、水面は静かなままだった。
「おい、長くないか!?」
俺が本気で焦り始めた時、少し離れた場所で悠が水面から顔を出した。
息は乱れていなかった。
髪から海水を滴らせながら、悠は普通に言った。
「イカロスは沈んでる」
「見れば分かる!」
「かなり深い」
「それも分かる!」
「この深さだと、智樹の息が続かない」
「だから連れ戻せ!」
「分かった」
悠はまた水中に沈んだ。
今度も、ほとんど水しぶきは立たなかった。
しばらくして、水面が大きく揺れる。
悠がイカロスの腕を引いて浮上してきた。
イカロスは無表情のまま、羽から大量の水を滴らせている。
俺は二人をどうにか砂浜まで引き上げた。
イカロスは濡れたまま、砂の上に座っている。
羽からは、まだ大量の水が滴っていた。
「マスター」
「何だよ」
「羽が水を吸って重くなってしまうので……どうしても……」
「分かってるなら入るな!」
イカロスは表情を変えずに、濡れた羽を少しだけ動かした。
ばしゃ、と水が飛ぶ。
「冷たっ!」
「排水中です」
「人に向けて排水するな!」
一方、悠は何事もなかったように海から上がってきた。
水着も髪も濡れている。
けれど、息はまったく乱れていなかった。
「悠も大丈夫か?」
「うん」
「本当に?」
「水中行動は問題ない」
「その答えがもう問題なんだよ」
悠は少しだけ首を傾げた。
「泳げる」
「泳げるの意味が違うんだって」
「七百二十時間くらいなら潜れる」
「単位がおかしい!」
「でも、泳げる」
「だったらせめて人並みに浮かんでみせろ!」
悠は少し考えた。
「浮く必要がある?」
「ある! 今はある!」
俺が頭を抱えていると、少し離れたところから声がした。
「トモちゃーん、ボート借りてきたよー!」
そはらが、貸しボートの方から戻ってくる。
そして、砂浜に座り込んでいるずぶ濡れのイカロスと、海水を滴らせている悠を見て、足を止めた。
「……何してるの?」
「一人沈んで、一人潜ってた」
「説明が雑すぎる!」
そはらは慌てて駆け寄ってきた。
「イカロスさん、大丈夫ですか?」
「問題ありません。浮力が不足していました」
「それは問題あると思います!」
そはらは次に悠を見る。
「悠は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。連れ戻せた」
「そこじゃなくて、悠自身が大丈夫か聞いてるの!」
悠は少し考えてから、小さく頷いた。
「大丈夫。水は、そんなに嫌じゃない」
そはらは一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、濡れた悠の髪を見て、少し困ったように息を吐く。
「もう……目を離すとすぐこれなんだから」
「目を離したのは俺じゃないぞ」
「トモちゃんも見てて!」
「無理言うな!」
会長は少し離れた場所で、その様子を楽しそうに見ていた。
「ずいぶん賑やかね」
「会長、笑ってないで手伝ってください!」
「桜井くん、こういうのも旅行の醍醐味よ」
「絶対違います!」
守形先輩は、濡れたイカロスの羽と、平然としている悠を交互に見ていた。
「興味深いな」
「先輩も観察してないで!」
「水中適性に差がある」
「今それを分析する場面じゃないです!」
悠は海の方を振り返った。
さっきまで沈んでいた場所は、もう何事もなかったように波だけが揺れている。
「深かった」
「だろうな」
「智樹の息は続かなかった」
「言われなくても分かってる」
「でも、景色は綺麗だった」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
悠は、濡れた髪を押さえながら続ける。
「海の中。魚がいた。光が揺れてた。音が遠かった」
そはらが少しだけ表情を緩める。
「……そっか」
「うん」
悠は小さく頷いた。
「非効率だけど、見えるものはある」
それは、さっき電車で言っていたことの続きみたいだった。
俺は濡れたイカロスを見て、深くため息をつく。
「まあ、見えるものがあるのはいいけどな」
「うん」
「次からは勝手に深いところまで行くな」
「分かった」
「イカロスもだ!」
「了解しました、マスター」
本当に分かっているのかは怪しかった。
けれど、とりあえず全員、陸には戻ってきた。
イカロスはまだ羽から水を滴らせている。
悠は海を見つめている。