海の家に泊まることになった。
理由は、守形先輩が宿泊券を持っていたからだ。
「そもそも、なんで宿泊券なんか持ってるんですか」
俺が聞くと、守形先輩は当然のように答えた。
「大食い大会の副賞だ」
「何してるんですか、先輩」
「必要な栄養補給を行った結果だ」
「絶対違う」
会長は楽しそうに笑っていた。
「いいじゃない。せっかくだから泊まっていきましょう」
そうして案内された部屋は、男子部屋と女子部屋に分かれていた。
男子部屋には、俺と守形先輩。
女子部屋には、そはら、会長、イカロス、悠。
……のはずだった。
夜。
風呂を終えて、布団に入った瞬間、俺はほとんど落ちるように眠った。
海で泳いで、イカロスを引き上げて、移動して、飯を食って、風呂に入った。
疲れていないわけがない。
夢を見た。
また、あの夢だった。
顔のよく見えない少女が、空の向こうから俺に呼びかけている。
助けて。
空に捕まってる。
昔から、何度も見てきた夢。
意味は、今でも分からない。
そして俺は目を覚ました。
「……ん?」
布団の横に、イカロスが座っていた。
その隣には、悠もいる。
二人とも、静かに俺を見ていた。
「うわっ!」
俺は布団の中で跳ね起きた。
「何でいんだ」
「はい」
「『はい』じゃなくて」
「はい」
「お前ら、女子部屋のはずだろ」
イカロスは表情を変えずに答える。
「マスターのお側にいました」
「ここにいなくていい!」
俺は悠を見る。
「悠も何でいるんだよ」
「イカロスが出ていったから」
「止めろよ」
「止めようと思った。でも、イカロスが気にしていた」
「何を」
悠はイカロスを見る。
イカロスは、少しだけ視線を下げた。
俺は頭をかいた。
「とにかく、こんな時間に男子部屋に来るな。分かったら、さっさと戻って寝た寝た」
「あの……マスター」
「何だよ」
「『眠る』とはどういうものなのでしょう」
「……へ?」
思わず変な声が出た。
イカロスは、いつもの無表情のまま続ける。
「私たちエンジェロイドは……『眠る』ようには作られていなくて……」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
「ですから『眠る』とか『夢』を見るとかは……」
イカロスは、自分でも言葉を探しているようだった。
「どういうものか……わからなくて……」
俺はすぐには答えられなかった。
眠る。
そんなもの、毎日している。
疲れたら寝る。
夜になったら寝る。
目を閉じて、気づいたら朝になる。
それだけだ。
それだけのはずなのに、説明しようとすると急に分からなくなる。
「悠は?」
俺は、ふと思い出して聞いた。
悠は小さく頷いた。
「エリュシオンは地上人から作られているため『眠る』ことができます」
「じゃあ、お前は眠れるんだな」
「うん」
悠は少しだけ目を伏せた。
「でも、イカロスは違う」
イカロスは俺を見ていた。
いつものように。
けれど、いつもより少しだけ、何かを知りたそうに見えた。
「眠るっていうのは……」
俺は言いかけて、止まった。
どう説明すればいいのか分からない。
「目を閉じて、休むこと……か?」
「休止状態ですか」
「いや、たぶん違う」
「待機状態ですか」
「それも違うと思う」
言えば言うほど分からなくなる。
俺は頭をかいた。
「普通に寝るだけなんだけどな」
「普通」
イカロスが小さく繰り返す。
悠が静かに言った。
「眠るのは、止まることじゃないと思う」
俺とイカロスは悠を見る。
「休むだけでも、命令を待つだけでもない」
悠は少しだけ言葉を探していた。
「目を閉じて、今日を終わらせること」
「今日を、終わらせる」
イカロスが繰り返す。
「うん」
悠は頷いた。
「怖いことも、分からないことも、一度手放す。全部持ったまま明日に行くのは、たぶん難しいから」
部屋が静かになった。
「夢は?」
イカロスが聞く。
「記憶の整理、だと思う」
悠は答えた。
「でも、それだけじゃない。意味のないものを見ることもある。怖い夢もある。楽しい夢もある。起きたら忘れる夢もある」
「忘れるのですか」
「うん」
「記録としては不完全です」
「たぶん、それでいい」
イカロスは黙った。
俺も黙った。
悠の言葉は、どこか危うかった。
眠ることを説明しているだけなのに、自分にも言い聞かせているように聞こえた。
「イカロス」
悠が言う。
「眠れないのは、つらい?」
「不明です」
「そっか」
悠は少しだけ目を伏せた。
「でも、眠れた方がいいと思う」
俺は嫌な予感がした。
「悠」
「何?」
「今、変なこと考えてないか」
悠は一瞬だけ黙った。
「少し」
「考えるな」
「でも、智樹」
悠はイカロスを見る。
「イカロスは、ずっと待機してる。マスターの命令を待って、マスターを守って、必要なら動く。それは間違いじゃない」
「なら」
「でも、それだと今日が終わらない」
その言葉に、イカロスがわずかに反応した。
「今日が、終わらない」
「うん」
悠はイカロスを見る。
「眠れるようになれば、終われるかもしれない。明日へ行けるかもしれない」
「それは、必要な機能ですか」
「必要かどうかは分からない」
悠は静かに言った。
「でも、選べた方がいい」
俺は眉をひそめた。
「選べるようにって、まさか」
悠は俺を見る。
「智樹が許可すれば、イカロスへの実装許可は通ると思う」
「通ると思う、じゃねえよ」
「眠気を作るんじゃない。命令で眠らせるわけでもない」
悠は少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「眠ることができるようにするだけ。眠るかどうかは、イカロスが選ぶ」
イカロスは俺を見ていた。
いつものように。
マスターの判断を待っている。
「……イカロス」
「はい」
「お前は、それが欲しいのか?」
イカロスはすぐには答えなかった。
「分かりません」
それから、少しだけ間を置く。
「ですが、マスターが眠る理由を、理解したいと思います」
その答えで、俺は何も言えなくなった。
悠は静かに俺を見ている。
「智樹」
「本当に、眠れるようにするだけなんだな」
「うん」
「お前が無理しない範囲でだぞ」
「分かった」
その返事が、少しだけ軽かった。
だから俺は、逆に不安になった。
「……許可する」
イカロスが俺を見た。
悠が小さく頷いた。
「許可確認。マスター、桜井智樹より、対象イカロスへの睡眠機能実装を許可」
首筋に、淡い紫の発光環が浮かぶ。
「自己命令。外部個体への人格、記憶、自由意志、主従契約への直接干渉を禁止」
そこで、発光環が一度だけ強く光った。
「ただし、対象イカロスの睡眠機能実装に必要な範囲で、制限系統を限定解除」
「おい」
俺は思わず声を上げた。
「今、上書きって言ったか?」
悠は答えなかった。
紫の光が、悠の首筋から腕へ走る。
イカロスの胸元にも、淡い光が灯った。
「制御系統、解析深度を拡張」
悠の声が、少しずつ硬くなる。
高く、硬く、異常に冷たい声。
偽装が剥がれていくようだった。
「ミラージュ・ドライヴ:オーバーライド、実行」
その瞬間、悠の首元に淡い紫の輪が浮かんだ。
光輪ではない。
首輪だった。
細い紫の光でできた首輪が、悠の喉元を囲む。
そこから、鎖のような光が伸びる。
じゃらり、と音がした気がした。
鎖は誰かの手に伸びているわけではなかった。
悠自身の手へ伸びていた。
まるで、自分で自分を縛っているみたいだった。
その言葉を聞いた瞬間、俺は嫌な予感どころでは済まなくなった。
「オーバーライドって何だよ!」
悠は答えない。
ただ、処理だけを続けている。
「睡眠を、休止ではなく、意識状態の自然低下として定義」
「悠!」
呼んでも、返事がない。
「外部命令による強制停止ではなく、対象意思による移行可能状態として実装」
「悠、待て!」
「主従契約下における常時待機命令と競合」
悠の背中に、薄く羽の輪郭が浮かぶ。
しまっていたはずの装甲が、肩と腕に現れる。
「待機命令を優先する限り、睡眠移行不可」
「待てって言ってるだろ!」
「制限解析」
悠は俺の声に反応しない。
その目はイカロスだけを見ていた。
いや、見ているというより、解析しているようだった。
「主従契約拘束、解除対象」
イカロスがわずかに反応した。
「解除」
「悠!」
「対象イカロスの自由選択を阻害する拘束を破壊します」
紫の光が、イカロスに走った。
「マスター」
「イカロス?」
「命令系統に変化が発生しています」
「それ、大丈夫なのか!?」
「不明です」
「睡眠機能実装。選択条件、対象意思。外部命令による強制不可」
部屋の空気が重くなる。
紫の光が、畳の上に広がった。
イカロスは無表情のまま座っている。
けれど、その目が一瞬だけ揺れた。
「マスター」
「何だ」
「眠る、という状態が選択可能になりました」
その言葉で、俺は一瞬だけ息を止めた。
成功した。
たぶん、成功してしまった。
だが、次の瞬間、イカロスの反応が少し変わった。
「
「は?」
イカロスの声は、いつものままだった。
けれど、言っている内容が明らかにおかしい。
「
「待て、何が起きてる!」
「可変ウィングプロテクト100%解除」
イカロスの背中から、白い羽が広がる。
部屋の空気が震えた。
畳の上の湯呑みが小さく跳ねる。
「機能プロテクト100%解除」
その瞬間、イカロスの気配が変わった。
ただ命令を待つエンジェロイドではない。
もっと大きく、もっと危ういものが、そこに現れた気がした。
イカロスはゆっくりと自分の手を見る。
「制限解除を確認しました」
俺はすぐに悠を見た。
「おい、悠!」
返事はない。
「お前、こんなことまでやるって言ってなかっただろ!」
悠は答えない。
首筋の発光環が、静かに回っている。
背中には紫の羽。
肩と腕には、しまっていたはずの装甲。
「対象イカロスの睡眠機能実装に伴い、関連プロテクトが自動解除されました」
「自動って何だよ!」
「主従契約拘束、常時待機命令、思考制御、機能制限は相互接続されています」
悠は、いや、悠の形をした何かは、淡々と言った。
「睡眠選択権の追加により、該当領域の保護構造が連鎖的に解除されました」
「だから、それが危ないって言ってるんだよ!」
「危険評価、許容範囲内」
「許容するな!」
俺は悠の名前を呼ぼうとした。
「悠!」
反応しない。
「紫月悠!」
それでも、悠は反応しなかった。
まるで、その名前がもう自分のものではないみたいに。
悠はゆっくりとこちらを見る。
見ているのに、見ていなかった。
そこにいるのは、悠の形をしている。
でも、俺を見ている目は、紫月悠のものではなかった。
「当機は、可変統合型エンジェロイド。タイプシグマ、エリュシオン」
俺の背筋が冷えた。
当機。
エリュシオン。
悠は、自分をそう言った。
「お前……」
「ミラージュ・ドライヴ:オーバーライドに伴う、処理優先状態を継続」
「もういい! やめろ!」
「対象イカロスの制限解除後安定化を継続」
「終わったなら戻れよ!」
「処理継続」
会話になっていない。
俺の声が届いていない。
イカロスは羽を広げたまま、静かに俺を見た。
「マスター」
「イカロス、お前は大丈夫なのか?」
「はい。マスターへの命令系統は維持されています」
「維持されてるのか」
「はい」
イカロスは少しだけ目を伏せた。
「ただし、制限されていた記録、思考制御、可変ウィング、機能領域が解除されました」
「それ、大丈夫って言わないんじゃないか?」
「判断不能です」
「だろうな!」
ふすまが勢いよく開いた。
「ユゥ!」
そはらだった。
後ろには会長と守形先輩もいる。
そはらは部屋の中を見て、息を呑んだ。
白い羽を広げたイカロス。
紫の羽と装甲を出した悠。
畳の上に散る、紫と白の光。
旅館の夜にあっていい光景ではなかった。
「ユゥ、何してるの……?」
悠はそはらを見る。
けれど、返事をしない。
「ユゥ!」
反応しない。
そはらの顔が青ざめた。
「ユゥ、返事してよ」
悠は静かに言った。
「当機は、対象イカロスの制限解除後安定化を継続中」
「当機って……なに、それ」
会長の笑みは消えていた。
「これは、少しまずいわね」
守形先輩は、悠を見たまま言う。
「限界解除か」
「ミラージュ・ドライヴ:オーバーライドに伴う、処理優先状態です」
「紫月悠としての応答は」
「現在、優先順位外」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
優先順位外。
悠が、悠でいることが、後回しにされている。
「ふざけるな」
俺は布団から立ち上がった。
「悠!」
反応しない。
「戻ってこい!」
反応しない。
「紫月悠!」
悠の瞳が、わずかに揺れた。
けれど、それだけだった。
戻らない。
今までみたいに、名前を呼べば戻ってくるわけじゃない。
そはらが震える声で言った。
「ユゥ……」
悠は、そはらを見ている。
見ているのに、反応しない。
その目は、綺麗で、冷たくて、怖かった。
俺は初めて分かった。
これが、戻れなくなるということなのだと。
守形先輩が、低く言った。
「エリュシオン」
その瞬間、悠の瞳がすっと焦点を結んだ。
ゆっくりと、悠が守形先輩を見る。
今度は、反応した。
「はい」
高く、硬い声だった。
迷いのない返事。
俺は息を呑んだ。
悠では反応しなかった。
紫月悠でも、ユゥでも、戻ってこなかった。
けれど。
エリュシオンと呼べば、反応する。
そはらが小さく震えた。
「そんな……」
俺は何も言えなかった。
目の前にいるのは、悠の姿をしている。
でも、今この瞬間。
そこにいるのは、紫月悠ではなかった。