朝になった。
障子の隙間から差し込む光で、俺は目を覚ました。
昨日の夜のことを思い出して、すぐに眠気が吹き飛ぶ。
イカロス。
プロテクト解除。
ミラージュ・ドライヴ:オーバーライド。
そして、悠。
いや。
今は、そう呼んでも反応しない。
俺は布団から起き上がった。
部屋の隅では、イカロスが静かに座っている。
その横に、守形先輩がいた。
「……先輩、朝から何してるんですか」
「確認だ」
守形先輩は、ノートを開いたまま答えた。
「昨日の変化が一時的なものか、継続しているものかを調べる必要がある」
イカロスはいつもの無表情で座っている。
ただ、昨日までと同じかと言われると、少し違った。
何が違うのか、はっきりとは言えない。
けれど、空気が違う。
静かなのに、妙に大きく見える。
守形先輩がイカロスを見る。
「イカロス」
「はい」
「昨夜の状態を記憶しているか」
「はい」
「プロテクト解除の内容は」
イカロスは淡々と答えた。
「
「現在も解除状態か」
「はい」
俺は思わず口を挟んだ。
「それ、戻らないんですか」
イカロスは俺を見る。
「現在、再封鎖処理は確認されていません」
「確認されていません、じゃなくて」
「マスター」
「何だよ」
「私は問題なく稼働しています」
「問題なくって言い切れる状況じゃないだろ」
守形先輩が続ける。
「マスターへの命令系統は維持されているか」
「はい。マスターは桜井智樹です」
「命令への応答は」
「可能です」
「自己判断は」
イカロスは少しだけ間を置いた。
「拡張されています」
「拡張?」
「以前よりも、多くの状況を命令待機以外の判断で処理できます」
イカロスは俺を見る。
「マスターを守ることが、最優先です」
それは、少し安心していい言葉なのかもしれない。
けれど、命令だからなのか、イカロス自身がそう思っているのか。
昨日の夜から、その境目が分からなくなっていた。
守形先輩はさらに聞く。
「睡眠機能は」
「選択可能です」
「実行したか」
「はい」
「結果は」
イカロスは少しだけ目を伏せた。
「不明な記録が発生しました」
「夢か」
「おそらく」
俺は思わず聞いた。
「どんな夢だったんだ?」
イカロスはすぐには答えなかった。
「マスターがいました」
「俺?」
「はい」
イカロスは静かに続ける。
「エリュシオンが、紫月悠として応答しませんでした」
俺は言葉に詰まった。
「マスターは、何度も呼んでいました」
イカロスの声は淡々としている。
けれど、昨日までの無機質な報告とは少し違って聞こえた。
「悠。紫月悠。戻ってこい、と」
部屋が静かになる。
「しかし、エリュシオンは反応しませんでした」
イカロスは自分の胸元に手を当てた。
「その時、マスターの表情が変化しました」
「……どう変わったんだよ」
「悲しんでいました」
答えは短かった。
短いのに、妙に重かった。
「私は、それを見ていました」
イカロスは少しだけ目を伏せる。
「そして、泣いていました」
「お前が?」
「はい」
イカロスは自分でも不思議そうに言った。
「夢の中の私は、泣いていました」
その瞬間、イカロスの頬に、透明な雫が一つ落ちた。
俺は息を止めた。
「イカロス……?」
イカロスは指先で自分の頬に触れる。
濡れた指先を見て、少しだけ目を瞬かせた。
「起床後、涙は確認されませんでした」
イカロスは、静かに言う。
「ですが、現在、涙を確認しました」
「……」
「夢の記録を参照したことで、同じ反応が発生したものと思われます」
守形先輩のペンが止まった。
そはらも、何も言えないでいた。
イカロスは、濡れた指先を見つめたまま続ける。
「この反応を、停止した方がよいのでしょうか」
俺はすぐに首を横に振った。
「いや」
声が少し詰まった。
「止めなくていい」
「止めなくて、よいのですか」
「ああ」
俺はイカロスを見る。
「たぶん、それは止めちゃ駄目なやつだ」
イカロスは、もう一度自分の頬に触れた。
涙は、まだ静かに落ちていた。
「マスター」
「何だ」
「夢の中のマスターを、もう見たくありません」
その言葉は、ただの報告ではなかった。
願いに近かった。
守形先輩はノートを閉じる。
その時、ふすまが開いた。
会長とそはらが入ってくる。
そして、その後ろに悠がいた。
いや。
その姿を見た瞬間、俺は言葉に詰まった。
浴衣姿のまま立っている。
羽も装甲も出していない。
見た目だけなら、いつもの悠に近い。
けれど、立ち方が違った。
視線が違った。
部屋を見る目が、人を見る目ではない。
空間を測っている。
距離を取っている。
情報として処理している。
「悠」
俺は呼んだ。
反応はなかった。
そはらの顔が少し曇る。
俺は唇を噛んで、言い直した。
「エリュシオン」
その瞬間、悠は俺を見る。
「はい」
高く、硬い声。
昨日の夜と同じだった。
胸の奥が冷える。
「……朝だぞ」
「確認しています」
「何を」
「現在時刻。室内人数。対象イカロスの状態。対象桜井智樹の体調。周辺脅威」
「周辺脅威って何だよ」
「現時点で重大脅威はありません」
エリュシオンはそこで、イカロスを見た。
「対象イカロス、涙液分泌を確認」
部屋の空気が止まった。
イカロスは、まだ頬に残った涙を拭わずにいた。
「涙液分泌って……」
俺が言うと、エリュシオンは淡々と続けた。
「眼球保護反応ではありません。外傷、異物混入、刺激反応も確認できません」
「そういう話じゃない」
「対象イカロスの感情反応と推定」
イカロスは、少しだけ目を伏せた。
「はい。夢の記録を参照したことで、涙が発生しました」
エリュシオンはイカロスを見る。
見ている。
けれど、理解しているようには見えなかった。
「夢の記録。対象桜井智樹の悲嘆反応。対象エリュシオンの紫月悠応答不能状態」
その言葉に、俺は息を詰まらせた。
「お前……」
「記録内容と涙液分泌の相関は確認できます」
エリュシオンは言った。
「ただし、対象イカロスがなぜ当該記録に対して涙を流すのか、当機には理解できません」
そはらが小さく震えた。
「ユゥ……」
エリュシオンはそはらを見る。
「対象見月そはら、体温上昇。涙腺反応あり」
「そんなこと言わなくていい!」
そはらは声を荒げた。
エリュシオンは表情を変えない。
「失礼しました」
謝罪はした。
けれど、それは悠の謝り方ではなかった。
会長の笑みも薄い。
「本当に、戻っていないのね」
守形先輩が静かに言う。
「紫月悠としての応答は」
「現在、優先順位外」
昨日と同じ答え。
そはらが唇を噛む。
俺も、どうしていいのか分からなかった。
けれど、いつまでも海の家にいるわけにもいかない。
俺たちは帰る準備を始めた。
荷物は少なかった。
日帰りのつもりだったのに、泊まることになったせいで、全員どこか疲れている。
その中で、エリュシオンだけは疲れていないように見えた。
いや、疲れていないのではない。
疲れた顔をしないだけだ。
帰りの電車に乗る頃には、空はすっかり明るくなっていた。
行きの電車で、悠は非効率だと言っていた。
飛ぶ方が早い。
でも、人間は空を飛べない。
だから電車に乗る。
その矛盾に、悠は悩んでいた。
けれど、今のエリュシオンは違った。
窓の外も見ない。
流れていく景色にも、ほとんど反応しない。
ただ、座席の端にまっすぐ座っている。
背筋は伸びている。
手は膝の上。
視線は前。
まるで移動中の待機装置みたいだった。
「エリュシオン」
俺が呼ぶと、すぐに反応する。
「はい」
「電車、どう思う?」
「移動手段としては非効率です」
それは、昨日の悠と同じ答えだった。
けれど、まったく違って聞こえた。
昨日の悠は、非効率だと言いながらも、景色を見ていた。
途中を楽しむという言葉を、分からないなりに考えていた。
海の中の光を、綺麗だと言った。
今のエリュシオンは違う。
非効率という判断で、そこで終わっている。
「景色は?」
俺は聞いた。
「確認可能です」
「そうじゃなくて、見たいと思うか?」
「必要性はありません」
そはらが俯いた。
俺は、胸の奥が重くなるのを感じた。
必要性。
効率。
確認。
判断。
言っていることは間違っていない。
たぶん、全部正しい。
でも、悠はそんなふうにだけ世界を見ていたわけじゃない。
「昨日、海の中が綺麗だって言ってただろ」
エリュシオンは俺を見る。
「記録に存在します」
「記録じゃなくて」
「発言履歴として保存されています」
「そうじゃないんだよ」
俺は言葉に詰まった。
イカロスが、静かにエリュシオンを見ている。
昨日、悠が眠れるようにした相手。
その結果、悠が戻らなくなった相手。
イカロスは言った。
「エリュシオン」
「はい」
「私は夢を消したくないと思いました」
「記録保持を推奨します」
「はい」
そこで会話は終わった。
イカロスは、少しだけ寂しそうに見えた。
たぶん、俺の気のせいじゃない。
そはらが小さく言う。
「ユゥなら、たぶん、よかったって言うのに」
エリュシオンは反応しない。
ユゥ、では反応しない。
そはらはそれ以上言わなかった。
守形先輩はノートに何かを書いている。
会長は窓の外を見ていた。
いつものように楽しそうではなかった。
電車は進む。
景色は流れる。
海が遠ざかり、町が近づく。
行きと同じように、途中はあった。
けれど、隣にいる悠は、その途中を見ていなかった。
帰宅した頃には、夕方に近かった。
家の前で、そはらが立ち止まる。
「今日は、もう休んで」
俺に言ったのか、エリュシオンに言ったのか、分からなかった。
エリュシオンは答える。
「休息は可能」
「そういう意味じゃない」
そはらは小さく言った。
でも、怒る力も残っていないようだった。
イカロスは家の中へ入る前に、俺を見た。
「マスター」
「何だ」
「私は、眠ることを再度試行してもよろしいですか」
「ああ」
俺は少しだけ迷ってから答えた。
「お前が眠りたいならな」
イカロスは小さく頷いた。
「はい」
エリュシオンは、そのやり取りを見ていた。
何も言わない。
嬉しそうでもない。
安心したようにも見えない。
ただ、結果を確認しているだけだった。
俺は玄関の前で立ち止まる。
「悠」
反応はない。
分かっていた。
分かっていたけれど、呼ばずにはいられなかった。
「紫月悠」
やっぱり反応しない。
俺は息を吐いた。
「エリュシオン」
「はい」
すぐに返事が返ってくる。
その速さが、かえってつらかった。
「早く中に入れ」
「命令権限を確認。桜井智樹に当機への命令権限は存在しません」
「……そうかよ」
「ただし、現状において屋内移動は合理的。指示として受諾」
「なら入れ」
「了解」
エリュシオンは家の中へ入っていく。
俺はその背中を見ていた。
羽も装甲もない。
見た目は、悠だ。
けれど、今のあいつは悠じゃない。
少なくとも、俺たちが呼んでいた悠ではない。
これが、戻れなくなるということ。
そして、まだ終わっていないということだった。