そらのおとしもの -sigma-   作:effutod

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#13 帰宅!!

朝になった。

 

障子の隙間から差し込む光で、俺は目を覚ました。

 

昨日の夜のことを思い出して、すぐに眠気が吹き飛ぶ。

 

イカロス。

プロテクト解除。

ミラージュ・ドライヴ:オーバーライド。

そして、悠。

 

いや。

 

今は、そう呼んでも反応しない。

 

俺は布団から起き上がった。

 

部屋の隅では、イカロスが静かに座っている。

 

その横に、守形先輩がいた。

 

「……先輩、朝から何してるんですか」

 

「確認だ」

 

守形先輩は、ノートを開いたまま答えた。

 

「昨日の変化が一時的なものか、継続しているものかを調べる必要がある」

 

イカロスはいつもの無表情で座っている。

 

ただ、昨日までと同じかと言われると、少し違った。

 

何が違うのか、はっきりとは言えない。

 

けれど、空気が違う。

 

静かなのに、妙に大きく見える。

 

守形先輩がイカロスを見る。

 

「イカロス」

 

「はい」

 

「昨夜の状態を記憶しているか」

 

「はい」

 

「プロテクト解除の内容は」

 

イカロスは淡々と答えた。

 

記録域(メモリー)プロテクト解除。思考制御(エマーショナル)プロテクト解除。可変ウィングプロテクト解除。機能プロテクト解除」

 

「現在も解除状態か」

 

「はい」

 

俺は思わず口を挟んだ。

 

「それ、戻らないんですか」

 

イカロスは俺を見る。

 

「現在、再封鎖処理は確認されていません」

 

「確認されていません、じゃなくて」

 

「マスター」

 

「何だよ」

 

「私は問題なく稼働しています」

 

「問題なくって言い切れる状況じゃないだろ」

 

守形先輩が続ける。

 

「マスターへの命令系統は維持されているか」

 

「はい。マスターは桜井智樹です」

 

「命令への応答は」

 

「可能です」

 

「自己判断は」

 

イカロスは少しだけ間を置いた。

 

「拡張されています」

 

「拡張?」

 

「以前よりも、多くの状況を命令待機以外の判断で処理できます」

 

イカロスは俺を見る。

 

「マスターを守ることが、最優先です」

 

それは、少し安心していい言葉なのかもしれない。

 

けれど、命令だからなのか、イカロス自身がそう思っているのか。

 

昨日の夜から、その境目が分からなくなっていた。

 

守形先輩はさらに聞く。

 

「睡眠機能は」

 

「選択可能です」

 

「実行したか」

 

「はい」

 

「結果は」

 

イカロスは少しだけ目を伏せた。

 

「不明な記録が発生しました」

 

「夢か」

 

「おそらく」

 

俺は思わず聞いた。

 

「どんな夢だったんだ?」

 

イカロスはすぐには答えなかった。

 

「マスターがいました」

 

「俺?」

 

「はい」

 

イカロスは静かに続ける。

 

「エリュシオンが、紫月悠として応答しませんでした」

 

俺は言葉に詰まった。

 

「マスターは、何度も呼んでいました」

 

イカロスの声は淡々としている。

 

けれど、昨日までの無機質な報告とは少し違って聞こえた。

 

「悠。紫月悠。戻ってこい、と」

 

部屋が静かになる。

 

「しかし、エリュシオンは反応しませんでした」

 

イカロスは自分の胸元に手を当てた。

 

「その時、マスターの表情が変化しました」

 

「……どう変わったんだよ」

 

「悲しんでいました」

 

答えは短かった。

 

短いのに、妙に重かった。

 

「私は、それを見ていました」

 

イカロスは少しだけ目を伏せる。

 

「そして、泣いていました」

 

「お前が?」

 

「はい」

 

イカロスは自分でも不思議そうに言った。

 

「夢の中の私は、泣いていました」

 

その瞬間、イカロスの頬に、透明な雫が一つ落ちた。

 

俺は息を止めた。

 

「イカロス……?」

 

イカロスは指先で自分の頬に触れる。

 

濡れた指先を見て、少しだけ目を瞬かせた。

 

「起床後、涙は確認されませんでした」

 

イカロスは、静かに言う。

 

「ですが、現在、涙を確認しました」

 

「……」

 

「夢の記録を参照したことで、同じ反応が発生したものと思われます」

 

守形先輩のペンが止まった。

 

そはらも、何も言えないでいた。

 

イカロスは、濡れた指先を見つめたまま続ける。

 

「この反応を、停止した方がよいのでしょうか」

 

俺はすぐに首を横に振った。

 

「いや」

 

声が少し詰まった。

 

「止めなくていい」

 

「止めなくて、よいのですか」

 

「ああ」

 

俺はイカロスを見る。

 

「たぶん、それは止めちゃ駄目なやつだ」

 

イカロスは、もう一度自分の頬に触れた。

 

涙は、まだ静かに落ちていた。

 

「マスター」

 

「何だ」

 

「夢の中のマスターを、もう見たくありません」

 

その言葉は、ただの報告ではなかった。

 

願いに近かった。

 

守形先輩はノートを閉じる。

 

その時、ふすまが開いた。

 

会長とそはらが入ってくる。

 

そして、その後ろに悠がいた。

 

いや。

 

その姿を見た瞬間、俺は言葉に詰まった。

 

浴衣姿のまま立っている。

 

羽も装甲も出していない。

 

見た目だけなら、いつもの悠に近い。

 

けれど、立ち方が違った。

 

視線が違った。

 

部屋を見る目が、人を見る目ではない。

 

空間を測っている。

 

距離を取っている。

 

情報として処理している。

 

「悠」

 

俺は呼んだ。

 

反応はなかった。

 

そはらの顔が少し曇る。

 

俺は唇を噛んで、言い直した。

 

「エリュシオン」

 

その瞬間、悠は俺を見る。

 

「はい」

 

高く、硬い声。

 

昨日の夜と同じだった。

 

胸の奥が冷える。

 

「……朝だぞ」

 

「確認しています」

 

「何を」

 

「現在時刻。室内人数。対象イカロスの状態。対象桜井智樹の体調。周辺脅威」

 

「周辺脅威って何だよ」

 

「現時点で重大脅威はありません」

 

エリュシオンはそこで、イカロスを見た。

 

「対象イカロス、涙液分泌を確認」

 

部屋の空気が止まった。

 

イカロスは、まだ頬に残った涙を拭わずにいた。

 

「涙液分泌って……」

 

俺が言うと、エリュシオンは淡々と続けた。

 

「眼球保護反応ではありません。外傷、異物混入、刺激反応も確認できません」

 

「そういう話じゃない」

 

「対象イカロスの感情反応と推定」

 

イカロスは、少しだけ目を伏せた。

 

「はい。夢の記録を参照したことで、涙が発生しました」

 

エリュシオンはイカロスを見る。

 

見ている。

 

けれど、理解しているようには見えなかった。

 

「夢の記録。対象桜井智樹の悲嘆反応。対象エリュシオンの紫月悠応答不能状態」

 

その言葉に、俺は息を詰まらせた。

 

「お前……」

 

「記録内容と涙液分泌の相関は確認できます」

 

エリュシオンは言った。

 

「ただし、対象イカロスがなぜ当該記録に対して涙を流すのか、当機には理解できません」

 

そはらが小さく震えた。

 

「ユゥ……」

 

エリュシオンはそはらを見る。

 

「対象見月そはら、体温上昇。涙腺反応あり」

 

「そんなこと言わなくていい!」

 

そはらは声を荒げた。

 

エリュシオンは表情を変えない。

 

「失礼しました」

 

謝罪はした。

 

けれど、それは悠の謝り方ではなかった。

 

会長の笑みも薄い。

 

「本当に、戻っていないのね」

 

守形先輩が静かに言う。

 

「紫月悠としての応答は」

 

「現在、優先順位外」

 

昨日と同じ答え。

 

そはらが唇を噛む。

 

俺も、どうしていいのか分からなかった。

 

けれど、いつまでも海の家にいるわけにもいかない。

 

俺たちは帰る準備を始めた。

 

荷物は少なかった。

 

日帰りのつもりだったのに、泊まることになったせいで、全員どこか疲れている。

 

その中で、エリュシオンだけは疲れていないように見えた。

 

いや、疲れていないのではない。

 

疲れた顔をしないだけだ。

 

帰りの電車に乗る頃には、空はすっかり明るくなっていた。

 

行きの電車で、悠は非効率だと言っていた。

 

飛ぶ方が早い。

 

でも、人間は空を飛べない。

 

だから電車に乗る。

 

その矛盾に、悠は悩んでいた。

 

けれど、今のエリュシオンは違った。

 

窓の外も見ない。

 

流れていく景色にも、ほとんど反応しない。

 

ただ、座席の端にまっすぐ座っている。

 

背筋は伸びている。

 

手は膝の上。

 

視線は前。

 

まるで移動中の待機装置みたいだった。

 

「エリュシオン」

 

俺が呼ぶと、すぐに反応する。

 

「はい」

 

「電車、どう思う?」

 

「移動手段としては非効率です」

 

それは、昨日の悠と同じ答えだった。

 

けれど、まったく違って聞こえた。

 

昨日の悠は、非効率だと言いながらも、景色を見ていた。

 

途中を楽しむという言葉を、分からないなりに考えていた。

 

海の中の光を、綺麗だと言った。

 

今のエリュシオンは違う。

 

非効率という判断で、そこで終わっている。

 

「景色は?」

 

俺は聞いた。

 

「確認可能です」

 

「そうじゃなくて、見たいと思うか?」

 

「必要性はありません」

 

そはらが俯いた。

 

俺は、胸の奥が重くなるのを感じた。

 

必要性。

 

効率。

 

確認。

 

判断。

 

言っていることは間違っていない。

 

たぶん、全部正しい。

 

でも、悠はそんなふうにだけ世界を見ていたわけじゃない。

 

「昨日、海の中が綺麗だって言ってただろ」

 

エリュシオンは俺を見る。

 

「記録に存在します」

 

「記録じゃなくて」

 

「発言履歴として保存されています」

 

「そうじゃないんだよ」

 

俺は言葉に詰まった。

 

イカロスが、静かにエリュシオンを見ている。

 

昨日、悠が眠れるようにした相手。

 

その結果、悠が戻らなくなった相手。

 

イカロスは言った。

 

「エリュシオン」

 

「はい」

 

「私は夢を消したくないと思いました」

 

「記録保持を推奨します」

 

「はい」

 

そこで会話は終わった。

 

イカロスは、少しだけ寂しそうに見えた。

 

たぶん、俺の気のせいじゃない。

 

そはらが小さく言う。

 

「ユゥなら、たぶん、よかったって言うのに」

 

エリュシオンは反応しない。

 

ユゥ、では反応しない。

 

そはらはそれ以上言わなかった。

 

守形先輩はノートに何かを書いている。

 

会長は窓の外を見ていた。

 

いつものように楽しそうではなかった。

 

電車は進む。

 

景色は流れる。

 

海が遠ざかり、町が近づく。

 

行きと同じように、途中はあった。

 

けれど、隣にいる悠は、その途中を見ていなかった。

 

帰宅した頃には、夕方に近かった。

 

家の前で、そはらが立ち止まる。

 

「今日は、もう休んで」

 

俺に言ったのか、エリュシオンに言ったのか、分からなかった。

 

エリュシオンは答える。

 

「休息は可能」

 

「そういう意味じゃない」

 

そはらは小さく言った。

 

でも、怒る力も残っていないようだった。

 

イカロスは家の中へ入る前に、俺を見た。

 

「マスター」

 

「何だ」

 

「私は、眠ることを再度試行してもよろしいですか」

 

「ああ」

 

俺は少しだけ迷ってから答えた。

 

「お前が眠りたいならな」

 

イカロスは小さく頷いた。

 

「はい」

 

エリュシオンは、そのやり取りを見ていた。

 

何も言わない。

 

嬉しそうでもない。

 

安心したようにも見えない。

 

ただ、結果を確認しているだけだった。

 

俺は玄関の前で立ち止まる。

 

「悠」

 

反応はない。

 

分かっていた。

 

分かっていたけれど、呼ばずにはいられなかった。

 

「紫月悠」

 

やっぱり反応しない。

 

俺は息を吐いた。

 

「エリュシオン」

 

「はい」

 

すぐに返事が返ってくる。

 

その速さが、かえってつらかった。

 

「早く中に入れ」

 

「命令権限を確認。桜井智樹に当機への命令権限は存在しません」

 

「……そうかよ」

 

「ただし、現状において屋内移動は合理的。指示として受諾」

 

「なら入れ」

 

「了解」

 

エリュシオンは家の中へ入っていく。

 

俺はその背中を見ていた。

 

羽も装甲もない。

 

見た目は、悠だ。

 

けれど、今のあいつは悠じゃない。

 

少なくとも、俺たちが呼んでいた悠ではない。

 

これが、戻れなくなるということ。

 

そして、まだ終わっていないということだった。

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