夏休みの宿題は、いったん見なかったことにした。
正確には、見た。
見て、そっと閉じた。
今の状態で宿題を始めたら、数学の小テストどころでは済まない気がしたからだ。
悠は戻っていない。
いや、そこにいるのは悠の姿をしている。
けれど、俺が「悠」と呼んでも反応しない。
「ユゥ」とそはらが呼んでも、反応しない。
「紫月悠」と呼んでも、わずかに瞳が揺れるだけだった。
反応するのは、別の名前だった。
「エリュシオン」
「はい」
即答だった。
その速さが、毎回少しだけ胸に刺さる。
そんな状態のまま、夏祭りの日が来た。
「本当に連れていくの?」
そはらが、不安そうに聞いた。
俺は玄関先で、浴衣姿の悠を見る。
会長がどこからか用意した浴衣だった。
紫がかった銀色の髪は、今は偽装して黒に近い紫になっている。
羽も装甲も出ていない。
見た目だけなら、少し無表情な悠だった。
見た目だけなら。
「家に置いていく方が怖いだろ」
俺が言うと、そはらは否定しなかった。
イカロスは隣で静かに立っている。
プロテクトが解除されてから、イカロスも少し変わった。
命令には従う。
マスターは俺だと言う。
でも、前よりも少しだけ、自分で何かを見ている気がする。
「エリュシオン」
俺が呼ぶと、悠はこちらを見る。
「はい」
「今日は夏祭りだ」
「認識」
「人が多い。音も大きい。屋台もある。花火も上がる」
「周辺、ダウナー多数」
「ダウナー?」
「行動予測を低下させる要因。騒音、興奮、欲望、恐怖、接触、視線」
「祭りをそんな風に見るな」
「周辺環境負荷が高いと予測」
「そういう言い方やめろ」
悠は少しだけ首を傾げた。
「不適切?」
「祭りなんだから、もう少し楽しそうに言え」
「楽しそう」
悠は、その言葉を反復した。
「現在、該当反応の優先順位は低い」
そはらが小さく息を呑む。
俺は返す言葉を探したが、見つからなかった。
仕方なく、俺は歩き出す。
「とにかく行くぞ」
「命令形式を確認」
「違う」
俺は即座に言った。
「ただの声かけだ」
悠は一拍置いた。
「了解。同行します」
その返事は正しい。
正しいのに、やっぱり悠ではなかった。
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射的JUDASという店は、鳩に覆われていた。
店先が白い鳩で埋まっている。
その奥から、低い声が聞こえた。
「人は死んだら何処に行く……?」
「へ?」
俺が間抜けな声を出した瞬間、鳩が一斉に飛び立った。
ばさばさばさ、と羽音が夜店の明かりを揺らす。
そして、その奥から店主が顔を出した。
「――いらっしゃい」
「ねぇトモちゃん……」
そはらが、俺の袖を引く。
「なんかヘンだよこの射的屋さん……」
「俺もそう思う」
「店の中、銃ばっかりで……」
言われて見れば、棚に並んでいるのは銃ばかりだった。
短い銃。
長い銃。
連射できそうな銃。
明らかに町内会の射的屋で出てきてはいけない形の銃。
けれど、肝心の景品がない。
守形先輩が店内を見回し、静かに言った。
「フム。景品が一つも見当たらないな」
「あれっ!? ホントだっ!!」
俺が叫んだその時、背後から楽しそうな声がした。
「祭りとは――何?」
振り返ると、会長がいた。
いつもの笑みを浮かべ、夜店の明かりを背に立っている。
嫌な予感しかしない。
「祭りとは本来……町中が一体となって楽しむものではなくて?」
「いや、まあ、そうかもしれませんけど」
「なのに昨今の祭りときたら、各々が勝手に夜店をまわるだけ……」
会長はそこで、にこりと笑った。
「そこで――」
俺は聞きたくなかった。
「我が
「町中で一緒に楽しめるように♡」
「嫌な予感しかしない!」
会長は俺の叫びを完全に無視した。
「ルールは簡単。このコルク銃でサバイバルゲームを行い、最後まで生き残った一人に豪華景品をプレゼント」
「豪華景品?」
俺が聞くと、会長は嬉しそうに頷いた。
「ええ」
一拍置いて、会長は言った。
「現金一千万」
その瞬間、空気が変わった。
町内会の大人たちの目が光った。
子どもたちまで本気の顔になった。
そして、老人たちまで立ち上がった。
「一千万……」
「現生……」
「勝てば一千万……!」
「老後資金じゃ……!」
祭りの空気が、一気に殺気立つ。
俺は頭を抱えた。
「会長! 祭りの規模じゃないです!」
「盛り上がっているでしょう?」
「盛り上がり方が違う!」
会長は手を叩いた。
「では、参加者は好きなコルク銃を選んでちょうだい」
参加者たちが店に群がる。
俺も仕方なく銃を取った。
そはらは普通の短い銃。
イカロスは、当然のようにガトリング型のコルク銃を持っていた。
「待て」
「はい、マスター」
「それは何だ」
「コルク銃です」
「形が違いすぎる!」
イカロスは首を傾げる。
「連射性能が高いです」
「祭りで性能を見るな!」
そして、悠は狙撃銃型のコルク銃を二丁持っていた。
一丁ではない。
二丁だった。
「おい」
俺は嫌な予感を覚えながら言った。
「何で二丁持ってる」
「射撃間隔を短縮するため」
「狙撃銃を両手に持つな!」
「左右別目標への同時対応が可能」
「町内会の撃ち合いでやることじゃない!」
悠は反応を変えない。
首筋の発光環が静かに回る。
「勝利条件確認。最後まで生存すること」
「いや、遊びだからな?」
「生存競争と判断」
「判断するな!」
会長が楽しそうに旗を上げた。
「それでは、競技――初めっっ!!」
その瞬間、参加者たちが一斉に動いた。
屋台の裏。
神社の階段。
鳥居の影。
提灯の下。
森の中。
全員が必死に隠れる。
少なくとも、開始三秒までは。
悠の背中に、紫の羽が広がった。
「待て」
俺が止めるより早く、悠は飛んだ。
紫の影が、祭りの通りの上へ上がる。
「飛ぶなああああ!」
俺の叫びは届かなかった。
悠は空中で姿勢を固定し、両手の狙撃銃型コルク銃を別々の方向へ向けた。
照準器は覗かない。
ただ、祭りの範囲全体を見下ろしている。
「参加者位置、確認」
ぱす。
右手の銃が鳴った。
遠くの屋台裏で、一人落ちる。
「一名脱落」
ぱす。
左手の銃が鳴った。
神社の階段下で、もう一人が落ちた。
「二名脱落」
ぱす、ぱす、ぱす、ぱす。
右。
左。
右。
左。
屋台の裏。
鳥居の影。
提灯の下。
森の中。
隠れていた参加者たちが、次々と悲鳴を上げる。
「どこから撃たれた!?」
「上だ!」
「上って何だよ!」
「飛んでる!」
「神が……」
老人の一人が膝をついた。
「神がワシらを……滅ぼしに来たんじゃあ……!」
別の参加者が空を見上げ、震える声で呟く。
「この世の……終わりじゃ……」
悠は空中から淡々と告げる。
「勝利条件達成のため、全対象の無力化を継続」
「無慈悲に遂行するな!」
その時、別方向から重い連射音が響いた。
だだだだだだだだだだっ。
イカロスだった。
ガトリング型コルク銃を抱えたまま、白い羽を広げて空中に浮いている。
「マスター。敵性反応を排除します」
「お前も飛ぶな!」
イカロスのガトリングが、空中から祭りの会場を掃いた。
屋台の陰に隠れていた参加者。
神社の階段を駆け上がろうとしていた参加者。
提灯の下で伏せていた参加者。
どんどん脱落していく。
「空から撃ってくるぞ!」
「もう終わりじゃ!」
「この世の……終わりじゃ……!」
「神がワシらを……滅ぼしに来たんじゃあ……!」
「神が二人いるぞ!」
悠の狙撃が空から降る。
イカロスのガトリングも空から降る。
町内会の祭りは、完全に戦場だった。
会長は腹を抱えて笑っている。
「いいわね。予想以上だわ」
「会長!これ町内会の祭りですよね!?」
「ええ」
会長はにこりと笑う。
守形先輩は真顔で手帳に書き込んでいた。
「イカロスは火力制圧型。エリュシオンは空中狙撃制圧型。運用思想が異なる」
「分析してないで止めてください!」
その瞬間、イカロスのガトリングが横へ流れた。
弾が一斉に屋台の通りをなぎ払う。
「あら」
「む」
会長と守形先輩が同時に脱落した。
「守形先輩!?会長!?」
会長は少しだけ目を丸くした。
「あら、本当に当たったわ」
「脱落か」
「冷静に言ってる場合ですか!」
空中の悠が、次の標的を探す。
同じく空中のイカロスが、ガトリングを回す。
そして、二人の視線がぶつかった。
「対象イカロス、競技参加中」
悠が言う。
「勝利条件上、排除対象」
「待て待て待て!」
イカロスも静かにガトリングを向けた。
「エリュシオンを敵性参加者と判断します」
「お前らで戦うな!」
次の瞬間、空中で撃ち合いが始まった。
イカロスのガトリングが夜空を薙ぐ。
悠は羽を翻し、最低限の動きで回避する。
避けた弾は、地上の参加者に当たった。
「ぐわっ!」
「流れ弾!?」
「安全地帯はどこじゃあ!?」
「この世の……終わりじゃ……!」
悠が右手の銃を撃つ。
イカロスは羽を動かして回避する。
外れた弾は、屋台の陰に隠れていた老人に直撃した。
「なんでワシに当たるんじゃあ!」
続けて左手。
イカロスが身体を傾けて避ける。
その弾も、別の参加者に当たる。
「もう嫌じゃあ!」
「神がワシらを……滅ぼしに来たんじゃあ……!」
「神じゃない! 町内会のイベントだ!」
俺が叫んでも、誰も聞いていない。
イカロスは空中で無表情のまま撃ち続ける。
悠は同じく空中で淡々と軌道を変え、左右の狙撃銃を交互に撃つ。
祭りの会場中から、悲鳴が聞こえた。
「残存参加者、減少」
「減少させてるのはお前らだ!」
イカロスのガトリングがさらに回る。
だが、次の瞬間。
かちん。
音が止まった。
「……あ」
イカロスが、珍しく小さく声を漏らした。
ガトリングの弾が切れていた。
その一瞬。
悠は逃さなかった。
空中で両手の銃を揃える。
照準器は覗かない。
ただ、銃口だけがイカロスを向く。
ぱす。
乾いた音が一つ。
悠の撃った弾がイカロスに着弾した。
祭りの通りが、一瞬だけ静まり返る。
「対象イカロス、脱落」
悠は淡々と言った。
イカロスは落ちた札を見下ろす。
「脱落しました」
俺は頭を抱えた。
地上には、脱落した参加者たち。
空には、紫の羽を広げた悠。
会長はまだ楽しそうに笑っている。
守形先輩はまだメモを取っている。
そはらは口元を引きつらせていた。
「トモちゃん……これ、夏祭りだよね?」
「俺にも分からなくなってきた」
悠は空中で周囲を見回す。
「残存参加者、確認中」
「まだやるのか!?」
「勝利条件未達成」
「もう十分だ!」
悠の視線が、こちらを向いた。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
「対象、桜井智樹。競技参加中」
「……おい」
「対象、見月そはら。競技参加中」
そはらの顔が引きつる。
「え、私たちも?」
「勝利条件上、排除対象」
「待て! 俺たちは味方だろ!」
「競技上の味方識別は設定されていません」
「設定しろ!」
「現時点では全参加者が排除対象」
悠は両手の銃をこちらへ向けた。
「トモちゃん!」
「逃げろ!」
俺とそはらは同時に走り出した。
ぱす。
乾いた音がした。
俺に弾が当たった。
「速っ!」
続けて、もう一発。
ぱす。
そはらにも弾が当たった。
「きゃっ!」
俺たちはほぼ同時に立ち止まる。
悠は空中からこちらを見下ろしていた。
「対象、桜井智樹、脱落。対象、見月そはら、脱落」
「お前、幼馴染を撃ったぞ!」
「非致傷弾です」
「そういう問題じゃない!」
そはらは泣きそうな顔で悠を見上げた。
「ユゥ……」
悠は反応しない。
首筋の発光環が、静かに回っている。
「残存参加者、再確認」
そのときテキ屋のおっさんが現れた。
口には煙草。
片手には、古びたコルク銃。
さっきまで屋台にいたはずの男が、いつの間にか競技者として立っていた。
「忘れられちゃ困るな」
テキ屋のおっさんは煙草をくわえたまま、低く笑った。
「テキ屋ってのは、最後に出てくるもんだ」
「いや、出てこなくていいです!」
俺の叫びを無視して、テキ屋のおっさんは銃を構えた。
速かった。
町内会の遊びではない。
少なくとも、ただのテキ屋の動きではなかった。
ぱす、ぱす、ぱす。
連続して放たれたコルク弾が、空中の悠へ向かう。
悠は動いた。
大きく避けたわけではない。
身体をわずかに傾ける。
肩を引く。
羽の角度を変える。
それだけで、弾は全て悠のすぐ横を通り過ぎた。
「避けた!?」
そはらが声を上げる。
けれど、悠は避けただけではなかった。
避けた体勢のまま、両手の狙撃銃型コルク銃を下へ向ける。
照準器は覗かない。
視線も、ほとんど動かない。
ぱす。
音は一つに聞こえた。
けれど、弾は二つだった。
右手と左手。
ほぼ同時に撃たれた二発のコルク弾が、同じ瞬間、テキ屋のおっさんに着弾した。
近かった。
避けた直後の、ありえない体勢からの、近距離同時射撃だった。
テキ屋のおっさんは、煙草をくわえたまま静かに膝をついた。
煙草が、ぽとりと地面に落ちる。
「――成仏」
「してない! ただ脱落しただけ!」
テキ屋のおっさんは、煙草の落ちた地面を見つめながら、ゆっくり倒れた。
会長が楽しそうに拍手する。
「勝者、エリュシオン!」
その言葉に、悠の首筋の発光環が静かに回った。
「勝利条件達成を確認」
俺は空を見上げた。
紫の羽を広げた悠が、祭りの明かりの上に浮かんでいる。
一千万を勝ち取ったのは、間違いなく悠だった。
けれど、そこにいるのはやっぱり悠ではなかった。
そう思った、その時だった。
悠の視線が、倒れたテキ屋のおっさんから、地上の俺たちへ向く。
そはらが、泣きそうな顔のまま見上げていた。
「ユゥ……」
いつもなら反応しない呼び方。
そのはずだった。
けれど、悠の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
「……」
悠は何も言わない。
ただ、少しだけ首を傾げる。
それから。
ほんの一瞬だけ、口元が緩んだ。
笑った、ように見えた。
冷たい処理の結果ではない。
勝利条件を達成したからでもない。
どこか困ったような、少しだけ楽しそうな、昔の悠に近い笑い方だった。
「今……」
俺は息を止めた。
そはらも目を見開く。
「ユゥ?」
悠はすぐに表情を戻した。
首筋の発光環が静かに回る。
「賞金受領手続きへ移行」
「戻るの早いな!」
思わず突っ込んだ。
でも、胸の奥に少しだけ熱いものが残った。
完全には戻っていない。
まだ、悠と呼んでも返事はしない。
それでも。
今、ほんの少しだけ。
そこに悠がいた気がした。