サバイバルゲームの騒動が終わっても、祭りは続いていた。
いや、続いていることにされていた。
空を飛ぶ二人に町内会が制圧され、最後にはテキ屋のおっさんまで成仏しかけたのに、屋台の明かりは普通に灯っている。
太鼓の音も聞こえる。
焼きそばの匂いもする。
金魚すくいの水槽も、何事もなかったように光っていた。
「祭りって、強いな……」
俺が思わず呟くと、そはらが少し困ったように笑った。
「うん。たぶん、そういうものなんだと思う」
悠は、その横で静かに立っていた。
さっきまで空にいた紫の羽は、今はしまわれている。
けれど、完全に戻ったわけではない。
俺が「悠」と呼んでも、まだ返事はない。
それでも、さっき一瞬だけ見せた笑みが、俺の中に残っていた。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
そこに悠がいた気がした。
その時、そはらが屋台を指さした。
「ほら、金魚すくいあるよ」
「金魚」
悠がそちらを見る。
「水生生物を紙製器具で捕獲する遊戯」
「言い方」
「捕獲後の維持環境は?」
「そこから入るの?」
「捕獲後の管理計画なし。非推奨」
「正論だけど、祭りで言うことじゃないよ」
そはらが苦笑する。
「じゃあ、見るだけにしよっか」
悠は金魚すくいの水槽を見つめた。
赤い金魚が、提灯の光を受けて泳いでいる。
水面が揺れるたび、赤と金色の光が細かく崩れた。
悠は、しばらく黙っていた。
「……海の中の光と似ています」
俺は反射的に悠を見た。
「今、何て?」
悠は水槽を見たまま答える。
「以前、海中で観測した光の揺らぎと類似しています」
記録として言っているだけかもしれない。
でも、それは悠が海で言った言葉に近かった。
非効率だけど、見えるものはある。
俺は一歩近づいた。
「それ、綺麗だと思うか?」
悠はすぐには答えなかった。
金魚。
水。
提灯の光。
それをじっと見ている。
「判断不能」
そう言われると思った。
けれど、悠は小さく続けた。
「でも、目を逸らす理由もありません」
「……そっか」
それだけだった。
でも、今はそれだけで十分な気がした。
そはらも、少しだけ表情を緩める。
「じゃあ、もう少し見てよっか」
「はい」
いつもの「了解しました」ではなかった。
ただの返事だった。
それだけの違いなのに、俺は少しだけ息を止めた。
悠は水槽を見続けた。
その横で、イカロスも金魚を見ている。
「マスター」
「何だ」
「金魚は眠りますか」
「たぶん寝るんじゃないか?」
「水中で」
「そうだな」
イカロスは少し考えた。
「沈みますか」
「沈むっていうか、底の方でじっとするんじゃないか?」
「底で」
「たぶんだけどな」
イカロスは水槽の底を見た。
「沈んでも、問題ないのですね」
「金魚はそういう生き物だからな」
「私は沈みました」
「お前は羽が水吸ったからな」
「はい」
「そこで納得するな」
悠がイカロスを見る。
「対象イカロスは羽が水を吸収するため、浮力維持が困難です」
「解説しなくていい」
「事実です」
「知ってるよ!」
少しだけ、空気が軽くなった。
本当に少しだけだった。
けれど、悠はまだ水槽を見ていた。
泳ぐ金魚を、目で追っている。
効率を測っているだけではないように見えた。
そはらが、ふと思いついたように言った。
「でも、持って帰れないなら、すくっても戻せばいいんじゃない?」
悠がそはらを見る。
「戻す」
「うん。捕まえて、ちゃんと戻すだけなら、無責任じゃないでしょ?」
「捕獲後、同一環境へ即時返却」
悠は少しだけ考えた。
「生体維持に支障は少ないと判断」
「じゃあ、やってみる?」
そはらは冗談半分だったのだと思う。
けれど、悠は頷いた。
「試行します」
「え、本当に?」
金魚すくいの店のおじさんが、紙のポイを差し出した。
「はいよ。破れたら終わりだからな」
悠はそれを受け取る。
そして、水槽を見下ろした。
首筋の発光環が、ほんの少しだけ回る。
「水流、確認。対象移動速度、確認。紙面強度、確認」
「悠、祭りだからな?」
「認識しています」
「本当に?」
「不明です」
不明なのか。
悠はポイを水に入れた。
動きは、驚くほど静かだった。
水面がほとんど揺れない。
赤い金魚が一匹、すっとポイの上に乗る。
悠はそれを小さな器へ移した。
「一匹」
「うまっ」
そはらが声を上げる。
続けて二匹目。
三匹目。
四匹目。
金魚は逃げる。
けれど、悠は追いかけない。
先回りする。
金魚の進む先に、最初からポイを置いている。
「捕獲というより、誘導だな」
俺が呟くと、悠は水槽を見たまま答えた。
「追跡は負荷が高い。進路予測を使用」
「金魚すくいでそこまで気を使うやつ初めて見た」
「生体です」
短い答えだった。
でも、その言い方は少しだけ悠らしかった。
壊さないように。
怖がらせないように。
ただ勝つためではなく、相手に負荷をかけないように。
そこに、ほんの少しだけ悠がいる気がした。
気がつけば、器の中には金魚が増えていた。
赤。
白。
黒。
尾の長いもの。
小さく丸いもの。
店のおじさんの顔が、だんだん引きつっていく。
「お、おい嬢ちゃん……いや坊主……そのへんで……」
悠は水槽を見る。
「残存対象、七」
「数えなくていい!」
そはらが慌てて止める。
しかし、悠は止まらなかった。
「全対象の一時捕獲後、同一環境へ返却します」
「全部いく気だ!」
ポイは破れない。
いや、普通なら破れるはずだ。
けれど、悠は紙にかかる水圧を最小限にしているのか、まったく破れる気配がない。
最後の一匹まで、悠は淡々とすくった。
水槽の中から金魚がいなくなった。
店のおじさんが、空になった水槽を見て呆然とする。
「全部……」
「全対象、一時捕獲完了」
「金魚すくいって、そういう遊びじゃないからな?」
「返却します」
悠はそう言って、器の金魚を一匹ずつ水槽へ戻し始めた。
一気に流し込まない。
そっと水面に近づけて、金魚が自分で泳ぎ出すのを待つ。
一匹。
また一匹。
全部の金魚が、水槽へ戻っていく。
戻された金魚たちは、少し驚いたように水槽の中を泳ぎ回った。
悠はそれを見ていた。
「戻ったな」
俺が言うと、悠は小さく頷いた。
「はい」
それから、ほんの少しだけ間を置いた。
「よかった」
俺はまた、悠を見た。
「今、よかったって言ったか?」
悠は水槽を見たまま、首を傾げる。
「不適切でしたか」
「いや」
俺は首を振った。
「不適切じゃない」
そはらも嬉しそうに笑った。
「うん。不適切じゃないよ」
悠はそれ以上何も言わなかった。
けれど、金魚を見つめる目が、ほんの少しだけ柔らかく見えた。
その時だった。
遠くで、花火の試し打ちの音がした。
どん、と低い音が夜に響く。
悠の動きが止まった。
首筋の発光環が、一瞬だけ強く回る。
「エリュシオン?」
俺が呼ぶ。
返事はない。
周囲の音。
人の声。
太鼓。
屋台の呼び込み。
花火の音。
提灯の明滅。
全部が、悠の中へ一気に流れ込んだみたいだった。
「周辺情報量、急増」
声が硬くなる。
「音源多数。熱源多数。移動体多数。発光反応。不規則振動」
「おい、落ち着け」
「安全判定、未完了」
背中に、紫の羽の輪郭が浮かぶ。
俺は息を呑んだ。
まずい。
ここで出たら、祭りどころじゃない。
「エリュシオン!」
反応はある。
でも、止まらない。
「防御展開準備」
「違う! これは花火だ!」
「花火」
「攻撃じゃない!」
そはらが慌てて前に出る。
「ユゥ、違うの! 綺麗なやつ! 見るもの!」
ユゥ。
その名前には、まだ反応しない。
けれど、悠の瞳がわずかに乱れた。
「見るもの」
イカロスが静かに言った。
「対象音源、敵性反応なし」
悠の視線がイカロスへ向く。
「根拠は」
「マスターが逃避行動を取っていません」
「……」
「そはらも、恐怖反応より制止反応が優先されています」
悠は周囲を見る。
人々は騒いでいる。
けれど、逃げてはいない。
むしろ、空を見上げている。
次の花火が上がった。
夜空に、光が開く。
赤。
青。
白。
悠は、それを見上げた。
紫の羽の輪郭は、まだ消えていない。
けれど、展開は止まっている。
「発光現象」
「花火だ」
俺は言った。
「夏祭りの花火」
悠は空を見ていた。
「燃焼時間が短い。音も大きい。使用後に消失する。保存性が低い」
「まあ、そうだな」
「非効率です」
また、それかと思った。
けれど、悠はすぐには視線を外さなかった。
「でも」
悠は空を見たまま言った。
「人間は、これを見るために集まる」
「そうだ」
「理由は不明」
「不明でいい」
俺は小さく息を吐いた。
「今は、見てろ」
悠は少しだけ黙った。
「命令ですか」
「違う。頼んでる」
「依頼として受諾します」
少し前なら、それだけで終わっていた。
けれど、悠はそこで一度、言葉を切った。
そして、小さく付け足した。
「……見ます」
花火がもう一つ上がった。
今度は大きかった。
夜空に広がる光を、悠はじっと見ていた。
その横顔は、まだ完全には悠ではない。
けれど、完全に機械だけでもない気がした。
そはらが小さく呟く。
「綺麗だね」
悠は答えない。
でも、視線は空から離れなかった。
しばらくして、悠がぽつりと言った。
「すぐ消えるのに」
俺は悠を見る。
「残ります」
「何が?」
悠は少しだけ首を傾げた。
自分でも、言葉を探しているようだった。
「……今、見たものが」
それは、説明としては足りなかった。
けれど、記録とか、観測とか、そういう言い方ではなかった。
俺は何も言えなくなった。
そはらも、少しだけ笑った。
イカロスは静かに空を見ている。
夜空に、また花火が咲いた。
宿題なんて、今はまだ無理だ。
でも、もしかしたら。
こういう分からないものを、一つずつ見せていくしかないのかもしれない。
効率でも、命令でも、必要性でもないもの。
悠が、悠として見ていたものを。
もう一度、悠に見せていくしかない。
夜空に、また花火が咲いた。
悠はまだ、それを見ていた。