翌朝。
昨日、家が壊れた。
獄門湯で龍の竜巻に殺されかけた。
悠は天女扱いされた。
それだけでも十分すぎるほど濃い一日だったのに、朝食は何事もなかったように出てきた。
俺は味噌汁を飲みながら、隣の悠を見た。
悠は箸を持っている。
食べ方は普通だ。
いや、普通に見える。
けれど、完全に戻ったわけではなかった。
「悠」
俺が呼ぶと、悠は少し遅れてこちらを見た。
反応した。
昨日までなら、無反応だった。
でも、返事はまだ硬い。
「呼称、紫月悠への反応を確認」
「そういう返事じゃなくて」
「応答内容、調整中」
「朝から調整するな」
そはらが、少しだけ笑った。
その笑い方にも、安心と不安が混ざっている。
イカロスは向かい側で、静かにご飯を食べていた。
昨日より、少しだけ表情が柔らかい気がする。
「イカロス」
俺が聞く。
「昨日、眠れたのか?」
「はい」
「夢は?」
「見ました」
守形先輩の箸が止まった。
「内容は」
「エリュシオンと戦闘していました」
「朝飯中にする話か、それ」
イカロスは表情を変えない。
「私はガトリング型コルク銃を使用していました」
「まだ引きずってる!」
「エリュシオンは回避しました。しかし、最終的に私は弾を多数命中させました」
悠の箸が、ほんの少し止まった。
「当機に?」
声は硬い。
でも、前より遠くない。
イカロスは悠を見る。
「はい。夢の中では、私が勝ちました」
「勝利条件は?」
「不明です」
「不明なのに勝ったのかよ」
「はい」
イカロスは少しだけ目を伏せた。
「ですが、勝った後、マスターは悲しんでいませんでした」
俺は言葉に詰まった。
イカロスは続ける。
「そのため、悪い夢ではないと判断します」
悠は黙った。
箸を持ったまま、少しだけ視線を落とす。
「それは」
まだ硬い声だった。
けれど、言葉を選んでいるようにも聞こえた。
「削除しなくていい記録です」
イカロスは悠を見る。
「消さなくて良い記録」
「はい」
悠は小さく頷いた。
「マスターが悲しんでいない記録なら、残す価値があります」
俺は思わず口を挟んだ。
「記録じゃなくて、思い出だろ」
悠がこちらを見た。
「思い出」
「そうだよ」
俺は味噌汁の椀を置く。
「夢で見たことでも、起きてから覚えてて、消したくないなら、それはもう思い出でいいだろ」
イカロスは少しだけ目を瞬かせた。
「夢も、思い出になりますか」
「なるんじゃないか?」
俺は少し照れくさくなって、視線を逸らした。
「少なくとも、消さなくていいなら」
イカロスは黙った。
それから、小さく頷く。
「では、これは思い出として保持します」
悠はその言葉を聞いて、何かを考えているようだった。
金魚を水槽に戻したこと。
花火を見たこと。
獄門湯の龍を消したこと。
俺が無事だったこと。
たぶん、そういうものが、悠の中でゆっくり繋がっていく。
「思い出」
悠はもう一度、そう呟いた。
声はまだ硬い。
けれど、さっきより少しだけ低く、柔らかかった。
そはらが、そっと呼んだ。
「ユゥ」
いつもなら反応しない。
昨日までは、そうだった。
けれど悠は、箸を持ったまま顔を上げた。
「なに?」
部屋が止まった。
俺も、そはらも、イカロスも、会長も、守形先輩も。
全員が悠を見た。
悠自身も、少し遅れて目を瞬かせる。
「……あれ」
その声は、昨日までの冷たいものではなかった。
まだ少し硬い。
けれど、紫月悠の声だった。
そはらの目が大きく開く。
「ユゥ?」
悠はそはらを見る。
今度は、ちゃんと見ていた。
対象としてでも、情報としてでもない。
そはらを、そはらとして見ていた。
「そはら」
その名前を聞いた瞬間、そはらの顔がくしゃっと歪んだ。
「戻った……?」
悠は少しだけ困ったように笑った。
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「完全かどうかは、まだ分からない」
悠は自分の胸元に手を当てる。
「でも、今は、ユゥって呼ばれたら分かる」
俺は息を吐いた。
長く止めていた息を、ようやく吐けた気がした。
「悠」
俺が呼ぶ。
悠はこちらを見た。
少し遅れたけれど、ちゃんと反応した。
「智樹」
それだけだった。
それだけで十分だった。
会長が楽しそうに笑う。
「朝から良いものを見たわ」
守形先輩は静かに頷いた。
「紫月悠としての応答が復帰したか」
悠は少しだけ眉を寄せる。
「まだ、エリュシオン側の処理も残っています」
「だろうな」
「でも」
悠は箸を置いた。
「全部、消さなくていいと思う」
「全部?」
そはらが聞く。
悠は少しだけ考えた。
「金魚を戻したこと。花火を見たこと。智樹が無事だったこと。イカロスが夢を見たこと」
そこで、少しだけ目を伏せる。
「あと、ボクが戻れなかったことも」
部屋が静かになった。
悠は続けた。
「怖い記録。でも、消したら、たぶん同じことを繰り返す」
俺は何も言えなかった。
イカロスが静かに言う。
「それも、思い出ですか」
悠は少しだけ困ったように笑った。
「たぶん、そう」
まだ危うい。
まだ完全に元通りではない。
でも、悠は戻ってきた。
記録としてではなく。
処理としてでもなく。
消さなくていいものを、思い出として持ったまま。
俺たちの前に、紫月悠として戻ってきた。
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数日後。
俺の家は、直っていた。
いや、直っていたというより、元より綺麗になっていた。
壁。
屋根。
畳。
柱。
家具。
爆撃みたいな崩壊をしたはずなのに、何事もなかったみたいに戻っている。
むしろ前より頑丈そうだった。
「……どういうことだよ」
俺が呟くと、外から妙に威勢のいい声が聞こえた。
「エリュシオンさん、チーッス!!」
「天女様、チーッス!!」
「
「ヒィッ!?」
俺は思わず後ずさった。
玄関前には、黒服の人たちがずらりと並んでいた。
全員、やたら姿勢がいい。
全員、やたら声が大きい。
そして全員、なぜか悠に向かって頭を下げている。
悠は少し困ったように立っていた。
完全に戻ったとはいえ、こういう状況にはまだ弱いらしい。
「……あの」
悠が小さく言う。
黒服たちは一斉に背筋を伸ばした。
「はいっ!」
「呼び方ですが」
「はいっ!」
悠は少しだけ目を伏せた。
「エリュシオンさん、ではなく」
そこで、ほんの少しだけ間を置く。
「紫月悠って呼んでくれると嬉しいな」
黒服たちが固まった。
数秒後。
「紫月悠さん、チーッス!!」
「紫月悠様、チーッス!!」
「紫月悠の姉御、チーッス!!」
「姉御は違う!」
俺が叫ぶと、悠は困ったように笑った。
「紫月悠さん、でお願いします」
「はいっ! 紫月悠さん!」
「返事まで揃えるな!」
そこへ会長が、いつもの笑みで現れた。
「あら、よかったじゃない。家も直ったし、紫月くんも人気者ね」
「人気の方向がおかしい!」
「だって、獄門湯の龍を鎮めた天女様だもの」
「天女じゃないって言ってるでしょうが!」
悠は少しだけ首を傾げた。
「当機は……」
そこで言いかけて、止まった。
そして、言い直す。
「ボクは、紫月悠です」
黒服たちは、また一斉に頭を下げた。
「紫月悠さん、チーッス!!」
悠は困った顔をしていた。
けれど、嫌そうではなかった。
「……うん。よろしく」
俺はそれを見て、深く息を吐いた。
今日も、俺の平和は元気にデストロイ。
けれど。
隣で困ったように笑っているのが悠なら、まあ、それでいい気もした。