夏休みは、まだ終わっていなかった。
宿題は、どうにか終わった。
数学は悠の答案を参考にした。
参考にしただけだ。
写したわけではない。
自由研究は悠に手伝ってもらった。
手伝ってもらっただけだ。
金魚すくい百二十枚の横に並べるものではないが、それでも提出できる形にはなった。
読書感想文は、気合で終わらせた。
気合で終わるものだったのかは分からない。
だが、終わったことにした。
そんな夏休みの、少しだけ気の抜けた午後だった。
俺は縁側に寝転がっていた。
そはらは隣で麦茶を飲んでいる。
イカロスは庭先でスイカを見ていた。
丸いからだろう。
悠は、縁側の端に座って風鈴を見上げていた。
完全に戻った。
そう言っていいと思う。
「悠」と呼べば、返事をする。
「ユゥ」とそはらが呼べば、普通に振り向く。
笑うことも増えた。
ただし、全部が元通りというわけではない。
時々、妙なところで硬い。
宿題は百八十七枚増える。
金魚すくいは論文になる。
日常を定義しようとする。
それでも、そこにいるのは紫月悠だった。
その時だった。
悠が、ふと顔を上げた。
風鈴の音が止まった気がした。
「悠?」
俺が呼ぶと、悠は神社の方を見たまま答えた。
「敵対反応」
その声は、さっきまでと違っていた。
高くて、硬い。
紫月悠の声の中に、エリュシオンの処理が混ざる時の声だった。
イカロスが静かに聞く。
「場所は」
「神社そば。大桜付近」
「敵か?」
俺も起き上がった。
悠は少しだけ目を細める。
「対象、タイプベータ」
「タイプベータ?」
「電子戦用エンジェロイド。ニンフ」
イカロスの表情がわずかに変わった。
「ニンフ」
「知ってるのか?」
俺が聞くと、イカロスは頷いた。
「シナプス所属の電子戦用エンジェロイドです」
「また増えた……」
俺は頭を抱えた。
悠は立ち上がる。
「こちらを観測している。対象はイカロスとボク」
「目的は?」
「不明」
「おいおいおい」
もう嫌な予感しかしない。
イカロスが、静かに翼を展開する。
「確認に向かいます」
「待て。いきなり戦うなよ」
「はい」
返事はした。
だが、俺は知っている。
イカロスの「はい」は、必ずしも安心材料ではない。
悠も立ち上がった。
「ボクも行く」
「悠」
俺が呼ぶと、悠は振り向いた。
今度はちゃんと、俺を見ていた。
「大丈夫」
「まだ何も言ってねえ」
「止める顔だった」
「……分かるのかよ」
「少し」
悠は小さく笑った。
その笑い方は、ちゃんと悠だった。
けれど次の瞬間には、視線が神社の方へ向く。
「確認は必要」
「危なかったら戻れよ」
「うん」
イカロスと悠は、空へ上がった。
羽音はほとんどしない。
夏の空に、白と紫の影が溶けていく。
俺はただ、それを見上げることしかできなかった。
-----
神社のそばには、大きな桜の木がある。
春でもないのに、そこだけ空気が少し違う。
木陰が深くて、蝉の声も少し遠く聞こえる。
その枝の上に、少女が座っていた。
青い髪。
小さな翼。
人を見下ろすような目。
けれど、その目の奥には、どこか焦りに似たものがあった。
「来た」
少女が呟く。
イカロスが地面に降りる。
悠は少し離れた位置に降り立った。
二人は少女を見上げる。
「電子戦用エンジェロイド、タイプベータ。ニンフ」
悠が言った。
ニンフの眉が動く。
「へえ。知ってるんだ」
「教えられている」
「そう」
ニンフは枝の上で足を組み替えた。
「なら話が早いわね」
ニンフの視線がイカロスへ向く。
「命令により、第一世代エンジェロイド、イカロスを回収する」
イカロスは表情を変えない。
「回収」
「そうよ」
ニンフの視線が悠へ移る。
「それと、可変統合型エンジェロイド、タイプシグマ。エリュシオン」
悠の瞳がわずかに細くなる。
「ボクも対象」
「ハッキング、および回収」
「対象指定を確認」
悠の声が、更に硬くなる。
「敵対意図、確定」
「そういうこと」
ニンフは笑った。
強がるような笑いだった。
「悪いけど、命令なのよ。さっさと終わらせてもらうわ」
「接触が必要」
悠が言った。
ニンフの笑みが一瞬止まる。
「何?」
「ニンフのハッキングは、対象への直接接触、または近接状態での侵入が必要」
「……よく分かってるじゃない」
「解析済み」
悠は一歩前に出る。
「ただし、ボクは不要」
ニンフの表情が変わった。
「何が」
「接触」
悠の首元に、淡い紫の制御環が浮かぶ。
「ハッキング開始。遠隔侵入開始」
その瞬間、ニンフの背中の羽が強く震えた。
「っ……!」
ニンフはすぐに防御を展開する。
空気が歪む。
見えない網が、ニンフの周囲に張られるようだった。
「何これ……!」
「防壁確認」
悠は淡々と言う。
「侵入経路、遮断中」
「触ってもないのに……!」
ニンフは歯を食いしばる。
「何で、アンタが私に入ってくるのよ!」
「後世代機。処理構造が異なる」
「ふざけないで!」
ニンフは両手を広げる。
空中に、幾つもの光の紋が浮かんだ。
それらは音もなく震え、見えない刃のように広がっていく。
「こっちは、アンタを落とせばいいだけよ!」
その時。
イカロスが静かに言った。
「コネクト」
ニンフの顔色が変わった。
イカロスの背後の空間が、薄く歪んだ。
最初は、そこに何もないように見えた。
けれど、次の瞬間、透明な輪郭が浮かび上がる。
砲身。
輪。
基部。
まるで、見えない兵装がイカロスの背後に重なっているようだった。
その透明な構造体が、ゆっくりと前へ押し出される。
空間に、薄い膜のような境界が走った。
その面を越えた部分から、色が付く。
金色の基部。
青白い発光。
紫がかった先端。
透明だった兵装が、境界面を通過したところだけ実体化していく。
ウラヌスシステム。
それはイカロスの背後にあったものが、世界のこちら側へ現れてくるようだった。
大きさは、神社を覆うほどではない。
けれど、向けられているだけで分かる。
これは、普通の武器ではない。
「待っ……!」
ニンフの声が跳ねた。
「それ、起動する気!?」
イカロスは無表情のまま、ニンフを見る。
「対象ニンフ。敵対行動を停止してください」
「何よ、それ……!」
「停止しない場合、迎撃します」
「脅しの規模が大きすぎるでしょ!」
ニンフは焦った。
悠の侵入を防がなければならない。
イカロスのウラヌスシステムも止めなければならない。
同時に二つ。
電子戦型であるニンフにとって、それは致命的な状況だった。
「だったら!」
ニンフは、悠へ向けて手を振り下ろす。
空気が震えた。
音ではない。
音になる前の振動。
目に見えない圧が、悠へ向かって走る。
「
振動が、神社の石畳を揺らす。
木の葉が一斉に震えた。
だが。
悠の前で、青緑色の光が広がった。
六角形の紋様が重なり、半球状の防壁となって空間を覆う。
青白く、緑がかった光。
薄い膜のようでいて、決して破れない何か。
振動は、そこで止まった。
弾かれたのではない。
届かなかった。
「な……」
ニンフの声が震える。
「何で」
悠の瞳が、静かにニンフを見る。
「ミラージュ・ドライヴ」
青緑の防壁が、淡く脈打つ。
「模倣対象、イカロス。展開方式、
ニンフの顔が歪んだ。
「何でお前が……!」
「通常出力、模倣率六割」
悠は淡々と言った。
「完全再現ではない。ただし、現攻撃の防御には十分」
「っ……!」
ニンフはさらに後退する。
焦りが、完全に表情に出ていた。
悠へのハッキングを防いでいる間に、イカロスはウラヌスシステムを起動し続けている。
攻撃は防がれた。
逃げ道は、ない。
イカロスも悠も、ニンフより速い。
空へ逃げようとしても追いつかれる。
防壁を維持すれば、悠の侵入を止めるので精一杯。
防壁を解けば、命令系統に触れられる。
そして上空には、ウラヌスシステム。
ニンフは歯を食いしばった。
「対象ニンフ」
イカロスが言う。
「投降してください」
ニンフは目を見開いた。
「投降?」
「はい」
イカロスは静かに続ける。
「敵対行動を停止してください」
「誰がそんなこと!」
「拒否した場合、ウラヌスシステムによる制圧を継続します」
「だから脅しの規模!」
悠が一歩進む。
「対象ニンフへの命令系統は、ボクが遮断できる可能性がある」
ニンフの動きが止まった。
「……何ですって?」
「完全なマスター変更には、より深い処理が必要」
悠は淡々と言う。
「ただし、現在の命令遮断のみなら可能」
「命令遮断……?」
「イカロス回収命令。エリュシオンハッキング命令。回収命令。これらを一時無効化できる」
「ふざけないで」
ニンフの声が低くなる。
「私の中を、勝手に触る気?」
悠はすぐには答えなかった。
少しだけ、表情が変わる。
紫月悠としての顔が、一瞬だけ見えた。
「勝手にはしない」
「は?」
「投降するなら、命令遮断だけを行う」
悠はニンフを見る。
「それ以上はしない」
ニンフは笑った。
けれど、その笑いは震えていた。
「馬鹿じゃないの。命令を止める? そんなことしたら、私はどうなるのよ」
「不明」
「不明って」
「でも、命令に従い続けた場合、イカロス回収とボクの回収を継続する」
悠の声がまた硬くなる。
「その場合、こちらは迎撃する」
イカロスが続けた。
「ウラヌスシステム、照準継続」
空が鳴る。
ニンフは歯を食いしばった。
逃げる。
戦う。
防ぐ。
どれも、うまくいかない。
電子戦で有利なはずだった。
なのに、目の前のエリュシオンは、触れもせずにこちらへ侵入しようとしてくる。
第一世代のイカロスは、ウラヌスシステムを起動している。
命令はある。
連れ戻せ。
ハッキングしろ。
回収しろ。
だが、その命令を実行するための道が、見えない。
「……っ」
ニンフは、拳を握った。
「冗談じゃない」
一瞬だけ、防壁が揺らぐ。
悠の制御環が光った。
「侵入経路、再検出」
「しまっ……!」
ニンフはすぐに防壁を張り直す。
だが、遅い。
ほんのわずか。
ほんの一瞬だけ、悠の処理がニンフの内側へ触れた。
ニンフの瞳が揺れる。
「命令系統、確認」
悠の声が冷たくなる。
「多層拘束。外部マスター権限。強制回収命令。対象イカロス。対象エリュシオン」
「見るな!」
ニンフが叫んだ。
その声は、怒りだけではなかった。
恐怖が混ざっていた。
悠はすぐに処理を止める。
「深層侵入、中断」
ニンフは肩で息をした。
イカロスは、まだ照準を解いていない。
悠は言った。
「これ以上続ける必要はない」
「何よ、それ」
「投降して」
ニンフは睨む。
「アンタが言うの?」
「うん」
「敵に?」
「うん」
悠は少しだけ目を伏せた。
「命令で来ているなら、止まれる可能性がある」
ニンフの表情が歪む。
「止まれる?」
「少なくとも、ここで壊される必要はない」
その言い方は、エリュシオンではなかった。
紫月悠だった。
イカロスが静かに言う。
「対象ニンフ。投降してください」
ニンフは空を見る。
ウラヌスシステムの圧。
目の前の青緑の防壁。
自分の内側に触れた、紫の処理。
全部が、自分に向いている。
逃げられない。
勝てない。
任務は、続けられない。
「……投降したら」
ニンフは震える声で言った。
「本当に、それ以上触らないの」
悠は頷いた。
「命令遮断のみ」
「マスター権限は」
「触らない」
「私の記憶は」
「触らない」
「自由意志は」
「触らない」
ニンフは唇を噛んだ。
「信じろって言うの?」
「うん」
「馬鹿じゃないの」
「そうかも」
悠は小さく言った。
「でも、今はそれしかない」
ニンフはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと両手を下ろした。
防壁が薄くなる。
ニンフの羽が、力を失ったように下がる。
「……投降する」
イカロスが静かに言った。
「敵対行動停止を確認」
イカロスの背後に展開したウラヌスシステムが、照準を維持したまま静止する。
完全には消えない。
まだ、警戒している。
悠は一歩近づいた。
「命令遮断を実行」
ニンフは目を閉じた。
「勝手に奥まで見たら、殺すから」
「了解」
「殺せるか分かんないけど」
「それも了解」
悠の首元の制御環が淡く光る。
紫の光が、細い糸のようにニンフへ伸びた。
オーバーライドではない。
首輪も鎖も出ない。
悠は悠のまま、必要な範囲だけに処理を絞っている。
「強制命令路、遮断」
ニンフの身体が小さく震えた。
「イカロス回収命令、一時無効化」
「エリュシオンハッキング命令、ならびに回収命令、一時無効化」
ニンフの表情が変わった。
「……え」
「命令遮断、完了」
悠は手を下ろした。
「深層干渉なし。マスター権限、保持。記憶領域、未接触」
ニンフは胸元を押さえた。
「命令が」
声が震えていた。
「遠い……」
完全に消えたわけではない。
けれど、今すぐ自分を動かす鎖ではなくなっていた。
ニンフは俯いた。
「何よ……これ」
悠は答えない。
イカロスも黙っている。
ニンフは、小さく息を吐いた。
「命令がないと、何していいか分かんないじゃない」
その声は、強がっていた。
けれど、どこか弱かった。
悠は静かに言った。
「今は、ここにいればいい」
「何それ」
「投降後の待機」
「結局待機じゃない」
「でも、命令ではない」
ニンフは顔を上げた。
悠は、ニンフを見ていた。
「選択」
ニンフは何も言えなかった。
ただ、唇を噛んだ。
ウラヌスシステムが、ようやく実体化を解除していく。
境界面の向こうへ戻るように、金色の基部も、青白い発光も、紫の先端も、透明になっていった。
最後に輪郭だけが残り、それもすぐに空気へ溶ける。
神社の大桜に、静けさが戻る。
イカロスは言った。
「対象ニンフ、投降」
「うん」
悠は頷いた。
ニンフは、空からゆっくり地上に降り立つ。
もう逃げなかった。
逃げられないからではない。
たぶん、今だけは。
逃げる命令が、遠かったから。
-----
「で?」
俺は帰ってきた三人を見た。
三人。
そう。
三人だった。
イカロスと悠だけではない。
青い髪の小さな少女が、少し不機嫌そうに立っている。
「敵だったんだよな?」
イカロスは答える。
「はい。タイプベータ、ニンフ」
「で、何で連れて帰ってきてるんだ?」
「投降しました」
「投降!?」
俺は思わず叫んだ。
「何があったらそうなるんだよ!」
悠は少しだけ考えた。
「イカロスがウラヌスシステムを起動した」
「それは少しじゃねえ!」
「少しとは言ってない」
「言ってないけど!」
ニンフが横から睨む。
「うるさいわね。別に好きで来たわけじゃないわよ」
「じゃあ帰るのか?」
ニンフは言葉に詰まった。
少しだけ、視線を逸らす。
「……今は、帰れない」
悠が静かに言う。
「命令遮断中」
「命令遮断?」
俺は悠を見る。
「できるのか?」
「一時的に」
「危なくないのか?」
「マスター権限には触れていない。記憶にも触れていない。命令路だけ遮断した」
「さらっとすごいこと言ってるな」
「必要だった」
「必要の規模がおかしいんだよ」
ニンフは腕を組んで、そっぽを向いた。
「勘違いしないでよ。私は投降しただけ。仲間になったわけじゃないから」
「はいはい」
「はいはいって何よ!」
そはらが玄関先から顔を出した。
「トモちゃん、何かあったの?」
そして、ニンフを見て固まった。
「……また?」
「俺もそう思う」
そはらは苦笑した。
「えっと、こんにちは」
ニンフは顔を逸らす。
「……別に」
「別にって」
俺は頭を抱えた。
夏休みはまだ終わっていない。
宿題は終わった。
少なくとも、終わったことにした。
だが、どうやら平和の方は終わっていなかったらしい。
ニンフ。
新しいエンジェロイド。
命令で来た敵。
そして、なぜか投降して、今うちにいる。
嫌な予感しかしない。
けれど、悠は帰ってきた。
イカロスも隣にいる。
誰も壊れていない。
ニンフも、壊さずに済んだ。
悠はそれを、少しだけ安心したように見ていた。
俺はため息をついた。
「とりあえず」
全員が俺を見る。
「麦茶でも飲むか」
ニンフが眉をひそめる。
「何でよ」
「投降者にも麦茶くらい出すだろ」
「意味分かんない」
「俺も分からん」
悠が小さく笑った。
「でも、悪くない」
ニンフは、ますます不機嫌そうな顔をした。
けれど、帰るとは言わなかった。