夏休みの宿題を見た。
数学のプリントだった。
俺は一問目を見た時点で、そっと目を閉じた。
「むっか……」
問題文には、授業で聞いたような言葉が並んでいる。
倍角。
三倍角。
半角。
和積。
積和。
竹原先生は言っていた。
前回の授業で扱ったから使っていい、と。
使っていいのと、使えるのは別問題だと思う。
「つくな〜……」
俺は机に突っ伏した。
そはらがプリントを覗き込む。
「なにが?」
「夏休みに宿題があんのもそうだけどよ」
俺はプリントを持ち上げた。
「見ろよ、この数学の竹原の宿題」
そはらは問題を見た。
そして、すぐに眉を寄せた。
「うわ……」
「だろ?」
俺は叫びたくなった。
「いっつもいっつも一般人には絶対解けないような宿題出しやがって……」
そこまで言って、俺はふと思い出した。
一般人じゃないやつが、隣にいた。
「悠」
呼ぶと、悠は顔を上げた。
「何?」
その返事が普通に返ってくるだけで、少し前なら感動していたと思う。
今は、それに少しだけ慣れてきている。
慣れてきていることが、少し嬉しかった。
「この宿題、分かるか?」
悠はプリントを見る。
一秒。
二秒。
「終わってる」
「早っ」
「配られたときにすぐに解いた」
「俺がまだ開く前に!?」
悠は鞄から、きれいに揃えられた紙束を取り出した。
厚い。
明らかに厚い。
俺は嫌な予感を覚えながら聞いた。
「……何枚ある?」
「九十六枚」
「宿題プリント一枚だぞ!?」
「別紙提出可だった」
「可だったら九十六枚出していいわけじゃねえ!」
悠は不思議そうに首を傾げた。
「全部証明した」
「全部!?」
「一番簡単なものから順に」
「順番の問題じゃねえ!」
「提出用」
「提出用で九十六枚になるな!」
そはらも苦笑しながら紙束を見ている。
「ユゥ、これ全部答え?」
「答えと、使用した前提の証明」
「前提?」
悠は一枚目を見せた。
そこには、まず問題の解答が書かれていた。
途中式もある。
ここまでは、まだ分かる。
いや、内容は分からないが、答案だということは分かる。
問題は二枚目以降だった。
「これは?」
俺が聞くと、悠は淡々と答えた。
「目次」
「宿題に目次を付けるな!」
「九十六枚あるので、必要」
「必要にするな!」
そはらが二枚目から五枚目を見て、目を丸くする。
「目次だけで四枚ある……」
「章と節を分けた」
「論文みたいになってるよ……」
俺は恐る恐る、六枚目をめくった。
「これは?」
「命題論理と推論規則」
悠は真面目な顔で説明する。
「一番簡単なものから順に書いた」
「これが簡単?」
「証明が簡単という意味ではない」
悠は紙束を軽く揃える。
「数学として、より根本に近いものから」
「根本から始めるな!」
「証明に使うので」
「使うからって毎回作るな!」
さらに紙をめくる。
「これは?」
「集合、写像、順序対」
「数学の宿題だよな?」
「数学」
「数学を全部やるな」
まためくる。
「これは?」
「自然数の構成」
「何で!?」
「加法と乗法の再帰的定義を確認するため」
「三角関数の宿題で足し算から確認するな!」
悠は少しだけ困った顔をした。
「でも、加法を使う」
「使うけど!」
「前回、竹原先生に、前提確認は別紙と指示された」
「言われたな」
「今回は別紙提出可だった」
「嫌な予感しかしない」
「だから、答案用紙では数学を再建していない」
「別紙で再建してるじゃねえか!」
「条件は満たしている」
「精神は踏みにじってる!」
そはらが紙束を持ち上げる。
「でも、字はちゃんと読めるね」
「読めないと提出物として機能しない」
「そこはちゃんとしてるんだ……」
「内容は簡単」
「これが?」
「一枚目が解答。二枚目から五枚目が目次」
「目次だけで四枚ある時点でおかしい」
「六枚目から二十八枚目が、命題論理、集合、自然数、加法、乗法、分配法則」
「三角関数どこ行った!?」
「まだ到達していない」
「到達してないのかよ!」
「二十九枚目から四十九枚目が、実数、座標平面、距離、円、単位円、角度、ラジアン」
「ようやく三角関数っぽいね」
「まだ前提」
「まだ前提なの!?」
「五十枚目から七十五枚目が、回転変換、三角関数の定義、加法定理、差の公式。七十六枚目から九十二枚目が、倍角、三倍角、半角、和積、積和」
「本題が遠すぎる!」
「九十三枚目から九十六枚目が、定義域、除外条件、符号、分母条件、置換の正当性」
「宿題プリント一枚から数学を再建するな!」
「ユゥ、簡単って?」
「構成の説明」
「説明がもう簡単じゃない!」
俺は最後の紙を見た。
そこには、分母が零にならない条件や、半角変換で必要な符号、置換した文字を元の角に戻せることまで書かれていた。
俺は黙って紙を戻した。
「……これで全部か?」
「今回の問題に必要な範囲では」
「その言い方やめろ。まだ増える余地があるみたいに聞こえる」
「ある」
「あるのかよ!」
「ただし、提出物としては九十六枚で閉じた」
「閉じる場所がおかしい!」
俺は頭を抱えた。
そはらは困ったように笑っている。
悠は自分のプリントを見下ろして、少しだけ不安そうに言った。
「多い?」
「多い」
俺とそはらの声が揃った。
悠は少しだけ目を伏せた。
「減らした方がいい?」
俺はそこで、少しだけ言葉に迷った。
昔なら、即座に「減らせ」と言っていたと思う。
でも、今の悠はただふざけているわけじゃない。
手を抜けない。
省略が怖い。
不完全なまま出すことが、たぶん嫌なのだ。
「……提出するなら、一枚目だけでいいんじゃねえか?」
「残りは?」
「先生に聞かれたら出せ」
「補助資料」
「そう。それならまだ人間っぽい」
「人間っぽい」
悠は少し考えた。
「分かった。提出は一枚目」
「お、分かってきたじゃねえか」
悠はそこで、もう一度紙束を見下ろした。
一枚目。
残り九十五枚。
それを交互に見る。
「……でも」
「でも?」
「補助資料を提出しない場合、使用前提の証明が採点者に伝わらない可能性がある」
「言い方が固い!」
「不完全に見える」
そはらが苦笑する。
「ユゥ、それは先生が聞いたら出せばいいんじゃない?」
悠は真面目に考えた。
かなり真面目に考えた。
そして、静かに紙束を揃えた。
「やっぱり全部出す」
「戻った!」
「全部出す方向に戻るな!」
「別紙提出可だった」
「免罪符みたいに言うな!」
「読めるサイズで書いたから、問題はないと思う」
「問題しかないんだよ」
「圧縮はした」
「圧縮して九十六枚なんだろ!?」
悠は少しだけ困ったように笑った。
「うん」
その笑い方は、少しだけ昔の悠に近かった。
だから余計に、俺は何も言えなくなった。
そはらが小さく笑った。
「でも、前よりいいと思うよ」
悠はそはらを見る。
「いい?」
「うん。ちゃんと人に合わせようとはしてるから」
悠は少しだけ黙った。
それから、小さく頷いた。
「合わせるのは、難しい」
「だろうな」
「でも、やる」
俺はプリントを見下ろす。
普通ではない。
どう考えても普通ではない。
でも、こいつは今、普通になろうとしている途中なのだ。
俺はため息をついた。
「じゃあ悠」
「何?」
「一枚目だけ見せろ」
「写す?」
「参考にする」
「同義では?」
「違う!」
悠は少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
俺はその笑顔を見て、まあいいかと思ってしまった。
数学は相変わらず難しい。
宿題も全然終わる気がしない。
でも、悠が隣で九十六枚の提出プリントを抱えているこの光景は、少しだけ日常っぽかった。
俺は、数学の九十六枚を見たあとで、ふと思った。
国語。
国語なら、まだ何とかなるかもしれない。
漢字は書けばいい。
読書感想文も、まあ、感想を書けばいい。
少なくとも、三角関数で数学を再建するよりはましなはずだ。
「悠」
「何?」
「国語は?」
悠は少しだけ考えた。
「終わってる」
「だろうな」
もう驚かない。
驚かないぞ。
「漢字か?」
「漢字と読書感想文」
「漢字はまあいいとして……読書感想文は?」
「終わってる」
「何枚?」
「五十二枚」
俺は固まった。
そはらも固まった。
「……感想文だよな?」
「うん」
悠は普通に頷いた。
「本文評論四十枚、感想十二枚」
「評論を先に出すな!」
「感想の根拠」
「根拠が本体より長すぎる!」
そはらが恐る恐る聞く。
「ユゥ、それって原稿用紙で?」
「うん」
「五十二枚?」
「うん」
俺は額を押さえた。
数学九十六枚。
国語五十二枚。
こいつの宿題は、教科ごとに増殖するのか。
「ちょっと見せてくれ」
俺が言うと、悠は頷いた。
そして、鞄を開けた。
最初に出てきたのは漢字ドリルだった。
俺は何となく開く。
そして、すぐに閉じそうになった。
「……何だこれ」
漢字が並んでいる。
ただし、全部が同じだった。
同じ字は、完全に同じ形をしていた。
大きさ。
角度。
止め。
はね。
払い。
それどころか、筆圧まで同じに見える。
一行目の「語」と、次の行の「語」が、まるで上から写したみたいに一致している。
「これ、手書きだよな?」
「手書き」
「スタンプじゃないよな?」
「違う」
「コピーでもないよな?」
「違う」
そはらが覗き込んで、小さく笑った。
「すごい……全部同じ形」
悠は少しだけ首を傾げる。
「同じ字なので」
「同じ字でも普通はちょっとズレるんだよ」
「ズレる必要性は低い」
「そこから違う!」
漢字の時点でおかしい。
だが、問題はまだ本命ではなかった。
悠は、さらに鞄の奥から紙束を取り出した。
厚い。
数学より、明らかに厚い。
いや、厚いというより、もう冊子だった。
「これ」
「これ、って」
俺は受け取った。
重い。
読書感想文の重さではない。
「タイトルは?」
そはらが聞く。
悠は答える。
「読書感想文」
俺は表紙を見た。
そこには、きっちりした字でこう書かれていた。
読書感想文
本文評論および読後感整理
全五十二枚
「感想文の表紙に『本文評論および読後感整理』って書くな!」
「内容の分類」
「分類するな!」
俺は一枚目をめくった。
まず、目次があった。
「目次あるのかよ!」
悠は頷く。
「五十二枚あるから」
「感想文に目次をつけるな!」
そはらが目次を読み上げる。
「第一章、作品概要。第二章、章ごとの要約。第三章、登場人物の心理推移。第四章、主題と象徴表現。第五章、文体、語彙、比喩表現。第六章、時代背景と作者略歴。第七章、別解釈の検討。第八章、読後感の発生条件。第九章、感想……」
「卒論か!」
「読書感想文」
悠は真面目に言った。
「どこがだよ!」
「第九章が感想」
「そこまで行かないと感想に入らないのかよ!」
俺はさらにめくる。
一枚目から、やたら整った文章が並んでいた。
作品のあらすじ。
登場人物の関係。
物語の構造。
序盤と終盤の対比。
そして、ところどころに引用と注釈がある。
「注釈まである……」
「本文解釈の根拠」
「国語の宿題だよな?」
「国語」
「国語ってこういう教科だったっけ?」
「文章を読む教科」
「読みすぎだ!」
そはらが別のページを指さした。
「この、心理推移って何?」
悠はページを見て答えた。
「登場人物の行動選択に対する心理状態の変化」
「感想文だよね?」
「感想に必要」
「全部必要になっちゃうじゃん」
「必要だった」
俺はさらに紙をめくった。
「これは?」
「主題と象徴表現」
「これは?」
「反復される語彙と印象形成」
「これは?」
「読後感が発生した箇所の分類」
「感想を分類するな!」
悠は少しだけ困った顔をした。
「分類しないと、なぜそう感じたか分からない」
その言葉で、俺は少しだけ黙った。
まただ。
数学の時と同じ。
悠は、ただふざけているわけじゃない。
分からないまま「感想」と言えないのだ。
自分が何を見て、何を感じて、どこでそうなったのか。
それを全部確かめないと、不安なのだ。
でも。
「五十二枚は多い」
「多い?」
「多い」
そはらも頷いた。
「多いと思う」
悠は少しだけ目を伏せた。
「指定は原稿用紙三枚以上」
「以上って言葉に全力で乗るな!」
「下限のみ指定」
「上限がないからって五十二枚出すな!」
悠は真面目にページを揃える。
「でも、削ると根拠が不足する」
「感想文にそこまで根拠はいらない」
「感想なのに?」
「感想だからだよ!」
悠は納得していない顔をした。
かなり納得していない。
「じゃあ、構成だけ教えろ」
「構成?」
「何が何枚なんだよ」
悠は頷いた。
「本文評論四十枚。感想十二枚」
「大枠は聞いた」
「章ごとの要約と構造分析、八枚。登場人物の心理推移、七枚。主題と象徴表現、六枚。文体、語彙、比喩表現、五枚。時代背景と作者略歴、五枚。場面ごとの解釈と別解釈、六枚。感想に至る根拠整理、三枚」
「それで四十枚か」
「うん」
「で、感想が十二枚」
「読後感、印象に残った場面、感情が動いた理由、自分の経験との比較、作品全体への評価、結論」
「ちゃんと感想してるのがまた腹立つな……」
そはらが苦笑する。
「ユゥ、最後の十二枚だけ出せばいいんじゃないかな?」
悠は黙った。
そして、本文評論四十枚を見た。
次に、感想十二枚を見た。
それから、俺たちを見た。
「本文評論を提出しない場合、感想の根拠が採点者に伝わらない可能性」
「またそれか!」
「不完全に見える」
「感想文は不完全でいいんだよ!」
「よくない」
即答だった。
そこだけは迷いがなかった。
俺はため息をつく。
「じゃあせめて、本文評論を補助資料にしろ」
「補助資料」
「そう。感想文は十二枚。残り四十枚は補助資料」
悠は少し考えた。
「補助資料を提出しない場合」
「出すなとは言ってない!」
「では、全部提出」
「戻った!」
「結局全部出すのかよ!」
悠は紙束をきれいに整えた。
「提出物としての完全性を優先」
「国語でもそれか!」
そはらが、少し困ったように笑う。
「でも、ユゥらしいね」
悠はそはらを見る。
「そう?」
「うん。ちょっとやりすぎだけど」
「やりすぎ」
悠は自分の原稿用紙を見る。
少しだけ考える。
「圧縮はした」
「圧縮して五十二枚なんだろ!?」
「うん」
「圧縮の意味!」
俺は頭を抱えた。
数学は九十六枚。
読書感想文は五十二枚。
漢字はスタンプみたいな手書き。
宿題というものが、俺の知っている宿題からどんどん遠ざかっていく。
「なあ悠」
「何?」
「お前、他の教科は?」
悠は少しだけ視線を逸らした。
「終わってる」
「聞かなきゃよかった」
「確認する?」
「しない!」
即答した。
これ以上見たら、俺の夏休みが終わる前に心が終わる。
そはらは笑っていた。
イカロスは、漢字ドリルをじっと見ている。
「マスター」
「何だ」
「同じ字です」
「そうだな」
「全部同じです」
「そうだな」
「美しいです」
「そこに反応するのかよ」
悠は少しだけ照れたように、漢字ドリルを閉じた。
「同じに書いた」
「だろうな」
「でも、感想文は同じにできなかった」
「当たり前だ」
「感想は、少し難しい」
その声が、少しだけ小さくなった。
俺は紙束を見る。
評論四十枚。
感想十二枚。
どう考えてもやりすぎだ。
でも、その十二枚には、悠が自分で考えたことが書いてあるのだろう。
記録でも、処理でもなく。
感想として。
「まあ」
俺は小さく息を吐いた。
「読んだ先生は泣くな」
「感動?」
「量で」
悠は少しだけ笑った。
「なら、成功?」
「失敗だ!」
その笑い方は、昔の悠に近かった。
俺は、五十二枚の読書感想文をそっと机に置いた。
置いたというより、逃がした。
これ以上読んでいたら、国語の宿題という概念が壊れる気がした。
「……自由研究は?」
聞くべきではない。
そう思った。
思ったのに、聞いてしまった。
悠は少しだけ頷いた。
「終わってる」
「だよな!」
「理科」
「理科か……」
俺は少しだけ身構えた。
数学九十六枚。
読書感想文五十二枚。
この流れで理科が普通に終わっているわけがない。
「テーマは?」
悠は鞄から、また別の紙束を取り出した。
厚い。
分厚い。
読書感想文とは別方向で、明らかに嫌な厚さだった。
表紙には、きっちりした字でこう書かれていた。
自由研究
金魚すくいにおける紙製捕獲器具の破断条件と水流制御による生体負荷低減
全百二十枚
「金魚すくいだよな!?」
「うん」
「何でタイトルが論文なんだよ!」
「自由研究」
「自由すぎる!」
そはらが横から覗き込む。
「金魚すくいって、夏祭りの?」
「うん」
悠は頷いた。
「水槽観察時、捕獲行為における生体負荷が気になった」
「そこから自由研究にいくんだ……」
「無責任な捕獲は推奨できない」
「夏祭りでも言ってたな、それ」
俺は頭を抱えた。
そういえば、夏祭りの次の日。
悠が何やら色々買っていた。
スーパーボールとか、小さいスポンジとか、金魚みたいな玩具とか、洗面器とか。
あの時は、また何か変なことをしているな、くらいにしか思わなかった。
「そういえば、夏祭りの次の日に色々買ってたな」
「実験用具」
「で、それが家ごと爆散したんだよな」
「実験は完了済み」
「早いな!」
「購入後、即時実施」
「そこは無駄に手際がいい!」
悠は紙束を開いた。
目次があった。
また目次だ。
しかも、読書感想文よりさらに嫌な目次だった。
「構成」
悠は淡々と言う。
「要旨、二枚。研究の動機、四枚。使用器具、三枚。実験方法、十二枚。実験一、水面侵入角と破断率、十四枚。実験二、表裏使用による紙面劣化分散、十二枚。実験三、尾びれ接触と破断率、十二枚。実験四、対象物重量と破断条件、十二枚。実験五、紙面含水率と水切り操作、十四枚。実験六、水流制御と捕獲成功率、十六枚。実験七、代替対象への接触圧と負荷推定、九枚。結果、八枚。考察、十枚。結論、六枚」
「全部で?」
「百二十枚」
「自由研究の枚数じゃねえ!」
「図表込み」
「込みでも多い!」
そはらが、恐る恐るページをめくる。
「本物の金魚は使ってないんだね」
「生体負荷回避」
悠は即答した。
「代替対象として、スーパーボール、小型スポンジ、金魚型玩具を使用」
「そこはちゃんとしてるんだ」
「金魚を使用すると、研究目的と矛盾」
「正論だけど、自由研究でそこまで考える?」
悠は少しだけ首を傾げた。
「必要」
「必要かあ……」
そこには、洗面器の図が描かれていた。
いや、図というより写真だった。
洗面器の縁。
水面の揺れ。
ポイの紙目。
スーパーボールに映った光。
小型スポンジの気泡。
金魚型玩具の尾びれの角度。
全部が、妙に精巧なカラーで描き込まれている。
「……これ、写真貼ったのか?」
「手描き」
「手描き!?」
「色鉛筆」
「色鉛筆でこの精度出すな!」
そはらが覗き込んで、目を丸くした。
「すごい……水面が本当に光って見える」
悠は少しだけ首を傾げる。
「観察図」
「観察図の情報量じゃねえ」
ポイの角度。
水面への侵入角。
引き上げ速度。
紙面の含水率。
スーパーボールの重量。
スポンジの吸水後重量。
金魚型玩具の形状差。
もう完全に遊びではない。
「実験一、水面侵入角と破断率」
悠は一枚を指さした。
「水面に対して一度から九十度まで、一度刻みでポイを侵入。各角度十回、合計九百回測定」
「九百回!?」
「破断率を比較」
「自由研究でやる量じゃねえ!」
「測定上、三十五度から四十五度が安定」
「そこだけ妙に実戦的だな」
「金魚すくいにおける一般的な推奨角度とも一致」
「調べたのかよ!」
「必要情報」
悠はさらにページをめくった。
「実験二、表裏使用による紙面劣化分散」
「表裏?」
「ポイの表と裏」
「裏とかあるのか?」
「裏面は水が溜まりやすい。紙面負荷、増加」
「じゃあ駄目じゃねえか」
「ただし、対象が引っかかりやすい」
「何で長所もあるんだよ」
悠は淡々と続ける。
「表面のみの連続使用は紙面劣化が偏る」
「そこまで見るのかよ」
「数匹を裏面で捕獲後、表面へ切替。表裏を交互使用することで紙面劣化を分散」
「金魚すくいでローテーション管理するな!」
「強度維持に有効」
そはらが苦笑する。
「ユゥ、そこまで考えてたんだ……」
「そう」
悠は別の図を示した。
「実験三、尾びれ接触と破断率」
そこには、金魚の尾びれだけが枠の外へ出るような図が描かれていた。
「尾びれ外し」
「技名みたいに言うな」
「実際の技術」
「あるのかよ!」
「尾びれが紙面上に残ると、跳ねた際に破断する可能性」
「尾びれで破れるのか」
「うん。枠外へ逃がすことで紙面接触を低減」
「金魚すくいの説明なのに、だんだん武術みたいになってきたな……」
「捕獲対象への負荷低減にも有効」
「また正論だよ!」
次のページには、スーパーボールとスポンジの比較表があった。
表の横には、それぞれの断面図まで描かれている。
スーパーボールの反射。
スポンジの吸水した部分の色の濃さ。
金魚型玩具の尾びれの曲がり方。
全部、写真みたいだった。
「自由研究の図表って、ここまで描くものだっけ?」
「観察結果」
「観察結果を美術作品にするな」
「実験四、対象物重量と破断条件」
「もう名前が嫌だ」
「スーパーボールは重量負荷。小型スポンジは含水後重量増加。金魚型玩具は形状による水流抵抗」
「金魚すくいから、何でそんな単語が出てくるんだよ」
「出る」
「出ねえよ」
そはらが、小型スポンジの欄を見て言った。
「スポンジって、水を吸うから重くなるんだね」
「うん」
悠は頷く。
「吸水後、破断率上昇。水切り操作が重要」
「水切り操作?」
俺が聞くと、悠は別のページを開いた。
「実験五、紙面含水率と水切り操作」
図には、ポイを傾けた角度が細かく書かれていた。
「紙面を三・二度傾け、余剰水分を縁へ移動」
「三・二度!?」
「最も安定」
「そんな角度、人間は分からん!」
「目視訓練で近似可能」
「無理だ!」
「水切り時のみ短時間加速。通常引き上げ速度は毎秒十二センチ以下」
「バグみたいな操作を前提にするな!」
悠は真面目に言った。
「破断防止に有効」
「有効でも人間にできない!」
「人間実行可能性、低」
「自覚あるんだな!」
「ただし、練習で改善可能」
「まだ言うか!」
そはらは笑いをこらえながらページをめくる。
「実験六は?」
「水流制御と捕獲成功率」
悠は水槽の図を指した。
「対象を追う方法と、進行方向に先置きする方法を比較」
「先置き?」
「進む先に置く」
俺は思わず、夏祭りの夜を思い出した。
悠が金魚を追わずに、金魚の進む先へポイを置いていたこと。
水面がほとんど揺れなかったこと。
全部すくって、全部戻したこと。
「それで、全部すくえたのか」
「うん」
悠は小さく頷いた。
「追うと水が乱れる。対象が逃げる。紙面負荷も増える」
「じゃあ、追わない方がいいってことか」
「そう」
少しだけ、悠の声が柔らかくなった。
「進む先に、先に置く」
そはらが微笑む。
「金魚に優しい方法なんだね」
「接触圧、低下」
「言い方」
「負荷低減」
「うん、ユゥらしい」
悠は少しだけ目を伏せた。
褒められているのか判断しかねている顔だった。
でも、嫌そうではなかった。
俺はさらにページをめくる。
「実験七、代替対象への接触圧と負荷推定……」
もう、見出しだけで疲れてきた。
「接触圧って何だよ」
「対象物に触れた時の押し付け負荷」
「金魚すくいだよな?」
「うん」
「何で生体工学みたいになってんだよ」
「生体を扱うため」
「正論で殴るな!」
悠は最後の方のページを開いた。
「結果」
「聞くのが怖い」
「ポイの破断には、水面侵入角、引き上げ速度、紙面含水率、対象物重量、対象物形状、水流乱れ、表裏使用履歴、尾びれ接触が関係」
「増えてる……」
「重要因子」
「金魚すくいの重要因子って何だよ」
「最も安定した方法は、三十五度から四十五度でポイを入れ、表裏を交互に使用し、尾びれを枠外へ逃がし、対象を追わず、進行方向を予測して捕獲直後に余剰水分を逃がす方法」
「一文が長い!」
「圧縮済み」
「これで圧縮済みなのか!」
「それを祭りでやったのか」
「一部」
「一部でもやるな!」
「順番は逆」
「逆?」
「祭りで観察。翌日、実験」
「どっちにしてもおかしい!」
さらに最後。
結論。
六枚。
結論だけで六枚。
「結論、六枚」
俺が呟くと、悠は頷いた。
「圧縮済み」
「結論を圧縮して六枚にするな」
「重要事項が多い」
「金魚すくいの結論で?」
「そう」
悠は表紙を閉じた。
「金魚すくいは、単純な反射速度の遊戯じゃない」
「言い切った」
「紙面強度、水流、対象物の運動予測、接触圧、含水率管理、表裏使用、尾びれ処理を含む複合操作」
「言い切りやがった」
「成功率だけでなく、対象生物への負荷低減を優先するべき」
「そこだけ聞くと立派なんだよな……」
そはらが苦笑する。
「でも、先生びっくりすると思うよ」
「なぜ?」
「百二十枚あるから」
「読める範囲で小さく書いた」
「それ、数学でも聞いた!」
悠は少しだけ困ったように笑う。
「自由研究なので、自由」
「自由の意味を間違えてる!」
俺は机に突っ伏した。
数学九十六枚。
読書感想文五十二枚。
自由研究百二十枚。
俺の夏休みの宿題は一問目で止まっているのに、隣の幼馴染は宿題で研究冊子を作っていた。
しかも、数学は、数学基礎論入門。
漢字はスタンプみたいな手書き。
読書感想文は評論付き。
自由研究は金魚すくいの論文。
もう勝てる気がしない。
そはらが、ふと聞いた。
「ユゥ」
「何?」
「これ、提出するの?」
悠は少しだけ考えた。
「提出物としての完全性を優先」
「出すんだ……」
「うん」
「先生、読むの大変だよ?」
「読めるサイズで書いた」
「そういう問題じゃないと思うよ」
俺は顔を上げた。
「悠」
「何?」
「ひとつ聞いていいか」
「うん」
「宿題って、何だと思う?」
悠は少しだけ考えた。
かなり真面目に考えた。
「提出を目的とした、勉強の成果物」
「間違ってない」
「でも、どこまでやればいいのか分かりにくい」
「そこだな!」
悠は自由研究の紙束を丁寧に揃えた。
「だから、過不足なく」
「過しかない!」
「不足はない」
「そこはそうだろうな!」
悠は少しだけ笑った。
その笑い方は、まだ少しぎこちない。
でも、ちゃんと紫月悠の笑い方だった。
シリアスが続いた。
戻れなくなって。
また戻って。
それでも、こうして隣で宿題をしている。
いや、宿題を暴走させている。
たぶん、日常というのはこういうものなのだ。
普通とは限らない。
平和とも限らない。
宿題が百二十枚になることもある。
「いや、やっぱり日常って何だよ」
俺は小さく呟いた。
悠は不思議そうにこちらを見る。
「定義する?」
「するな」
即答した。
この流れで定義されたら、たぶんまた百枚増える。
だが、悠は少しだけ考えていた。
嫌な沈黙だった。
「日常の定義には、反復性、予測可能性、主観的安定性、共同体内での共有認識が必要」
「始めるな」
「ただし、空美町では異常事象の発生頻度が高いため、通常の非日常分類が機能しない可能性」
「やめろ」
「家屋爆散、空中戦、獄門湯。いずれも連続発生」
「並べるな!」
悠は真面目に頷いた。
「この場合、異常の反復を日常に含めるかが問題」
「含めるな!」
「でも、発生頻度は高い」
「高いけど認めたくない!」
悠は鞄に手を伸ばした。
「必要なら、定義案を作る」
「何枚?」
「概算、およそ百八十枚」
「百八十枚!?」
「事例分類、例外条件、空美町固有環境の補正を含む」
「含めるな!」
俺は慌てて悠の鞄を押さえた。
これ以上、宿題以外の何かまで増やされたらたまらない。
数学九十六枚。
読書感想文五十二枚。
自由研究百二十枚。
そして日常の定義、百八十枚。
そんなものまで日常に含められてたまるか。
水切り操作はテキトーです