河川敷から逃げたあと、悠を連れて最初に向かったのは、紫月の家だった。
三年前まで、悠が住んでいた家。
細い坂を上がった先にある、古い二階建ての家。
昔はよくそこへ遊びに行った。
玄関の横には、悠が小学生のころに植えた鉢植えがあった。
けれど今、その鉢は割れていた。
表札は外されている。
ポストには何も入っていない。
庭の草は伸びきって、窓には薄く埃が積もっていた。
悠は門の前で立ち止まった。
白銀と紫の装甲は、すでに解除している。
今は俺の上着を羽織っているだけだ。
背中の羽も、白に近い髪も、すべて隠している。
それでも、そこに立つ悠は、三年前の悠とは違って見えた。
「……誰もいない」
悠は静かに言った。
「親は?」
「町を出たって聞いた」
自分で言って、胸が痛んだ。
悠が消えたあと、紫月家は壊れた。
母親はしばらく毎日警察に通っていた。
父親は仕事を辞めた。
それでも何も見つからなくて、いつの間にか二人ともこの町からいなくなった。
悠は門に手をかけた。
その手は、まるで人工物のように綺麗だった。
傷も、ささくれも、日焼けの跡もない。
けれど、門に触れる指先だけは、少しだけ震えていた。
「そっか」
それだけ言って、悠は門から手を離した。
俺は何も言えなかった。
三年ぶりに帰ってきたのに、帰る家がない。
それがどれだけ残酷なことなのか、想像できなかった。
「ボク、どうすればいい?」
悠は俺を見た。
その声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
「警察に行くか?」
言ってから、すぐに無理だと思った。
今の悠を警察に連れていく。
誘拐されて戻ってきました。
女の子の体になりました。
背中に羽があります。
自分をエリュシオンと呼びます。
そんな説明が通るわけがない。
悠も同じことを考えたのか、首を横に振った。
「検査される。隔離される。たぶん、ボクは普通の人間として扱われない」
「だよな」
「それに、追跡端末が来た」
悠の視線が空へ向く。
「ボクを見つけるために、ここを調べると思う。紫月家は危ない」
そこまで分かっていても、悠はまだ門の前から動かなかった。
俺はため息をついた。
「うち来い」
悠がこちらを見る。
「いいの?」
「他に行く場所ないだろ」
「でも」
「でもじゃない」
俺は上着の前を押さえている悠を見ないようにしながら言った。
「その格好で外をうろつかれる方が困る」
悠は少しだけ黙ったあと、小さく笑った。
「言い方」
「事実だろ」
「うん」
悠はもう一度、空き家になった自分の家を見た。
「じゃあ、少しだけ」
「少しだけで済むと思ってるのか」
「済ませたいとは思ってる」
「無理だろ」
「だよね」
悠はそう言って、ようやく門から離れた。
その瞬間、三年前の紫月悠が本当に帰る場所を失ったように見えた。
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俺の家に向かう道中、悠はほとんど話さなかった。
足音は軽い。
呼吸も乱れない。
俺が少し早足になっても、悠は当然のようについてくる。
昔の悠は、そこまで運動が得意な方ではなかった。
それを思い出して、俺はまた黙った。
隣を歩いているのは悠だ。
声も、目も、ちょっとした反応も、確かに悠のものだ。
けれど、身体は違う。
歩き方も違う。
この世界への警戒の仕方も違う。
悠は、時々空を見上げていた。
昔の癖と同じだった。
でも今は、ただ空を見ているのではない。
何かを警戒している。
自分を連れ戻すものが、また空から来るかもしれないと知っている目だった。
「怖いのか?」
思わず聞くと、悠は少しだけ遅れてこちらを見た。
「怖い」
意外なくらい、素直な返事だった。
「でも、怖いって言えるなら、まだ大丈夫だと思う」
「どういう意味だよ」
「本当にまずい時は、怖いって処理する前に、戦闘手順が出る」
悠は自分の胸元に手を置いた。
「そういうふうに、作られてる」
俺は返す言葉を探した。
見つからなかった。
悠は困ったように笑う。
「ごめん。こういう言い方、嫌だよね」
「嫌というか」
「うん」
悠は俺の言葉を待たずに頷いた。
「ボクも嫌」
そして、俺たちはしばらく黙って歩いた。
「……そうだ。家に着く前に、一つ言っておくことがある」
悠がこちらを見る。
「何?」
「数日前……いや、昨日のことなんだが」
自分で言っていて、もう時間の感覚がおかしくなっている気がした。
あの二日間は、夢だったことになっている。
けれど、俺にとっては確かにあった時間だった。
「うちに、空から落ちてきた女の子がいる」
悠は黙った。
かなり黙った。
「……説明を続けて」
「夢で天使を大事にしろって言われてさ」
「その日に神社そばの大桜に行ったら、空から羽の生えた
その名前を出した瞬間、悠の表情が変わった。
「イカロス」
「知ってるのか?」
悠は少しだけ目を細めた。
「戦闘用エンジェロイド、タイプアルファー、イカロス。別名、ウラヌスクイーン」
「戦闘用!?」
思わず声が裏返った。
「いや、あいつ、自分のこと愛玩用って言ってたぞ!」
「多重プロテクトがかけられているはず。今は、そう自認しているんだと思う」
「そうなのか!? じゃあ、イカロスは本当は戦闘用だったのか……」
昨日から異常続きだったが、その中でもかなり上位の衝撃だった。
愛玩用だと思っていた相手が、実は戦闘用。
正直、すぐには結びつかなかった。
「それで、どうして智樹の家にいるの?」
「さっき言っただろ。夢で天使を大事にしろって言われて、空から落ちてきて、気づいたら俺がマスターってことになってた」
悠は少し考え込んだ。
首筋に、薄く紫の光が走る。
「智樹がマスターなら、少なくとも今すぐ敵対する可能性は低い」
「そうなのか?」
「うん。イカロスは強い。今のボクより、ずっと安定して強い」
悠は空を見上げた。
「だから、もし敵対したら逃げるしかない」
その言い方があまりに淡々としていて、俺は背筋が冷えた。
「……先に俺が入って説明した方がいいか?」
「いや」
悠は首を横に振った。
「ボクが自分で説明する。隠れている方が危険だと思う」
「大丈夫なのか?」
「分からない」
即答だった。
「でも、イカロスにとっても、ボクは未確認のエンジェロイドに見えるはず。智樹の後ろから急に出るより、最初から正面で名乗った方がいい」
「そういうものか」
「そういうもの」
悠は少しだけ笑った。
「たぶん」
「たぶんかよ」
「ボクも、今のボクの扱い方はまだ分からない」
それきり、俺たちはまた黙って歩いた。
ただ、沈黙の意味は少し変わっていた。
俺の家には、もう一人、空から来た存在がいる。
そして悠は、その名前を知っていた。
愛玩用だと思っていた少女が、本当は戦闘用エンジェロイドだったことも。
俺は、家の扉を開けるのが少しだけ怖くなった。