登校!!
夏休みが終わった。
終わってしまった。
二学期初日の朝。
久しぶりに制服へ袖を通した俺は、玄関で深いため息をついていた。
「……帰りたい」
「まだ家だよ、トモちゃん」
そはらが呆れたように言う。
玄関には、俺とそはらと悠がいた。
「悠、行くぞ」
「うん」
悠は鞄を持ち上げる。
いつものように、必要なものだけをきっちり揃えている。
必要なものだけ。
……たぶん。
「悠」
「何?」
「今日、補助資料とか余計なもの持ってきてないよな?」
悠は少しだけ視線を逸らした。
「提出用」
「枚数で答えろ」
「必要分」
「絶対多いだろ!」
そはらが苦笑する。
「ユゥ、先生が困らないくらいにね」
「調整済み」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶん!?」
二学期初日から不安しかない。
俺たちは玄関を出た。
外では、イカロスが掃除をしていた。
箒を持ち、庭先を淡々と掃いている。
掃除の動きは妙に正確で、落ち葉が一枚ずつ同じ間隔で集められていた。
「マスター」
俺たちに気づいたイカロスが顔を上げる。
「おはよう、イカロス」
「おはようございます」
その声を聞いたのか、家の中からニンフが出てきた。
まだ少し眠そうな顔をしている。
「何処に行くの?」
「学校だよ」
俺が答えると、ニンフは眉をひそめた。
「学校?」
「二学期が始まるんだよ」
「ふうん」
ニンフは興味があるのかないのか分からない顔で、俺たちを見る。
イカロスも、箒を持ったままじっとこちらを見ていた。
何となく嫌な予感がした。
俺はイカロスを指さす。
「わかってると思うが、学校には絶対来るなよ」
「はい」
イカロスは即答した。
即答した。
そのはずなのに、妙に不安が残る。
「本当に分かってるな?」
「はい。学校には絶対来ません」
「よし」
俺は頷いた。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってきます」
そはらが言う。
悠も続いた。
「行ってきます」
イカロスは静かに頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ、マスター」
ニンフは腕を組んだまま、そっぽを向いている。
「……行ってらっしゃい」
小さく、そんな声が聞こえた気がした。
そはらが少しだけ笑う。
俺は聞こえなかったことにした。
久しぶりの通学路。
蝉の声は、まだ少しだけ残っている。
夏休みの終わりが、町の隅にしつこく張りついているようだった。
「二学期か……」
「うん」
「小テストとかあるんだろうな……」
「あると思うよ」
「世界は俺に厳しい」
悠が隣で言った。
「学校制度上、評価機会は必要」
「真面目に返すな」
「ただし、初日に実施されるとは限らない」
「希望を持たせるな」
「低確率」
「落とすな!」
そんなことを言いながら、俺たちは学校へ向かった。
二学期初日の空美町は、少なくともその時点では平和だった。
その時点では。
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智樹たちが角を曲がり、姿が見えなくなった。
イカロスは、しばらくその方向を見ていた。
箒を持ったまま、動かない。
ニンフはその様子を横目で見て、ため息をついた。
「……何してるの?」
「掃除です」
「掃除してないじゃない」
「はい」
「はいじゃないわよ」
イカロスは、まだ智樹たちが去った方を見ていた。
そのまま、少しだけ沈黙する。
そして。
さっと、どこからかカードを取り出した。
「ちょっと」
ニンフが目を細める。
「なに? 学校行きたいわけ?」
「はい」
即答だった。
ニンフは呆れたように口を開けた。
「でもマスターとの約束が」
イカロスはカードを見下ろす。
「マスターは、学校には絶対来るな、と言いました」
「言ったわね」
「はい」
「じゃあ駄目じゃない」
「はい」
イカロスはカードを持ったまま固まった。
行きたい。
でも、命令ではないが、約束は守るべき。
学校には来るなと言われた。
けれど、マスターのいる場所を確認したい。
その処理が、イカロスの中で止まっているようだった。
ニンフはしばらくそれを見ていた。
一秒。
二秒。
三秒。
「……あーもう、貸して!」
ニンフは見かねて、イカロスの手からカードを奪った。
「ニンフ」
「いいから!」
ニンフはカードを掲げる。
「学校に来るな、でしょ?」
「はい」
「だったら、学校に来るんじゃなくて、転校生として通えばいいのよ」
イカロスが首を傾げる。
「転校生」
「そう。部外者が勝手に来るのは駄目。でも生徒なら登校するだけ」
「解釈」
「そうよ、解釈よ」
「マスターの意図に反する可能性」
「あるわよ」
「では」
「でも、あんたその顔で一日中ここにいるつもり?」
「顔」
「変化はありません、とか言ったら撃つわよ」
イカロスは黙った。
ニンフは小さく息を吐いた。
「……私も、エリュシオンの近くにいた方がいいし」
「命令遮断の確認」
「そうよ。別に学校に興味があるわけじゃないから」
「はい」
「昼食とか、授業とか、そういうのにも興味ないから」
「はい」
「……何よ、その返事」
「理解しました」
「絶対理解してないわよね」
ニンフはそっぽを向き、それからカードを見た。
「願いは――」
少しだけ、言葉が止まる。
イカロスのため。
そう言うのは、なんとなく癪だった。
だから、ニンフは少しだけ乱暴に言った。
「アルファと私が、桜井智樹たちの学校に転校生として通えるようにしなさい」
カードが淡く光った。
空気が揺れる。
世界の帳簿に、無理やり一行を書き足すような感覚。
イカロスとニンフの情報が、学校側の記録に滑り込んでいく。
制服。
在籍情報。
転入手続き。
必要な辻褄が、勝手に組み替えられていく。
光が収まると、イカロスの服は空美中の制服に変わっていた。
ニンフも同じだった。
イカロスは自分の制服を見る。
「学校に行けます」
「そうね」
「ありがとうございます」
「別に、あんたのためじゃないわよ」
ニンフは顔を逸らした。
「私は命令遮断中なんだから、エリュシオンの近くにいた方が安全ってだけ」
「はい」
「あと、あんたが一日中玄関見てたら鬱陶しいし」
「鬱陶しい」
「そうよ」
「理解しました」
「そこは理解しなくていいのよ!」
イカロスは箒を置いた。
ニンフはカードを返し、玄関へ向かう。
出ていく直前、イカロスが立ち止まった。
「マスターは、学校には絶対来るなと言いました」
「だから、学校に来るんじゃないの」
ニンフは振り返らずに言った。
「転校生として、登校するのよ」
「登校」
「そう」
イカロスは少しだけ考えた。
「了解しました」
こうして。
智樹たちが知らないところで、世界はまた勝手に書き換わった。
そして二学期初日。
空美中学校に、二人の転校生が追加されることになった。
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「えー、今日はまず転校生を紹介します」
先生は、黒板の前に立った二人を見て言った。
「
教室がざわついた。
イカロスは、なぜかスイカを大切そうに抱えていた。
「何でスイカ持ってきてんだよ……」
俺が小声で呟くと、イカロスは当然のように俺の後ろの席へ来た。
机の上に、そっとスイカを置く。
「マスター」
「学校でその呼び方をするな!」
「はい」
その返事の直後、イカロスは羽織っていた上着を脱いだ。
背中の羽が、あっさり見えた。
「脱ぐなあああああ!」
さらに、その後ろの席に座ったニンフも、面倒くさそうに羽を可視化させた。
「暑いんだから仕方ないでしょ」
「お前も出すな!」
教室が一気に騒がしくなる。
「かわいい……」
「羽、生えてる……」
「あれ、夏祭りで空飛んでた子じゃない?」
「桜井の関係者だったのか……」
「桜井くんって、そういう趣味なんだ……」
違う。
違うが、今ここで騒いだら終わる。
俺が未確認生物の関係者だとバレる。
落ち着け智樹。
平和が一番。
平和が一番。
平和が一番。
「……無理だ!」
俺は立ち上がり、イカロスとニンフの腕を掴んだ。
「来い!」
「マスター?」
「何よ急に!」
俺は二人を引きずるようにして教室を飛び出した。
背後で教室のざわめきがさらに大きくなったが、聞こえないふりをした。
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「どういうことだ、一体……」
部室に逃げ込んだ俺は、扉を閉めて二人を見た。
イカロスは申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、マスター……」
ニンフは腕を組み、悪びれもせずに言った。
「学校に来るくらいいいじゃない」
「来るだけじゃ済まないだろ! 問題起こすだろ!」
「もう起きてる」
悠が横から静かに言った。
「今の時点で、クラスの認識を戻すのは難しいと思う」
「冷静に分析するな!」
悠は少しだけ首を傾げた。
「でも、たぶん事実」
「分かってるよ!」
そこへ会長が、いつもの笑みで入ってきた。
「まあまあ桜井くん、そんなに怒らないであげて」
守形先輩も続く。
「いいじゃないか。毎日の生活に刺激が出来て」
「また、そんな、他人事だと思って!」
「他人事だからな」
「なにをっ!」
そはらはイカロスの制服の背中を見ていた。
「わー、すごい。制服の背中に羽を通す穴があるんだ」
「お前ら、ちょっとは話を聞けーっ!」
俺は叫んだ。
「それにどうやって転校生なんて」
ニンフがあっさり答える。
「アルファのカードを使って、先生の記憶をちょちょっとね」
「恐ろしいことすんなっっ!」
悠がニンフを見る。
「記憶改変は危険」
「分かってるわよ」
「なら、やらない方がいい」
「来ちゃったものは仕方ないでしょ」
「事後処理が必要」
「細かいわね!」
「細かくない」
悠は短く言った。
「記憶をいじるのは、その人自身をいじるのに近いと思う」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
ニンフが、ほんの少し言葉に詰まる。
以前、命令遮断を受けた自分だからこそ、その言葉が刺さったのかもしれない。
会長はそれを見て、微笑みを少しだけ薄めた。
「でも、紫月くん」
「何ですか」
「普通の人間生活に慣れさせるのも、悪くないのではなくて?」
「……」
悠は少しだけ考える。
イカロスを見る。
ニンフを見る。
そして俺を見る。
「学校にいた方が、普通のことは覚えやすいと思います」
「急に真面目な方向から援護するな!」
守形先輩も頷く。
「実地観察は重要だ」
「部長まで!」
会長が続ける。
「それにニンフちゃんにも、世間のことを教えてあげなくちゃ」
ニンフは顔をそむける。
「別に、教えてほしいわけじゃないわよ」
「でも、学校に来た」
悠が言う。
ニンフが睨む。
「それは……必要だっただけよ」
「なら、必要なことを学べばいい」
「……何よ、それ」
悠は少しだけ目を伏せた。
「命令ではなく、自分で決めるために」
ニンフは黙った。
俺は頭を掻く。
「……分かりましたよ」
結局、こうなる。
「でも、くれぐれも大人しくしてるんだぞ!?」
「はい」
イカロスは素直に頷いた。
「ったく、分かってんのかなこいつは……」
そはらが明るく言った。
「大丈夫! トモちゃん」
「どこがだよ」
「私が色々学校生活を教えてあげる! ねっ♪」
イカロスはこくりと頷く。
「お願いします」
ニンフはそっぽを向く。
「私は別に」
悠が言った。
「分からない時は聞けばいい」
ニンフは少しだけ目を伏せた。
「……気が向いたらね」
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教室に戻ると、ざわめきはまだ残っていた。
俺は、できるだけ何もなかったような顔で席に戻る。
イカロスは俺の後ろ。
ニンフはさらにその後ろ。
悠は、いつもの席。
これで何とかなる。
そう思いたかった。
「エリュシオン」
イカロスが、前の席の悠へ声をかけた。
教室の空気が止まった。
「え?」
誰かが言った。
「エリュシオンって誰?」
「今、紫月くんに言った?」
「紫月くんって、エリュシオンっていうの?」
まずい。
俺は立ち上がろうとした。
だが、それより早く悠が動いた。
悠は静かに立ち上がる。
「悠?」
そはらが不安そうに呼ぶ。
悠はそはらを見た。
それから、俺を見た。
「もう、隠し続けるのは難しいと思う」
「いや、待て」
「イカロスとニンフが来た時点で、矛盾が増えすぎてる。カードの補正も、たぶん長くは持たない」
「待てって!」
悠はポケットからカードを取り出した。
「制服背面構造、変更」
カードが光る。
次の瞬間、悠の制服の背中に、羽を通すための切れ目が生まれた。
「おい!」
悠の髪の色が変わる。
黒に近い紫だった偽装が剥がれ、紫がかった銀色へ戻る。
声の調子も、わずかに変わった。
中性的にぼかされていた響きが消え、今の悠の本来の声になる。
そして背中から、紫の羽が広がった。
教室中が固まった。
「紫月悠」
悠は静かに言った。
「またの名を、エリュシオン」
「自己紹介するなあああああ!」
俺の叫びが教室に響いた。
クラスメイトたちが一斉に騒ぎ出す。
「紫月くんにも羽が!?」
「え、女の子だったの!?」
「いや、でも紫月くんだよね!?」
「夏祭りで空飛んでたの、紫月くんだったのか!」
「桜井、やっぱり関係者じゃん!」
「違う! いや違わないけど違う!」
カードの効果が、音を立てて崩れていく気がした。
最初に使ったカードの補正は、消えたわけではない。
ただ、今この瞬間。
本人が名乗り、羽を出し、偽装を解除したことで、矛盾が大きくなりすぎた。
皆の中で、紫月悠という存在の認識が書き換わっていく。
普通の転校生。
幼馴染。
消えていた少年。
そして、エリュシオン。
その全部が、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。
悠は少しだけ目を伏せた。
「補正、かなり弱くなってる」
「確認するな!」
「これ以上、隠すのは難しいと思う」
「もっと困難にしたのお前だよ!」
二学期初日。
俺の平和は、出席確認の時点で終わっていた。